第二十六話 三代の言葉
ルナリア川の土手が、銀色に変わりはじめていた。
夏のあいだ紫の小さな花をつけていたルナリアが、いつのまにか丸い莢を実らせている。薄い皮が日ごとに乾いて、透けて、朝の光の中で小さな月みたいに光る。風が吹くたびに、何百もの莢がかさかさと鳴って、土手じゅうがさざ波のように揺れた。
秋が来たのだ。
わたしは籠を腕に提げて、師匠と並んで土手を歩いていた。月送りの夜に川へ流す灯りには、ルナリアの莢を一枚ずつ入れる。その莢を、今年もうちで摘んで、小路の家々に配るのだ。
「まだ少し早いね。透けきってない」
師匠が、杖の先で莢をひとつ揺らした。
「月送りまで、まだひと月近くあります」
「ひと月なんて、すぐさ」
師匠は土手の草の上に腰を下ろした。わたしも隣に座った。川面が、朝の光をきらきらと跳ね返している。対岸の丘の上に、王城の尖塔が白く小さく見えた。
しばらく、ふたりとも黙っていた。
「師匠」
「なんだい」
「薬師が好かれてどうするんだい、って、師匠はよく言いますよね」
「言うね」
師匠は、土手の草を一本抜いて、指先でくるくると回した。何を言われるのか、もう分かっているような顔だった。
「わたし、あれを聞くたびに、少し楽になって、少し苦しくなるんです」
師匠は、川のほうを見たまま、しばらく答えなかった。
「あれはね、あたしの言葉じゃないよ」
「……え」
「あたしの師匠の言葉さ。マルタっていってね。初代の宵待だよ」
師匠は、丸眼鏡を外して、膝の上でゆっくり拭いた。
「笑わない人だった。愛想のかけらもなくてね。薬を売らないことにかけちゃ、あんたより頑固だったよ。下町じゅうから、怖い薬師だって言われてた」
わたしは、師匠の横顔を見た。
「あたしが弟子入りしたのは、十二のときさ。洗濯屋の娘でね。あの人に毎日叱られて、毎日泣いて。あるとき、どうして先生はそんなに怖い顔をするんですかって、聞いたんだ。そしたら」
師匠は、ふっと笑った。
「薬師が好かれてどうするんだい。効けばいいんだよ、効けば、ってさ」
風が吹いて、ルナリアの莢が一斉に鳴った。
「でもね、あの人、夜になると、宵待の時間に、それはそれは優しい声で語るんだよ。眠れない子どもに、子守唄みたいに。あたしは屋根裏の下で、毎晩それを聴いてた」
「……それって」
「そうさ。あんたと同じだよ。昼は笑えなくて、夜だけ優しい。好かれたいのに、好かれ方が分からない。そういう薬師が、三代続いてるのさ」
師匠は、眼鏡をかけ直した。
「あの言葉はね、自分に言い聞かせてたんだよ。好かれなくていい、効けばいいって。そう言わないと、立っていられなかったんだろうね。あの人も。あたしも」
わたしは、膝を抱えた。
ずっと、ひとりだと思っていた。昼は誰にも好かれなくて、夜の声だけが優しい薬師は、わたしひとりだと。
師匠も、師匠の師匠も、同じだった。
「だからね」
師匠が、わたしのほうを向いた。
「あんたには、もう言わないよ。あの言葉は」
わたしは、何も言えなかった。目の奥が熱くて、川面の光が滲んで見えた。
「ささめはね」
師匠は、わたしの胸元の語り灯を、杖の先で指した。昼の光の中で、硝子の球は透きとおっていた。中で、ささめが莢の上で丸くなって眠っている。
「この子は、初代より前から生きてる。宵待の声だけでも、もう八十年食べてきた。マルタの声は、塩気が強かったそうだよ。あたしの声は、渋くて癖になるんだってさ」
「……ささめが、そう言ったんですか」
「言うもんかい。この子は喋らないよ。でも、食べたときの顔で分かるのさ。六十年も一緒にいればね」
師匠は、語り灯の硝子を指先でつついた。ささめが、眠ったまま耳を少し動かした。
「あたしが宵待をやめるとき、この子はね、ほかの誰のところにも行かなかった。まっすぐ、あんたの肩に乗ったんだよ。十九のあんたの、目つきの悪い、寝不足の肩にさ」
「覚えてます」
「なんでだと思う」
わたしは、首を横に振った。
「ささめがあんたを選んだのはね、あんたの声が、甘くて、ちょっとしょっぱいからさ」
師匠は、笑った。いつもの面白がる笑いではなかった。
「蜂蜜の下に、塩がある。優しいのに、嘘がない。……宵待ってのはね、あんたの嘘のない声のことさ。夜の声だけじゃないよ。昼に薬を売らないって言い張る、あの声も、同じ声なんだ。……いちばん最初に教えたろう。本音のときだけ、昼の声と夜の声は重なる。あんたの声は、いつか、ちゃんと重なるよ」
