↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
向日葵の約束  作者: まさ
PR
3/4

向日葵の約束

光は、影を知った人にこそ強く届く。

痛みを抱えた心に触れたとき、

その光はただの明るさではなく、

“生きたい未来”へと変わる。


悲劇を乗り越え、二人の愛は誰の手にも届かないところで実を結ぶ。

そして、永遠の未来を約束し幸せな夢を見る。

運命の日が二人を別つその日まで・・・

第三章 向日葵


2002年9月24日。『運命の日』まで5年8か月と、25日。

 瑛史郎が亡くなってから一か月。暦ではすっかり秋だが、まだ日差しは強く、夏服でも汗ばむような気候だった。この日は部活も休みで、学校の授業が終わってからまゆと会って、駅前にあるイタリアンのお店で食事をしながらのんびり話をしていた。高校生にとってここは良い。安くて入りやすい。

「まさとが平日に部活ないの、珍しいね」

 まゆがキッズメニューの裏に印字されている間違い探しとにらめっこしながら聞いてきた。

「たまにはこういう日があっても良いよ。うちの部活やりすぎなんだって」

「え?まさかサボり?」

「違う違う、夏の合宿の疲れが出て皆へとへとだったから、皆でサボり」

「なんだ、やっぱりサボりか」

 間にキッズメニューを挟んでいるが、ニヤつくまゆの笑顔が手に取る様に分かる。

「まぁ、自主練しても良かったんだけどね」

「え~、なんでそんなこと言うのよ?せっかく会えたのに」

 キッズメニューを勢いよくテーブルに叩きつけ、眉毛をハの字にして顔を僕に向けた。それを見て自然と笑みがこぼれた。

「それを言わせたくてね」

「うわ、やられたぁ・・・」

「いつもの仕返しだ」

「私はそんなこと一回もしたことないのに」

 まゆは悪戯な顔をしている。

「してるしてる。週1はしてる」

「週1はウケる」

 いつも通り、二人で会うとよく笑う。

「この間のコンサート、良かったよ。まゆのソロも綺麗だった」

「うん、皆でいっぱい練習したからね!」

「マジでプロみたいだったよ、鳥肌すごかった」

「ありがと」

 笑顔のまま、僕が少し目線を落とした。まゆはそれを見逃さなかった。

「・・・カノンの時、泣いてたね。何かあった?」

「・・・気づいてた?」

「うん・・・聞いても、いい?」

「・・・瑛史郎が、瑛史郎の声がした、気がした」

「そっか、なんかそんな気がした」

「うん、そんな気がしている気がした」

「何それ」

「気がしてばっかりだ」

「・・・瑛史郎君、なんだって?」

「前を向けって、湿っぽい顔は俺には似合わねぇってさ」

「さすがまさとの親友、よく分かっているね」

「返事、しに行かないとな」

「うん、そうだね」

そう言った僕に頷いたまゆの瞳の奥に、 言葉にならない影が一瞬だけ差した。

「今度また、まゆと江ノ島に行きたい。一緒に来てくれるか?」

 そう言うと、少し浮かなかったまゆの顔に笑顔が戻った。

「今更何言っているのよ。私が一緒に行かないわけがないでしょ。あなたとなら、何処へでも行くわよ」

「知ってる。でも、ありがとう」

 まゆは優しく微笑んでいる。

「よかった」

「え?」

「まさとが、また江ノ島行きたいって言ってくれて」

 どういう意味だろうと思っていると、まゆが言葉を重ねた。

「江ノ島は二人の大切な思い出の場所だけど、あんなことが起こって、もう行きたくなくなっちゃってたら嫌だなって思ってた」

 やっぱり、考えることは一緒だな。

「俺は、まゆが俺に気を遣って江ノ島に行っても笑顔にならなかったら嫌だなって、ちょっと思ってた」

 それを聞いたまゆが微笑む。

「また、おんなじこと考えてた」

「そうだな。いつも通りだ」

「うん、こうやってずっと一緒にいるんだもんね、私たち」

「ああ」

「これからも、ずっと一緒だよ」


2002年9月29日。『運命の日』まで5年8か月と、20日。

 この日、僕はまゆと二人で江ノ島に来た。不思議と嫌な感情はなく、いつものように談笑しながら並んで歩いた。遠くからはたくさんの人の笑い声が聞こえ、江の島はいつも通りだった。

