2. 陰口の作法は、まだ習っておりません
五の月十二日。朝の光を吸った大回廊の石は、素足で立つと、足の裏がきゅっと縮むほど冷たい。辺境の夏の朝、井戸へ向かうときに踏んだ土と同じ温度だ。懐かしいと思ったら、冷たさまで少しやさしくなる。
紙をくれた方に、きちんとお礼を言いたくて、わたしは大回廊を通ることにした。通らないほうがいい、と教えてくれた人は、たぶんこの廊下のどこかにいる。怖がって避けたら、せっかく差し出してくれた手を、こちらから見失ってしまう。会えなければ、お礼が渡せない。
床が濡れている――――。
ちょうど陰になるところで、注意していなければ気づかなかった。
わたしは滑らない。凍った坂で十八年、転ばない歩き方を体に覚え込ませている。踵から置かずに、足の裏を全部いっぺんに置く。膝をゆるめておく。それだけで、氷も濡れた石も、こちらの足をさらえなくなる。
けれど、後ろから足早に来た娘のほうが危なかった。靴底が水に乗り、細い体がふっと傾く。
キャァッ!
考えるより先に腕を掴んで、乾いた石の上へ引き戻した。手の中で震えた腕の細さに、遅れて胸がひやりとする。
「おっと危ない! お名前は?」
「……コレット、です」
「コレットさん、覚えました。ふふっ」
この子も洗濯場の前掛けをしている。名乗ってしまってから、しまった、とでもいうように唇を結び、困った顔になった。
「あの、あたし、拭くもの取ってきますんで」
「一緒に拭きましょう! 二人のほうが早いです!」
「……令嬢さまが、ですか?」
石の冷たさに触れた足の裏が、勝手に坂の歩き方をしていた。懐かしさが先に立ち、そのあとで、ここは辺境ではないのだと気づく。わたしの体だけが、まだ帰っていないらしい。背が高いぶん、転べば派手な音が出る。うちの姉なら、きっとお腹を抱えて笑うだろう。
濡れた床の向こうから、白金の髪を結い上げた方が歩いてくる。編み込みには、後れ毛が一本もない。卵形の顔に細い眉、白い頬には朝の光さえ冷たく見える。薄氷みたいな色の目はまっすぐわたしへ向いているのに、そこには人の姿が何も映っていないようだった。
扇を閉じる乾いた音が、広い大回廊の石壁に鋭く跳ねる。さっきまで揺れていた水の光まで、息を止めたように見える。
「辺境の方は、声が大きくていらっしゃること」
「アドリエンヌ様!」
返事は来ない。扇の先がわずかに持ち上がり、目の前に見えない壁を引く。
その方は、わたしを「辺境の方」としか呼ばない。声の中から、わたしの名前だけをきれいに抜き取ってしまったように思える。
名前を呼んでも返事が来ない、というのは生まれて初めてで、次の言葉を探したまま、口が半分ひらいて止まる。辺境では、呼べば全員が振り向く。畑の向こうからでも、井戸の底からでも、声が届けば必ず顔を見せる。首の後ろがじわりと熱い。腹が立ったのか、恥ずかしいのか、自分でもうまく分からない。
◇
わたしは厨房口へ回った。立ち止まっていると、さっき飲み込んだ言葉が胸につかえそうで、自然と足が速くなる。
「床を拭くので、布を、お借りできますか?」
「……あんた、誰だ?」
「ミレイユです! 昨日から王宮におります!」
煮込み鍋の湯気の向こうで、厨の親方が口をあけたまま布を出してくれる。腕は丸太みたいに太く、前掛けにはいくつもの脂の染みが重なっていた。香草と焼けた肉の匂いが、その大きな体のまわりであたたかく混じっている。
「ガスパールだ。……令嬢が拭くもんじゃねえぞ」
「ガスパールさん。覚えました」
膝をついて床を拭いていると、洗濯場から二人下りてきた。明日の大夜会で使う布を取りに来ただけらしいのに、わたしたちの前で足を止める。
「そこ、まだ濡れてる」
そう言いながら、洗濯場の者たちは顔を見合わせ、なんとなく手伝ってくれる。しゃがんだら、四人とも同じ高さになった。立ったままなら見上げたり見下ろしたりするのに、冷たい床の上では、身分の壁も少しだけ低くなる。
「お名前は?」
「マノン。洗濯場の長です」
「ティボー」
あとの十三人は、朝から大広間の設営に出ているという。会っていない人の名前は、わたしにも分からない。名前は、顔と声と一緒でないと頭に入ってこない。紙に書いてあるだけの名前は、たぶん一日で抜ける。けれど、目の前で教えてもらった名なら、その人の手つきや声の温度まで一緒に残るのだ。
石の冷たさが膝からじわじわ染みてくる。手のひらは赤くなり、爪の際だけが白い。それでも、水の筋が消え、床がもとの色へ乾いていくのを見るのは気持ちがよかった。布を絞る音や、誰かの息づかいがすぐそばにあるのも悪くない。辺境で牛小屋を流し終えたあとの、くたびれているのに胸だけは軽い、あの感じに近い。