わたしは、顔を膝に埋めた。
師匠の杖が、わたしの背中を、とん、と一度だけ叩いた。
十日ほどして、新月が来た。
銀の莢亭の奥の小部屋で、ランプの灯りの下に、五つの語り灯が並んだ。どれも暗い。新月の夜は、精霊が眠る。
「では、月送りの重ね語りの順番を決める」
水鏡さんが、低い声で言った。
月送りの夜は、年に一度の満月の祭りだ。下町じゅうの人が、ルナリアの莢を入れた灯りを川に流す。その夜だけは、五人の語り手が順に語り、最後に五つの声を重ねる。重ね語り、という。この夜の精霊は特別で、夜の名をささやかなくても、五つの声がすべての聴き灯に届くのだという。
「いつもどおりだよ! おいらが最初!」
鐘守くんが、焼き菓子を握ったまま手を挙げた。
「その次がわし。灯り番。夜鳴き鶯が唄って、最後に宵待」
水鏡さんが、ひとりずつ指を折っていく。
「宵待の番のあと、五人で声を重ねる。いつもどおりだ」
「異議なし」
ロイさんが軽く手を挙げた。
「異議なし、ですわ」
夜鳴き鶯さんが、ロイさんのほうをちらりと見て、すぐに目を逸らした。
でも、今夜の夜鳴き鶯さんは、ロイさんのほうを一度も見ない、というわけではなかった。焼き菓子をロイさんの皿に一つ置いて、「鐘守の分が余りましたの」と言った。ロイさんは目を丸くして、それから、ゆっくり笑った。
「鶯。今年の唄、何にするの」
「決まっておりますわ。月送りの夜は、銀の莢の唄」
夜鳴き鶯さんは、少しだけ背筋を伸ばした。それから、ランプの灯りの中で、小さく口ずさんだ。
――銀の莢に 月がやどれば
――声はあなたの 窓までとどく
精霊の眠る夜だから、声はこの小部屋の外へは出ない。それでも、寄り合いのみんなが、湯呑みを持つ手を止めていた。
古い唄だった。百五十年前、大水の夜に、水門番が精霊に声を託して人々を逃がしたころから、この下町で歌い継がれてきた唄だという。
「……いい声だな」
ロイさんが、ぽつりと言った。
夜鳴き鶯さんは、何も答えなかった。答えなかったけれど、今度は、口調が崩れることもなかった。ただ、耳の先が、飾り紐と同じ色になっていた。
卓の奥で、水鏡さんが、師匠のほうへ湯呑みを少しだけ寄せた。
「蜂蜜は、下がった」
「……そうかい」
師匠は、湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
「下がったね」
それだけだった。
それだけなのに、水鏡さんの太い指が、湯呑みの縁で止まった。五十年近く、そうかい、としか返ってこなかった言葉に、初めて、ひとこと多く返ってきたのだ。
わたしは、見ないふりをして、焼き菓子をかじった。
月送りまで、あと四日という朝だった。
月見草に水をやっていると、蝋燭小路の角を、濃紺の外套が曲がってきた。
「おはようございます、団長さん」
「おはよう。……エルナ殿」
団長は、まだわたしの名前を呼ぶたびに、少しだけ間をあける。間をあけて、確かめるみたいに、一語ずつ口にする。
小路のあちこちで、月送りの支度が始まっていた。パン屋の軒先には、ルナリアの莢を入れた小さな紙の灯りが吊るされ、肉屋の親方は、子どもたちに灯りの舟の折り方を教えている。泣いていた坊主のひとりが、親方の膝に乗っていた。
団長は、月見草の鉢の前で立ち止まったまま、なかなか歩き出さなかった。
「エルナ殿」
「はい」
「月送りの夜は、店を開けているか」
「宵の口までは。そのあとは、閉めます」
夜には、宵待の番がある。それは言えなかった。
団長は、少しのあいだ黙っていた。眉間の縦じわが、いつもより深い。何かを探している顔だった。言葉を、探している顔。
「そのあとに」
低い声が、ゆっくり言った。
「少しだけ、時間をもらえないか」
如雨露から、水がひとすじこぼれた。月見草の葉の上で、朝の光が跳ねた。
団長は、ほんのわずかに目を伏せた。言葉をひとつずつ、自分の中から拾い上げているみたいだった。
「自分の言葉で、伝えたいことがある」
――宵待殿に教わった言葉ではなく、自分の言葉を、探しています。
あの夜、三行だけの便りに、そう書いてあった。
この人は、それを、昼の口で言ったのだ。わたしに。
わたしが宵待だとは知らずに。
「……はい」
声が、震えた。
「待っています」
団長は、小さくうなずいた。それから、いつものように土手のほうへ歩いていった。
いつもより、ほんの少しだけ、歩幅が小さかった。




