第一話 それ、三日前も買いましたよね
夜明け前に寝て、朝いちばんに起きる。この暮らしを二年続けても、わたしの目つきは一向によくならない。
蝋燭小路の角、ルナリア川の土手を背にして建つのが、わたしの店だ。表の通りからは荷車の音が、裏の土手からは水の音が届く。朝の光は乾燥棚に吊るした薬草の束を透かして、床に細い縞を落とす。カモミール、レモンバーム、ラベンダー。息を吸えば、どれがよく乾いているかまで分かる。
昨夜は勝手口の戸を三度叩かれた。二度は酔っぱらいの切り傷で、一度は石工の女房が、熱を出した子を毛布ごと抱えてきた。夜の勝手口は薬代を取らないから、みんな遠慮なく叩く。それでいい。昼に来られない人のために灯しているランプだ。
如雨露を提げて、店先に出た。
軒下の鉢には月見草が三株。夜のあいだ開いていた花は、もうくたりと萎んでいる。
「おはよう。今日もお疲れさま」
声をかけて、根元に水をやる。返事はない。返事はないけれど、話しかけたほうがよく育つ、というのがベルタ師匠の教えだ。たぶん、あの人は冗談で言ったのだと思う。わたしがいまだに続けているとは知らないだろう。
胸元で、語り灯がことりと鳴った。
まるい硝子の球だ。昼のあいだは光を落として、ただの飾りにしか見えない。覗き込むと、銀色に透けたルナリアの莢の上で、ささめが毛玉のようになって眠っていた。この子は夜が来ないと起きない。
「……いいなあ」
昨夜も、ランプを消せたのは日付が変わる少し前だった。それから屋根裏で語って、眠ったのは空が白みはじめる頃だ。
鏡を見なくても分かる。今日もわたしは、目つきの悪い薬師だ。
通りの向かいのパン屋のおかみは「エルナちゃんは器量よしなんだから、笑えばいいのに」と言う。笑ったほうが売れるのも知っている。知っているけれど、わたしの店は、笑って売る店ではない。
二階の窓が、がたんと開いた。
「昨夜のあれ、語りすぎだよ」
師匠だ。丸眼鏡の奥から、わたしを見下ろしてくる。
「助言が長いんだよ。言いたいことを二回言う。あんたの悪い癖だ」
「はい」
「返事だけは立派だねえ」
窓はまた、がたんと閉まった。朝市へ向かう荷車が一台、石畳を鳴らして通り過ぎていく。時計塔の鐘が七つ鳴って、川向こうの一日が始まった。
店を開けて半刻も経たないうちに、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、跳ねた赤毛の少年だった。そばかすの散った顔に、大きすぎる制服。第二騎士団の見習い騎士で、この三日でもう三度目になる。
「あの、痛み止めを――」
「……それ、三日前も買いましたよね。飲みすぎです。売れません」
カウンターから言うと、少年は分かりやすく固まった。それから、へらりと笑ってみせる。下手な笑い方だった。痛いときの顔を隠そうとして、口の端だけを上げる人の笑い方だ。
「いや、これは、その、隊のみんなの分もまとめて」
「隊でまとめて買うなら、隊長さんの署名が要ります。ご存じですよね」
うちの壁には、師匠の字で書いた紙が貼ってある。痛み止めは一人一包、三日に一度まで。ベルタ師匠が三十年前に貼って、わたしが二年前に貼り替えた紙だ。
少年の右手が、左の肩をかばうように上がりかけて、途中で止まった。
わたしは人の顔を見すぎるらしい。
眉の寄り方、瞬きの数、息を吸う深さ。見ているつもりがなくても、勝手に入ってくる。薬師としては悪くない。どこが痛いのか、患者より先に分かることがある。困るのは、相手の顔が見えていると、こちらの言葉が出てこなくなることだ。
いまはまだ、出てくる。この子の痛みのほうが、わたしの気後れより大きいからだ。
わたしはカウンターを回り込んだ。
「上着、脱いでください」
「えっ」
「脱いでください。売るか売らないかは、そのあとで決めます」
少年はしばらく粘って、結局あきらめた。留め具を外す指がぎこちない。布を肩から下ろすと、痣が広がっていた。青を通り越して、黄色くなりかけた古い痣だ。その上に擦り傷がある。縁が赤く腫れて、熱を持っていた。
膿みかけている。
「これ、いつのですか」
「五日くらい前です」
「五日」
わたしが繰り返すと、少年は肩をすくめようとして、痛みに顔をしかめた。
