4. 名を存じているだけであります
五の月十四日。朝の王宮じゅうが、濡れた布と白い湯気の匂いに包まれている。石壁のあいだを漂うその温かな匂いには、覚えがある。辺境でこの匂いがするのは、秋の脱穀のあとだけだった。
昨夜使われた皿と杯が、まだ厨の外に高く積まれ、朝日を鈍く返している。重なった器が触れ合うたび、乾いた音が石壁に響く。洗濯場から北の淡い空へ、白い湯気がまっすぐ伸びていた。年に一度の夜会の翌日は、こうして洗い物の山ができるのだそうだ。
一夜が明けて、東門の前にはあの方がまた立っている。朝の光はまだ低く、長い影を石畳に落としていた。正面から当たる日ざしで、鼻の頭のそばかすが熱い。昨夜の問いを、あの方は二度は言わない。わたしは夜じゅう口の中で転がしていた答えを抱えたまま、どのくらい待っていたのかは訊かなかった。訊けば、待っていない、と言うに決まっている。
「昨夜のお返事ですけど。言ったら、あなたが困るでしょう?」
「……なぜ、私が困ることを、気になさるのです?」
「困ってほしくないからです」
あの方が黙る。遠くで器の触れ合う音がして、朝の冷たい風がわたしたちのあいだを抜けていく。わたしのどの言葉に黙ったのかは、分からない。
薄い唇が何かを言おうと開きかけ、声になる前に止まる。灰色の目はわたしを避けるように落ち、背後の石畳の継ぎ目をじっと見つめている。隙なく整った顔に、ほんのわずかな迷いだけが浮かんでいた。
「……あなたは、私を試しておられるのですか?」
「え。試すって、どうやってですか?」
「……いえ」
黙っているあいだ、わたしの指は知らないうちに皿の縁をなぞる形をつくっていた。昨夜、熱い皿を落とすまいと支え続けた感触が、まだ手のひらに残っているらしい。爪の先は、そこにない白い縁をそっとこする。指だけが、わたしより先に昨夜を覚えている。
「でも、二度目はやめてくださいね。次は掴めないかもしれないので」
返事はない。あの方の喉がかすかに動き、言葉だけがのみ込まれていく。
やがて、あの方の靴の先が石畳を一度だけ擦り、乾いた音を残す。承知したとも、しないとも言わない。それでも、その小さな音が返事の代わりに胸へ届いた気がした。
門の脇で、バルテルミーさんが槍を持ち直す。太い指の中で硬い柄がかすかに鳴り、その音に押されるように、こちらへ顔を向ける。
「お嬢様のお父上は、お元気でありますか?」
「父をご存じですか?」
四角い顎が、言いかけた言葉を噛むようにわずかに動く。日に灼けた顔の中で、焦げ茶の目だけがわたしを避け、肩の向こうの誰もいない道を見ていた。
「……いえ。お名前を存じているだけであります」
そう言い終えたとたん、伍長は右足に体重を乗せ替える。いつも少し引きずり、庇っているほうの足へ、わざわざ重みを移していた。厚い肩は動かないのに、足元だけが落ち着く場所をなくしている。
嘘をつく人の体は、必ずどこかに場所を探す。父の兵たちも、そうだった。口元はじっとしていても、手や肩や足が、言えないことの置き場を探してしまう。
人の痛みには、すぐ気づく。だから、隠したものを暴けば、その人が痛むことも、すぐ分かってしまう。訊かなかった言葉は喉の下で冷たい石になり、息をするたび、そこにあると知らせてくる。飲み込んでも溶けないものが、体の中には確かにある。
ここで訊けば、この人はまた別の嘘をつかなければならない。嘘を二つ重ねさせるくらいなら、一つで止めておくほうがいい。
◇
中庭の土は、朝の水やりを吸ってまだ濃く黒い。湿った匂いが足元から立ちのぼり、楡の葉は風にいっせいに裏返って、陽を受けて白くきらめく。
昼、その木の下から、低く押し殺した叱り声が聞こえる。十三の子が、肩を縮めて立たされていた。昨日どこかで名前を聞いた……そう、アンリだ。
「令嬢に名を呼ばれて図に乗るな」
わたしはアンリと庭師頭のあいだへ入り、土で汚れた小さな肩を背にかばう。庭師頭はわたしの顔を見るなり口を閉じ、視線を伏せて引き下がった。