 瑛史郎が居なくなった東浜ではなく引き上げられたヨットハーバーに来て、二人で目を閉じて手を合わせた。容赦なくテトラポットに打ち付ける波の音と僕らに強く吹き付ける風の音が混ざり合い、見えていなくても海の存在感がそこにはあった。

 心の中で瑛史郎への感謝を唱え、理不尽を受け入れるように深く息を吐いた。目を開けて隣を見ると、まだまゆが目を閉じている。凛とした鼻筋の先に綺麗な指先が揃い、艶のある黒髪が風に靡いている。直接関わりのなかった瑛史郎を想うその横顔に、まゆの優しさが滲む。ゆっくりと瞼が上がり、綺麗な瞳が海を映した。少し寂し気な表情をしている。

「おまたせ」

 いつもの顔が僕を見上げる。

「いや・・・ありがとう」

「ううん、とんでもない。いつものとこ、行く?」

「ああ、行こうか」

 この時のまゆの笑顔が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。二人で手を繋いで、江ノ島を登った。


 30分後に奥津宮に着いた。いつも通り、世界を二つに分けるかのように佇む2本の石燈籠が僕らを神聖な地に招き入れる。秋になると生い茂る緑の中に赤と黄色が混ざっていつもの景色に色が付き、見上げて歩くだけで飽きなかった。この日も空は晴れ渡り、龍宮を明るい陽が照らしている。龍宮の前に立つと、いつもパワーを貰っている龍神様がなんだかいつもより少し小さく感じた。

「また来たね、龍神様」

 まゆが僕に並んで龍の像を見上げる。

「今日はなんだか、寂しそうに見えるね」

「俺にも、なんかそう見える」

「たまには、龍神様も調子悪い日あるよね」

「う~ん、そういうもんなのかな」

 僕らは少し名残惜しむように何度か振り返りながら龍宮を後にした。

「ねぇ」

 まゆが僕の腕を引いて呼び止める。

「どうした?」

「今日は、少し寄り道しない?」

「寄り道?」

「うん、こっち」

 まゆは龍宮から出てすぐ前の道を指さした。しっかりと舗装はされてなく、土がむき出した道になっている。

「こっちは何があるの?」

「龍恋の鐘」

「龍恋の鐘?」

「そう。なんか、好きな人と両想いになれるんだって!」

「・・・それ、俺等にいるのか?」

「いるとかいらないとかじゃないの、面白そうでしょ?」

「・・・まあ、いつもと違うところに行くのも悪くはないか」

「じゃあ決まり、行こう!」

 そう言うと、まゆは僕の腕を強く引っ張った。

「痛いって」

「へへ~♪早くはやく!」

 まゆの先導について行くと、左側に少し小さな鐘が立っていた。右側には江ノ島の海を臨む。

「うわ、すごい景色・・・」

 僕が絶景に見惚れている間に、まゆが鐘の元に上がっていた。

「ほらまさと、今なら誰もいないよ。早くはやく!」

「急かすなよ。良い景色なんだから、もう少し見させてよ」

「はやくはやく!早く来ないと、人来ちゃうよ!」

 無邪気に僕を手招きするまゆに引っ張られるように、僕もまゆのいる鐘のところに上がった。鐘から下がった縄に手をかけると、まゆの手が重なる。まゆの指先が手に触れた瞬間、身体が温まるのが分かった。

