第二話 石像団長
戸口の影が、店の中の光をまるごと飲み込んでいた。
濃紺の外套。左胸に、灯火と鍵の紋章。背丈はわたしの頭ひとつぶんどころではなく、梁に届きそうに見える。革と鉄の匂いが、薬草の匂いを押しのけて入ってきた。
「だ、団長」
ティモさんが跳ねるように立ち上がって、包帯の肩をかばうのも忘れて敬礼した。
「持ち場を離れて、どこへ行ったかと思えば」
低くて、抑揚のない声だった。叱っているのかどうかも分からない。
「痛み止めを、その、隊の分が切れていたので」
「それで、半刻も戻らないのか」
団長と呼ばれた男は、そこでようやくわたしを見た。
見た、と思う。目が合ったはずなのに、何も伝わってこない。
わたしは人の顔から、たいていのことを読み取ってしまう。困っているのか、強がっているのか、痛いのを隠しているのか。読み取りすぎて言葉に詰まるくらいには読める。
なのに、この人の顔からは何も読めなかった。眉間に縦じわが一本あるだけで、石を彫って並べたような造作が、微動だにしない。
「部下に必要な量だ。売ってほしい」
「売りません」
自分でも驚くほど、するりと言葉が出た。
「この方には、三包までならお売りすると言いました。それ以上は売りません」
「隊で使う分だ。数が足りない」
「足りないのは薬ではありません」
わたしはティモさんの前に回り込んで、巻いたばかりの晒しに手をかけた。
「見てください」
「薬師殿――」
「見てくださいと言っています」
包帯を解く。塗ったばかりの軟膏の匂いが立ちのぼり、黄色くなりかけた痣と、赤く腫れた擦り傷が、朝の光の下にさらされた。
「五日前の傷です。膿みかけています。この方はこれを隠して、痛み止めを飲んで、夜警に立っていました。三日で三度、うちに買いに来ています」
団長の顔は動かない。
動かないことが、わたしの中の何かに火をつけた。
「部下の傷を見もしないで、量だけ寄越せと?」
言ってしまってから、店の中がしんとした。
柱時計の振り子の音。表の通りを、荷車が一台通り過ぎていく。自分の心臓の音が、耳の裏で鳴っていた。
団長が動いた。
外套の裾を払って、その大きな体が、ゆっくりと膝をつく。ティモさんの肩の高さに顔を並べて、傷をじっと見た。それから、肩の関節の動きまで確かめるように、指先で軽く触れる。
「……いつからだ」
「五日前です」
ティモさんの声は、消え入りそうだった。団長は傷から目を離さないまま、短く問いを重ねる。
「なぜ言わなかった」
「言ったら、休めと言われるので」
「そうだな。言われる」
団長は立ち上がった。わたしを見下ろして、言った。
「承知した。では、何を買えばいい」
わたしは一瞬、返事に詰まった。怒鳴り返されるものだと思っていたからだ。
「化膿止めの軟膏をひと壺。晒しを三巻き。それから、三日の休養です。走らない、馬に乗らない。夜警もなしです」
「痛み止めは」
団長の問いは短い。必要なことだけを、順番に確かめていく人の聞き方だった。
「三包まで。飲む前に、必ず傷を見ること。熱が出たら、すぐに治療院へ」
「治るまで、どれくらいかかる」
「腫れが引くのに三日。傷がふさがるのに十日。夜警に戻すなら、十日待ってください」
団長は、それを暗記しようとする人の間の取り方で、少しだけ黙った。
「他にもいるか」
「……何がですか」
「同じように、隠して買いに来た者だ」
わたしは口をつぐんだ。この三日で、第二騎士団の紋章をつけた人が三人来ている。誰が何を買ったか、それは薬師が話していいことではない。
「人数は言えます。三人です。名前は言いません」
「三人」
「薬師には、口をつぐむ決まりがあります。それを破ったら、次から誰もうちに来なくなる」
「……もっともだ」
あっさり引き下がられて、拍子抜けした。
「なら、こちらで探す。手間をかけた」
団長はうなずいて、ティモに向き直った。
「三日休め。命令だ。次の夜番は私が入る」
「そ、そんな、団長は昨夜も」
「命令だと言った」
ティモさんは口をつぐんで、赤くなった顔でうなずいた。
