1. 王都で最初に覚えたのは、門番の名前でした
五の月十一日。朝の鐘がまだ冷たい空気を震わせるころ、わたしは王宮の東門の前に立っている。石造りの門は見上げるほど高く、胸の奥で跳ねる鼓動まで、王都に見つめられている気がする。
空が高い。辺境の空は山に切り取られていて、朝はいつも片側が夜の名残に沈んでいた。ここの空は端から端まで明るく、青さがどこまでも続いている。その広さがきれいすぎて、かえって、どこを見ればいいのか分からない。
朝日が斜めに差し、蜂蜜色の三つ編みの毛先を、溶かした金のようにきらめかせている。太いのを一本、右肩の前に垂らすのがうちのやり方だ。けれど、あちこちから逃げたほつれ毛だけは、馬車に揺られ続けた九日のあいだ、どうにも言うことを聞いてくれなかった。
王都は音が多い。荷車のきしむ音、呼び売りの張り上げた声、遠く近く重なり合うどこかの鐘が、隙間もなく耳へ押し寄せる。石畳では馬の蹄が硬く跳ね、その音が壁にぶつかって二度鳴る。そのくせ匂いは驚くほど薄い。土の匂いも、家畜の匂いも、朝の焚き火の煙もなくて、息を吸うたび、知らない場所にいるのだと思い知らされる。
そして誰も、目を合わせない。視線が触れそうになるたび、相手の目だけが水の上を滑るように、わたしをよけてゆく。
辺境では、道で人に会えば必ず目が合った。目が合えば、次に交わすのは名前だ。おはよう、と言って、名を呼び、腰の具合を訊く。そこまでが一組で、それをやらないと、その人はその日いなかったことになる。
ここでは、その次が来ない。わたしの体だけが返事を待つ形のまま取り残され、喉の奥に、小さな戸が閉まっているような息苦しさが残る。飲み込むものなどないのに、何度も唾を飲み込んでは、息の落ち着く場所を探してしまう。
門の脇には、槍をまっすぐ立てた方がいる。白髪の混じった鉄色の髪を短く刈り、朝の冷気にも揺るがない顔で、行き交う人々を見守っていた。
「おはようございます! ソレルから参りました! お名前を、うかがってもいいですか?」
鉄色の頭が、重い扉のようにゆっくりこちらを向いた。日に焼けた顔には警戒よりも、何を訊かれたのか分からない戸惑いが浮かんでいる。
「? ……。バルテルミー・グラン。衛兵伍長であります」
「バルテルミーさん。覚えました」
「……はあ」
伍長は少しだけ黙り、わたしの顔を確かめるように見てから、門へ手をかける。分厚い扉は低くうなりながら動き、朝の光と一緒に、王宮への道を見せてくれた。
◇
大回廊は、うちの納屋より広い。磨き上げられた石の床は、水を張ったように淡い光を映し、天井は首が痛くなるほど高くそびえている。歩くたび、自分の足音が四つに増えたように聞こえる。前から二つ、後ろから二つ。誰もついてきていないのに、少しだけ背中がむずむずする。
窓は高いところにしかなく、朝の光が細長い柱になって斜めに落ちてくる。埃は、その光の中へ入ったときだけ、きらきらと姿を見せた。辺境の家は天井が低いから、埃はいつも床の近くにいる。ここでは、埃まで背が高い。見上げるほど、自分だけが小さくなったようで、足元が急に心細い。
前を歩いていた小さな娘が、洗濯籠を落とした。糊のきいた布が石の上をするすると滑り、白い扇みたいに広がる。頭を布で包んだ娘は顔を青くし、こぼれたものを自分の体で隠すように、慌ててしゃがみこんだ。
考えるより先に、わたしも一緒にしゃがみ、冷たい床の上の布を片っ端から拾ってゆく。娘の指と触れそうになるたび、その手が怯えた小鳥のように引っ込むのが気になった。
「わたし、ミレイユといいます。今日から王宮に参りました」
「れ、令嬢さま!? そ、そんな……」
「これ、全部お一人で運ぶんですか?」
「……朝はいつも、これくらいです」
「二人のほうが早いので! お名前は?」
