第三十話 宵待の時間
屋根裏への梯子を、団長は、わたしのすぐ後ろから上がってきた。
上がりきったところで、ごん、と鈍い音がした。
振り向くと、団長が額を押さえていた。斜めの天井の、いちばん低い梁だった。この屋根裏は、わたしの背丈に合わせてある。大きな人が立てるようには、できていない。
「……痛い」
団長が、低く言った。
「はい。よくできました」
わたしが言うと、団長は額を押さえたまま、少しだけ笑った。
天窓の下に、机と椅子と、便りをしまう木の箱がひとつ。窓を開けると、月の光がまっすぐに差しこんできた。真上に昇った満月が、屋根裏の床に、白く四角い光を落としている。
窓の外は、淡い黄に染まっていた。
蝋燭小路の家々の窓。繁華な通りの酒場の窓。川向こうの端の、名前も知らない家の窓。土手に集まった人々の、手の中の灯り。下町じゅうの聴き灯が、ひとつ残らず、宵待の番を待って満ちていた。灯り橋の向こうの丘の上だけが、今夜も黒い影のままだった。
団長は、梁に頭をぶつけないように身をかがめて、机の横の床に腰を下ろした。窓辺に座るわたしの、すぐ隣。懐から、ひびの入った聴き灯を取り出して、膝の上に置く。灯りは、淡い黄に満ちていた。
わたしは、胸元の語り灯を外して、机の上に置いた。
ささめが、硝子の中で背筋を伸ばしていた。耳をぴんと立てて、窓の外を見ている。仕事の顔だった。
蜂蜜飴をひとつ、口に入れる。
隣で、団長が、息を詰めているのが分かった。
わたしは、窓の外の灯りに向かって、息を吸った。
「こんばんは。夜更けの薬草相談室、宵待です。眠れない方も、眠りたくない方も、少しだけお付き合いください」
光の粒が、窓から流れ出していった。
声は、いつもどおりに出た。やわらかくて、少しだけ茶目っ気のある、宵待の声。灯りに向かうと、どうしてか、いつもこの声になる。
でも今夜は、すぐ隣に、顔があった。
見なくても分かる。この人は今、わたしの横顔を見ている。膝の上の聴き灯から聞こえる声と、隣で口を動かしているわたしを、交互に見比べている。
それでも、言葉は、喉で止まらなかった。
「月送りの夜です。今夜は、たくさんの灯りが川を流れていきました。言えなかった言葉を、灯りに乗せて送る夜。……皆さんは、何を送りましたか」
窓の外で、どこかの家の窓が、ふっと揺れた気がした。
「宵待のところには、この一年、たくさんの便りが届きました。眠れない夜のこと。言えなかったありがとうのこと。贈り物を、うまく渡せなかったこと。噂を、聞いてしまったこと」
焦げたパンさん。編み棒さん。鉄槌さん。小窓さん。宛名探しさん。泣かせ屋さん。馬が怖い者さん。桶底さん。
「宵待は、いつも、言葉を添えてください、とお答えしてきました。贈り物には、ひとことを。褒め言葉には、それが嬉しい、を」
隣で、団長が小さく咳払いをした。
わたしは、笑いそうになるのを、こらえた。
「でも、本当は、宵待がいちばん、それができていませんでした。ありがとうも、ごめんなさいも、灯りに乗せなければ、うまく言えなくて」
ささめが、硝子の中で、わたしの声を味見するみたいに耳を動かした。
「昨夜、ある聴き手さんが、便りをくれました。教わった言葉ではなく、自分の言葉で、伝えに行きます、と」
膝の上で、団長の手が、聴き灯を包むように動いた。
「宵待は、いってらっしゃい、とお答えしました」
わたしは、少しだけ間をおいた。
昼の名は、明かせない。この人の夜の名を、ほかの誰かと結びつけることもしない。宵待の決まりで、語り手の仁義で、たぶん、それで正しい。
だから、言えることだけを言う。嘘のない言葉だけを。
「見習いさん。……おかえりなさい」
隣で、団長が、ゆっくり息を吐いた。
「あなたの言葉は、きっと、届いています。宵待の言葉より、ずっと遠くまで」
窓の外の灯りが、ひときわ明るく満ちた気がした。
「今夜、宵待から皆さんにお伝えすることは、ひとつだけです」
わたしは、窓の外を見た。月の下に、淡い黄の灯りが、どこまでも続いていた。
「言えなかった言葉は、灯りに乗せて送るのもいいけれど。……できれば、明日の朝、顔を見て、言ってあげてください。下手でも、遅くても、間違えても。その人は、きっと、待っていますから」
ささめが、とろけた顔で、ころんと横に転がった。
「今夜のお薬は、蜂蜜です。甘くて、少しだけ、しょっぱい。――おやすみなさい」
わたしの声が窓から流れ出しきると、下町の灯りが、すぐには欠けなかった。淡い黄のまま、少しだけ待っていた。
そして、時計塔のほうから、元気な声が重なってきた。
「――おいらたちから、おやすみなさい!」
鐘守くんの声だった。続いて、低い声。
「……川は、穏やか。皆、よう眠れ」
水鏡さん。
「今夜の見回りは、これで終わり。皆さん、よい夢を」
ロイさん。
そして、細い唄が、その上に重なった。
