第二十五話 知っている宵待
朝の光の中に、濃紺の外套が戻ってきた。
晒しを外した日から、二日後のことだった。如雨露を提げて店先に出ると、蝋燭小路の角に、見慣れた背中が見えた。背筋を伸ばして、まっすぐ前を向いて、二本ぶん遠回りになるはずの道を歩いてくる。
わたしは、如雨露を持つ手に力を入れた。
月見草の鉢の前で、団長が、わたしの三歩手前まで来た。いつもなら、ここで目も合わせずに通り過ぎていく。
「おはようございます、団長さん」
わたしが先に言った。
団長の足が、止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。朝の小路で、大きな体が石像みたいに固まっている。向かいのパン屋の窯の前で、おかみさんが粉だらけの手を止めてこちらを見ていた。
「……おはよう」
ずいぶん遅れて、低い声が返ってきた。
それだけだった。団長はまた歩き出して、土手のほうへ曲がっていった。少しだけ、歩き方がぎこちなかった気がする。
わたしは月見草に水をやった。
「おはよう。今日もよろしくね」
声に出して言った。三歩先に、もう誰もいなくても。
次の日も、団長は角を曲がってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
今度は、少しだけ返事が早かった。
その次の日は、わたしが「今日は暑くなりそうですね」と言った。団長は空を見上げて、たっぷり三つ数えてから「……そうだな」と答えた。
四日目には、わたしが「腕、もう痛みませんか」と聞いた。団長は左の袖を少しだけまくって、塞がった傷痕を見せた。何も言わずに。わたしがうなずくと、団長も小さくうなずいて、袖を下ろした。
一日に、ほんの少しずつ。
昼のわたしは、相変わらず目つきが悪くて、言葉も少ない。それでも、顔を見ても、言葉が喉で止まらなくなっていた。あの人の顔だけは、読めないままなのに。
昼過ぎ、ティモさんが常備薬の注文書を持ってきた。
「薬師さん、団長に何かしました?」
入ってくるなり、ティモさんはそう言った。
「……何も」
「最近、団長、変なんです。朝の巡回から戻ってくると、しばらく団長室の窓の外をじっと見てて。ルッツ先輩が書類持っていったら、返事が三回とも『そうだな』だったって」
ティモさんは首をかしげた。
「昨日なんか、詰所の門柱にぶつかってました。団長が、ですよ。剣の稽古で一回も打たれたことない人が」
わたしは注文書に目を落として、顔を上げなかった。耳が熱かった。
「あ、そうだ。僕、馬に乗れたんです!」
ティモさんが、急に胸を張った。
「毎朝ブラシかけて、名前呼んで、首撫でてたら、向こうから鼻をくっつけてくるようになって。昨日、あれから初めて、背中に乗せてもらいました。三歩だけですけど」
「……三歩」
「三歩です! 団長が、横でずっと手綱持っててくれて。下りたら、よくやったって」
ティモさんは、ぴかぴかした顔で笑った。
わたしも、つられて笑った。
ティモさんが、ぽかんと口を開けた。
「薬師さん、笑うんですね」
「……笑います。たまには」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。ティモさんは何度も振り返りながら帰っていった。
階段の途中で、師匠が手すりにもたれていた。いつから見ていたのだろう。丸眼鏡の奥の目が、なぜか少しだけ潤んで見えた。
「なんですか」
「なんでもないよ。年寄りは涙もろいんだ」
師匠はそれだけ言って、鼻をすすりながら二階へ戻っていった。
その夜、宵待の時間に、夜の名「宛名探し」さんから便りが届いた。
「『宵待さん。贈り主が、分かりました。売った人に聞いたら、すぐに分かりました』」
わたしは、便箋を持つ指に少しだけ力を入れた。
「『でも、宵待さんの言うとおり、まだお礼は言っていません。見つけたことを、胸にしまっています。毎週、戸口で魚を見つけるたびに、その人の顔を思い浮かべます。それだけで、ずいぶん温かいものですね』」
机の隅で、ささめが耳を立てていた。
「宛名探しさん。見つかって、よかったですね」
わたしは、ゆっくり言葉を選んだ。
「胸にしまっておくのは、ひとつの贈り物です。……でも、しまいっぱなしにしなくてもいいと思います。いつか、その方の顔を見て、ありがとうと言える日が来たら。そのときは、宵待にではなく、その方に、直接」
