第四話 ……花だ
朝露が、月見草の葉の先で光っていた。
夜のあいだ開いていた黄色い花は、日が昇るとすぐに萎んでしまう。そのくせ葉のほうは元気で、指で触れると、冷たい雫がころりと土に落ちた。小路の向こうからは朝市の呼び声が聞こえてくる。三日に一度の市の日だ。
「おはよう。昨夜もお疲れさま」
如雨露を傾けながら、わたしは昨夜の便りのことを考えていた。
見習いさん。
半年ぶんの便りで、初めて自分のことを書いてきた人。あの丁寧な字で、「どうすればいいのか、分かりません」と書いていた。
花、贈れたかな。
余計なお世話だと分かっていても、気になってしまう。宵待の助言を真に受けて、どこかの詰所の若い騎士が、花屋の前で立ち尽くしているところを想像する。何を買えばいいのか分からなくて、店のおかみさんに笑われて、それでも一輪だけ握りしめて――。
想像のなかの見習いさんは、なぜかティモさんくらいの年格好をしていた。
「……がんばれ」
月見草に言ったのか、見習いさんに言ったのか、自分でもよく分からなかった。
店を開けて、乾燥棚の束を入れ替えていたときだった。
扉の鈴が、昨日と同じ鳴り方をした。
振り向くより先に、店の中が暗くなる。戸口いっぱいに、大きな影。濃紺の外套に、灯火と鍵の紋章。
石像団長だった。
そして、その腕に、木箱を抱えていた。
大きな箱だ。大人がひとり、膝を抱えて入れそうなくらいの。団長はそれを、まるで書類の束でも持つような顔で抱えて、店の中に入ってきた。カウンターの前で立ち止まり、箱を置く。どすん、と床まで揺れた。
ふわりと、甘い匂いが広がった。
青りんごに似た香り。乾いた草の香り。それから、蜜の匂い。
わたしは思わず箱を覗き込んだ。
白い小さな花が、山になっていた。黄色い芯を白い花びらが囲む、見慣れた形。その脇には、紫の穂がぎっしり束ねてある。いちばん奥では、細かな白い花房が、レースのように重なっていた。
カモミール。ラベンダー。エルダーフラワー。
どれも朝摘みだ。花びらにまだ張りがある。
「……あの」
顔を上げると、団長がわたしを見下ろしていた。相変わらず、何も読めない顔だった。
「花だ」
団長は言った。
わたしは、もう一度箱を見た。それから、団長を見た。
「カモミールですね。業務用の量の」
「…………」
団長は何も言わなかった。眉間の縦じわが、ほんの少しだけ深くなった気がする。気がするだけで、たぶん気のせいだ。
わたしはこの人の顔を、もう一度読もうとした。
目。動かない。口元。動かない。頬。石。
唯一、耳の先だけが、ほんのり赤かった。
……暑いのかな。
外套を着こんで、この箱を抱えて、朝市から歩いてきたのなら無理もない。今日はよく晴れている。
「ご注文、いただいていましたか」
「注文ではない」
「では、騎士団の在庫を引き取れと?」
「違う。……受け取ってほしい」
受け取る。この量を。
わたしは頭の中で、昨日のやりとりを順番に並べ直した。怒鳴りつけた薬師。部下の傷。口をつぐむ決まり。名前は言いません、とわたしは言った。
――ああ、そういうこと。
「名前は言いませんよ」
「……名前?」
「昨日の三人の。何を積まれても、言いません。薬師の決まりですから」
団長の動きが、完全に止まった。
石像が、本物の石像になった。そう見えるくらい、きれいに止まった。
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味ですか」
「それは」
団長は言いかけて、口を閉じた。閉じたまま、たっぷり三つ数えるくらい黙っていた。
「……理由は、言えない」
理由が言えない贈り物。それはもう、いちばん受け取ってはいけない種類の贈り物ではないだろうか。
「お受け取りできません」
わたしが言うのと、ほとんど同時だった。
胸元で、語り灯が、ことりと鳴った。
え、と思って見下ろす。まるい硝子の球の中に、淡い黄の光がともっていた。朝の光にまぎれて見えにくいけれど、確かに、ともっている。中ではささめが莢の上で起き上がって、丸い耳をぴんと立てていた。
しかも、とろけている。
昨夜、見習いさんの便りを食べたときと同じ顔だ。目を細めて、毛を膨らませて、蜂蜜の壺に頭から突っ込んだみたいな顔で、ふわふわ揺れている。
……故障? 昼なのに。
わたしは慌てて、灯りを掌で包み込んだ。語り灯は人前で見せるものではない。昼の名と夜の名を結びつけるものは、なるべく人目に晒さないのが語り手の心得だ。
団長の目が、一瞬だけ、わたしの手のあたりに落ちた。
何か言われるかと身構えた。けれど団長は何も言わず、視線を箱に戻した。
「受け取って、いただけませんか」
――え。
今の、何?
