第二十二話 宛名をたどる
小瓶を逆さにすると、月石がカウンターの上に転がり出た。
ころころと、乾いた音を立てて散らばっていく。朝の光の中で、小さな石たちはそれぞれ違う色をしていた。白っぽいもの、黄みがかったもの、乳のように濁ったもの。聴き手が便りに添えてくれた、半年あまりぶんの石だ。
夜の勝手口の薬代が足りなくなるたびに、わたしはこの小瓶から何粒かをつまんで、精霊具店で銀貨に換えてきた。どの石が誰からのものか、考えたこともなかった。
その中から、わたしは青い石だけを選り分けた。
すぐに分かった。ほかの石とは、色がまるで違う。光にかざすと、冬の朝の空みたいな、澄んだ青が奥のほうで揺れる。指でつまむと、ひんやりと重い。
七粒あった。
見習いさんは、便りのたびに必ず一粒添えてくる。半年ぶんなら、もっとたくさんあったはずだ。残りは、とっくに銀貨に換えて、誰かの晒しや軟膏になった。
――見習いさんの石は、いつも音までいい。
いつかの夜、わたしはそう思った。思っただけで、どこから来た石なのかは、一度も考えなかった。
七粒を小さな布袋に入れて、帯に結びつける。
新月から五日が過ぎていた。勝手口で晒しを巻いたあの夜から、見習いさんの便りは一通も届いていない。店の前の小路を、濃紺の外套が通ることもない。
――贈り物そのものより、それを売った人に聞いてみてください。
宛名探しさんに、わたしはそう答えた。
今度は、わたしの番だった。
下町に、精霊具店は四軒ある。
一軒目は、川沿いの通りの角の店だった。いつも月石を換えに来る店だ。店主の親父さんは、布袋から出した青い石を見るなり、眉を上げた。
「こりゃ北のだな。上物だ」
「このお店で、扱っていますか」
「いいや。うちには入らん。北の山の石は、ふつうは王都まで下りてこないんだよ。重くて、運ぶのに割に合わん」
二軒目は、若い店員がひとりで店番をしていた。石を見せると、首をかしげて、見たことがないと言った。三軒目は、聴き灯の修理が専門で、月石はそもそも置いていなかった。
四軒目は、繁華な通りから一本入った、細い坂の途中にあった。
軒先に、硝子の灯りがいくつも吊るしてある。昼の光を受けて、どれも透きとおったまま揺れていた。中には聴き灯もあれば、ただの飾りの灯りもある。看板には、色の褪せた字で、店の名が書いてあった。
月硝子堂。
扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
店の中は、薄暗くて、ひんやりしていた。壁の棚という棚に、硝子の球と月石の箱が並んでいる。奥の帳場に、白髪をきっちり結った小柄な老婦人が座っていた。肩に羊毛の肩掛けをかけて、膝の上で何かを磨いている。
「いらっしゃい」
少しだけ、言葉の端が硬い。王都の人の話し方ではなかった。
「月石のことで、伺いたいことがあって」
わたしは布袋の口を開けて、青い石を一粒、帳場の上に置いた。
老婦人の手が、止まった。
磨いていた布を膝に置き、石をつまみ上げて、窓の光にかざす。目を細めて、長いあいだ、黙って見ていた。
「……フィヒテの山の石だね」
「フィヒテ」
「北の国境の、ずっと奥の山さ。わたしゃそっちの生まれでね。この青は、あの山でしか採れない」
老婦人は、石を帳場に戻した。指先で、そっと撫でるようにして。
「王都でこれを置いてるのは、うちだけだよ。わたしゃ年に一度、里帰りのついでに、背負えるだけ背負って下りてくるんだ」
心臓が、ひとつ大きく打った。
「このお店で、この石を買っていく人は」
「いるよ」
老婦人は、あっさり答えた。それから、わたしの顔を見て、少しだけ口元をゆるめた。
「でも、名前は言えないね。客の名前を言いふらす店に、誰が石を買いに来るもんかい。商売の決まりさ」
――名前は言いません。薬師には、口をつぐむ決まりがあります。
ずっと前に、わたしが言った言葉だった。同じ形の言葉が、今度はわたしに返ってきた。
「……そうですよね」
わたしは、うなずくしかなかった。
老婦人は、石を磨く布を膝の上で畳みながら、わたしをしげしげと眺めた。
「あんた、どこの子だい」
「蝋燭小路で、薬屋をしています」
「ああ」
老婦人の目が、少しだけ丸くなった。
「夜に戸を開けてくれるっていう、あの薬屋さんかい。孫が熱を出したとき、うちの嫁が世話になったよ」
「……そうでしたか」
「この石は、どうしてあんたのところに」
「夜の勝手口の薬代に、なっている石です」
嘘は、ひとつもない。わたしはそれ以上、何も言わなかった。宵待のことも、便りのことも。
老婦人は、しばらく黙っていた。それから、帳場の上の青い石を、指先でわたしのほうへ押し戻した。
「名前は言えない。でも、どんな人かぐらいは、話してもいいだろうね。あんたの勝手口の薬になってるんなら」
わたしは、息を止めた。
