第二十話 それは脅迫です
翌朝、わたしは目を覚ますなり、布団を頭までかぶった。
――見ていた人が、いちばん先に諦めてしまったら、その方は、誰に見つけてもらえばいいんですか。
昨夜の自分の声が、耳の奥でまだ鳴っている。どうか、まで言った。宵待の時間に、どうか、なんて。下町じゅうの窓で、聴き灯が淡い黄に満ちているのに。
師匠には、絶対に聞かれた。
布団の中で丸まっていると、梯子の下から、杖で床を叩く音がした。とん、とん。二回。起きろ、の合図だ。
梯子を下りると、師匠が台所の椅子で茶をすすっていた。わたしの顔を見るなり、湯呑みを置く。
「昨夜は、ずいぶん熱が入ってたねえ」
「……何のことですか」
「どうか、だってさ。あたしが弟子入りしてから六十年、宵待がどうかなんて言うのは初めて聞いたよ」
師匠はそれ以上何も言わず、また茶をすすった。わたしは返事をせずに、店へ下りた。
店を開けて、樅の扉を引いて、月見草に水をやった。
それから、調合室で、小さな紙包みをひとつ作った。カモミールとレモンバームを、ひと晩ぶんずつ七つ。眠れない夜に、気持ちを静めると言われている組み合わせだ。
誰のためかは、考えないようにした。
薬師が言っていた、とルッツさんに託けた。眠らないと体を壊します、と。託けただけで、届いたかどうかは分からない。だったら、薬そのものを届ければいい。薬師として。それだけのことだ。
ちょうど、詰所の常備薬の注文も来ていた。品物は多い。ルッツさんひとりに運ばせるのは気の毒なくらいだ。
だから、わたしが届ける。
それだけのことだと、もう一度自分に言い聞かせた。
第二騎士団の詰所は、宿舎の隣にあった。
同じように古い倉庫を直した建物で、石の門をくぐると、土の中庭が広がっている。昼前の日差しの中で、若い騎士たちが二列に並んでいた。
その列の前に、団長が立っていた。
十日あまりぶりに見る背中だった。濃紺の外套。まっすぐな背筋。少しだけ、痩せたように見えた。
わたしは門の陰で、足を止めた。常備薬を詰めた籠の持ち手が、腕に食いこんでいた。
団長の横には、グレタさんと、もうひとり、口ひげをたくわえた年配の騎士が立っていた。井戸端でよく名前を聞くヴェルナー隊長だろう。その隊長が、団長の耳元で、何かを熱心に囁いている。
団長は、小さくうなずいた。
それから、整列した騎士たちのほうへ、ゆっくりと顔を向けた。
口の端が、持ち上がった。
持ち上がった、というより、持ち上げられた、と言ったほうが近い。見えない糸で、両端から無理やり引っぱり上げたみたいに。頬の筋が強張り、こめかみに筋が浮く。眉間の縦じわは、一本も減っていない。目は、少しも笑っていなかった。
――笑っている。
たぶん、あれは、笑っているのだ。
列の端で、誰かが剣を取り落とした。
からん、という乾いた音が、静まり返った中庭に響いた。最前列のルッツさんの顔から、さあっと血の気が引いていく。その隣のティモさんが、「ひっ」と小さな声を上げて、半歩後ずさった。
グレタさんが、腕を組んだまま、淡々と言った。
「団長。それは脅迫です」
団長の口の端が、ぴくりと動いた。動いて、元に戻らなかった。
ヴェルナー隊長が、慌てたように咳払いをした。
「団長、団長。もう少し、目元を。目元から先に、こう、ゆるめるのです。家内に言わせれば、愛想笑いというものは――」
そこで、隊長は口をつぐんだ。
団長が、ぴたりと動きを止めたのだ。
「……愛想笑いは」
団長が、低い声で言った。
「嫌われる、と聞いた」
「……そうでしたな」
隊長が、気まずそうにひげを撫でた。グレタさんが、天を仰いだ。
わたしは、門の陰で、包みを抱きしめていた。
――嫌いなものは、愛想笑い。
聞き込みの結果だ。パン屋のおかみさんが、勝手に答えた、わたしの嫌いなもの。
なぜ、団長が、それを。
胸元で、ことりと音がした。
語り灯が、ともっていた。
昼の光の中で、硝子の奥に、淡い黄色がにじんでいる。十日あまり、一度も起きなかったささめが、莢の上で跳ね起きて、硝子に顔を押しつけていた。中庭の、あの大きな背中のほうへ。