――銀の莢に 月がやどれば
ジルケさんの声だった。四つの声が、わたしの宵待の声のあとに重なって、ひとつの夜語りになっていく。
窓の外で、灯りの色が変わりはじめた。
淡い黄の上に、真鍮色が混じる。水色が混じる。橙が、薔薇色が混じる。下町じゅうの窓で、五つの色が、同時に、重なり合って満ちていった。川面に映った灯りが、五色に揺れている。土手のルナリアの莢が、その光をひとつずつ受けて、小さな五色の月になっていた。
年に一度だけの、重ね語りの光だった。
わたしは、窓枠に手をついて、それを見ていた。
隣で、団長も、それを見ていた。
膝の上の、ひびの入った聴き灯が、五色に満ちていた。
――声はあなたの 窓までとどく
唄が終わって、灯りが、ゆっくりと欠けていく。五色の光が、ひとつずつ三日月に戻っていく。下町に、いつもの夜が戻ってきた。
ささめが、机の上で、満腹の寝息を立てはじめた。
梯子の下で、こん、こん、と杖が鳴った。
「入ってもいいかい」
師匠の声だった。
わたしは慌てて立ち上がろうとして、隣の団長も同時に立ち上がろうとして、ごん、と、また梁の音がした。
「……痛い」
「よくできました」
「なにをやってるんだい、あんたたちは」
梯子の穴から、師匠の丸眼鏡が覗いた。上まで上がってくる気はないらしい。肩に、見覚えのない外套をかけていた。厚い、羊毛の、水門番が冬に着るような外套だった。
「師匠、その外套」
「借りたんだよ。夜風が冷たいからってね」
師匠は、それ以上は言わなかった。言わなかったけれど、丸眼鏡の奥の目が、少しだけ赤かった。
師匠の目が、団長に向いた。
「団長さん」
「……ベルタ殿」
「あんた、昼間にこの店に来るたびに、うちの精霊を起こしてたの、知ってるかい」
団長が、わたしを見た。わたしは、目を逸らした。
「この子はね」
師匠は、梯子の上から、机の上で眠るささめを顎で示した。
「昼は眠る。何があっても、起きない。百年以上、ずっとそうだった。あたしの代でも、一度も昼に起きたことなんかなかったよ」
「でも、団長さんが来ると」
わたしが言いかけると、師匠は鼻を鳴らした。
「どうせ、金物でも好きなんだろうって思ってたろう」
「……思ってました」
「この子が食べるのは、言葉に込められた気持ちだよ。恋心は、蜂蜜の味。……昼でも目が覚めるくらい、甘ったるい蜂蜜の匂いを、店に入ってくるたびにぷんぷんさせてた人がいたのさ」
団長が、片手で顔を覆った。
「木箱の朝から、ずっとね。あたしは、二階で笑いをこらえるのに、毎回杖を折りそうだったよ」
「師匠」
「途中からは、どっちの蜂蜜だか、あたしにも分からなくなったけどね」
師匠は、わたしを見て、にやりと笑った。
わたしは、両手で顔を覆った。熱かった。
「さて。年寄りは寝るよ」
師匠は、梯子の穴から顔を引っこめかけて、もう一度だけ覗いた。
「団長さん。帰りは、勝手口からにしな。表の小路は、パン屋のおかみが窯の前で張ってるからね」
杖の音が、遠ざかっていった。
屋根裏が、静かになった。
月の光が、床の上を少しずつ動いていた。団長は、また身をかがめて、梁の下に立っていた。
「……帰る」
「はい」
勝手口まで、梯子を下りて、暗い店の中を通った。樅の棚の横を抜けるとき、団長が、その扉に、そっと手を触れた。
勝手口の戸を開けると、土手のルナリアが、月の下で銀色に揺れていた。川面には、まだいくつか、灯りの舟が流れていた。
戸口の脇に、小さなランプが掛かっている。夜の勝手口のランプだ。今夜は祭りで、灯していなかった。
「……あの青い石」
わたしは、ランプを見上げたまま言った。
「このランプの、薬代になっていたんです。冬から、ずっと」
団長が、黙ってランプを見た。
「熱を出した子の薬も、酔っぱらいの晒しも。歯の生えかけた赤ん坊のお母さんに渡した軟膏も。……あなたの石でした」
団長は、しばらく何も言わなかった。それから、ランプの真鍮の金具に、大きな指でそっと触れた。
「……そうか」
それだけだった。それだけで、十分だった。
団長が、戸口で振り返った。
「エルナ」
「はい」
「これからは」
団長は、少しだけ言葉を探した。眉間の縦じわ。いつもの、石の顔。
「相談は、本人にしてもいいか」
わたしは、笑った。
「はい」
土手の草むらで、野の月見草が、黄色い花をいっぱいに開いていた。夜にだけ咲く花だった。
「宵待には、もう、相談しないでください」
団長が、笑った。
誰にも引っぱられない、小さな、ほんものの笑い方で。
「……おやすみ、エルナ」
「おやすみなさい、クラウス」
大きな背中が、月の下の土手道を遠ざかっていく。
わたしは、勝手口の灯りの下に立って、その背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
今夜は、よく眠れる気がした。