「毎週、ひと粒だけ買っていく人がいるよ。去年の冬からね。大きな人さ。この戸口を、頭を下げてくぐらないと入れないくらいの」
老婦人は、店の戸口を顎で示した。低い戸口だった。
「無口でね。いつも、これをひと粒、とだけ言って、銀貨を置いていく。騎士団の、濃い紺の外套を着てる」
帳場の上で、青い石が光っていた。
「一度だけ、聞いたことがあるんだよ。なんでわざわざ、こんな高い石を、ひと粒ずつ買っていくのかって。そしたら、あの人」
老婦人は、少しだけ笑った。
「故郷の石だって、言ってた。それだけ。言葉の端に、わたしと同じ北の訛りが、ほんの少しだけ残っててね。だから覚えてるのさ」
――国境で。
――霜狼だ。
三本の古い傷痕が、指先に蘇った。
「……ありがとうございました」
自分の声が、ひどく遠くで聞こえた。
老婦人は、何も言わずに、肩掛けを直した。それから、わたしが戸口を出る直前に、ひとことだけ付け足した。
「あの人ね、石を選ぶとき、いつもいちばん青いのを選ぶよ。いちばん、いいのを」
坂を下りるあいだ、帯に結んだ布袋が、歩くたびに小さく鳴った。
大きくて、無口で、騎士団の外套。北の山の石。毎週、ひと粒。去年の冬から。
見習いさんの便りが届きはじめたのも、冬だった。冬の夜警で指の感覚がなくなる者がいる、と書いてきたのが、最初の頃の一通だ。
繁華な通りに出たところで、名前を呼ばれた。
「エルナさん」
振り向くと、薔薇色の飾り紐が揺れていた。
ジルケさんだった。銀の莢亭の裏口の前で、樽に腰かけて、喉の薬の小瓶を手の中で転がしている。昼の光の中で見るジルケさんは、舞台の上よりも少しだけ幼く見えた。
「この前のお薬、とても効きましたわ。お礼を言いそびれていて」
「いえ。喉、もういいんですか」
「おかげさまで」
ジルケさんは小瓶を胸元にしまって、それから、何か言いたげに唇を噛んだ。
らしくない仕草だった。夜鳴き鶯さんは、いつだって言葉に迷わない人なのに。
「エルナさん。わたくし、ひとつだけ、伺ってもよろしいかしら」
「……はい」
「副団長さまとは、その」
ジルケさんは、目を伏せた。耳の先が、飾り紐と同じ色になっていく。
「親しく、していらっしゃるの?」
わたしは、しばらく言葉が出なかった。
寄り合いの卓で、ロイさんのほうを一度も見ずに焼き菓子を割っていた横顔。唄を褒められて、口調が崩れた声。
「副団長さんは、お客さんです」
わたしは、ゆっくり言った。
「いい人ですけど。それだけです」
ジルケさんが、顔を上げた。
その目に浮かんだものを、わたしはよく知っていた。安堵だ。張りつめていたものが、ほどけていく顔。
「……そう。そうでしたの」
ジルケさんは、両手で頬を押さえた。
「わたくし、はしたないことをしてしまいましたわ。あの方、このごろ薬屋さんの話ばかりなさるものだから。気になって、気になって、団長さまにまで伺ってしまったの。ほら、二十日ほど前に、この裏口で」
――銀の莢亭の暗がり。腕に添えられた細い手。
「団長さまは、仲がよさそうに見える、とおっしゃって。わたくし、すっかり落ちこんでしまって」
ジルケさんは、少し首をかしげた。
「でも、団長さまのほうも、なんだか寂しそうなお顔でしたのよ。石みたいなお顔なのに、不思議ね。わたくしたち似た者同士ですわね、って、思わず言ってしまいましたの」
わたしは、立っていられなくなりそうだった。
あの夜、樽の暗がりで、ジルケさんは団長に、ロイさんのことを聞いていたのだ。
そして、団長は答えた。仲がよさそうに見える、と。
――彼女には、親しい者がいるようです。
――彼女は、その男の前でだけ、笑うのです。
「エルナさん? 顔色が」
「……大丈夫です」
言ってから、わたしは自分の口を押さえた。
大丈夫って言って、無理をする人が、いちばん嫌い。
「……大丈夫じゃ、ないです。でも、病気じゃありません」
ジルケさんは、不思議そうに目を瞬かせた。それから、何かを察したみたいに、ふっと笑った。舞台の上の笑みではなかった。
「いってらっしゃいな。どこへ行くのか、存じませんけれど」
その夜、細い月が西の空の低いところで、沈みかけていた。
十一の鐘が鳴って、わたしは宵待になった。便りは三通。どれにも、青い石は付いていなかった。
語り終えて、灯りが欠けていくのを見送ってから、わたしは梯子を下りた。
暗い店の中を、手さぐりで歩く。樅の棚の横を抜けて、カウンターの内側にしゃがみこむ。いちばん下の引き出しには、昔からの帳面と、注文書の束がしまってあった。
詰所の常備薬の注文書は、いつもグレタさんの速い字だ。
でも、常備薬の取り決めをする前の、いちばん最初の一枚だけは、違った。
――団長の署名入りの注文書。
ロイさんがそう言って差し出した、あの日の紙。角の立った、几帳面な字で品名が並んでいた。末尾に、短い署名。
わたしは、引き出しの奥に手を伸ばした。
紙の束の、いちばん下。指先が、乾いた紙の端に触れた。




