第三話 見習いさん、初めての恋愛相談
語りはじめると、わたしの声は勝手にやわらかくなる。
自分でも不思議だ。昼は五つの単語も続かないのに、灯りに向かって話していると、いくらでも言葉が出てくる。ささめは机の隅で、わたしの声を味見するみたいに耳を動かしている。
窓の外では、光の粒が路地を渡っていく。粒は家々の窓辺へ吸い込まれ、三日月だった聴き灯が、ひとつ、またひとつと満ちていく。
「今夜の最初のお便りは、夜の名『焦げたパン』さんから」
便箋は粉っぽくて、手に取ると指先がざらついた。パン屋のおかみさんだ。
「『うちの亭主は、三十年、ありがとうを言いません。わたしが寝込んだ日も、黙って店を開けて、黙って閉めました。腹が立って仕方ありません』」
わたしは便りを机に置いて、少し考えた。
「腹が立つのは、当たり前だと思います。言葉は、言われないと届きませんから」
ささめが、わたしの膝の上で丸くなる。
「そのうえで、ひとつだけ。あなたが寝込んだ日、窯に最初の火を入れたのは、どなたですか」
窓の外を、粒がゆっくり渡っていく。
「言葉にしない人は、手のほうで伝えていることがあります。届きにくいし、こちらが気づいてあげる義理もありません。でも、もし見つけてしまったら――そのときは、腹を立てたまま、見つけたことだけ覚えておいてください」
次の便りは、夜の名「桶底」さんからだった。
ヴィリ爺さんだ。この人の便りはいつも短い。今夜は「秋になると膝が鳴る」の一行きり。膝を温める布の当て方をひとつ紹介して、最後に少しだけ付け足した。
「鳴るだけなら、まだ大丈夫です。痛くなったら、鳴らないふりをしないでくださいね」
言いながら、喉の奥が少し冷たくなる。この人にだけは、わたしは何度でも念を押してしまう。
そのあと、寝つけない子どものための温め方をひとつ紹介して、わたしは締めの言葉を言った。
「今夜のお薬は、レモンバームとカモミールのお茶です。――おやすみなさい」
語り灯の光がゆっくり欠けて、三日月に戻る。ささめは机の隅でとろんとした顔をして、もう半分眠っていた。
便りを木の箱にしまい、添えられていた月石を小瓶に落とす。ころん、と音がした。この石が、明日の晩の誰かの薬代になる。
翌朝は、よく晴れた。
店を開けてすぐ、向かいのパン屋のおかみさんが焼きたてを抱えて飛び込んできた。
「エルナちゃん、聞いた? 昨夜の宵待さん」
「……いえ」
「うちのことみたいだったのよ! 亭主が礼を言わないって話。ねえ、聞いてた?」
「聞いていません。夜は、寝ているので」
嘘はついていない。夜は屋根裏にいるし、そのあとちゃんと寝ている。
おかみさんはひとしきり喋って、パンを一つ置いて帰っていった。窯に最初の火を入れているのが誰か、明日あたり確かめてみるつもりらしい。
店先で月見草に水をやっていると、蝋燭小路の角に濃紺の外套が見えた。
思わず如雨露を取り落としそうになる。
団長だ。背筋を伸ばして、こちらへ歩いてくる。わたしの前を通り過ぎ、土手のほうへ曲がって、それだけだった。目も合わなかった。
……この道、巡回路じゃないはずでは。
第二騎士団の巡回は、土手道から朝市へ抜けると聞いている。蝋燭小路は、二本ぶん遠回りになる。
「見張られてる……?」
昨日のことを、根に持たれているのかもしれない。怒鳴りつけた薬師が、妙な薬を売っていないか確かめに来た。ありそうな話だ。
胸元で、語り灯の中のささめが、もぞりと身じろぎした気がした。昼間に動くなんて珍しい。わたしは灯りを覗き込んだけれど、毛玉はルナリアの莢の上で、また丸くなっていた。
その夜だった。
十一の鐘が鳴って、屋根裏の窓辺に座ったわたしの机に、一通の便りが降りてきた。
光の粒が布団を敷くみたいに便箋を置いて、ほどけるように散っていく。便りの隅には、青みの強い月石がひと粒。
見習いさんだ。
この人は、半年前から欠かさず便りをくれる常連さんで、毎回きまって上等な月石を添えてくる。字はきちんと角の立った字で、行の頭がいつも揃っている。読み書きを、大人になってから覚えた人の字だと思う。
中身はいつも他人のことだった。眠れない部下にいい茶はないか。霜焼けにはどの軟膏がいいか。新人の食が細いが心配だ。冬の夜警で、指の感覚がなくなる者がいる。
