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5. 呼んだ名前の数だけ、こわいのです

 五の月十五日。侍従長の部屋は東門の脇、分厚い石壁に囲まれた奥まった場所にあり、昼だというのに日が入らない。辺境の家は、どの部屋にも東の窓があった。目を覚ませば、薄い金色の朝日が床をゆっくり這ってくる。朝がいちばん明るい、というのが当たり前だと思っているわたしには、この部屋の暗さが、息をひそめている誰かのように感じられた。


 扉の前まで来ると、下男が少しだけ前へ進み、よく響く声で中へ声をかける。冷たい廊下の空気が、その声に薄く震える。


「ドルレアン侍従長様。洗濯場の者をお連れいたしました」


 ドルレアン様、というお名前らしい。覚えました、と唇は動かさず、口の中だけでそっと繰り返す。王都へ来てから、顔を合わせた方で、名前を訊けなかったのはほとんどいない。名前を知れば、その人の顔や声が心の中で少しだけはっきりして、見失わずに済む気がするからだ。


 中へ入ると、昼なのに灯り石が点いていた。窓のない空気はひんやりとよどみ、紙と古い木の匂いがする。石の光の下だと、人の顔がみんな同じ色に見える。頬の赤みも、目の下の影も薄くなり、誰が何を思っているのかまで隠してしまうようだった。


 卓の上には、封蝋のついた手紙が一通だけ置かれている。ヴァルモン侯爵家の紋だ。赤い封蝋は石の光を鈍く返しているのに、封は切られていない。


 洗濯場の長として、マノンさんも呼ばれている。太い腕を前に組み、背筋をまっすぐ伸ばして立っている。いつもなら頼もしく見える肩が、今日は扉をふさぐ盾のように固い。


 張りつめた沈黙を破るように、リゼットが口をひらく。唇は少し乾いているのに、声だけは揺れない。


「夜会のあとの洗い物に、上着が一枚まじっておりまして、その襟から出てまいりました。マノンさんにお見せして、それから侍従長様のところへ。お留守でしたので、お渡しできるまで持っておりました」


 ドルレアン様は眉を少しも動かさず、手紙に手も触れないまま言う。その声には、話を聞く前から答えを決めていた人の冷たさがにじんでいた。


「そのような物は受け取っておらぬ」


 それは本当のことだ。この方は嘘をついていない。ただ、洗濯女中の言葉を、最初から数に入れていないだけなのだ。嘘よりも静かなぶん、その無視は深く胸に刺さる。


 部屋の隅に、ジュリアン様が立っている。一言も発しない。灰色の目は、卓の一点に縫い留められたように、ぴくりとも動かなかった。灯り石の白さが頬に落ち、その横顔だけが遠く見える。


 あの方を見た瞬間、助けてほしいと思った自分に、すぐ気づく。わたしの心はいつも半日遅れるのに、これだけは速い。頼りたい。名前を呼べば振り向いてくれるかもしれない。そんな願いが浮かんだ速さのほうが、何よりこわい。膝の裏がじんわり汗ばみ、靴の中で足の指が縮こまる。


 マノンさんが組んでいた腕をほどき、一人で前に出る。床を踏む靴音が、暗い部屋に重く響いた。


「あたしが見たんです。襟から出したところを、あたしがこの目で見ました」


「身内をかばっておるだけであろう」


 反論しようと口をひらきかけた、その隙間へ、昨日の一行が細い針のように刺さってくる。


 王都では、名を呼ぶのは支配です。


 昨日は平気だった。平気だったのではなくて、心が追いつくのが遅かっただけだ。痛みは今朝になってようやく目を覚まし、それがちょうど、いま背中まで届く。口が閉じ、指先さえ動かない。喉の奥を、見えない手で内側から押さえつけられているようで、息を吸うたびに細く痛む。