さっきまでの、石を積み上げたような話し方ではなかった。もっと柔らかくて、丁寧で、どこかで聞いたことのあるような言い回しだった。
けれど団長は、すぐに咳払いをひとつして、元の声に戻った。
「……受け取ってほしい」
気のせいだったのかもしれない。
わたしは掌の中の灯りが、まだほんのり温かいのを感じながら、首を横に振った。
「受け取れません。理由が分からないものは」
「代金は要らない」
団長は、それで話が済むと思っている顔だった。少なくとも、わたしにはそう見えた。
「だから困るんです」
「邪魔なら、捨ててくれて構わない」
「捨てられるわけがないでしょう、こんな上物」
言ってから、しまったと思った。団長の眉間のしわが、今度ははっきりと、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
見えただけだ。たぶん。
「では、置いていく」
「ちょっと――」
団長はもう背を向けていた。戸口で一度だけ振り返り、律儀に頭を下げる。
「邪魔をした」
扉の鈴が鳴って、影が去った。
あとには、わたしと、木箱と、甘い匂いだけが残った。
掌を開くと、語り灯の光はもう消えていた。ささめは莢の上で丸くなって、満足そうに眠っている。昼に起きたことなど一度もない子なのに、いったい何だったのだろう。
わたしは木箱の前にしゃがみこんで、カモミールをひとつまみ取った。
花の芯がふっくらと盛り上がっている。摘んで半日も経っていない。ラベンダーは穂先まで色が詰まっていて、エルダーフラワーには虫食いひとつない。朝市の問屋でも、これだけのものを揃えるのは骨が折れるはずだ。
箱の底に、紙の札が一枚挟まっていた。
川沿いの薬草問屋の札だ。墨で、品名と目方だけが書いてある。宛名も、注文主の名もない。ということは、店先で現金で買ったのだろう。問屋の親父さんは、騎士団の紋章を見れば何も聞かずに売る。
騎士団の人が、理由も言わずに、薬屋に、上物の薬草を箱ごと。
しかも代金は要らない。
わたしは考えた。昨日のお詫び、にしては、量が多すぎる。名前の口止め料、は本人が否定した。監視の口実、にしては、物が良すぎる。
残るのは。
「……予算、余ってるの?」
騎士団には、年の終わりに予算を使い切らないと翌年に減らされる、という話を聞いたことがある。どこかの部署で余った薬草の予算を、下町の薬屋に押しつけて消化した。そう考えれば、筋は通る。
騎士団って、そういうところにはお金があるのね。
ティモさんは治療院にも行けないのに。
わたしはなんだか腹が立ってきて、カモミールの山を両手ですくい上げた。
腹が立つほど、いい香りだった。
「……予算消化?」
返事をくれる人は、もう小路の角を曲がったあとだった。
かわりに、階段が軋んだ。
「なんだい、朝から甘ったるい匂いさせて」
師匠が、杖をつきながら下りてくる。カウンターの前の木箱を見て、丸眼鏡を指で押し上げた。
「どうしたんだい、これ」
「騎士団の団長さんが置いていきました。花だそうです」
「花」
「カモミールとラベンダーとエルダーフラワーです。業務用の」
師匠は木箱を見て、わたしを見て、もう一度木箱を見た。
それから、杖に体重を預けたまま、肩を震わせはじめた。最初は小さく。だんだん大きく。最後には、丸眼鏡を外して目尻を拭っていた。
「……師匠?」
「いや、いや。なんでもないよ」
なんでもない人の笑い方ではなかった。
「予算が余ってるんだと思います。騎士団の」
わたしが言うと、師匠はまた吹き出した。
「そうだねえ。そういうことにしておきな」
師匠はカモミールをひとつまみ取って、鼻先で嗅いだ。
「いい花だ。乾かしておやり。せっかくの気持ちだからね」
「気持ちって、予算の?」
師匠は答えず、笑いをこらえた顔のまま、二階へ戻っていった。
わたしは首をかしげて、木箱の花を広げはじめた。乾燥棚に吊るすには、今日一日かかりそうだった。