「・・・海、綺麗だね」

 まゆの言葉に動かされるように顔を上げると、陽の光をまぶしく弾く海が広がっていた。

「なんだよ、急かしておいて。でも、綺麗だな」

 遠くから海鳥の鳴き声が聞こえ、僕らを囲む木々が風で歌う。ほんの一瞬だけ、静寂が辺りを包んだ。

「・・・まさと」

 まゆは少し俯いて落ち着いた声で小さく僕の名前を口ずさむ。その声が、心なしかいつもより少しだけ弱く聞こえた。

「どうした?」

 まゆは僕の返事を聞いてから、ゆっくり頷いて話し始めた。

「まさとは、一見強くて、頼もしくて、誰の助けなんかなくても生きて行けそうに見える。と思う」

「・・・急にどうした?」

「でも本当はそんなことはなくて、いつも悩んで、苦しんで、たくさん誰かのために傷ついている。まさとはいつもそれうまく隠せてしまっていて、不の側面に誰も気が付かない」

「・・・まゆ」

「でも、私は知っている。まさとの優しさの本質を。まさとの強さの本当の意味を、知っている」

 まゆの言葉は優しく、力強かった。その言葉を乱したくなかったらから、僕は息を呑み、何も言わず続きを待った。

「私なら、あなたを支えられる。誰からも頼られるあなたの、誰も知らない弱みを、私なら受け止められる。・・・この世界で私だけが、本当の意味であなたを守れる」

 まゆは風の音に紛れるように、小さく息を吸った。

「まさと。どうか、人生を通して私の傍にいてください。何があってもあなたが傷つかないように、傍にいたい。長い人生で何かあるその度に、私を居場所にしてほしい。あなたの心が揺れるその瞬間瞬間に、私はあなたを守りたい、支えたい。そして、私を支えてほしい」

 まゆの気持ちが、まっすぐ伝わった。気づけば視界が滲んでいる。

「・・・それ、俺から言いたかったわ」

 涙がほほを伝い、僕は口角を震わせた。まゆの頬も陽の光を弾いている。

「へへ、私の勝ち~」

 歯を見せ、満面の笑みをまゆが浮かべる。僕らを包む空気が、普段のものに変わった。

「何の勝ち負けだよ、これ」

「知らない。でも勝ち」

 二人共泣き顔で笑い合った。この空気感がたまらなく愛おしい。

「じゃあ、ほら、はい」

「・・・なんだよ?」

「私も聞きたい。まさとのやつ」

「言いづらいわ、ものすごく」

「いいからいいから、早く言ってよ」

「そんな急かされて言ったら、あまりにも安っぽくて軽くなるから嫌だ」

「う~ん、確かに。それもそうだ」

「そりゃあそうだろう」

「・・・うん、残念。じゃあ今度聞かせて!その時は私のよりすごいのよろしく!」

「わかった、プレッシャーすごいけど・・・」

「へへへ、楽しみにしてるね!」

 潮風に靡き、分かれた前髪からまゆの笑顔が覗く。陽の光を一身に受け、キラキラ輝いていた。

「もしかして、そのための龍恋の鐘?」

「そういうことは、気が付いても言うものじゃありません」

 怒った言葉とは裏腹に、まゆは笑顔だ。

「じゃあ次は、下降りますか」

「お、今日はそういう日なの?」

「まぁ、来年受験生だしな」

「やった!私も話したいんだ!」

「じゃあ行こうか。今日も良い天気だ」


 また二人で稚児ヶ淵に降りてきた。この日はまだ陽が高く、拓けた海が明るく僕らを迎える。二人がちょうど座れる岩に並んで腰かける。

「ここはいつ来ても気持ちがいいね」

「秋は暑さもちょうどよくて、気持ちいいよな」

「なんか私たち、老夫婦みたいだね」

「確かに、高校生の会話じゃなかったな」

 波の音に乗り、二人の笑い声が踊っている様だった。

「私ね・・・」

 ひとしきり笑った後、まゆが落ち着いたトーンで話し始めた。

「私、看護学校に行く。お姉ちゃんと同じ看護師になりたい」

「・・・そうか、良いと思うよ。似合ってる」

「私、まさとの傍で、まさとの役に立ちたいの」

「うん?」

「まさとが医療に行くって聞いてから、ずっと考えていたの。私も医療に行って同じ景色を見て、まさとを応援したい。夢を見るその横顔をずっと見ていたい」

「まゆ・・・」

「・・・だめ?」

「いや、だめとかじゃなくて、いいのか?そんなので将来を決めてしまって」

「そんなのじゃない!」

「俺は、まゆが何を目指しても、どんな目標を持ってもずっと応援する。だから俺のことは気にしないで、もっと自分が楽しいと思うこと、やりたいことをするといい。夢の理由を俺にするな、まゆに後悔してほしくない」

