第二十八話 月送り
日が沈むと同時に、東の空から月が昇ってきた。
大きな月だった。丘の向こうからゆっくり顔を出したそれは、昇りはじめのうちは熟れた杏みたいな色をしていて、空の高いところへ上がるにつれて、白く、白く澄んでいった。今年いちばんの満月。月送りの夜の月だ。
わたしは宵の口で店を閉めて、師匠と並んで土手に立った。
ルナリアの莢が、月の光を受けて、いっせいに透けていた。土手の斜面いっぱいに、小さな銀色の月が何千と揺れている。風が吹くと、かさかさと鳴って、光の波が川のほうへ寄せていった。
土手には、下町じゅうの人が集まっていた。
手に手に、紙の舟を持っている。底に敷いたルナリアの莢の上で、小さな蝋燭が揺れていた。子どもたちは川べりにしゃがみこんで、大人たちはその後ろで、自分の舟に火をともしている。
「エルナちゃん!」
パン屋のおかみさんが手を振った。隣で、ご亭主が黙って舟を三つ抱えている。おかみさんの分と、ご亭主の分と、もうひとつ。
「三つ目は、窯の分だって。三十年分のお礼だってさ。変な人でしょ」
おかみさんはそう言って、ご亭主の脇腹を肘でつついた。ご亭主は、窯の前と同じ顔で、黙って舟に火をともしていた。
少し離れたところでは、肉屋の親方が、子どもたちに囲まれていた。舟の折り方を教えているらしい。親方の膝の上に、前に店先で泣いていた坊主が座っている。坊主は、親方の太い指を握りしめて、川を指さしていた。
毛糸屋のおばあさんとお嫁さんが、同じ肩掛けを羽織って、並んで舟を流していた。
ヴィリ爺さんは、杖代わりの棒をついて、土手のいちばん上から川を見下ろしていた。わたしと目が合うと、片手を上げた。わたしも、笑って、小さく手を振り返した。
「さあ、流しな」
師匠が、わたしの手に舟をひとつ載せた。ルナリアの莢の上で、蝋燭の火が揺れている。
わたしは、川べりにしゃがんで、舟を水面に置いた。指を離すと、舟はゆっくり流れに乗って、下流へ滑っていった。ほかの何百もの舟と一緒に、銀色の帯になって、月の下を流れていく。
月送り。
この一年に言えなかった言葉を、灯りに乗せて川へ送る夜だ。昔は、大水で亡くした人への言葉を送ったのだという。今は、誰でも、誰にでも。
七つの鐘が鳴った。
土手じゅうで、人々の手の中の聴き灯が、いっせいに真鍮色に満ちた。
「――こんばんは! 鐘守です! 今年も月送りの夜が来ました! 川を見てください! 灯りが、いっぱいです!」
鐘守くんの声だった。いつもより早口で、いつもより弾んでいる。今夜は、夜の名をささやかなくても、すべての聴き灯に、五人の声が順に届く。精霊たちが、年に一度、いちばん遠くまで声を運ぶ夜だった。
土手のあちこちで、笑い声が上がった。
わたしは、胸元の語り灯にそっと手を当てた。硝子の中で、ささめが目を覚ましていた。耳をぴんと立てて、川のほうを見ている。今夜のささめは、昼も夜も分からなくなったみたいに、そわそわと落ち着かなかった。
八つの鐘で、聴き灯が水色に変わった。
「……水鏡だ。今夜、川の水は、穏やか。灯りは、よう流れる」
低い、朴訥な声。土手じゅうが、少しだけ静かになった。
「明日の市は、晴れる。蜂蜜は――」
水鏡さんは、そこで一度、言葉を止めた。
「蜂蜜は、今夜は、値をつけん。……以上だ」
聴き灯の光が、ゆっくり欠けていった。
隣で、師匠が、杖を握る手に力を入れたのが分かった。
「師匠?」
「……なんでもないよ」
師匠は、川のほうを見ていた。それから、ふっと息を吐いて、わたしの背中を軽く押した。
「あんたは、もう帰りな」
「でも、まだ」
「宵の口が過ぎたら、誰か来るんだろう」
わたしは、言葉に詰まった。
「あたしは今夜は、ここで聴くよ。帰りは遅くなる。……ちょいと、水門のほうまで、灯りを流しに行ってくるからね」
師匠は、もうひとつ、懐から紙の舟を出した。自分の分とは別の、少しだけ大きな舟。底には、ルナリアの莢が二枚、重ねて敷いてあった。
わたしは、何も聞かなかった。
「……行ってらっしゃい、師匠」
