7. 招かれておりませんので、外で覚えました
五の月十七日。日が落ちきったころ、わたしはヴァルモン侯爵邸の門前に立っている。
門柱には灯り石がずらりと並び、火もないのに、石畳まで白く明るい。辺境では、夜に人が集まるのは火のまわりだけだった。火のない明かりの下では、人の顔から影が消える。影の薄い顔は、丁寧に作られた人形みたいで、少し落ち着かない。
今夜、洗濯場から十人が貸し出されている。大きな家の夜会には、王宮から人が出るものらしい。終わるのは夜半で、門を離れれば帰り道は暗い。
辺境では、夜の帰り道に必ず誰かが迎えに出た。灯りを持って坂の下まで下り、名前を呼び、二人で帰る。呼ばれた名前は、重なる足音になって坂道を戻る。それだけの話である。
馬車が着くたび、門口の方は、夜の空気を押し返すように声を張り上げる。
「ラングレー伯爵家、ご到着」
「デュヴァル子爵ご夫妻、ご到着」
名前が次から次へ、夜の空に放り上げられていく。屋敷の中では、その名前が全部、顔と結びついているのだろう。外にいるわたしへ届くのは声だけだ。それなのに、耳のほうが勝手に覚えてしまう。三つ編みの先を指で巻き、髪の固さを確かめながら、二十三まで数える。
門の内側から、弦の音と笑い声の切れ端が、石塀を越えて細く漏れてくる。匂いだけは届かない。高い石塀の向こうにあたたかいものだけが溜まり、外へこぼれるのは音ばかりなのだと思う。
◇
門の内側から、小柄な方が転がるように走り出てきた。耳を出し、髪を小さくきっちりまとめている。肩が少し前へ入り、腕はすぐに何かを抱えられる位置にある。いつも何かを持っている人の立ち方だ。
「お名前は?」
「……ノエミ、です」
「ノエミさん。覚えました」
その方は足を止めた。まばたきを二度。開きかけた唇が、ためらうように小さく揺れる。
「あの、いま」
「はい?」
「……名前で、呼ばれましたので」
「呼びました!」
「八年、呼ばれておりませんでしたので」
八年、と言うときだけ、声がすっと普通の大きさに戻る。その言葉だけ、喉につかえず出てきたように聞こえる。
「アドリエンヌ様は、なんとお呼びですか?」
「あなた、と。そういうもの、ですので」
そういうもの、と言うその顔は、困ってもいない。怒ってもいない。目も口元も、そこに置かれた形のままだ。
わたしはその顔を、どこかで見ている。辺境で、冬のあいだじゅう納屋の隅に積まれ、暗がりの冷たさを吸っていた薪。あれが、こんな顔をしていた気がする。要るときにだけ数えられて、それ以外の日は誰にも数えられない。
門を出入りする方々の扇が、顔より先にこちらへ向く。扇の縁から、細い視線がこちらへ刺さる。
「招かれない方が、門の外にいらっしゃるのね」
「お迎えですって。使用人の。あら、おかしい」
わたしは扇のほうへ、くるりと振り向く。
「はい! 外は空が広くて、いいですよ!」
「……」
「あ、それと、聞こえてます!」
扇が三つ、いっせいにぴしゃりと閉じる。閉じる音は、屋敷の中で聞くよりずっと小さい。外には天井がないので、音がするりと空へ逃げてしまうのだ。
王都の建物は、声をどう扱うかで作りが決まっているらしい。大回廊は響かせ、大広間はのみ込み、門の外は空へ逃がす。三日目に大広間で気づいたことが、今夜、門前でくるりと裏返る。
◇
その向こうから、白金の髪を結い上げた方が、足音もなく歩いてくる。門の内側の明かりを背負っているので、後れ毛が一本もないことまで、影絵のようにくっきり分かる。
「辺境の方。あなたに名を呼ばれた者は、あなたの側の者だと数えられます」
「……はい」
「わたくしは、そういう場所で、あなたを守れません」
扇が閉じる乾いた音が、石畳に短く跳ねる。アドリエンヌ様は、ノエミさんを名前で呼ばないまま連れて帰る。「そちらへ」とだけ言い、振り向きもしない。
ノエミさんは、耳を出したまま、その一言を取り落とさないようについていく。名前を呼ばれてはいない。それでも聞こえている。八年ぶんの耳とは、そういうものなのだと思う。
返す言葉が出てこない。舌の先まで来たはずなのに、音になる前に消える。三日前に受けたものがまだ体の中にあるのに、その上へもう一つ重なった。首の後ろが熱い。腹が立ったのでも、恥ずかしいのでもない。これはあした来る、と分かっているのが、いちばん厄介だ。
◇
夜半、十人が明るい門の中から、ひとかたまりになって出てくる。
「マノン! コレット! ティボー!」
わたしの声は、胸につかえず、いつもの大きさに戻っている。
「ジャンヌ! ペリーヌ! ソランジュ! ロジーヌ!」
「はい」「はいはい」「……へえ」
「ファニー! ヴィオレット! エミール! 十人、そろいました!」
わたしは灯りを持ち上げ、先に立つ。丸い光が、足元の石畳にぽんと落ちる。
「辺境では、夜は、先に立つ人が灯りを持ちます」
呼ぶたびに、返事が夜道を渡って戻ってくる。おとといの夜に呼んだときは、返事のたびに、その人が引き受けるものが一つずつ増えていった。今夜は、返事が返ってくるだけだ。その違いだけで、足の裏までずいぶん軽くなる。
石畳は、昼のあたたかさをまだ少し抱えている。十人ぶんの足音が、わたしの背中を押すように、だんだん揃っていく。
途中で、急ぐ足音が後ろから近づき、とうとう追いつく。
「……ジュリアン様?」
「私も、こちらへ用がありましたので」
用があるようには見えない。夜会の上着のまま、髪が少し乱れ、肩が小さく上下している。走ってきた人の息の音を、わたしは知っている。
「今夜、二十三のお名前を聞きました」
わたしは淡々と語る。
「では、どなたがどなたか、お分かりに?」
「いえ。声しか聞いていないので、顔が付いていません」
言葉が口を離れてから、自分でも少し驚く。みぞおちの奥を、遅れて小さな風が通る。
名前だけが、人の形をせずに宙に浮いている。辺境では、名前は必ず人の形をしていた。顔と声と一緒でないと、頭に入ってこないのだ。名前が先に来るのは、王都へ来て初めてで、耳の奥がすかすかする。
東門まで帰ると、内側の灯りの中に三人ばかり立っている。庭方と、厨の前掛けと、見たことのない前掛けの方。どのつま先も、まっすぐこちらを向いている。
「お嬢様。……お帰りを、お待ちしておりました」
「あの、あたし」
「わしは、その」
三人とも、訊かれる前に名乗ろうとしている。言葉が重なり、口元だけが忙しく動く。




