第十九話 身を引く便り
毎朝、樅の扉を開けるのが、わたしの最初の仕事になっていた。
両手で取っ手を握り、腰を落として、ぐっと引く。ぎい、と低い音を立てて、重い扉が少しずつ開いていく。中から、乾いたカモミールとラベンダーの匂いがふわりとあふれ出す。湿気ひとつ入っていない。二週間たっても、薬草は摘んだ日のままの色をしていた。
腕の稽古です、とロイさんに言ったのは、半分は冗談だった。今では、本当に腕が少し太くなった気がする。
扉を開け終えて、わたしは窓の外を見た。
蝋燭小路の角。朝の光の中に、荷車と、パン屋の煙と、水を撒くおかみさんの姿がある。
濃紺の外套は、なかった。
今朝も。昨日も。その前も。
数えてみれば、もう十日以上になる。前は毎朝、決まった時刻に、あの背中が小路を通っていった。二本ぶん遠回りになるはずの道を、まっすぐ前を向いて。
それが、ある日から、ぱたりと通らなくなった。
清々した、と思おうとした。思おうとして、毎朝角のほうを見てしまう自分に気づいた。
「薬師さん、注文書です!」
昼過ぎ、扉の鈴を鳴らしたのはルッツさんだった。
ひょろりと背の高い体を、扉をくぐるたびに少しかがめる。差し出された注文書は、相変わらずグレタさんの速い字だった。
「いつも、ありがとうございます」
「いえっ、こちらこそ!」
ルッツさんは注文の品を待つあいだ、そわそわと店の中を見回していた。窓の下の樅の棚に目を留めて、なぜか背筋を伸ばす。
わたしは壺を包みながら、何気ないふうを装って聞いた。
「最近、巡回の道が変わったんですか」
「あ、はい。団長が、蝋燭小路は外せって」
包みを結ぶ手が、一瞬だけ止まった。
「……そうですか」
「もともと遠回りでしたから。元に戻しただけだって、団長は」
元に戻しただけ。
そうだ。もともと遠回りだったのだ。ティモさんの傷を確かめるため、と誰かが言っていた。ティモさんの傷はとっくに治った。だから、元に戻した。
それだけのことだ。
「団長さんは、お元気ですか」
聞いてから、しまった、と思った。ルッツさんの目が、ちょっとだけ丸くなった。
「えっと……元気、だと思います。前より、もっと喋らなくなりましたけど」
ルッツさんは、言っていいのかどうか迷う顔をした。
「夜番も、ずっと自分で入ってるんです。団長が夜に寝てるとこ、誰も見てなくて」
わたしは、包みをルッツさんの手に渡した。
「……眠らないと、体を壊します。そう伝えてください。薬師が言っていた、と」
「は、はい!」
ルッツさんが帰っていったあと、わたしは胸元の語り灯を見下ろした。
硝子の球は、昼の光を受けて、透きとおったまま静かだった。中のささめは、ルナリアの莢の上で、毛玉みたいに丸まって眠っている。
そういえば、この十日あまり、昼に灯りがともったことは一度もない。
前は、ときどき昼でも起きてきた。木箱の朝、調合を見られた朝、店の前に石像が立っていた三日間。それから、土手道の砂利の上で。
金物の騎士が来ないからだろうか。
わたしは灯りを指先で撫でた。ささめは、目を覚まさなかった。
十一の鐘が鳴った。
窓の外に、月はない。痩せていく月は、夜明けが近くならないと昇ってこない。次の新月まで、あと三日。光の粒は、路地のすぐ上を、細く低く流れていく。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」
机の上の便りは、三通だった。
一通目は、夜の名「桶底」さんから。暑さで膝はおとなしいが、かわりに孫が夜泣きをする、という短い便りだった。わたしは、薄く煎じたカモミールを、孫ではなく母親のほうに飲ませるよう勧めた。母親が眠れると、子どもも眠りやすくなると言われている。
二通目は、川向こうの洗い場で働く女の人から。手のあかぎれに、蜜蝋の軟膏の塗り方を答えた。
そこまでは、いつもどおりだった。いつもどおりに声が出て、いつもどおりに言葉が選べた。
三通目の封筒に手を伸ばしたとき、指先が、硬くて丸いものに触れた。
青い月石。
息が止まった。