言いながら、自分の胸に手を当てていた。
同じ夜、もう一通、丸くて小さい字の便りがあった。夜の名「小窓」さん。
「『宵待さん。あれから、工房で、少しだけ笑ってみました。男の子たちが、ぎょっとした顔をしていました。でも次の日から、朝の挨拶をしてくれるようになりました』」
思わず、声を出して笑ってしまった。
「小窓さん。それは、いい挨拶ですね」
見習いさんの便りは、届いていなかった。
晒しを替えに行ったあの日から、一通も。
月は日ごとにふくらんで、やがてまんまるになった。満月の夜は、宵待の声がいちばん遠くまで届く。川向こうの端の窓まで、淡い黄に満ちていく。どこかで、ひびの入った聴き灯も、きっと満ちている。
それでも、青い石は届かなかった。
――宵待殿。
そう書きかけて、ペンを置いている人がいる気がした。
昼には、毎朝会っている。挨拶をして、天気の話をして、ときどき傷の具合を聞く。それなのに、夜になると、あの人は何も書いてこない。
宵待にだけ、何も。
少し寂しくて、少しだけ、嬉しかった。
満月から何日かたった朝、団長は、角を曲がってきたところで足を止めた。
いつもなら、月見草の鉢の前まで来てから止まる。今朝は、三歩よりもっと手前で止まった。何かを言おうとして、言葉を探している顔だった。眉間の縦じわが、いつもより深い。
「薬師殿」
「はい」
「……ティモが、世話になった。馬のことで」
わたしは、瞬きをした。
「馬のことは、わたしは何も」
「ブラシをかけて、名前を呼んで、首を撫でろ、と。誰かに教わったと言っていた。薬師殿ではないのか」
――まずは毎朝、ブラシをかけてあげてください。名前を呼んで、首を撫でて。
宵待が、馬が怖い者さんに言った言葉だった。
わたしは、如雨露を胸の前で抱えた。
「……薬師としては、何も教えていません」
嘘ではない。薬屋のカウンターで、わたしはティモさんに馬の話をしたことはない。教えたのは、宵待だ。
団長は、少しだけ首をかしげた。
「そうか。では、誰に礼を言えばいい」
わたしは答えられなかった。
答えられないまま、団長を見上げた。朝の光が、外套の肩に落ちている。眉間の縦じわ。読めない目。けれど、もう、何も読めないとは思わなかった。この人は今、本当に、誰かに礼を言いたいのだ。
「団長さん」
「何だ」
「薬師殿、じゃなくて」
声が、少しだけ震えた。
「エルナです。わたしの名前」
団長が、黙った。
小路に、朝の音が戻ってくる。荷車の車輪。パン屋の窯の薪がはぜる音。遠くで、時計塔の鐘が七つ鳴りはじめた。
鐘が鳴り終わるまで、団長は何も言わなかった。
「……エルナ殿」
低い声だった。一語ずつ、確かめるみたいに。
「はい」
「……礼を言う相手が分かったら、教えてほしい」
そう言って、団長は土手のほうへ歩いていった。
わたしは、月見草の前にしゃがみこんだ。如雨露を抱えたまま、膝に顔を伏せた。
――エルナ殿。
昼の名を、呼ばれた。
その夜、十一の鐘のあと、青い月石がひと粒、机の上に転がった。
ずっと待っていたはずなのに、わたしは、すぐには封を開けられなかった。
石を手のひらに載せる。冬の朝の空の色。いちばん青いのを。
「……最後のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
封を開く。便箋には、三行しかなかった。
「『宵待殿。しばらく、便りを書けずにいました』」
角の立った、几帳面な字。
「『宵待殿に教わった言葉ではなく、自分の言葉を、探しています』」
ささめが、便箋の上で、そっと丸くなった。
「『見つかったら、また便りを書きます』」
それだけだった。
わたしは、便箋を膝の上に置いた。窓の外では、少し欠けはじめた月が、東の空に昇ってきたところだった。
「見習いさん」
宵待の声で、わたしは言った。
「見つかったら、それは、きっと、宵待の言葉より、ずっと遠くまで届きます」
嘘は、ひとつもなかった。
「宵待は、待っています。……いいえ」
わたしは、少しだけ笑った。灯りに向かって。
「宵待より先に、その言葉を待っている人がいると思います」
灯りが欠けていく。
あの人は、今、どこでこの声を聴いているのだろう。
わたしは窓辺で、昼に呼ばれた自分の名前を、もう一度だけ、心の中で繰り返した。