「・・・優しいね。でも、これは私が自分の意志で選んだ、私だけの答え。あなたの話を聞いて、私もまさとの夢に共感した。これからの医療を考えることは、とても大切だと思う。だから、一緒にあなたの夢を叶えることが、私の今の目標なの。私にはもう、これ以外考えられない」

「・・・どうして、そこまで?」

 そう聞くと、まゆは微笑んで僕に体を向け、その優しい左手を僕の右ほほに添えた。目は合うが、その艶やかな唇は何も言わない。

「もしかして、また教えてくれないやつ?」

「そう。本当に悪いけど、これだけは譲れないんだ」

「なんだよ、それ」

「でも、私の想いは疑わないでほしいな」

「そんなの、疑うわけがないだろう」

「知ってる」

「まったく、ずるいな」

「それも知ってる」

 今まで何度も交わしたやり取り。初めは教えてくれないことに不安な気持ちもあったが、今となってはなんだか安心感で心地いい。

「まさとは?」

「ん?」

「まさとのも、聞かせて」

 まゆは足を浮かせ、パタパタを揺らしながら僕を見上げている。僕は水平線に目を向けた。

「俺、医学部目指そうと思ってる。難しいのは分かってるけど、やっぱり医療を動かそうと思ったら医者になるしかないと思った」

「やっぱり」

「・・・ばれてた?」

「まさとなら、厳しい道を選ぶんだろうなと思った」

「別に、楽で済めば俺はそれでいいんだけど」

「楽な道は、皆がもう通ってる。あなたが目指すのは誰も目指したことのない未来。そこには楽な道でたどり着けるわけがないんじゃないかな。きっと医学部受かるのが楽に感じるくらい、その先はもっと厳しいよ」

「全く、皆と同じで納得出来たらどれだけ楽だったんだろう」

「でも、それを楽しんじゃうでしょ?皆と同じだったら、まさとはきっとつまらないと感じるんじゃないかな」

「まあな。まゆと一緒なら、なんだって楽しいさ」

「えへへ、嬉しいな」

 まゆが照れくさそうな笑顔を僕に向ける。

「医学部出たあとは、どうするの?」

「医者と並んで薬剤師がいるクリニックを作りたい。必要なら薬学部も出て、薬剤師の人との関係も築きたい」

「おお、なんか新しいね」

「病院と薬局を分けずに、クリニックの中で役割を分ければいいと思うんだ。問題はたくさんあるだろうけど、これなら多分行ける」

「すごいね、前に言ってたこと!」

「結構色々調べた。言うのは簡単だけど、きっとこの病院を実現させるのは簡単じゃないんだろうな」

 僕が空を仰ぐと、まゆが下からのぞき込んできた。

「その病院、看護師も必要なんじゃない?」

 出来るかどうかには一切触れない言葉だ。なんだか少し心が軽くなった。

「・・・そうだな、優秀な看護師がいてくれるとずいぶんと助かるんだけど」

「ふふ、私も頑張らなくっちゃ」

 そう言うまゆに目を向けると、嬉しそうに海を見つめていた。

「まゆ」

その綺麗な横顔に直接届ける勇気がなかったから、僕も海に向けて言葉を投げた。

「なに?」

まゆも水平線を見ながら返事をする。

「俺は、まゆがいたから変われた。瑛史郎のことも乗り越えられた。夢を、持てた。今の俺がいるのは、全部まゆのおかげだ」

 その言葉に対し、まゆが大きく首を横に振る。言葉が続くのも早かった。

「そうじゃない。まさとは何も変わっていないよ。出会った頃のまま、優しくて、困っている人にスッと手を差し伸べられて、自分に何が出来るかをずっと考えている。私は、そんなあなたを好きになった。そしてあなたは、私の想いを受け止めてずっと応えてくれている。まさとが今までしてきたことは、全部あなた自身の力よ。私はただ、あなたの優しさを傍で感じていただけ」