見習いさんの便りは、十日以上、届いていなかった。最後の一通は、棚の便りだ。重すぎたかもしれません、と書いてあった。そのあとは、ずっと。
「……最後のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
声が震えないように、わたしは一度だけ息を吸った。
封を開く。いつもの角の立った字。けれど、どこか、いつもより筆圧が弱い気がした。
「『宵待殿。長く便りを出さずにいて、申し訳ありません』」
ささめが、便箋の上に乗った。いつものとろけた顔ではなかった。小さく、耳を伏せていた。
「『彼女には、親しい者がいるようです』」
――え。
「『私よりも、ずっと言葉の上手な男です。彼女は、その男の前でだけ、笑うのです』」
声は止まらなかった。止まらなかったのが、自分でも不思議だった。
「『身を引くべきなのかもしれません』」
わたしは、便箋を膝の上に置いた。
窓の外を、光の粒がゆっくり流れていく。下町じゅうの窓で、聴き灯が淡い黄に満ちている。みんな、わたしの次の言葉を待っている。
――その男の前でだけ、笑う。
わたしが最近、人前で笑ったのは。
十日あまり前の、昼の戸口。腕の稽古です、と言って、ロイさんにつられて、声を出して笑った。
あのときだけだ。
だったら、見習いさんの言う「言葉の上手な男」は、ロイさんのことだ。
だったら――見習いさんは、ロイさんではない。
頭の中で、積み上げてきたものが、音もなく崩れた。
手を貸してくれた人。宵待の言葉をなぞってみせた人。仁義で何も言えないと言った人。全部、見習いさんではなかった。ロイさんは、ただ、ロイさんだったのだ。
じゃあ、あの戸口で、わたしが笑うのを見ていたのは誰。
――巡回の時間だったかな。
ロイさんは、小路の角を見て、そう言った。
巡回。騎士団の。
あの角を毎朝、決まった時刻に、遠回りして通っていた人。
……団長、さん?
胸の真ん中で、何かが、大きく跳ねた。
――あんた、自分が誰を探してるのか、ちゃんと分かってるかい。
師匠の声が、耳の奥でした。
違う。そんなはずはない。
あの人が、宵待に、恋の相談なんて。石像団長が、部下を叱るのと同じ顔で、便箋に『身を引くべきかもしれません』なんて書くはずがない。
それに、あの人の隣には、ジルケさんがいた。銀の莢亭の暗がりで、腕に手を添えて、顔を寄せて。
だから、違う。巡回の騎士は、ほかにもたくさんいる。
違う、はずなのに。
見習いさんが、あの人だったらいいのに。
そう思ってしまった自分に、わたしは、息ができなくなった。
ささめが、伏せていた耳を、そっと持ち上げた。わたしの顔を、下から覗きこんでいた。
「……見習いさん」
声が、少しだけかすれた。宵待の声に、昼のわたしが混じっていた。それでも、止められなかった。
「身を引くのは、まだ早いと思います」
聴き手のみんなに聞こえている。分かっていて、わたしは続けた。
「その方が、誰の前で笑ったのかは、宵待には言えません。でも、笑ったところを見たのなら、あなたはずっと、その方を見ていたということです。見ていた人が、いちばん先に諦めてしまったら、その方は、誰に見つけてもらえばいいんですか」
言いすぎだ。分かっている。
「諦めないでください。……どうか」
膝の上で、手を握った。
「あなたも、笑ってみてはどうでしょう。言葉が苦手なら、言葉の代わりに。上手でなくていいんです。あなたが笑えば、その方も、あなたの前で笑うかもしれません」
ささめが、ほんの少しだけ、とろけた顔をした。
「今夜のお薬は、ラベンダーのお茶です。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。
わたしは便箋を胸に抱えたまま、窓辺から動けなかった。
月のない空に、星がたくさん出ていた。三日後には、新月が来る。新月の夜は、語り手が人間に戻る夜だと、師匠は言った。
言いたいことは、自分の口で、目の前の相手に言うしかない夜。
わたしには、言える相手がいなかった。
言いたい相手は、たぶん、いたのに。