「僕の名前を……もう呼ばないでください」
「でも、アンリ、もう覚えちゃいました!」
「……本当に、こまります」
アンリの手には湿った土がこびりつき、爪の奥まで黒く染まっている。わたしがうれしくて呼んだ名前は、叱る声になってこの手へ返ってきた。呼んだのはわたしなのに、痛い思いをしたのはアンリだ。その順番がどうしても飲み込めなくて、指の節が、止める間もなく固くなる。
「アンリ。お名前を呼ばれるの、いやですか?」
「……いやじゃないです。でも、困ります」
「困るのと、いやなのは、違うんですね」
「違います」
夕方、石壁の色が薄暗くなり始めたころ、リゼットが籠を抱えて通りかかり、足を止めずに言う。
「お嬢様がお帰りになってから、もう一回叱られてましたけど」
「……どうして教えてくれるんですか?」
「見たから言っただけです」
リゼットは本当にそれだけ言うと、こちらを振り返らず、山になった洗い物へ戻っていく。湯にさらされ続けたあかぎれの手が、籠の持ち手をぎゅっと握り直した。
◇
わたしは暮れかけた中庭を引き返し、庭師頭のところへ戻る。鍬が土へ入る鈍い音がふっと途切れた。こちらを見ないまま、広い背中だけが板のように固くなっている。
「お名前を、うかがってもいいですか?」
「……なぜ、名を訊かれるのです?」
「あなたが、アンリを叱った方だからです」
「……ジョスランでございます」
「ジョスラン様、とおっしゃるんですね。覚えました」
脅したつもりはない。ジョスランという名を、本気で覚えただけだ。けれど庭師頭の顔から血の気が引き、土で汚れた鍬の柄を持ち替える。すぐに落ち着かず、もう一度持ち替えた。鍬ばかりが、行き場をなくしたように手の中で揺れている。
背後から、扇の骨が触れ合う乾いた音が近づいてくる。振り向けば、薄氷みたいな色の目が、揺れもせずにわたしをまっすぐ見ていた。
「王都では、名を呼ぶのは支配です」
「……支配、ですか?」
「あなたが庭師の名を呼ぶたび、その者は〈ソレルのお嬢様に名を知られた者〉になります。その危うさを、あなたはご存じない」
言い返せなかった。開いた唇から声が出ず、舌の上にあったはずの言葉だけが、形になる前にほどけていく。
この方の言っていることは、たぶん正しい。正しい言葉の前では、わたしの口は急に動き方を忘れてしまう。陰口なら、その場でいくらでも返せるのに、どこにも返す先が見つからない。
悪意はいくらでも受け流せるのに、正しいことは受け流せない。しかもわたしは、その直前に、名前を呼んでジョスランを怯えさせたばかりだ。胸の底へ、井戸水みたいな冷たさがゆっくりたまっていく。それでも今夜は、きっとまだ痛まない。この痛みが来るのは明日の朝だと、もう知っている。自分の体のことなのに、他人の家の暦を遠くから読んでいるみたいだ。
アドリエンヌ様の言葉を、頭の中で三度くり返す。忘れないよう、頭の奥へゆっくり刻みつけるためだ。覚えておかないと、わたしはまた同じことをして、別の誰かに痛みを背負わせてしまう。
◇
夜。小さな鏡の前で、三つ編みから逃げたほつれ毛を指先で撫でつけていると、静かな廊下の向こうで扉が鳴った。指が髪の上で止まる。この時間に扉を叩く人はいない。王都へ来てから、一度もない。
扉を開けた途端、リゼットが息を切らして駆け込んでくる。布の被り物は大きくずれ、いつも隠れている薄い亜麻色の髪が肩へこぼれていた。頬は青ざめ、荒い息だけが狭い部屋を満たしている。
「お嬢様。あたし、盗んだって言われてます」
「どうしてここへ?」
「他に、行くとこがなかったんで」
その一言は、盗みの話よりもずっと重く、胸の真ん中へ落ちてくる。三日で王宮じゅうに名を知られたわたしを、この子は選んだのではない。「他がない」から、ここへ来たのだ。それでも、ここへ来てくれたことに灯る小さなぬくもりは、行き場をなくしたこの子の怖さと絡まり、喉の奥でほどけない。