「・・・まゆ」

「私はね。夢を話している時のまさとが一番好き。だから私のことばかりではなくて、もっと遠くを見てほしい。私は隣でその横顔を見ているから。私のことを気にしなくても、私はずっと、どんな時でも、たとえ誰が敵になってもあなたの味方。それはたとえ、生まれ変わっても変わらない」

 まゆは、迷うことなく言い切った。出会った頃に言っていたことと同じことを、まっすぐに僕に伝えてきた。その変わらない愛情が僕の背中を押し、前へと突き動かす。正直、まゆがどうしてそこまで僕のことを好きになったのか、それ以上に愛情が深くなったのか、3年以上経った今でも分からない。それでも、その想いは疑う余地のないほど明らかなものだった。まるでどうやって地球が出来たのか分からないが、誰もがそこにある惑星の存在を疑わない様だった。

 僕は静かに、右の掌を広げてまゆの前に差し出した。それに気づいたまゆはその手に左手を重ね、指を絡めて握り返してきた。そのまま右の二の腕に頭を預ける。

「覚えてる?初めてここに来た時も、こうやって二人で海を眺めたよね」

「ああ、覚えてる。あの時は緊張していて、何も覚えてないけど」

「ふふふ、それどっちよ。でもこうやって、あの時と同じ気持ちで一緒に江ノ島の海を見られるのが、本当にうれしい」

「あれから二人で色んな所行ったけど、ここはやっぱり特別だな」

「うん。これから何度来ても、変わらず綺麗だなって思うんだろうね」

「また、何度でも一緒に来ような」

 そう気持ちを伝えると、まゆの左手に力が入った。

「ありがとう」

「そんなに言うほどか?」

「もちろん。気持ちのこもったまさとの言葉一つ一つ、行動一つ一つは、いつでも何でも嬉しいもの」

 僕もまゆの左手を強く握り締め、まゆの頭に自分の頭を預けた。そのまま何も言わず、二人で静かに波の音を聞きながら海を見ていた。海風は少し冷たかったが、二人の心を温めるために、言葉は要らなかった。



 それから秋が過ぎ、11月には瑛史郎のいない文化祭を迎えた。後夜祭で体育祭の映像が流れ、応援団の演舞をする瑛史郎が映った。少し胸がざわついたが、懐かしくて笑みがこぼれた時、僕は瑛史郎の死を受け入れたのだと実感した。

 12月に入ると凍てつく冷気が少しずつ受験の空気を連れてきた。学校でクラスメイトと話しても、来年のクラスで理系と文系どちらに行くか、受験する大学や学部などの話で持ち切りだ。年末に差し掛かると予備校の冬期講習も始まった。毎日勉強で忙しく、必然的にまゆと会う時はデートなどできなかったため一緒に勉強することで二人の時間を確保した。部活も朝練は行かないようにし、その時間を勉強に充てた。ただ、どんなに忙しくても毎年の恒例行事だけは欠かさなかった。



2002年12月24日。『運命の日』まで5年6か月と、26日。

 毎年のように13時に港南台駅の改札口に行くと、まゆが僕に気づいて声をかける。

「まさと!こっちこっち!」

「ごめん、待ったか?」

「うん、ちょっっっっとだけね!」

 まゆは左目を閉じ、右手の人差し指と親指の隙間から僕を覗いて待ち時間の短さを示した。『っ』の数が表すように、そんなに間は空いていないのでまゆの右目は全然見えない。

「そういう時は、全然待ってないから大丈夫って言うもんじゃないのか?」

「そんな初々しい時期が私たちにもありましたねぇ」

「まぁ、今更取り繕われても困るしな」

「そうよ。それにそれを言うなら、時間通りに来てごめんなんて言わないの。どうしたってどっちかは少しくらい待つんだから」

「確かに、それもそうだな」

「ねぇ、そんなことより早く行こう?今日はひっっっさしぶりのデートなんだから♪」

 今度の『っ』は長さを示している。日本語は面白い。

 