そのたびにわたしは、思いつくかぎりの手当てを返した。返すと、次の便りには必ず「あの者は良くなりました」と書いてあった。
自分のことは、一度も書いてこない人だった。
「今夜のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
封を開いて、わたしは少しだけ姿勢を正した。
「『宵待殿。今夜も夜語りをありがとうございました。初めて、自分のことで相談があります』」
思わず、顔がほころぶ。
「初めて、ですって」
「『仕事で関わった女性のことです。彼女は私の部下の傷を見て、私より先に怒りました。恥ずかしい話ですが、私はその人のことをもっと知りたいと思っています。どうすればいいのか、分かりません』」
――部下の傷を見て、私より先に怒った。
ふうん、と思った。どこの隊にも、そういうことはあるものらしい。うちの小路にも、昨日ひとり、部下の肩をこんなになるまで放っておいた団長がいる。
どこかの詰所でも、似たようなことがあったのだ。そして見習いさんは、そのとき怒った女の人に、まいってしまった。
「素敵な方ですね。怒ってくれる人は、ちゃんと見ている人です」
ささめが便箋の上に乗って、鼻先を押しつけている。とろけた顔だ。蜂蜜でも垂らした覚えはないのだけれど、この子は時々こうなる。
「見習いさん。恋の相談なら、本当は夜鳴き鶯さんの時間のほうが向いていますよ」
言ってから、少し笑ってしまった。鶯さんは下町いちばんの人気者で、恋の話ならいくらでも上手に転がしてくれる。それでもこの人は、わたしのところへ便りをくれた。
それが、思っていたよりずっと嬉しい。
「では、薬師なりの助言をひとつ。まずは、知ることからです。その方が何を好きなのか、何に困っているのか。それが分かれば、渡せるものが決まります」
ペン先を止めるように、わたしは一拍おいた。
「それから、何か贈ってみてはどうでしょう。大きなものでなくていいんです。……花なんて、嬉しいかもしれません」
ささめが、ころんと横に倒れた。食べすぎて丸くなっている。
「今夜のお薬は、リンデンの花のお茶です。――おやすみなさい」
灯りが欠けていく。
わたしは便りを箱にしまいながら、ふと思った。
あの人の想い人は、どんな人だろう。怒れる人で、たぶん優しい人だ。会ってみたい気もする。
――だいいち、あんなふうに怒鳴る女を好きになる人なんて、いるわけがないし。
昼の自分を思い出して、わたしは灯りを消した。
◇
――幕間
私の部屋の聴き灯が、満ちる。
淡い黄の光が、ひびの筋を透かして天井へ伸びた。この光を見るたびに、一日が終わるのだと思う。
「今夜のお便りは、夜の名『見習い』さんから」
自分の便りが、宵待殿の声で読まれていく。
紙に書いたときは、ただの報告のつもりだった。それが人の声に乗ると、まるで別のものになる。耳のあたりが熱い。私は寝台の上で、無意味に姿勢を正していた。
「素敵な方ですね。怒ってくれる人は、ちゃんと見ている人です」
「……はい」
答えてから、自分の声に驚いた。灯りに返事をする男が、この宿舎にいると知れたら、明日から団の笑い話になる。
宵待殿は続けた。まずは知ることから。それから、何か贈ってみては――花なんて。
花。
私は灯りが三日月に戻るまで動かず、それからようやく、その一語を口の中で転がした。
花を贈られたことも、贈ったこともない。国境では、誰も花など持っていなかった。だが薬師殿は、薬草を扱う人だ。薬草にも花は咲く。
「……花、とは。薬草にも花は咲く。問題ないはずだ」
明日は非番だ。朝市へ寄れば、何かしら手に入るだろう。
どんな花がいいのかは、分からない。
薔薇は違う気がする。あれは丘の上の花だ。彼女は朝から晩まで薬草の匂いの中にいて、たぶん、香りの強すぎるものを好まない。
朝市には花を売る店もあるが、量が少ない。まとまった数がほしいなら、川沿いの薬草問屋のほうが確実だろう。あそこなら、花の咲く草を箱で置いている。
――箱。
悪くない考えだと思った。少なくとも、そのときの私はそう思った。
私は聴き灯を枕元に戻し、目を閉じた。




