第二十四話 言葉にしない人は
夜明け前の屋根裏で、わたしは箱の蓋を開けた。
天窓の外は、まだ群青色だった。机の上のランプが、斜めの天井に丸い影を落としている。箱の中には、便りが重なっていた。いちばん下に冬の一通があり、いちばん上に、ゆうべの一通がある。
見習いさんの便りだけを、わたしは一通ずつ取り出して、日付の古い順に机に並べた。
全部で、三十と二通。
一通目。
『宵待殿。初めて便りを出します。眠れない部下がいます。何か、よい茶はありますか』
二通目。
『宵待殿。教えていただいた茶を飲ませました。あの者は、朝まで眠れたそうです。ありがとうございました』
三通目は霜焼けの軟膏。四通目は、冬の夜警で指の感覚がなくなる者のこと。五通目は、新人の食が細いこと。六通目は、母親を亡くしたばかりの部下に、何と声をかければいいかということ。
どの便りにも、「私」はほとんど出てこなかった。
出てくるのは、部下のことばかりだった。あの者は、あの者が、あの者に。そして次の便りには、必ず書いてあった。あの者は良くなりました。ありがとうございました。
半年のあいだ、あの人は、自分のことを一度も書かなかった。
書かずに、毎週、いちばん青い石を一粒ずつ添えてきた。
――この石が、明日の晩の誰かの薬代になる。
わたしは、何度そう思って、石を小瓶に落としただろう。冬の夜に熱を出した子の解熱の薬草。酔っぱらいの切り傷を洗う晒し。歯の生えかけた赤ん坊を抱いてきた女房に渡した、蜜蝋の軟膏。
夜の勝手口の灯りを、半年のあいだ支えていたのは、あの人の石だった。
あの人は、それを知らない。勝手口があることさえ、ついこのあいだまで知らなかった。
わたしは、並べた便りの真ん中あたりで手を止めた。
『初めて、自分のことで相談があります』
あの夜の一通だった。
『仕事で関わった女性のことです。彼女は私の部下の傷を見て、私より先に怒りました』
――だいいち、あんなふうに怒鳴る女を好きになる人なんて、いるわけがないし。
あの夜、わたしは灯りを消しながら、そう思ったのだ。
続く便りを、一通ずつ読んでいく。
『彼女は、薬草に話しかけるのです』
『怒ると、彼女は眉が片方だけ上がるのです』
『彼女は毎朝、店先の月見草に水をやっています』
『嫌いなものは、愛想笑い』
聞き込みの騒ぎのあとの便りだった。あの夜、わたしは自分の好き嫌いを、自分の声で読み上げた。
『怒ると怖い、と三人が言いました』
『ですが、ひとりは、優しい、とも言いました』
どれも、昼のわたしだった。
夜の宵待ではない。灯りに向かってやわらかい声で話す、わたしではない。店先で目つきの悪い顔をして、薬を売らないと言い張り、騎士団長を怒鳴りつけた、昼のわたしだった。
好かれているのは宵待で、昼のわたしじゃない。
ずっと、そう思っていた。昼のわたしは、誰にも好かれない。だから宵待の声だけは、せめて優しくありたかった。
でも、あの人が見ていたのは、昼のわたしだった。
机の上に、ぽたりと何かが落ちた。便箋の端が、小さく丸く滲んだ。
わたしは慌てて、袖で目を押さえた。便りを濡らしたくなかった。
ささめが、机の隅で目を覚ましていた。夜明け前で、灯りはもうほとんど消えかけているのに、硝子の中で、小さく身じろぎしていた。とろけた顔ではなかった。ただ、わたしの顔を、じっと見ていた。
「……言葉にしない人は、手のほうで伝えていることがあります」
声に出してみた。
ずっと前の夜、焦げたパンさんに、わたしが言った言葉だった。窯に最初の火を入れていたのは、ご亭主だった。三十年、毎朝。
木箱。正確だ、のひとこと。店の前の三日間。麻袋。二寸の樅。煙の中から、赤ん坊を抱いて出てきた腕。
わたしは、ずっと、手のほうを見ていなかった。
その日の昼過ぎ、ヴィリ爺さんが店に来た。
杖代わりの太い棒をついて、ゆっくりと戸口をくぐってくる。昔は桶を担いで小路を走り回っていた人だ。今は、膝に布を巻いて、少し背を丸めている。
「膝の布、替えに来たぞ」
「座ってください」
腰掛けに座らせて、膝の布をほどく。温めた薬草の布に替えながら、わたしは、爺さんの膝の皺だらけの皮膚を見ていた。
十五のとき、わたしはこの人に、笑って咳止めを売った。毎週、毎週。
「年のせいだ」と爺さんが笑うから、わたしも笑って売った。肺を病んでいるとも知らずに。ある朝、仕事場で倒れたこの人を、師匠が治療院へ運んだ。命は助かった。でも、もう桶は作れなくなった。
「……爺さん」
「ん」
「あのときの、咳止めのこと」
爺さんの手が、膝の上で止まった。
わたしは、布を巻く手を止めなかった。止めたら、言えなくなる気がした。
「わたしが、笑って売らなければ。ちゃんと、どこが悪いのか聞いていれば」
「気にするなって、何べんも言ったろう」
「言われました。何べんも」
わたしは、布の端を結んだ。
