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3/7

3. 三日で、王都中の人気者になってしまいました

 五の月十三日。日暮れの鐘が、夕焼けの名残を震わせる。鐘の音を合図に、王都の軒先では灯り石(あかりいし)が一つずつ、淡い蜜色に点いてゆく。辺境なら、日が落ちればみな家へ入る。暗くなったら眠る支度をするだけで、灯りを使って夜を長くするという考えが、そもそもない。


 石の光は、春の月明かりに似て白く、それでいて少しも熱くない。火でないのにこんなに明るいことが、三日たってもまだ不思議で、通るたびについ手をかざしてしまう。細い指の影が床に落ちるだけで、冷えた指先はいつまでも冷たいままだ。


 今夜は年に一度の大夜会だという。磨き上げた大広間に国じゅうの貴族が集まるため、洗濯場は一晩閉め、十七人が全員、皿運びや片づけの応援に出るらしい。昼から皆が落ち着かず、石鹼と湯気の匂いの中に、祭り前のような熱が混じっていた。


 けれど、正面に貼り出された今夜の名簿を上から下まで目でたどっても、わたしの名前がない。ふくらみかけていた期待が、行き場をなくして、しゅんとしぼんでいく。


「今日で三日目です! 何か行き違いがあったのかと……」


「名簿にないものは、入れられません」


 門番は冷たく言い放つ。


「お名前を、うかがってもいいですか?」


「……申し上げる必要は認めません」


 門番は石像のように表情を変えない。頼めばいつか気持ちが届くと信じたいのに、閉ざされた扉も、胸の前で組まれた腕も、わたしだけを外へ押し返してくる。しょんぼりする暇はない、と頬を軽くたたき、香ばしい匂いの流れてくる厨房口へ回る。


「名簿にねえなら入れねえな」


「はい! なので、ここで働かせてください。お皿を運びます!」


「……正気か?」


「はい!」


 ガスパールさんは片眉を上げ、わたしの顔と腕を交互に見た。怒鳴り声が飛び交うほど手が足りていない現実もある。厨は湯気で真っ白にかすみ、肉と香草の濃い匂いが渦を巻いている。鍋の縁から吹きこぼれた汁は赤い炭の上でじゅっと音を立て、火の粉が小さく跳ねる。


「……前掛けは、そこだ」


「はい!」


 前掛けを腰に回して結ぶとき、指は迷わなかった。辺境では、令嬢も皿を運ぶ。麦の刈り入れも、井戸の水汲みもする。王都へ来てはじめて、誰かに教わらなくても体が知っていることをしている。きつく結んだ紐が、ここにいてもいい、と腰を支えてくれるようだった。肩の力がすとんと抜け、三日ぶん背中にこびりついていた強張りが、ゆっくりほどけていく。


 親方の太い声が、湯気を割って飛ぶ。


「マノン! ペリーヌ! ソランジュ! 皿を持て!」


「ジャンヌ、ロジーヌ、ファニー! そっちの卓だ!」


「ヴィオレット、エミール、マルグリット、ブランシュ! 酒が空くぞ!」


「アニエス、セリーヌ、ドニ、ユゲット! 下げもんに回れ!」


 名前が湯気の向こうから次々に飛んでくる。わたしは邪魔にならないよう壁際に寄りながら、顔を見て、返事の声を聞き、手にした皿や杯と結びつけて、全部覚えた。一度でいい。顔と声と、その人が何を持っているかが揃えば、名前は勝手にその人へ貼りつく。辺境では、百八十人をそうやって覚えている。


       ◇


 灯り石を吊るしたシャンデリアと花で飾られた大広間は、人と重なり合う布が多すぎて、声も足音も柔らかく吸い込んでしまう。ここでは腹から大きい声を出さないと、すぐそばの相手にさえ届かない。靴音が石に高く響く、天井の高い大回廊とはまるで逆だ。同じ王宮なのに、声の届き方も、息のしやすさも、部屋ごとに違う。