「馬から落ちて。訓練です。その……馬は、ちょっと、苦手で」
「それで、痛み止めを飲んで夜警に立っていたと」
「立てましたよ、ちゃんと」
胸を張ろうとしたのだろう。途中でやめたのが分かった。
わたしは調合室から、蜜蝋とカレンデュラで練った軟膏と、晒しの束を取ってきた。湯を張った盥に清潔な布を浸して、傷の周りを拭いていく。少年が息を詰めた。
「痛かったら痛いと言ってください」
「……痛いです」
「はい。よくできました」
薬草の匂いが立ちのぼる。指先に伝わる熱が、思っていたより高い。この分では、夜になると熱が出ているはずだ。それでも夜警に立っていたのなら、この子は五日間、ずっと痛みを薬で押さえつけていたことになる。
わたしは手の甲を、少年の額に当てた。本人は驚いたように身を引いたが、逃がさない。
やっぱり、少し熱い。
「昨夜、眠れましたか」
「……三時間くらいは」
「食べてますか」
「食べてます。たぶん」
たぶん、で食べている人は、だいたい食べていない。わたしはカウンターの小瓶から蜂蜜飴をひとつ取って、包帯の上から手を引っ込めた彼の掌に押しつけた。実家の蜂から採った蜜で、母が毎年送ってくる。
「舐めてください。傷を治すのは薬じゃなくて、あなたの体です」
「はあ……」
少年は飴を口に入れて、それから、少しだけ肩の力を抜いた。
「お名前は」
「ティモです。第二騎士団の、見習いの」
「ティモさん。治療院には」
聞いてから、しまった、と思った。丘の上の治療院は高い。見習いの給金で治癒魔法にかかれるなら、この子はとっくにそうしている。
「……そのうち、行きます」
ティモさんは、そう言って笑った。やっぱり下手な笑い方だった。
見習いの頃、わたしは笑って薬を売る薬師だった。
「大丈夫です」と言う人の言葉を信じて、欲しがるだけ渡したことがある。あのとき師匠が走らなかったら、あの人がどうなっていたか分からない。それ以来、わたしは愛想を捨てた。効かない優しさより、嫌われる正確さのほうがいい。
包帯を巻き終えて、顔を上げる。
「痛み止めは、痛みを消すだけです。傷は治しません」
「あ……それ、宵待さんも言ってました」
手が止まった。
「……宵待さん」
「夜語りの、いちばん最後の時間の人です。夜更けの薬草相談室。僕、毎晩聴いてるんですよ。痛み止めの話、したことあって」
ティモさんは、急に元気になって喋りだした。宵待さんは薬草にやたら詳しいだの、声が優しいだの。眠れないと言っていた団長にも聴き灯を渡したのだという。
「あの人の言うことなら、団長も聞くと思うんですけどね」
「……そう」
わたしはそれだけ言って、軟膏の壺に紙の蓋をかけた。指先がやけに落ち着かない。
「……はい」
「三日、夜警を休んでください。この軟膏を朝と晩。走らない、馬に乗らない。それができるなら、痛み止めも三包だけお売りします」
「無理です」
即答だった。ティモさんの目が、困ったように泳ぐ。
「人が足りないんです。それに、休みたいなんて言ったら、団長に」
「団長」
「うちの団長、すごく怖いんですよ。石像みたいで、何を考えてるか全然分からなくて」
そこまで言って、ティモさんは慌てたように付け足した。
「あ、でも、団長は悪くないんです。誰より働いてるし、いちばん危ない持ち場に自分で立つし。僕が勝手に落ちて、勝手に黙ってただけで」
「その勝手を、見抜くのが上に立つ人の仕事です」
わたしは晒しの端を結びながら、その言葉を聞いていた。石像。部下にそう呼ばれる人が、この子の肩がこんなになるまで気づかない。
「……怒られるべきは、団長のほうです」
言ってから、少し言いすぎたかと思った。思ったけれど、取り消す気にはならなかった。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
朝の光が、ふっと遮られる。
戸口に立った影が、店の入口をまるごと塞いでいた。濃紺の外套。左胸に、灯火と鍵の紋章。見上げた先に、眉間へ縦じわを一本刻んだ、彫りの深い顔がある。
ティモさんが跳ねるように立ち上がって、そのまま固まった。
石のような声が、静かに落ちてきた。
「部下に必要な量だ。売ってほしい」




