第二十三話 手紙にしかない言葉
ランプの芯を、いちばん明るくした。
カウンターの上に、紙を二枚並べる。左に、引き出しの奥から出した、一枚目の注文書。右に、箱の中から取った、見習いさんの便り。
店の中は静かだった。表の小路にはもう人通りがなく、裏の土手から、川の水音だけが聞こえてくる。樅の棚の重い扉が、ランプの光を受けて、白っぽく浮かんでいた。
わたしは、二枚の紙を見比べた。
角の立った、几帳面な字。行の頭が、定規を当てたみたいに揃っている。大人になってから読み書きを覚えた人の、一画ずつ確かめるような書き方。
似ている。
でも、似ている字なら、世の中にいくらでもある。
わたしは、注文書の品名をひとつずつ指でなぞった。化膿止めの軟膏を三壺。晒しを十巻き。
軟膏。
便りの束をめくる。冬の一通。霜焼けにはどの軟膏がいいか、と書いてあった。
二つの「膏」の字を、並べて見た。
いちばん上の点が、どちらも、横に長く引いてあった。点というより、短い横棒みたいに。ふつうの書き方ではない。誰かに習ったまま直さなかった、その人だけの癖だった。
注文書のほうの「膏」も。便りのほうの「膏」も。
同じだった。
わたしは、ランプの灯りの中で、長いあいだ動けなかった。
注文書の末尾に、短い署名がある。便りの末尾には、夜の名がある。
――見習い。
――クラウス。
団長の名前だった。下町で、その名前で呼ぶ人はいない。誰もが、石像団長、と呼ぶから。
同じ手が、書いていた。
気がつくと、わたしは床に座りこんでいた。カウンターの脚に背中を預けて、二枚の紙を膝の上に抱えていた。
ヘルミーネさんの声が、耳の奥でした。いちばん青いのを選ぶよ。いちばん、いいのを。
石が北から来ていると分かったとき、たぶん、わたしはもう知っていた。知っていて、紙で確かめなければ、信じられなかった。
信じたら、もう戻れないと思ったから。
翌朝、わたしは月見草に水をやるのを忘れた。
気づいたのは、師匠に言われてからだった。
「水、やらないのかい」
階段の途中から、師匠がこちらを見ていた。わたしは如雨露を持ったまま、店先で立ち尽くしていたらしい。
「……師匠」
「なんだい」
「知ってたんですね。最初から」
師匠は、しばらく黙っていた。それから、杖をついて、ゆっくり階段を下りてきた。わたしの横に並んで、萎んだ月見草の花を見下ろす。
「最初からじゃないよ。木箱の朝からさ」
「木箱の」
「前の晩に、花を贈れって言ったのは誰だい。で、次の朝に花を箱で抱えてきたのは誰だい」
わたしは、如雨露を握りしめた。
「どうして、教えてくれなかったんですか」
「教えたら、あんた、どうしたんだい」
師匠は、丸眼鏡越しにわたしを見た。
「宵待の時間に、あの人の便りを読まなくなったろう。昼に、あの人の顔を見なくなったろう。……それで、何かいいことがあったかね」
わたしは、何も言えなかった。
師匠は、わたしの手から如雨露を取り上げて、月見草の根元に水をやった。
「おはよう。今日もお疲れさま」
師匠が花に話しかけるのを、わたしは初めて見た。
昼過ぎ、わたしは往診の鞄を持って、詰所の門をくぐった。
勝手口で晒しを巻いてから、六日がたつ。傷の具合を見て、晒しを替える頃合いだった。薬師として、当たり前のことだ。
当たり前のことをしに来ただけだ、と何度も自分に言い聞かせた。
門の内側で、グレタさんが若い騎士たちの稽古を見ていた。わたしに気づくと、片眉を上げて、何も聞かずに建物の奥を顎で示した。
「団長室。二階の突き当たり」
「……傷の具合を、見に来ただけです」
「そうだろうね」
グレタさんの目の奥が、ほんの少しだけ笑っていた。
団長室の扉は、開いていた。
中は、思っていたよりずっと狭かった。書類の積み上がった机と、椅子が一脚。壁に、地図が一枚。窓辺に、ひびの入った小さな聴き灯がひとつ置いてあった。
団長は机に向かって、ペンを走らせていた。
わたしが戸口に立つと、ペン先が止まった。顔を上げて、それから、椅子が床をこする音がするほどの勢いで立ち上がった。
「……薬師殿」
「傷を、見せてください。晒しを替える頃です」
団長は、ほんの少しのあいだ、わたしを見ていた。それから、黙って椅子に座り直し、左の袖をまくった。
晒しをほどく。傷は、きれいに塞がりかけていた。縁の赤みも引いている。膿んでもいない。
「よく、治っています」
「そうか」
「無理をしなかったんですね」
「……言われたので」
団長は、窓の外を見ていた。
わたしは新しい晒しを巻きながら、窓辺の聴き灯に目をやった。ひびが一本、斜めに走っている。昼の光の中で、三日月の形の窓だけが、かすかに透けていた。
ティモさんが、団長に渡したという灯り。
晒しの端を結ぶ。結び終えても、わたしはすぐには手を離せなかった。
「団長さん」
「何だ」
「棚、ありがとうございました」
腕の下で、団長の体が、石みたいに固まった。
