第二十九話 重なる声
銀の莢の唄が、終わりに近づいていた。
土手の下の川面を、灯りの舟がまだいくつも流れている。ルナリアの莢を敷いた小さな火が、月の光と混じりあって、水の上に揺れる道をつくっていた。風が吹くたびに、斜面の莢がかさかさと鳴る。下町じゅうの窓で、薔薇色の灯りが、唄の最後の節に合わせて、ゆっくり明滅していた。
団長は、わたしの前に立っていた。
月を背にしているので、顔の半分が影になっている。それでも、眉間の縦じわは見えた。いつもより深い。上着の胸元で、ひびの入った聴き灯が、布越しに薔薇色に光っていた。
「私は、言葉が下手だ」
団長が、低い声で言った。
「花を贈ろうとして、箱を贈った。褒めようとして、正確だと言った。そばにいようとして、店の前に三日立った」
一語ずつ、確かめるように。
「全部、人に教わったことだった。教わったとおりにして、全部、少しずつ間違えた」
わたしは、黙って聞いていた。胸元の語り灯の中で、ささめが、もぞりと身じろぎした。
「だから今夜は、誰にも教わっていないことを言いに来た」
唄が、終わった。
下町じゅうの薔薇色の灯りが、ゆっくりと欠けていく。土手の上の空に、静けさが戻ってきた。川の水音と、莢の鳴る音だけが残った。十一の鐘までの、ほんのわずかな隙間。
団長が、息を吸った。
「君が、薬を売らないと言い張る声が好きだ」
心臓が、ひとつ大きく打った。
「部下の傷を見て、私より先に怒った顔が好きだ。怒ると、右の眉だけ上がるのが好きだ。毎朝、月見草に、おはようと言うのが好きだ。夜の勝手口を、誰のためにでも開けているのが好きだ」
団長の声は、少しも揺れていなかった。石のように平らで、そのぶん、一語も逃げ場がなかった。
「重い扉を、両手で開けて、腕の稽古だと言ったのが好きだ」
わたしは、両手を胸の前で握りしめていた。
「君の店の前を通る朝が、好きだ」
団長は、そこで一度、言葉を切った。
月の光が、その顔を少しだけ照らした。眉間の縦じわ。いつもの、石の顔。
でも、もう、読めないとは思わなかった。
「私は今も、見習いのままだ。剣も、人としても。……それでも」
団長が、わたしをまっすぐに見た。
「エルナ」
殿が、なかった。
「君が、好きだ」
風が、止まった気がした。
土手のルナリアが、鳴りやんでいた。川の水音だけが、遠くで続いていた。
――私は今も見習いのままです。それでも、彼女には自分の言葉で伝えに行きます。
昨夜、わたしは自分の声で、それを読んだ。
この人は、本当に、来たのだ。花も、棚も、石も持たずに。言葉だけで。
何か言わなければならない。昼のわたしの声で。宵待の声ではなく。
灯りに向かってなら、いくらでも言葉が出てくる。でも今、わたしの前には灯りがない。あるのは、月の光と、大きな体と、石の顔だけだ。顔が見えていると、わたしの言葉は、いつも喉で止まる。
止まらないで。
「……わたしは」
声が、出た。かすれていた。宵待の声ではなかった。店先で、薬を売らないと言い張る、目つきの悪い、昼のわたしの声だった。
「わたしは、あなたの顔が、ずっと読めませんでした」
団長が、ほんのわずかに眉を動かした。
「怖い顔のまま、子どもの球を拾って、そっと置いて、下がる人が。煙の中に、怖いまま入っていく人が。腕を切っても、大丈夫だって言う人が。……大丈夫じゃないのに」
胸元が、温かくなった。
語り灯が、ともりはじめていた。
「……それから、痛いって、ちゃんと言える人が」
淡い黄の光が、硝子の中で、ゆっくり満ちていく。ささめが、莢の上で起き上がっていた。耳を立てて、毛を膨らませて、わたしの声を、ひとつも取りこぼさないように聴いていた。
「わたし、ずっと、好かれるのは夜の声だけだと思っていました」
喉の奥が、熱かった。
「昼のわたしは、目つきが悪くて、愛想がなくて、すぐ怒って。誰にも好かれないって。……でも、あなたが見ていたのは、昼のわたしでした」
ささめが、語り灯の中から、ふわりと浮かび上がった。
硝子をすり抜けるようにして、小さな光の毛玉が、月の下に出てきた。淡い黄に光りながら、わたしと団長のあいだの空を、ゆっくり渡っていく。団長の上着の胸元へ。ひびの入った、小さな聴き灯のほうへ。
団長が、息をのんだ。
わたしは、止まらなかった。もう、止めたくなかった。
「わたしも」
団長の目を、まっすぐに見た。
「あなたが、好きです。……クラウス」
その瞬間だった。