娘の手が、布の端をつまんだまま止まった。細い顔は頬骨だけが高く、まだ幼さの残る輪郭をしている。前髪の下から覗いた目は鳶色で、叱られる前のような暗い怯えを宿している。
「あたしの名前なんか、覚えても」
「覚えますよ」
「……なんでですか?」
わたしは急かさず、娘の答えを待つ。石の冷たさが膝からじわじわ上がり、耳の奥で、心臓がいつもより速く鳴っている。名前を言ってもらえないかもしれない――そう考えている自分に気づいた途端、喉のあたりがきゅっと狭くなった。辺境では、一度も抱いたことのない心配だ。誰かの名前を訊いて、断られたことがないからである。
娘は布を一枚たたみ、しわを伸ばすふりをして、しばらく指先を動かしている。それから、胸の奥にしまっていたものをそっと渡すように、小さく息を吸った。
「……リゼット、です」
「リゼットさん。覚えました」
籠を渡すと、リゼットは最後まで目を合わせないまま、逃げるように行ってしまった。あかぎれで割れた手は、持ち手へすがりつくように強く巻きついている。あの手は十五くらいの子の手ではない。うちの村なら、あれは冬を二十回越えた手だ。遠ざかる小さな背中を見送りながら、名前を教えてもらえた嬉しさのすぐ隣で、理由の分からない痛みがみぞおちの奥に刺さっている。
◇
柱の向こうから、扇の陰に隠した声が、甘い香水の匂いと一緒に流れてくる。
「辺境から熊が出てきましたのね」
「あの手をご覧になって。まあ、農具でも握っていらしたのかしら?」
天井が高いと、小声まで驚くほどよく響く。石の壁も音を返し、磨かれた床まで冷たく返す。うちの村なら、この距離の声など風が全部さらってしまうのに、ここでは悪意だけが形を失わず届くらしい。
わたしは振り向いた。ちくりとしたものはあったけれど、黙って飲み込むやり方を、わたしはまだ知らない。
「え、聞こえてますよ!」
扇が、風ごと凍りついたようにぴたりと止まる。隠れていた目だけが大きくなり、わたしを見返している。
「ここ、天井が高いので、もうちょっと大きい声でお願いしますね? ふふっ」
誰も、何も言わなかった。扇の羽根が二枚、持ち主の動揺を隠しきれず、細かく震えている。
「……失礼な」
「ははは、すみません! 聞こえるように仰ったのだと思ったので! ミレイユと申します! 覚えていただけると嬉しいです!」
言い返したあとで、口の中がからからに乾いていることへ気づいた。辺境では、大きい声はただの声だ。風が強いから、みんな大きい。けれどここでは、声を出すたび、見えない重い扉を押すように少し力が要る。舌の付け根は砂を噛んだみたいにざらつき、まっすぐ立っている膝にも、ほんの少しだけ力が入りすぎていた。
大階段の上で、婚約者候補だという方に引き合わされる。さっきまでのざわめきが遠のき、今度は自分の鼓動ばかりが耳につく。
「ソレル辺境伯家の三女、ミレイユと申します! どうぞよろしくお願いします!」
「……ジュリアン・ド・ラ・フォンテーヌです」
「ジュリアン様。覚えました」
ジュリアン・ド・ラ・フォンテーヌ公爵令息。黒に近い濃紺の髪を短く刈り上げ、少しの乱れもなく撫でつけて額を出している。面長の顔に薄い唇がまっすぐ結ばれ、灰色の目は、こちらの心を量るようにまばたきが少ない。差し出された手は指が長く、白く整いすぎていて、物の重さを支えたことがないように見える。その白さに見とれるより先に、近づきにくい冷たさを感じる。
「二十七段ございます。お足元に」
「ありがとうございます! 段の数まで覚えていらっしゃるんですね?」
「……ここで育ちましたので」
階段は白い石でできており、窓から落ちる光が、冷たい水のように表面を流れている。真ん中だけがわずかに擦り減っていた。何百年ぶんの足が、同じ場所を上り下りしたのだろう。手すりは片側にしかない。見下ろすと、下に集まる人の顔が小さく、落ちればどこまでも転がりそうに見える。
