第二十一話 新月の勝手口
新月の夜は、勝手口のランプがいちばん明るい。
下町の窓という窓で、聴き灯は硝子の球のまま眠っている。路地を渡る光の粒もない。夜語りのない夜は、川向こうがひとつ大きな影になったみたいに暗かった。その暗がりの中で、うちの裏口の小さなランプだけが、土手の草を黄色く照らしていた。
「先に行ってるよ」
師匠が、杖をつきながら戸口で振り返った。寄り合いは、新月の九つの鐘からだ。
「勝手口を閉めたら、すぐ行きます」
「急がなくていいよ。どうせ水鏡の爺さんは、天気の話しかしないんだから」
師匠はそう言って、暗い小路へ出ていった。杖の音が遠ざかっていく。
わたしは勝手口の内側の腰掛けに座って、膝の上で晒しを巻き直した。
胸元の語り灯は、冷たかった。ささめは莢の上で丸くなったまま、身じろぎもしない。新月の夜は、精霊が眠る。わたしの声も、今夜は誰にも届かない。
――あなたも、笑ってみてはどうでしょう。
三日前に、わたしはそう言った。一昨日、あの人は詰所の中庭で、怖い顔で笑おうとした。そして今夜は、誰も何も聴いていない。
便りが届かない夜は、少しだけ楽だった。少しだけ、寂しかった。
八つの鐘が鳴ってしばらくしたとき、戸が鳴った。
こつ、と一度。
それきり、長い間があった。叩いたことを後悔しているような間だった。わたしが腰を浮かしかけたところで、もう一度だけ、こつ、と鳴った。
戸を開けた。
ランプの灯りが、濃紺の外套を下から照らした。
団長だった。
左の腕に、自分の袖を裂いたらしい布を巻きつけている。布は、もう半分以上が黒く濡れていた。ランプの光の中で、それが黒ではなく、赤だと分かった。
「……夜分に、すまない」
石のような声だった。いつもと同じ。けれど、少しだけ、息が浅かった。
「入ってください」
「いや。晒しを少し、分けてもらえれば」
「入ってください」
わたしは団長の右腕をつかんで、勝手口の中へ引っぱった。大きな体が、思ったよりあっさりついてきた。
調合室の明かりを全部つけて、腰掛けに座らせる。巻かれた布を、そっとほどいた。
左の前腕に、斜めの切り傷が走っていた。長さは指二本ぶんほど。縁がきれいに揃っている。刃物の傷だ。深くはないけれど、浅くもない。まだ、じわじわと血がにじんでいる。
「何で切ったんですか」
「酒場で、割れた瓶を振り回した男がいた」
「銀の莢亭ですか」
「……そうだ」
これから向かうはずの店だった。
「ほかに、怪我をした人は」
「いない。瓶は取り上げた。男は詰所で寝ている」
それだけ言うと、団長は口を閉じた。
わたしは湯を張った盥に布を浸して、傷のまわりを拭いはじめた。団長は眉ひとつ動かさない。けれど、腕の筋が、布が触れるたびにわずかに強張る。
「痛いですか」
「大丈夫だ」
わたしの手が、止まった。
顔を上げると、団長がこちらを見ていた。
石の顔だった。いつもと同じ。眉間の縦じわ。読めない目。
「大丈夫って言って、無理をする人が」
自分でも驚くほど、声が平らだった。
「いちばん、嫌いです」
団長が、固まった。
ランプの火が、ふっと揺れた。調合室の棚の影が、壁の上で長く伸びて、また縮んだ。
たっぷり、三つ数えるくらいの沈黙があった。
「……痛い」
団長が、低く言った。
わたしは、思わず唇を噛んだ。笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、自分でも分からなかった。
「はい。よくできました」
ティモさんに言ったのと、同じ言葉が出た。団長の耳の先が、ランプの灯りの中で赤くなった。
血を止める薬草が要る。