「でも、気にするなって言われるたびに、わたし、どうしていいか分からなくなるんです」
爺さんは、しばらく黙っていた。
表の小路を、荷車が一台通り過ぎていく。樅の棚の扉が、窓からの光を受けて、白っぽく光っていた。
「お前さんが笑って売ってくれた咳止めな」
爺さんが、ぽつりと言った。
「あれ飲んで、毎晩、眠れたんだ。咳で起きずに、朝まで」
「……眠れたって、治ったわけじゃ」
「分かってるさ。分かってて、隠したのは、こっちだよ。お前さんじゃない」
爺さんは、ごつごつした手で、わたしの頭をぽんと叩いた。見習いになったばかりの頃、店先で泣いていたわたしにしたのと、同じ手つきで。
「あれから、お前さん、笑わなくなっちまったろう。そっちのほうが、よっぽど堪えたよ」
わたしは、顔を上げられなかった。
「薬師が笑って売ったから、悪いことになったんじゃない。具合の悪いのを隠したやつがいたから、悪いことになったんだ。……だからな、エルナ」
爺さんは、杖代わりの棒をついて、立ち上がった。
「具合の悪いのを隠すやつを、お前さんが叱るのは、正しい。でも、笑うのまでやめることはないんだよ」
扉の鈴が鳴って、爺さんは小路へ出ていった。
わたしは、膝の上に残った古い布を握ったまま、しばらく動けなかった。
――効かない優しさより、嫌われる正確さのほうがいい。
十五のときから、わたしはそう決めてきた。
あの人は、その正確さごと、わたしを見ていた。正確だ、と言ってくれた。怒った眉の高さまで、見ていてくれた。
だったら、もう少しだけ。
正確なまま、笑ってもいいのかもしれない。
◇
――幕間
薬師殿は、約束どおり三日後に来た。
団長室の戸口に立って、往診の鞄を胸の前に抱えている。私が椅子から立ち上がると、彼女は小さく頭を下げた。
「晒しを、替えます」
私は黙って袖をまくった。
傷は、ほとんど塞がっていた。薬師殿は傷の縁を指先で確かめ、新しい晒しを巻いた。前の二度より、巻き方がゆっくりだった。気のせいかもしれない。
「もう、晒しは要らないと思います。あと二、三日、濡らさないでください」
「承知した」
それで終わりのはずだった。
薬師殿は、鞄の口を閉じたまま、帰ろうとしなかった。
「団長さん」
「何だ」
「ジルケさんから、聞きました」
私は、言葉の意味が分からなかった。
「銀の莢亭の、歌い手の。団長さんに、副団長さんのことを聞いたって。わたしと副団長さんが、仲がよさそうに見えるって、団長さんがおっしゃったって」
薬師殿は、まっすぐ私を見ていた。
見ていた、と言っていいのだと思う。いつもなら、彼女は私と目が合うとすぐに逸らす。今日は、逸らさなかった。眉が、ほんのわずかに上がっていた。右のほうが、少し高い。
「違います」
はっきりとした声だった。
「副団長さんは、お客さんです。いい人ですけど、それだけです。……それだけ、言いに来ました」
彼女は、もう一度頭を下げた。それから、戸口で一度だけ振り返った。
「……あと、晒しを替えるたびに、腕に力を入れて我慢しないでください。痛いなら、痛いって言ってください」
扉が閉まった。
私は、晒しを巻かれたばかりの腕を、膝の上に置いたまま動けなかった。
親しい者がいる、と私は書いた。宵待殿に。
宵待殿は、本人に確かめましたか、と言った。確かめていないなら、まだ何も決まっていない、と。
確かめる前に、答えのほうが、向こうから歩いてきた。
窓辺の聴き灯を見る。このごろは、宿舎の枕元から、昼も持ち歩くようになった。ひびの入った硝子は、昼の光の中で、三日月の形にかすかに透けているだけだった。
冬のある夜、私はこの灯りで、初めて朝まで眠った。
あの夜から、困ったことがあるたびに、私は宵待殿に便りを書いた。部下のことも、彼女のことも。花も、褒め言葉も、共に過ごす時間も、手作りのものも。すべて、宵待殿に教わったとおりにした。
教わったとおりにして、そのたびに、少しずつ間違えた。
――あなたも、笑ってみてはどうでしょう。
――ご本人に、確かめましたか。
宵待殿は、いつも私の背中を押す。押して、私が転ぶと、また起こしてくれる。
だが、彼女に「違います」と言わせたのは、宵待殿ではない。
彼女が、自分の足で、ここまで歩いてきたのだ。
私は、引き出しから便箋を取り出した。ペンを持って、書き出しの言葉を考えた。
宵待殿。
そこまで書いて、ペンが止まった。
私は、何を相談するつもりなのだろう。どうすればいいのか、本当は、もう分かっているのではないか。
便箋の上で、インクが小さく滲んだ。
私はまだ見習いだ。剣も、人としても。宵待殿の声がなければ、眠ることさえできなかった男だ。
その男が、宵待殿の言葉を借りずに、自分の口で、何かを言えるのだろうか。
答えは出なかった。
私は書きかけの便箋を折って、引き出しの奥にしまった。窓の外で、稽古の掛け声が、いつまでも続いていた。