「あんたもね」
師匠は杖をついて、土手を上流のほうへ歩いていった。小さな背中が、銀色の莢の波の中を、ゆっくり遠ざかっていく。
店に戻ると、中は暗かった。
カウンターのランプに火を入れる。樅の棚の白い木肌が、ぼんやりと浮かび上がった。窓の外では、小路の家々の聴き灯が、通りの向こうまで続いている。
わたしは、カウンターの内側に立ったまま、扉のほうを見ていた。
九つの鐘が鳴った。
窓の外の灯りが、いっせいに橙色に変わった。
「どうも、灯り番です。今夜の見回りは、川沿いの土手道。灯りの舟が多いので、川べりで足を滑らせないように。それと、銀の莢亭の前で酔っ払いが樽に頭から突っこむのは、今夜は禁止です」
ロイさんの、いつもの軽い声だった。
「なお、うちの団長は、今夜は非番です。どこにいるかは――」
少しだけ、間があった。
「――言いません。野暮なんで」
窓の向こうの家から、どっと笑い声が上がった。
わたしは、カウンターに両手をついて、顔を伏せた。耳が熱かった。
鐘ひとつぶんの時間は、思っていたよりずっと長かった。
ランプの芯を直して、カウンターを拭いて、樅の棚の扉を両手で開けて、また閉めた。月見草の鉢を店先から入れて、また出した。何をしても、手が落ち着かなかった。
あの人が何を言いに来るのか、わたしは知っている。三十四通の便りで、全部読んだ。自分の声で、全部読み上げた。
それでも、あの人は、それを知らない。
だから今夜、わたしは宵待としてではなく答えなければならない。灯りに向かうやわらかい声ではなく、店先で薬を売らないと言い張る、目つきの悪い、昼のわたしの声で。
宵待は、昼の名を明かせない。でも、昼のわたしが、昼のわたしの言葉で答えることなら、どんな決まりにも触れない。
十の鐘が鳴った。
窓の外の灯りが、橙から、薔薇色に変わった。
前奏はなかった。いきなり、細い声が、夜の中に流れ出した。
――銀の莢に 月がやどれば
ジルケさんの声だった。夜鳴き鶯の、銀の莢の唄。下町じゅうの窓で、薔薇色の灯りが、唄に合わせてかすかに明滅している。百五十年前から、この街で歌い継がれてきた唄。言えなかった言葉を、月の光に乗せて、誰かの窓まで届ける唄。
扉の鈴が、鳴った。
重たく、でも、いつもよりずっと静かに。
わたしは、顔を上げた。
戸口に、大きな影が立っていた。
濃紺の外套ではなかった。生成りのシャツに、地味な色の上着。腰に剣も下げていない。それでも、戸口をくぐるときに、いつものように少しだけ頭を下げた。
団長だった。
月の光を背負って、その人は、店の中に一歩だけ入ってきた。
「……エルナ殿」
声が、少しだけかすれていた。
「時間を、もらえるか」
わたしは、カウンターの内側から出た。
団長の上着の胸元が、ほのかに光っていた。布越しに、薔薇色の光が透けている。懐に、何か丸いものを入れているのだ。硝子の、球の形のもの。
ひびの入った、小さな聴き灯。
この人は、今夜もそれを持ってきたのだ。夜鳴き鶯の唄を、懐で聴きながら、ここまで歩いてきたのだ。
そして、十一の鐘が鳴れば、その灯りは、淡い黄に満ちる。
わたしの声で。
「……はい」
声が、震えた。それでも、目を逸らさなかった。
「裏の土手に、出ませんか。月が、きれいなので」
団長は、うなずいた。
勝手口の戸を開けると、川からの夜気が流れこんできた。土手のルナリアが、月の光の中で、銀色に揺れている。川面には、まだたくさんの灯りの舟が、ゆっくり下流へ流れていた。
唄が、聞こえていた。
――声はあなたの 窓までとどく
土手の草の上で、団長が立ち止まった。わたしも、その隣で立ち止まった。
月が、高いところで、白く光っていた。十一の鐘まで、もう、鐘ひとつぶんもない。
団長が、わたしのほうを向いた。
「エルナ殿」
眉間に、縦じわが一本。いつもと同じ、読めない顔。
でも、わたしはもう知っている。この人の顔は、読めないのではない。全部が、一度にそこにあるのだ。怖さも、迷いも、言葉を探す苦しさも、全部。
「言いたいことが、ある」




