6. わたしが呼びましたので、わたしが謝ります
五の月十六日。朝の中庭は、まだ水やりの前だ。やわらかな日差しの下で、土が白っぽく乾いている。
辺境では、朝いちばんの水汲みは子供の仕事だった。桶を持てるようになった子から順に、井戸へ並ぶ。冷たい水を足にこぼしながら、桶を運ぶ。ここでは水を汲むのも役目で、誰が何をするかは、朝のうちにもう決まっているらしい。
楡の木の下には、鋏と桶だけがぽつんと置かれている。朝の光はあるのに、持ち主の姿がない。
鋏の柄は、握るところだけ深い飴色に変わっている。長く使ううち、木のほうが、その人の手の形を覚えたのだ。うちの村の鎌も、みんなそうだった。柄を見れば、誰のものかすぐ分かる。
「ジョスラン様。アンリは、どちらですか?」
庭師頭は帽子を取らないまま、目だけをこちらへ寄こす。土で黒くなった手を、前掛けでゆっくり拭う。けれど、爪の際に入り込んだ黒さまでは落ちない。
「……あれは、うちの見習いでして」
「はい」
「今日は、来させておりません」
来させておりません、という言い方だけが、耳の奥に小さく引っかかる。休みではない。来なくていい、でもない。その中間の細い隙間へ、そっと置かれた言葉だ。
おととい、アドリエンヌ様に言われたことが、二度目に、目の前ではっきり形になった。わたしが名前を訊いたから、この人は困っている。首の後ろがじわりと重くなり、指先から温かさが抜けていく。
◇
物置の裏に、小さな背中がある。膝を抱え、土の匂いが濃いところに座り込んでいる。日の当たらない側の壁には、まだ夜の冷たさが薄く残る。
「アンリは、ここにいたいですか?」
顔がぱっと上がる。けれど、わたしと目が合うより先に、すぐまた伏せられる。
「……います」
「はい」
「でも、名前は呼ばないでください。呼ばれると、僕がここにいることが、みんなに分かるので」
声は、言葉を重ねるほど細くなる。最後は、土へ吸い込まれそうになる。
わたしは、その言葉をもう一度、頭の中で置き直す。名前を呼ぶことが、その人を守ることだと思っていた。呼ばれないことで守られている人がいる。足の裏から冷たいものが上がってきて、膝の裏で止まった。
「じゃあ、誰の前でなら、呼んでいいですか?」
アンリは、めずらしく長く黙る。膝を抱えた腕が、ほんの少し固くなる。重なった指の節が、きゅっと白くなる。
「……ジョスランさんの前だけなら。もう、知られてるんで」
「分かりました。覚えました」
それから、この子の言葉が少しだけ速くなる。抱えていた膝は、いつのまにか下りている。つま先が、乾いた土の上で小さく動く。
「楡の下は土が硬いんで、水は二度に分けます」
「二度に?」
「一度にやると、上だけ流れちゃうんで。……ジョスランさんに、教わりました」
教わりました、と言うときだけ、声がほんの少し大きくなる。伏せていた顎も、ちょっぴり上がる。
◇
中庭へ戻ると、庭方の人たちは鋏を研いでいる。砥石を擦る乾いた音が、あちらこちらから響く。速かったり、遅かったり。ちっとも揃わない。
わたしはジョスラン様の前まで行き、腰から折るように深く頭を下げる。視界いっぱいに、乾いた土の色が広がる。背中へ、朝の光がまっすぐ落ちる。
「ジョスラン様。わたしがお名前を訊いたので、ジョスラン様が困りました。すみませんでした」
鋏の音が、いっせいに止まる。さっきまでばらばらだったのに、止まるときだけ、ぴたりと揃う。
「お、およしください。令嬢さまが、そんな」
「でも、わたし、これからもジョスラン様のお名前は呼びます」
「……はあ」
「楡の下の土が硬いから水を二度に分けるのは、ジョスラン様が教えたんですよね?」
庭師頭の手が、前掛けの上でぴたりと止まる。それから、ほんの一度だけ、楡のほうへ目だけを向けた。帽子のつばの下で、固かった口の端がかすかにゆるむ。
「……あれが、言うたか」
返事はしないでおく。胸の内側が、少しくすぐったい。ジョスラン様は帽子のつばを深く下ろし、楡の下へ短く言う。
「おい! ……。明日も、来い」
名前は、呼ばなかった。それでいい。
楡の根もとの白い土が、水を吸ってじわじわ黒くなる。二度に分けた、二度目のぶんだ。その脇で、小さな影が一つだけ動く。こちらを見ないまま、鋏を拾い上げる。握り慣れた柄が、小さな手の中へすっと収まった。
「お嬢様。わしの名も、訊いていかれますか?」
後ろから、しわがれた声が飛んでくる。振り向くと、白髪の、背中の丸い方が立っている。指の節は、古い木の瘤みたいに太い。
「はい! お名前は?」
「シモンでさ。三十年、ここを掃いとります」
「シモンさん。覚えました」
「うへえ。……呼ばれちまったら、もう、知らん顔はできませんな。カッカッカ!」
言いながら、この方は欠けた前歯を隠しもせず、口を大きく開ける。目尻の皺が、くしゃりと深くなる。面白がっている顔だ。味方になった顔ではない。
名前を呼ぶたび、呼ばれた人の側には、何かが増えていく。喉の奥がからりと乾く。唾を飲み込もうとしても、そこだけうまく動かない。
◇
大回廊で、ジュリアン様に会った。高い窓から落ちる光が、磨かれた床の同じ場所を細長く照らしている。
「……庭師頭に頭を下げられたと伺いました」
「はい!」
「公爵家の縁組の相手がそういうことをなさると、家が何か言われます」
「そうなんですか。でも、もう下げちゃいました」
灰色の目が、一度だけ伏せられる。高い窓の光が、薄い唇の輪郭を白くふちどった。
「……取り消しは、きかないものです」
「はい。だから、下げました」
長い指が、手の甲の同じところをゆっくり往復する。戻りかけたところで――ふいに止まる。
あの癖が止まったことに気づいているのは、たぶん、わたしだけだ。見ている。でも、やっぱり言わない。言わずにいることが、この四日で少しだけ上手になった。喉の下の石は、まだそこにあるけれど、前より小さく、角も丸い。
夕方の洗濯場は、湯気で白くかすんでいる。布で包んだ頭は、こちらを向かない。あかぎれた手が石板を叩くたび、水の粒がぱっと跳ねる。水の弾ける音が、白い湯気の奥へ短く沈む。
「お嬢様。明日のヴァルモンのお屋敷の夜会、お嬢様のお名前、ありませんけど」