通りかかった侍従の方が、こちらを見ないように顔を固めて通り過ぎていく。服のこすれる音だけが、わざとらしく近くを横切る。見ないようにする、というのも王都の作法なのだろう。見ないと決めた人の目は、まっすぐ見ている人の目より、ずっと分かりやすい。
◇
洗濯場は王宮の北の端にあった。低い屋根の下には、灰汁と石鹸の匂い、白く曇る湯気、風をはらんでぱたぱた鳴る物干しの布。差し込む日差しが、舞い上がる小さな水滴を銀色に光らせている。井戸の桶が三つ伏せてあって、大きいのが一つ足りないように見える。
人の声はしない。干した布のあいだに、リゼットが一人だけ残っている。白い布が風にふくらむたび、細い姿が現れては隠れた。
灰汁の匂いは、辺境の冬の洗い場とそっくり同じだ。王都に来て、匂いだけが、はじめて同じだった。鼻の奥がゆるみ、気づかないうちに肩が下がる。湯気の向こうに、赤くなった手をこすりながら笑う家の人たちが見えた気がした。目の裏が少し熱くなったのは、たぶんこの匂いのせいだ。他に理由はない。そう決めておかないと、今すぐ帰りたくなる。
「ここ、いい匂いですね」
「……灰汁ですけど」
「うちの冬と、同じ匂いです」
リゼットは何も言わず、濡れた布を石板へ叩きつけた。鈍い音が湯気の中へ沈み、上がった腕には、さっきより少し強く力がこもる。
「あのお手紙、あなたのよね? ありがとう」
あかぎれの手が、桶の縁でぴたりと止まる。赤い裂け目から水がしみているはずなのに、その指は痛みをこらえるように縁を強く掴んでいる。
「知りません」
それ以上は訊かなかった。訊いたら、この子はきっと、固く閉じた貝みたいに、もう何も言わなくなる。うちの村の、いちばん小さい弟子と同じ顔をしている。怖がっているのに逃げず、守りたいものの前でだけ、口をきつく結ぶ顔だ。
リゼットは、洗い桶に浮いた封の切れた紙を、一瞬だけ見ていた。水を吸った紙の端が、ゆらゆら揺れている。それから、何も見なかったみたいに桶を手前へ寄せた。
「……明日の舞踏会、お嬢様のお名前、名簿から消えてますけど」
「え。どうしてでしょう?」
「知りません。あたしは関係ないですよ?」
◇
午後、ジュリアン様が来た。作法をお教えします、と言って。窓から差す白い光の中で、その声は教本を読むように整っていたけれど、どこか息苦しそうにも聞こえる。
濃紺の髪は、今日も一本の乱れもなく撫でつけてある。灰色の目が、わたしの濡れた膝を一度だけ見て、すぐに逸れた。ほんの短い視線だったのに、気づかなかったふりを選んだことだけは、なぜかはっきり伝わってくる。
「陰口には、聞こえないふりをするのが作法です」
「それは、どなたのための作法ですか?」
薄い唇が開き、何かを言いかけて、また閉じる。言葉になれなかった息だけが、かすかに喉を鳴らした。
「……作法に、そのような問いは立てません」
「立ててはいけませんか?」
答えは返ってこなかった。遠くで食器の重なる音がして、この部屋にだけ、切り取られたような沈黙が残る。
「わたし、王都の作法をまだ習っておりません。習ってから、採るほうを選びます」
「……選ぶ、というものではありません」
「そうなんですか? 辺境では、決めていました。合わない作法は、村の寄合で捨てます」
話しているあいだ、あの方はずっと手の甲を撫でている。長い指が同じところを何度も往復していた。わたしはその指を見ている。見ていて、言わない。
言わないでいるのは、辺境の作法にはない。向こうでは、気づいたことは全部その場で言う。けれど、あの指の落ち着かなさを口にすれば、この人はもっと固く閉じてしまう気がした。言わないほうがこの人には親切だ、と考えている自分に、少し驚く。王都の作法を、一つだけ、自分で選んで採ったことになる。押しつけられたのではなく、わたしが選んだのだ。濡れた膝の布は重く、歩くたびに冷たく脚へ貼りついたけれど、その冷たさまで、さっきより少し耐えやすかった。
部屋へ帰ると、扉の下にまた紙がある。廊下の薄い光を背にして、白い端だけが、こちらへ小さく手を差し出している。
あしたは、厨房口から。
字は小さくて、力が入っていない。書き慣れていない手だ。けれど、急いで書いたらしい線の震えから、わたしをトラブルから遠ざけようとする気持ちだけは、前よりはっきり見える。顔も知らない誰かの手が、今度もこちらへ伸びていた。