「マノン、そっち重いでしょ。半分、持ちます!」


「ティボー、そこ、段があります!」


「リゼット、コレット、そっちの卓、もうすぐ空きます!」


 名を呼ぶたびに、すぐ返事が返ってくる。はい、とか、おう、とか、忙しすぎて、あかぎれの手がちらりと上がるだけのときもある。その一往復が、体の芯をひとつずつ温めていく。辺境では、こんな呼び声が朝から晩まで絶えなかった。誰かの名前を呼び、自分の名前も呼ばれる。その輪の中に戻れた気がして、腕は重くなっていくのに、足だけが羽でも生えたように軽い。


 山のように皿を抱え、前が見えにくくなったところへ、ジュリアン様が足早にやって来る。婚約者候補が給仕をしているところを人に見られるのは、家の恥なのだそうだ。気づかわれているはずなのに、その言葉を思い出すと、胸のどこかが冷たくなる。


「お下がりください。それは私が」


 あの方は焦ったように皿へ両手を伸ばし、そのまま取り上げようとして――――持てなかった。


 白く長い指が皿の縁でつるりと滑り、重なった皿が危うく鳴る。重さの掛かる場所を知らない手だ。


「そっちは熱いです」


 慌てて取り返し、指先に伝わる熱をこらえて、わたしは皿を奥へ運んだ。振り返ると、ジュリアン様の灰色の目が、行き場をなくしたご自分の手を見つめている。叱られた子供のような横顔に、申し訳なさがちくりと刺さる。それでも足を止めれば、また何もさせてもらえなくなる気がして、わたしは声をかけられないまま人波へ戻った。


「あの給仕、令嬢では?」


 誰かのひそめた声を合図に、ざわめきが水の波のように広がる。色とりどりの扇がいっせいに開き、ぱたぱたという乾いた音が、まっすぐこちらへ押し寄せた。たくさんの視線に縫い止められ、抱えていた盆が急に重くなる。


「ソレルのお嬢様。給仕の真似事とは」


 冷えた笑いを含んだその呼びかけに、足の裏まで軽くなる。この方が、はじめてわたしの名を呼んでくれている。咎める響きなど耳に入らず、ようやく見つけてもらえた喜びだけが先に口から飛び出した。


「アドリエンヌ様! やっと呼んでくださいましたね!」


 さざめいていた大広間が、息を呑んだように静かになる。遠くで杯の触れ合う音だけが、ひどく澄んで響く。


「……いま、なんと?」


「お名前を呼んでくださって、うれしいです!」


 薄氷の色をした目が、はじめて大きく揺れた。ほんの少し眉の間が寄り、白い頬に、怒りとも戸惑いともつかない色が差す。何がいけなかったのか分からないまま、浮き立っていたわたしの心にも、遅れて小さな不安が影を落とした。


「……ふんっ!」


 扇が乾いた音を立てて閉じ、その方は何も言わず、取り巻きの人波を連れて離れていく。名前を呼んでもらえて喜んだのは、本当だ。けれど、遠ざかる背中を見ているうちに、何か大切なものを間違えた気がしてきた。扇の閉じる音だけが、わたしの名を呼んだあの方の声よりも大きく、いつまでも耳に残っている。


       ◇


 壁際の柱にもたれ、上着を肩へ引っかけただけの方がいる。赤茶の髪には白いものが混じり、首の後ろで無造作に括ってあった。頬と顎には無精髭が伸びている。目の下には、ろくに眠っていないような深い隈。それなのに、くたびれた顔の中で、緑の目だけが獣のようにやたらと明るい。


 その緑の目が、通りがかったジュリアン様を見つける。口元だけで面白そうに笑い、その方が言った。


「階段の坊主」


 それから、その方は確かめるようにわたしを眺め、こちらへ来いとでもいうように顎をしゃくる。


「そこの大声。お前、名は」


「ミレイユです!」


「来い!」


 短い言葉と一緒に、手が差し出される。節が太く、古い傷の走る、貴族らしくない荒れた手だった。踊りに誘われているのだと気づくまで、わたしはその手と、自分の抱えた皿を見比べてしまう。