三段目で、靴の先が、わたしの踵の内側へ入っていた。あれは、足がもつれた形ではない。
考えるより先に、わたしはあの方の腕を掴む。胼胝のある大きな手だから、しっかり掴めば離さない。弓と手綱で作った手だ。指の付け根が固く、相手の重みを受けても力が逃げない。二人ぶんの体重が片側だけの手すりへ急に寄った。それでも腕と足に力を込めると、ぐらりと傾いた体が、ぎりぎりのところで止まる。
「危ないですよ!」
本気で言っている。この人が落ちたら、二十七段の白い石は容赦なく硬い。辺境で屋根から落ちた男を、三人ばかり家まで運んだことがある。あのとき腕に残った、人の体のいやな軽さがよみがえる。骨は思っているより簡単に折れるし、折れる音は、耳の奥からなかなか消えてくれない。
「……離してくださいますか?」
「はい! でも、もう一度ふらついたら掴みます!」
掴んだところだけ、あの方の腕がびくりと強張っている。細いのに、筋だけが張りつめた糸のように硬い。布越しの体温はあるのに、その腕は触れられることを拒むようで、なぜか指先が少し冷えた。
「お怪我はありませんか?」
「……ございません」
下から見ていた方々には、令嬢が令息を助けた、と映ったらしい。遅れて、小さな拍手まで波のように起きた。けれどジュリアン様だけは微笑まず、自分の靴の先を、そこに答えが書かれているかのように見つめている。灰色の目の底に何が沈んでいるのか、わたしにはまだ分からない。
◇
あてがわれた部屋は、辺境の納屋より狭く、窓が西にしかない。傾いた日が窓枠を抜け、日が落ちるまで、壁を燃え残りのような橙色に染めている。豪華な家具は並んでいるのに、知らないものばかりに囲まれた部屋は、広い空より息苦しく感じられた。
一人になって扉が閉まると、掴んだ腕の感触が、まだ手のひらに残っていることへ気づく。布の下にあった細い骨と、逃げ場をなくしたように硬くなった筋の感じが、何度手を開いても消えてくれない。
それから、手が震え出した。今になって、階段の白さと、その下に口を開けていた高さが、頭の中へ鮮やかに戻ってくる。
右手の指先が、わたしのものではないように勝手に細かく動いている。握り込んで止めようとすると、震えは手首を越え、今度は肘まで上がってくる。
「あ。……こわかったんだ、わたし」
いつもこうだ。辺境では、傷は数えるものではなく、見つけた者がすぐ手当てするものだった。数える暇があったら手を動かせ、と父の兵たちは言う。だから自分の痛みだけは、忙しさに置いていかれて、半日くらい遅れて届く。震える指先をもう片方の手で包み、冷えた手に体温を分けるように、ゆっくり押さえてゆく。
あの方の腕は細かった。掴んだときの筋は硬く、驚くほど骨が近くに感じられる。手が先に出たのは、村で誰かが落ちかけたら掴む、という順番が体に染みついているからだ。そこにあの方への気持ちは一つも入っていない。それでも手のひらは、あの硬さをまだ覚えている。
肩の力を抜き、肺の底にたまった怖さまで追い出すつもりで、長く息を吐く。窓の外では、夕闇の中に灯りが一つずつ点いてゆき、見知らぬ星座のように王都を埋めていく。辺境なら、この時間はもう寝ている。王都の夜は長く、その長さのぶんだけ、考えなくてよかったことまで浮かんでくる。あしたも門を通る。バルテルミーさんは、また返事をしてくれるだろうか。名前を、あと何人覚えられるだろう。覚えた名前のぶんだけ、ここを怖くない場所にできるだろうか。
そのとき、扉の下で紙の擦れる音がする。白い紙が一枚、扉の下から床を滑って部屋へ差し込まれた。近づく足音は聞こえず、遠ざかる気配さえ残っていない。
あした、大回廊を通らないほうがいい。
差出人の名は、どこにもない。紙を持つ指に、ようやく収まりかけていた震えが戻る。誰かがわたしを見ていた。その事実だけが、扉の向こうの暗がりよりも冷たく、部屋の中へ残っている。