 ドルレアン様が、ゆっくり部屋を見回す。その視線が並ぶ者たちの顔をなぞっても、誰も何も言わない。


「話は済んだ。連れて行け」


 命令が落ちると、下男が二人、左右からリゼットの腕を取った。布越しに指が食い込み、リゼットの肩がわずかにこわばる。それでも誰も止めない。ジュリアン様も、わたしも。


 リゼットは東門脇の物置へ入れられ、外から閂(かんぬき)を掛けられる。わたしは少し離れた場所で、それを見送ることしかできない。木の閂が落ちる音は、思っていたより乾いて軽かった。あんなに軽い音で、人は外へ出られなくなる。その事実だけが、腹の底で重く沈んだ。


「洗濯場の方は、十七人いらっしゃいます。わたし、みなさんのお名前を覚えています。連れてまいります」


「では、連れてまいりなさい」


 命令は取り消されない。胸の奥ではまだ、名前を呼ぶことへのこわさが黒い水のように揺れている。それでもわたしは、震えそうな足に力をこめ、部屋を出た。


       ◇


 大回廊を抜け、中庭を越え、北の端まで急いで歩く。息が上がり、植え込みの濡れた葉をかすめた裾が、足首に冷たくまとわりついた。ほどけた髪が汗ばんだ頬に貼りつき、拭う余裕もない。磨かれた石床も、白く光る中庭も、ずっと続く柱も、急いでも急いでも後ろへ流れていく。王宮は端から端まで歩くと、こんなに遠い。リゼットを閉じ込めた軽い音だけが、どこまでも追ってくる。


 洗濯場へ飛び込むと、石鹸と灰汁の匂いをふくんだ湯気が、熱い布のように顔へまとわりつく。桶を打つ水音と、濡れた布を絞る音が重なる中で、わたしは息を整える間もなく、一人ずつ名を呼ぶ。


「コレットさん。ジャンヌさん。ペリーヌさん。ソランジュさん。ロジーヌさん」


「ファニーさん。ヴィオレットさん。エミールさん。ティボーさん。マルグリットさん」


「ブランシュさん。アニエスさん。セリーヌさん。ドニさん。ユゲットさん」


 呼ばれた人は濡れた手を前掛けで拭い、桶のそばから立ち上がる。驚いて目を見開く人も、隣と目を合わせる人もいたけれど、誰も、なぜとは訊かなかった。名を呼ばれたから来る。それだけのことなのだ。その素直さが、かえって息を苦しくする。


 呼ぶたびに、この人たちが引き受けるものが一つずつ増えていく。それを数えながら、それでも次の名を呼んでいる。声はいつもより小さく、湯気に吸われて消えそうだった。けれど、呼ばれた人はみな、聞き落とさずにこちらへ来る。そのたび、ありがたさと申し訳なさが同じところでぶつかり、息が浅くなる。


       ◇


 東門脇の廊下には、洗濯場の湿った空気をまとった十五人が並ぶ。濡れた袖、赤く荒れた手、急いで来たために乱れた前掛けが、薄暗い廊下に白く浮かんで見える。先に部屋にいたマノンさんと合わせて、十六人になる。


「あたしは、リゼットが上着の襟から紙を出すのを見ました」


「あたしは、マノンさんに見せているのを見ました」


「あたしも見ました」


「あたしも、見ておりました」


「あたしも見てます」


 同じ二つの証言が、切れ目なく十六人目まで続く。最初は細かった声が、重なるたびに少しずつ厚みを増し、冷えた壁を押し返していくように聞こえた。


 答える声が、洗濯場の湯気と灰汁の匂いを、この暗い部屋まで連れてくる。冷えきっていた空気に、人の体温が戻ってくる。喉の奥にこびりついていた固さも、ようやく少しだけゆるんだ。


 けれど、答えた十六人は、答えることで自分も危うくなる。わたしはその重さを、顔と名前を結びつけながら数えていた。この人たちは明日も、同じ洗濯場で働く。今日ここで口をきいたことを、誰かが覚えている。仕事を減らされるかもしれない。冷たい目を向けられるかもしれない。それでも誰も、言葉を引っ込めようとはしなかった。


