プロローグ 見習いの手紙
蝋燭の火が、机の上で一度だけ揺れた。
窓の外では、下町の家々の窓に小さな灯りが満ちている。淡い黄の光だ。宵の口には真鍮色や水色や薔薇色が入り混じっているのに、夜が更けるにつれて、川向こうはこの色ひとつに染まっていく。灯り橋の向こう――丘の上の王城だけが、今夜も黒い影のままだった。
壁の薄い宿舎だ。隣の部屋からは、夜警明けの部下のいびきが聞こえてくる。廊下を誰かが歩けば、板の軋みで背格好まで分かる。私はそういう建物の、いちばん端の部屋で暮らしている。
寝台の枕元に手を伸ばした。
聴き灯の硝子には、ひびが一本走っている。半年前、見習いのティモが「団長、これ、効きますよ」と差し出してきたものだ。露店で買った品で、ひびのぶんだけ安かったのだと、あいつは得意そうに言っていた。
「――今夜のお薬は、レモンバームとカモミールのお茶です」
灯りの奥から、声がこぼれる。
「……おやすみなさい」
球に満ちていた光が、ゆっくりと欠けていく。三日月の形にひとすじだけ残して、部屋は静かになった。
半年前まで、私はろくに眠れなかった。
剣を握って十三年になる。北の国境で魔獣を斬っていた頃は、雪の吹き込む天幕でも眠れた。眠れなくなったのは団長になってからだ。夜警に出した部下の顔が、目を閉じるたびに浮かぶ。あの角を曲がった先に何がいるのか、私は知らない。知らないまま、行けと命じている。
宵待の声を初めて聞いた夜、その人はこう言った。
――眠れない夜は、無理に眠ろうとしないでください。眠れないまま、誰かの声を聞いていてもいいんです。
許されたのだと思った。妙な話だ。誰にも咎められていないのに、私はずっと、眠れない自分を責めていたらしい。
その夜、私は朝まで眠った。それからずっと、この灯りを枕元に置いている。
机の上には、書き損じた便箋が七枚。
半年のあいだ、夜語りに便りを出したことは何度もある。だがどれも自分のことではなかった。眠れない部下にいい茶はあるか。霜焼けにはどの軟膏がいいか。宵待殿はそのすべてに、丁寧な言葉で答えてくれた。
今夜は八枚目を書こうとして、まだ一行も進んでいない。
ペン先のインクが乾いて、紙の上で引っかかる。昼間のことを思い出すたびに、手が止まるからだ。
――部下の傷を見もしないで、量だけ寄越せと?
月見草薬房の薬師は、私を見上げてそう言った。私の胸のあたりまでしかない背丈で、剣も持たず、一歩も引かなかった。
ティモの肩の布をめくり、膿みかけた傷を私の目の前に突きつけて、彼女は怒った。私が怒られるのは構わない。構わないが、あの怒りは私に向けられたものというより、あの子のためのものだった。二年、団の者たちの体を預かってきて、あんなふうに怒った人間に会ったのは初めてだ。
薬師殿の店は、私の巡回路から二本外れた小路にある。
明日から、その二本を回り道にしてもいいだろうか。傷の具合を確かめるためだ。誰かに問われたら、そう答えればいい。問われるまでもなく、私は自分にそう言い聞かせていた。
――怒ると、彼女は眉が片方だけ上がる。
右のほうが、わずかに高い。なぜそんなことを覚えているのか、自分でも分からない。
私は書き損じの山をどけて、新しい便箋を引き寄せた。
剣のことなら迷わない。斬るか、守るか、退くか。判断が遅れれば人が死ぬ。だから迷わないよう鍛えてきた。
だが、こういうことは分からない。
私はまだ見習いだ。剣も、人としても。二十七になっても、そこは何ひとつ変わっていない。
ペンを取る。
『宵待殿。今夜も夜語りをありがとうございました』
そこまではいつもどおり書けた。
『初めて、自分のことで相談があります』
書いた文字を、しばらく見つめた。消したくなったが、消さなかった。嘘ではないからだ。
『仕事で関わった女性のことです。彼女は私の部下の傷を見て、私より先に怒りました。恥ずかしい話ですが、私はその人のことをもっと知りたいと思っています。どうすればいいのか、分かりません』
便箋を折る。署名は、いつもと同じ夜の名にした。
――見習い。
謙遜のつもりはない。私は、そう名乗る以外に自分を呼ぶ言葉を持たないだけだ。
小さな革袋から、月石をひと粒つまみ出した。北の山で採れる、青みの強い石だ。故郷の谷の匂いがする、と言えば部下たちは笑うだろう。だから誰にも言っていない。
窓を開けると、夜気が流れ込んできた。土と水の匂いがする。ルナリア川は、こんな夜更けでも眠らない。
便箋と月石を窓辺に置いて、私は小さく告げた。
「……宵待殿へ」
闇からにじむように、光の粒がひとつ現れて便りを抱えた。ふたつ、みっつと増えていく。粒はゆるやかな列になって路地の上を渡り、川向こうの方角へ流れていった。
私は窓枠に手をついたまま、それを見送る。
宵待殿なら、きっと正しい答えをくださる。
そう思えることだけが、今夜の私の頼りだった。