窓の外で、誰かが剣を打ち合わせる音がした。かん、かん、と二度。それから、静かになった。
「……なぜ」
団長の声は、いつもより低かった。
「なぜ、私だと」
「北の山の樅だって、師匠が言いました。目が詰まっていて、このあたりの樅とは音が違うって」
わたしは、晒しを結んだところを、指先でそっと押さえた。
「北の国境の人を、わたしは、騎士団にひとりしか知りません」
嘘は、ひとつもない。
団長は、黙っていた。耳の先が、みるみるうちに赤くなっていく。眉間の縦じわが深くなり、口が一度だけ開いて、閉じた。
それから、団長は、ひどくぎこちなく口を開いた。
「……重すぎたのでは、ないかと」
息が止まった。
「お使いに、なれて……いますか」
――手で作ったものを贈りました。上手くはできませんでした。重すぎたかもしれません。
あの夜、わたしが自分の声で読み上げた便り。角の立った字で、そう書いてあった。
重すぎたかもしれません。
石の顔のまま、手紙の中の言葉で、手紙の中の声で、この人は今、わたしに聞いている。
「……毎朝、使っています」
声が、震えないように気をつけた。
「重いです。両手で開けないと開きません。でも、湿気も入らないし、薬草が傷まない。いちばん上の段には、踏み台なしで手が届きます」
団長は、何も言わなかった。
わたしも、それ以上は言えなかった。言ったら、宵待が言ったのと同じことを言ってしまいそうだった。
「……そうか」
ずいぶん長い沈黙のあとで、団長はそれだけ言った。いつもの、石の声に戻っていた。
わたしは道具を鞄にしまって、一礼した。
「三日後に、また晒しを替えに来ます」
「いや、それには」
「来ます」
団長は、もう何も言わなかった。
詰所の門を出たところで、わたしは足を止めた。
昼の光がまぶしかった。稽古の掛け声が、塀の向こうから聞こえてくる。わたしは門柱に手をついて、ゆっくり息を吐いた。
知ってしまった。
見習いさんは、あの人だ。
部下の傷を見て私より先に怒った、と書いた人。薬草に話しかける、眉が片方だけ上がる、月見草に水をやる、と書いた人。花の代わりに木箱を抱えてきて、褒め言葉の代わりに「正確だ」と言って、そばにいる代わりに店の前に三日立って、手作りの代わりに二寸の樅を削った人。
身を引くべきかもしれません、と書いた人。
――彼女には、親しい者がいるようです。
あの人は今も、そう思っている。わたしがロイさんの前でだけ笑うのだと。
違います、と言いたかった。今すぐ団長室へ駆け戻って、違うんです、と。
でも、それを言ったら、どうしてわたしがその便りの中身を知っているのか、という話になる。
宵待は、昼の名を明かせない。
師匠から教わった、夜語りのいちばん古い決まりだった。
その夜、十一の鐘のあと、机の上の便りの中に、青い月石がひと粒あった。
九日ぶりだった。
わたしは、封を開ける前に、しばらくその石を手のひらに載せていた。冬の朝の空の色。いちばん青いのを。いちばん、いいのを。
「……最後のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
声は、宵待の声だった。自分でも不思議なくらい、いつもどおりに出た。
「『宵待殿。長く便りを出さず、申し訳ありません』」
知っている字だった。昼に見た手の字だった。
「『今日、彼女に、礼を言われました。重すぎた贈り物を、毎朝使ってくれているそうです』」
ささめが、便箋の上でとろけていた。
「『それだけで、十分だと思いました。彼女には、親しい者がいるのですから』」
膝の上で、手を握った。
窓の外を、光の粒が流れていく。細い月が、西の空に低くかかっていた。下町じゅうの窓で、淡い黄が満ちている。どこかで、ひびの入った聴き灯も、きっと今、満ちている。宿舎の枕元か、夜番の路地の、外套の懐で。
この人は、今、この声を聴いている。
わたしの声だと知らずに。
「見習いさん」
宵待の声で、わたしは言った。
「十分だなんて、言わないでください」
嘘は、つけない。宵待は、嘘をつかない。だから、言えることだけを言った。
「その方に、親しい人がいるかどうか。あなたは、ご本人に確かめましたか」
ささめが、ぴくりと耳を立てた。
「確かめていないのなら、まだ、何も決まっていません。人の心は、遠くから見ているだけでは、分からないことがあります。……すぐそばで見ていても、分からないことだって、あるんです」
喉の奥が、熱かった。
「今夜のお薬は、カモミールとレモンバームのお茶です。……眠れる夜は、どうか、よく眠ってください。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。
わたしは便箋を胸に抱えて、窓辺に座りこんだ。
知っている。もう、全部知っている。
それなのに、宵待は、それを言えない。