団長の胸元で、聴き灯が満ちた。
布越しに、淡い黄の光があふれた。ひびの筋を透かして、光が月の下にこぼれ出す。わたしの胸の語り灯と、まったく同じ色で。同じ明るさで。
そして、その灯りの中から、声がした。
「――あなたが、好きです。……クラウス」
わたしの声だった。
今、わたしの口から出たのと、ひとつも違わない声。昼の、かすれた、目つきの悪いわたしの声。それが、聴き灯の中で、夜の声と重なっていた。半年あまり、この人が毎晩、枕元で聴いてきた声と。
――言葉と気持ちが一致したとき、本音のときだけ、昼の声と夜の声は重なる。
師匠から、いちばん最初に教わった、精霊の決まりだった。
団長は、動かなかった。
胸元の灯りを見下ろして、それから、わたしを見た。もう一度、灯りを見た。ささめが、ひびの入った硝子の上で丸くなって、満足そうに目を細めていた。とろけた顔だった。蜂蜜に溺れたみたいな、いつもの顔。
「……宵待、殿」
団長の声が、かすれた。
わたしは、答えられなかった。
宵待は、昼の名を明かせない。わたしが宵待です、とは、言えない。夜語りの、いちばん古い決まりだから。
でも、嘘は、つけない。
「……わたしからは、言えません。決まりなので」
声が、震えていた。
「でも、三十四通。全部、覚えています」
団長の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
それから、みるみるうちに、耳の先から首筋まで、赤く染まっていった。月の光の下でも、はっきり分かるくらいに。
「……全部、か」
「全部です」
団長の喉が、ごくりと動いた。何かを数えるように、視線が宙をさまよった。
「花も」
「業務用のカモミールでした」
団長が、目を閉じた。
「棚も」
「重すぎました。でも、毎朝使っています」
わたしが言うと、団長の眉間の縦じわが、ほんの少しだけゆるんだ。それから、また深くなった。
「……脅迫も」
「師匠に、脅されましたって報告しました」
団長は、大きな手で、顔の下半分を覆った。
覆ったまま、しばらく動かなかった。肩が、小さく震えはじめた。
泣いているのかと思った。
違った。
手のひらの下から、低い、くぐもった音が漏れてきた。団長が、笑っていた。声を殺して、肩を震わせて。手をどけたとき、その口の端は、誰にも引っぱられずに、自分から上がっていた。
詰所の中庭で見た、あの怖い笑顔ではなかった。
包みを押しつけた一瞬にだけ見えた、あの小さな笑みが、今度は、ほどけずに、そこにあった。
「……私は、君に、君への恋を相談していたのか」
わたしは、うなずかなかった。宵待としては、うなずけない。
かわりに、昼のわたしが知っていることを言った。
「便りの字は、とても丁寧でした。……定規を当てたみたいに」
団長は、空を仰いだ。月が、真上で白く光っていた。
「……褒め言葉には」
わたしは、少しだけ意地悪な気持ちで付け足した。
「それが嬉しい、と添えるといいそうです」
団長の肩が、もう一度、大きく揺れた。
「ひどい人だ」
「ごめんなさい」
「……いや」
団長は、首を横に振った。それから、わたしを見下ろした。笑みの残った顔で。
「ひどいのは、私のほうだ。ずっと、本人に、本人のことを聞かせていた」
わたしは、笑ってしまった。
声を出して。昼のわたしのまま、この人の前で、初めて。
団長が、目を見開いた。それから、少しだけ困ったように、もう一度笑った。
そのとき、遠くで、時計塔の鐘が鳴りはじめた。
ひとつ、ふたつ。
十一の鐘だった。
下町じゅうの窓で、聴き灯が、いっせいに淡い黄に変わりはじめた。土手の上の人々の手の中でも、小路の家々の窓辺でも。川向こうの端まで、淡い黄の灯りが、ひとつ、またひとつと灯っていく。
宵待の番を、待っている灯りだった。
ささめが、団長の胸元から、ふわりと浮かび上がった。わたしの語り灯のほうへ、急いで戻ってくる。仕事の時間だと、言わんばかりに。
「……行かなくちゃ」
わたしは、語り灯を握った。
「宵待の番です。今夜は、いちばん最後なんです」
団長は、うなずいた。
「行ってくれ。聴いている」
わたしは、勝手口のほうへ一歩踏み出して、立ち止まった。
振り返る。月の下に、大きな体が立っている。胸元の聴き灯が、淡い黄に満ちている。
「……聴いているだけじゃ、なくて」
声が、少しだけ震えた。
「そばで、聴いていてください」