わたしは軟膏の壺と晒しを包み、代金を告げた。銀貨一枚と、銅貨が数枚。団長は革袋から過不足なく数えて、カウンターに置いた。指の関節が太く、あちこちに古い傷のある手だった。
包みを受け取って、その人は戸口で足を止めた。
「……手当ての礼を言う」
「仕事です」
振り返りもせずに、団長は出ていった。ティモさんが慌ててわたしに頭を下げ、そのあとを小走りに追いかけていく。
扉の鈴が鳴って、店に朝の光が戻った。
窓越しに、二人の後ろ姿が見えた。
ティモさんが包みを受け取ろうと手を伸ばして、団長はそれを渡さなかった。自分で抱えたまま、何か短く言う。ティモさんが慌てて反対の手を出し、また断られている。
……部下に持たせないんだ。
そう思ってから、わたしは首を振った。荷物ひとつで人柄が決まるなら、薬師はいらない。肩の傷を五日も放っておかれた事実のほうが、よほど重い。
わたしはカウンターに手をついて、そこでようやく、自分の手が震えているのに気づいた。
……なんでわたし、昼だとああなるの。
言うべきことは言った。間違ったことは言っていない。それでも、声を荒らげた自分の残像が、胃のあたりに重く沈んでいる。
階段が軋んだ。
「派手にやったねえ」
師匠が下りてきた。丸眼鏡の奥の目が、面白がって光っている。杖をついているくせに、この人は階段を下りるのがやたらと速い。
「聞いてたんですか」
「二階まで筒抜けだよ。騎士団長を怒鳴りつけた薬師。その噂は、夕方までに小路を一周するね」
「……噂になるようなことは言ってません」
「薬師が好かれてどうするんだい。効けばいいんだよ、効けば」
師匠はカウンターの上の銀貨を一枚つまみ上げて、光に透かした。
「で、あんた、あの人の顔、読めなかったろう」
わたしは黙った。
「石像団長。子どもは泣くし、犬は逃げるし、酒場の喧嘩はぴたりと止む。下町じゃ有名だよ。あたしは嫌いじゃないけどね、ああいうのは」
「部下があんなになるまで気づかない人ですよ」
「そうだねえ」
師匠は銀貨を置いて、それ以上は何も言わなかった。言わないときのこの人は、たいてい何か面白がっている。
「そういえば、あの見習いさん、治療院には行かないのかい」
「行かないみたいです。……行けないんだと思います」
丘の上の治療院は、治癒の魔法ひとつで銀貨が何枚も飛んでいく。貴族なら一日で治る怪我を、下町の人間は十日かけて治す。それが当たり前の顔をして並んでいるのが、この街だ。
わたしが薬を売っているのは、その十日のためだった。
その日は、夕方まで客が途切れなかった。
日が落ちてから勝手口のランプを灯した。
最初は指を切った下駄屋の娘。次は腹を下した荷運びの親子。最後に来たのは、川向こうの端に住む女房で、二つになる子を毛布ごと抱えていた。熱は高くない。歯が生えかけているのだと教えると、女房は泣きそうな顔で笑った。
「うちの人に笑われます。夜中に薬屋を叩いて、歯かよって」
「叩いてください。歯かどうかは、見ないと分かりませんから」
薬代はもらわない。もらわない代わりに、みんな決まって「宵待の時間までには帰るよ」と言って帰っていく。この小路の人たちにとって、夜語りの終わりは一日の終わりの合図だ。
十一の鐘が鳴る前に、わたしは屋根裏へ上がった。
斜めの天井の下に、机と椅子と、便りをしまう木の箱がひとつ。窓を開けると、ルナリア川の匂いと、夜の湿った風が入ってくる。
下町の窓には、もう灯りが点々と浮かんでいた。真鍮色、水色、橙、薔薇色。それぞれの家が、それぞれの語り手の声を聴いている。夜が更けるにつれて色は減っていき、やがて――淡い黄ひとつになる。
わたしの色だ。
胸元の語り灯が、ことりと鳴った。硝子の中で毛玉がもぞりと動いて、丸い耳がぴんと立つ。ささめが起きたのだ。灯りが淡い黄にともり、机の上に小さな月を落とした。
「おはよう。今日もよろしくね」
わたしは蜂蜜飴をひとつ口に入れて、窓辺に座った。
昼のあいだ喉に引っかかっていたものが、飴と一緒に溶けていく。ここには、読むべき顔がない。誰の眉も、誰の瞬きも、わたしを黙らせない。
息を吸う。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」