「あ、すみません。このお皿を置いてからでもいいですか?」


 その方は目を丸くし、次の瞬間、喉の奥から声を立てて笑った。退屈そうだった顔が急に若返り、緑の目の光までやわらぐ。周りの貴族たちは、信じられないものを見たように息を呑んだ。


「王弟殿下が人前で踊られるのは、十年ぶりだ」


 押し殺した囁きが、風のように大広間を回る。十年ぶりという言葉の重さより、皿を持ったままでは失礼だという焦りが先に立ち、わたしは急いで盆を置く。磨いた盆の面に、わたしの目がひとつ映った。辺境では茶色にしか見えなかったのに、ここでは琥珀色が金に近い。それから差し出された荒い手に自分の手を重ね、きらめく床の真ん中へ出て、踊った。


 殿下の手のひらは、思っていたより厚く荒れている。固くなった皮膚が指に触れ、飾られた姿からは見えない日々があるのだと知った。踊りのあいだ、この方は一度もこちらを見ない。退屈そうに重いまぶたを下ろしたまま、それでも足だけは音楽の拍にぴたりと合い、迷いなく床を滑っていく。人に見られて硬くなっていたわたしの足が、少しずつ動きやすくなる。広い歩幅がわたしに合わせて狭められていることに、曲の途中で気づく。


「お前、なんで笑ってる?」


「楽しいので!」


「……つまらん」


 そう言いながら、殿下はわたしの歩調が乱れればわずかに待ち、曲が終わる最後まで手を離さなかった。


       ◇


 大広間を出るとき、戸口の給仕から夜風に揺れる庭の松明番まで、名を覚えた全員が笑って頭を下げてくれる。わたしも覚えた名を呼びながら返すと、疲れた顔がほころび、すすのついた頬まで明るく見えた。けれど、宝石と香水の匂いをまとった貴族の方は、一人も下げない。さっきまで温かかった背中に、薄い冷気が忍び込む。


 東門の外には、揺れる松明を囲むように人だかりができていた。年に一度の大夜会は、王都じゅうが楽しみにする見物なのだそうだ。焼き菓子や花を売る物売り、仕事を終えた人を待つ家族、炎を見上げてはしゃぐ子供。王宮で働く人の多くは下町に家があり、夜会の晩になると、身内が門の外まで迎えに来るらしい。再会した人たちの笑い声が夜空へ弾け、温かな輪があちこちに生まれている。


「あっ辺境のお嬢さまだ!」


「大声のお嬢さま!」


「お嬢さま、こっち向いて!」


「はい!」


 けれど、それは名前では、ない。期待しかけたものが、するりと足元へ落ちていく。


 そこにいる全員がわたしを知っているのに、誰もわたしの名を呼ばない。身分が違えば呼べず、門の外の人は名を知らない。知られることと、呼ばれることは違う。辺境では、この二つはいつも同じものだった。呼ばれるから知られていて、知られているから呼ばれる。どちらが先かなんて、考えたこともない。ふいに、畑の向こうや井戸端から自分を呼んでくれた人たちの声が耳の奥によみがえり、懐かしさが喉を強く締めつける。


 胸のあたりに、冷たい風の通る穴があく。三日で王宮じゅうが振り向くようになったのに、それでも、自分の名を呼ぶ声がほしい。大勢の笑顔に囲まれたその夜が、いちばん寂しくて、いちばん辺境から遠かった。


 笑い声の行き交う人波の向こう、馬車の前にジュリアン様が立っている。灯りを背にした灰色の目が、何かを確かめるように、まっすぐわたしだけを見つめていた。待っていたとは、口にしない。けれど、夜気に冷えた横顔は、ずっとそこにいたことを隠せずにいる。


「……なぜ、あの日のことを、どなたにも仰らないのですか?」


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