 この日も感情表現豊かなまゆといつもの通りみなとみらいで楽しい一日を過ごした。受験勉強ばかりであまり遊びに行く時間も作れず疲れも溜まっていたからか、抑え込んでいた何かがはずれたかのようにものすごく楽しんだ。デートの後、改札前で交わす別れの挨拶がいつも切ない。

「じゃあおやすみ、まゆ。帰り気を付けて」

「・・・うん、まさともね」

 港南台駅の改札前で手を振ってまゆに背を向けた。バスロータリ―を渡る信号が青になるのを待つために立ち止まり、深い息を吐いた。イルミネーションや車のヘッドライト、信号の光が飛び交う冬の空に、染まりやすい白い靄が肌恋しい季節を彩る。冬の綺麗な夜空を見上げていると、急に後ろから誰かに抱き着かれた。右腕が胸に、左腕がお腹に巻き付く。背中には顔を寄せる感覚。すぐに誰か分かった。

「まさと」

 まゆだ。さっき別れたばかりなのに、どうしたんだろう。

「まゆ、どうした?」

 振り返らず、2つの掌でお腹に置かれたまゆの左手を包んだ。

「今日はなんだか、まだ一緒にいたい」

 時間は21時を回っていた。横断歩道を渡り始める人たちを横目に振り返ると、まゆは少し俯いていた。僕は屈んでその綺麗な我儘顔をのぞき込む。

「うん、いいよ」

「ほんとに?」

「ああ、俺も本当はまだ一緒にいたい」

「やったぁ!」

 素直に喜ぶまゆは、中学生の頃から変わっていない。

「でもどうする?もうどこもお店開いてないし、外寒いし」

「今日ね、お姉ちゃんは大学のゼミでクリスマスパーティーがあるから帰ってこなくて、なぁみぃは香菜子おばちゃん家にお泊りだから、家に誰もいないんだ。うちに泊まらない?」

「いいのか?」

「もちろん、一人でいるよりずっといい。まさとの着替えもうちにあるしね」

「そうだな、じゃあお邪魔しようかな」

「うん、行こ行こ!」

 満面の笑顔を見せるまゆの手を取ってまた改札方面に歩きだした。

「ねぇ、コンビニでケーキ買って行こ!しゅわしゅわの飲み物も」

「さっき食べたじゃん、まゆがあんなに行きたがってた、綺麗な夜景が見えるお店で」

「いいの!夜景を見ながら食べるのも良いけど、家でまさとと食べるのも同じ位いいんだから」

「そんなに食べて、太っても知らないぞ」

「今日は特別なの♪」

「分かったよ」

 二人でコンビニに入り、ケーキと飲み物を選んだ。レジで並んでいる間にスナックの保温機が目に留まる。

「ねぇ、フライドチキンも買っていい?」

「え?」

「いや、あんなにちゃんとしたお店って、あんまり量はないな、って思って」

「確かに。まさと足りるかなって少し心配してた」

「そんなわけで1つ」

「あ、2つにしよう!」

「ん?」

「今日は、特別、なの」

「自分に言い聞かせてるな」

「吹奏楽部は消費カロリー多いから大丈夫!」

「何でもありかよ」

「あ、何でもありならあれもあり?」

 そう言うとまゆはレジに並ぶ列から小走りで抜け出し、直ぐに帰って来た。

「じゃん!線香花火」

「花火?」

「そう!」

「真冬に?」

「冬の花火は夏より綺麗らしいよ!」

「そうなの?」

「うん、夏より湿度が低くて空気が澄んでるからなんだって。夕陽が綺麗なのと同じだね!」

「へぇ、それはいいね」

「ね!たくさん入ってるからいっぱいやろ!」

「そうだな。でもよくそんなものがあったな、この時期に」

「それもそうね、何でだろう?」

 他のお客さんは静かにレジを待っているので、二人で笑い声が出ない様に堪えた。この日も良く晴れた日で、コンビニを出て見上げると星と月が僕らを見下ろす。二人で並んでゆっくり歩いても、20分もしないうちにまゆの家に着いた。いつものこじんまりとした庭には、見慣れないハンモックがぶら下がっている。