わたしは窓の下の樅の棚の前にしゃがみ、扉の取っ手を両手で握った。腰を落として、ぐっと引く。ぎい、と低い音を立てて、重い扉が開いていく。
背中に、視線を感じた。
振り向かなくても分かった。団長が、わたしの手元を見ている。扉を開けるところを。たぶん、ずっと。
「……毎朝、腕の稽古です」
なぜそんなことを言ったのか分からない。言ってから、顔が熱くなった。
背中の向こうで、団長は何も言わなかった。
乾かしたヤロウの花を、扉の中の袋から取り出す。止血によいと言われている薬草だ。湯で軽く湿らせて、傷にそっと当て、その上から晒しを巻いていく。
巻きながら、わたしは気づいた。
団長が、左腕を差し出すたびに、右の脇腹をかばうように、体をわずかに捻っている。
「脇腹も、どうかしましたか」
「何でもない」
「団長さん」
わたしが名前の代わりに呼ぶと、団長は少しだけ黙った。
「……古い傷だ。無理をした日に、少し疼く」
「見せてください」
「薬師殿」
「見せてください、と言っています」
団長は、ほんの短いあいだ目を閉じた。それから、諦めたように、外套の前を開けた。シャツの裾を、少しだけ持ち上げる。
右の脇腹に、三本の線が走っていた。
平行に並んだ、古い傷痕。肉が盛り上がって、白く光っている。獣の爪の痕だった。人の手で引けるような傷ではない。
「……霜狼だ。国境で」
団長は、それだけ言った。
わたしは、温めた布をその傷痕に当てた。指先に、傷の凹凸が伝わってくる。こんな傷を負って、生きている人がいる。
「どうして、こんな」
「部下を、ひとり、拾いに行った」
短い答えだった。誰を、とは言わなかった。
「怖くなかったんですか」
聞いてから、子どもみたいな質問だと思った。
団長は、少し考えるように黙った。
「怖い。いつも怖い」
意外な答えだった。わたしは、布を当てた手を止めた。
「だが、誰かが中にいれば、入る」
――誰かが中にいたから、入ったんです。
息が止まった。
それは、わたしの言葉だった。ひと月ほど前の夜、馬が怖い者さんの便りに、宵待として答えた言葉。
「……以前、そう言った人がいた。夜に」
団長は、なんでもないことのように付け足した。
わたしは、布を傷痕に当てたまま、顔を上げられなかった。
夜に。そう言った人。
宵待の時間は、下町じゅうの窓で満ちる。誰が聴いていてもおかしくない。騎士団の詰所でも。宿舎でも。夜番の路地でも。
分かっている。分かっているのに、指先が震えた。
晒しを結び終えて、わたしは道具を片づけながら、背中を向けたまま聞いた。
「……夜番、減らしてくださいって、お願いしましたよね」
「新月の夜は、眠れない」
「どうしてですか」
団長は、少しだけ間をおいた。
「聴くものがない」
手の中で、軟膏の壺が、かたりと鳴った。
聴くもの。
新月の夜に、ないもの。月のある夜には、あるもの。
わたしは、振り向かなかった。振り向いたら、聞いてしまう気がした。何を聴いているんですか、と。誰の声を、と。
聞いたら、もう戻れない。
「……お茶は、飲んでいますか」
かわりに、そう聞いた。
「飲んでいる。眠れる夜は、よく眠れた」
「よかったです」
団長が、腰掛けから立ち上がった。外套の前を合わせて、晒しを巻いた左腕を、確かめるように一度だけ曲げる。
「一昨日は、すまなかった」
「……え」
「怖がらせた。笑い方を、間違えた」
わたしは、ようやく振り向いた。
団長は、石の顔のまま、ランプの灯りの中に立っていた。いつもと同じ。眉間の縦じわ。読めない目。
でも、わたしは知っている。あの中庭で、包みを押しつけた一瞬、誰にも引っぱられずに、この人の口の端が上がったのを。
「最後のは」
声が、少しだけかすれた。
「最後のは、怖くなかったです」