 声の列が途切れたあと、最後に、バルテルミーさんが前に出る。東門の制服はきちんと整い、靴音にも迷いがない。


「自分も、見ておりました」


「そなたが、何を見たと申す?」


「昨日の昼、この娘が、この部屋の前まで参りました。手には、白いものを持っております」


 焦げ茶の目は、まっすぐ侍従長へ向けられている。ひるむ気配も、誰かの顔色をうかがう揺れもない。


「東門の持ち場から、この扉の前は見えます。侍従長殿はご不在でありました。娘は扉の前でしばらく待ち、それから引き返しております。手のものは、そのままでありました」


 部屋が、しんとなる。遠くで鳴いた鳥の声さえ、この狭い部屋まで届きそうな静けさだった。誰も動かず、灯り石だけが白く光っている。


「なぜ?」


 思わずわたしが訊くと、伍長は背筋を伸ばした姿勢を崩さずに答える。その問いはバルテルミーさんに向けたはずなのに、ほんとうは自分にも向けていた。なぜ、この人は言えて、わたしは言えなかったのだろう。


「見たものを、見たと申し上げるのが、自分の役目でありますので」


 その言葉は飾り気がなく、だからこそまっすぐ耳に残る。ドルレアン様はそこで、はじめて手紙に手を伸ばす。指先で封蝋の色を確かめ、それから静かに卓へ戻した。


「……勘違いであった」


 東門脇の物置で、閂が外される。木が持ち上がる音のあと、細く開いた扉の隙間から、リゼットがまぶしそうに目を細めて出てきた。


「あたし、鍵のかかるとこ、初めてでした」


 鍵のかかるところ。その言葉が耳に入った途端、わたしの声はまた出なくなる。喉が自分のものではないみたいに固まり、謝りたい気持ちも、安心した気持ちも、出口を失ったまま、内側でふくらんでいく。


 わたしは、この人たちの名前を、呼んでよかったのだろうか。助けるためだったと言えば、きれいに聞こえる。けれどわたしは、この人たちが明日から背負うかもしれないものまで、ほんとうに見ていただろうか。


「わたし、あの……」


「なんです?」


「……いえ。お腹、すきませんか?」


 言いかけてやめた一行が、さっき声の出なかった喉の、まったく同じ場所へ沈んでいく。呼ぶのはあんなに簡単なのに、自分のことになると、まだ一度も声が出ていない。ごめんなさいも、こわかったも、助けてほしかったも、胸の中にはあるのに、唇まで上がってこない。膝の裏の汗は、いつのまにか乾いていた。それでも、冷えた跡だけが薄く肌に残っている。


「なんであたしの名前、覚えてたんですか?」


「え。覚えていない人が、いるんですか?」


 あかぎれた手が、前掛けの端を握ったまま止まる。頬骨の高い顔がゆっくり上がり、リゼットが初めて、まっすぐわたしと目を合わせた。鳶色の目をしている。灯り石の下では同じ色に見えたはずのその目に、驚きと、ためらいと、ほんの少しの決意が揺れていた。


「お嬢様。あたし、字が読めます」


「え」


「籠に、布と一緒に来るんです。封の切れたやつなら、全部」


 その言葉の意味が飲み込めるまで、わずかな間があった。布にまぎれて籠へ来る、封の切れた紙。読めるのに、読めない者として扱われてきた人の目。部屋の隅では、ジュリアン様がまだ動けないまま立っている。動けなかった自分を、あの方自身が黙って見つめている。


 わたしは何も言えないまま、リゼットの鳶色の目と、部屋の隅の灰色の目を、まぶたの裏に残し、扉へ向かう。背を向けた瞬間、言えなかった言葉がいっせいにほどけ、痛いほど熱くなった。それでもまだ、声にはできない。わたしは何も言わずに、部屋を出る。


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