……ここは、金物だらけだから。
わたしは、灯りを手のひらで包んだ。そうに決まっている。鎧も、剣も、門の鉄の金具も。
手のひらの中で、灯りは温かかった。
「薬師殿」
顔を上げると、団長がこちらを見ていた。
見つかった。
中庭の騎士たちが、いっせいに振り向いた。グレタさんが片眉を上げ、ヴェルナー隊長がひげから手を離し、ティモさんが「あっ」と口を開けた。
団長が、まっすぐ歩いてくる。
わたしは、逃げるわけにもいかず、門の陰から一歩出た。
「……常備薬を、お届けに。量が多かったので」
「感謝する」
団長は、わたしの前で立ち止まった。
見下ろされる。いつもの石の顔。いつもの眉間の縦じわ。
そして――団長の口の端が、またゆっくりと持ち上がりはじめた。
さっきと同じだった。見えない糸。強張った頬。浮き上がる筋。目は、少しも笑っていない。
至近距離だった。
「――っ」
声にならない声が、喉から漏れた。
わたしは、抱えていた包みを、団長の胸にぐいと押しつけた。
「ね、眠りのお茶です! ご自分の分です! 夜番を減らしてください! 失礼します!」
言うだけ言って、わたしは常備薬の籠を門柱の脇に置き去りにしたまま、門の外へ駆けだした。走らないで、と人に言う薬師が、全力で。
背中のほうで、誰かが吹き出す声がした。ロイさんの声に似ていた。
「師匠」
店に駆けこんで、わたしは階段の下から叫んだ。
「脅されました」
二階の戸が開いた。師匠が丸眼鏡を押し上げて、階段の上から見下ろしてくる。
「誰に」
「団長さんに」
「何をされたんだい」
「……笑われました」
師匠は、しばらく黙っていた。
それから、階段の手すりにすがりつくようにして、肩を震わせはじめた。最初は声もなく。だんだん大きく。最後には、杖を取り落として、階段の途中に座りこんでいた。
「笑われた……脅された……」
「笑いごとじゃありません! 本当に怖かったんです!」
「そうだろうねえ、そうだろうねえ」
師匠は目尻を拭いながら、ようやく息を整えた。それから、ふっと声を落とした。
「で、あんたはどうなんだい」
「どう、って」
「怖かっただけかい」
わたしは答えなかった。答えられなかった。師匠はそれ以上何も言わずに、杖を拾って、二階へ戻っていった。
怖かった。本当に。
でも、頭から離れないのは、あの強張った笑顔ではなかった。
包みを押しつけた、あの一瞬。
わたしの手が、団長の胸に触れた、そのとき。糸で引っぱり上げたような口元が、ふっとほどけた。ほどけて、元の石の顔に戻る、その途中で。
ほんのわずかに、口の端が、自分から上がった気がした。
誰にも引っぱられていない、小さな、小さな形で。
わたし以外の誰にも、たぶん見えない距離で。
その夜、月のない空の下で、わたしは十一の鐘を待った。
明後日は、新月だ。語り手が人間に戻る夜。精霊は眠り、便りは届かない。
見習いさんが何か書くなら、今夜か、明日の夜だ。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です」
机の上の便りは、二通だった。
どちらにも、青い月石は付いていなかった。
わたしは、二通に答えて、締めの言葉を言った。灯りが欠けていくのを、ぼんやりと見ていた。
――あなたも、笑ってみてはどうでしょう。
昨夜、わたしは見習いさんに、そう言った。
今日の昼、あの人は、笑おうとしていた。部下の前で。わたしの前で。下手で、怖くて、少しも上手くできていない笑い方で。
嫌いなものは、愛想笑い。あの人は、それを知っていた。
偶然だ。宵待の時間は、下町じゅうで聴かれている。騎士団の誰かが聴いていて、団長に何か言ったのかもしれない。聞き込みの帳面だって、騎士団の中では回し読みされているかもしれない。
偶然だ。
偶然の数を、わたしは数えるのをやめた。
もし、あの人が見習いさんなら。
今日のあの笑顔は、わたしの言葉のせいだ。
わたしは、両手で顔を覆った。熱かった。手のひらが焼けそうなくらい、熱かった。