団長は、何のことか分からないという顔をした。分からないまま、短くうなずいた。
「……邪魔をした」
勝手口の戸が閉まった。暗い土手道を、大きな背中が遠ざかっていく。ランプの光が届かなくなるまで、わたしは戸口に立っていた。
銀の莢亭に着いたのは、九つの鐘をずいぶん過ぎてからだった。
表の酒場の前には、割れた瓶のかけらが掃き寄せてあった。奥の小部屋に入ると、四つの語り灯の横で、鐘守くんが菓子を頬張りながら手を振った。
「宵待、遅い! 今日ね、ここで喧嘩があってね、石像団長がね――」
「鐘守」
水鏡さんの低い声で、鐘守くんは口をつぐんだ。
灯り番のロイさんが、わたしの顔を見て、何か言いかけて、やめた。夜鳴き鶯さんは、ロイさんのほうを見ないようにしながら、わたしの湯呑みにお茶を注いでくれた。
寄り合いは、いつもどおりに進んだ。精霊の様子、聴き灯の修理、月送りの重ね語りの順番。わたしはほとんど何も聞いていなかった。
いつもどおりでなかったのは、終わりぎわだった。
水鏡さんが、先に席を立った。水門の見回りがあるのだという。戸口で、ほんの一瞬だけ、師匠のほうを振り返った。
「明日は、晴れる」
「……そうかい」
「蜂蜜は、来月、下がる」
師匠は、湯呑みを持ったまま、何も言わなかった。
水鏡さんが出ていったあとも、師匠はしばらく、閉まった戸を見ていた。
帰り道は、真っ暗だった。
星だけが、空いっぱいにあった。師匠の杖が、石畳をこつ、こつと叩く。わたしは、晒しの匂いの残る手を、ずっと握ったり開いたりしていた。
「あんた、勝手口で誰を診てたんだい」
「……分かってるんでしょう」
「さあね」
師匠は、少しだけ歩く速さを緩めた。
「水鏡の爺さんはね」
唐突だった。
「毎晩、夜語りで、明日の市の値段を言うだろう。あの中に、必ず蜂蜜の値が入ってる。五十年、一晩も欠かさずさ」
「……蜂蜜」
「あたしの好物だよ」
師匠の声は、いつもの毒も、笑いも混じっていなかった。
「若い頃、あたしはまだ駆け出しの薬師で、あの人は水門番になったばかりだった。あの人の初めての夜語りを、あたしは聴いてたんだ。下手でね。声が震えてて。それでも、蜂蜜の値だけは、ちゃんと言った」
杖の音が、止まった。
「五十年近くだよ。毎月、同じ卓で顔を合わせて、話すのは天気と川の話だけさ。あの人は、ただの水門番が薬師に釣り合わないと思ってる。あたしは、あの人が好きなのは宵待の声で、あたしじゃないと思ってた」
わたしは、息をするのを忘れていた。
――好かれているのは宵待で、昼のわたしじゃない。
それは、わたしがずっと思っていることだった。
「言わないとね」
師匠が、わたしのほうを見た。星明かりの中で、丸眼鏡の奥の目が、ひどく静かだった。
「言わないと、あたしみたいになるよ」
それだけ言って、師匠はまた歩き出した。こつ、こつと杖を鳴らして。小さな背中が、暗い小路の先へ進んでいく。
わたしは、その場に立ち尽くしていた。
晒しを巻いた腕。三本の古い傷痕。怖い、いつも怖い、と言った声。聴くものがない、と言った声。
――以前、そう言った人がいた。夜に。
確かめなければ、と思った。
宵待は、昼の名を明かせない。聴き手に、あなたは誰ですかとも聞けない。だから、宵待としては何もできない。
でも、わたしは宵待である前に、薬師だ。
――贈り物そのものより、それを売った人に聞いてみてください。
宛名探しさんに、わたしはそう答えた。
箱の中には、見習いさんの半年ぶんの便りがある。便りの数だけ、青い月石が、わたしの小瓶をくぐっていった。
わたしは、星しかない空を見上げた。次に月が満ちるまでに、確かめよう。
あの青い石が、どこから来ているのかを。