「あれ、ハンモックつけたの?」

「そうなの!お姉ちゃんが最近自分でつけたのよ」

「へぇ、すごいね」

「確かに行動力はすごいけど、ハンモックって普通春か夏にやるよね?全く、お姉ちゃんは思いついたら何でもすぐにやっちゃうからなぁ」

「真衣さんらしいじゃん」

「ね。後で一緒に座っちゃう?」

「楽しそうだけど、勝手に座って真衣さん怒らない?」

「まさとならきっとお姉ちゃんは怒らないよ。なぁみぃなら怒ると思うけど」

「その線引きはなんなんだ?」

「さあ、落ち着きじゃない?」

「それならさすがに勝ってるわ」

「ウケる」

 二人で笑いながら家に入った。リビングの壁に上着を付けたハンガーをかける。

「寒いから先にお風呂沸かしちゃうね」

「ありがとう。ケーキと飲み物冷やしておくよ。冷蔵庫開けるね」

「うん、よろしく」

 冷蔵庫を開けて二つのケーキをチルド室の奥に押し込み、500㎖のペットボトルを扉ポケットに立てた。ダイニングテーブルの真ん中にフライドチキンが二つ入ったビニール袋を置き、椅子に座った。ふと前を向くと正面の客間のふすまが少しだけ空いている。少し気になって歩み寄り、ふすまを開けた。中は真っ暗で、ふすまの影になっていたところに僕の影を残して光が差し込む。部屋の真ん中にぶら下がった紐を2回引っ張り褐色の白熱灯を点けると、4畳半の和室の様子が照らし出された。正面には掃き出し窓があり、左手には立派な仏壇。その奥に、優しく笑みを浮かべる40歳くらいの一人の男性の写真が立てかけられていた。なんとなく、その面影がまゆと似ている。

「まさと」

 僕を呼ぶ声に振り返るとふすまに手をかけ、まゆが顔を出していた。写真の男性の様に、優しく微笑んでいる。

「まゆ」

「ここにいたんだ」

 僕がここで見たものを理解したまゆは、優しい声を僕に手渡す。

「うん。ごめん、勝手に入って」

「ううん、いいよ」

 まゆは優しく目を閉じ、少しだけ首を横に振る。

「この人、もしかして・・・」

 写真に目線を戻してそう言うと、まゆも客間に入ってきて僕の腕に肩を寄せた。

「そう。お父さん」

「やっぱり。優しそうな人だね」

「うん。優しいお父さん。絶対まさとを気に入っただろうな」

「気に入って、貰えたかな」

「もちろん!」

「そうだといいな」

「私は、まさパパとお姉さんに気に入って貰えるかな?二人共まだ会ったことないけど」

「あの人達はほんとうに人と話すの苦手だから、そんな期待しないであげて」

「そうなの?仲良くなりたくてあんまりしつこくすると嫌われちゃうかな?」

「その前に逃げると思うよ。それか流石のまゆでも呆れるか」

「う~ん、さすがラスボス。一筋縄ではいかないわね。先に攻略本読んでおかないと」

「攻略本にも載ってない、裏技のコマンド入力しなきゃ倒せません」

「何それ?めっちゃむずそう」

 二人でおでこをくっつけて笑い合った。暖房がまだ部屋中に行きわたっておらず室温は低かったが、寒さは感じなかった。

「ねぇねぇ、お風呂沸くまでチキン食べよ!」

 そう言ってまゆがダイニングに向かった。僕は客間の電気を消す為に白熱灯の紐に手をかける。部屋が暗くなる前にもう一度仏壇に目を向けると、そこに浮かぶ優しい笑顔が僕に向いているように感じた。そのまま電気を消し、ふすまを閉めてまゆを追った。

 その後、二人でチキンとケーキを食べ、風呂を済ませてパジャマに着替えた。時計の針が零時を指しても、誰にも急かされず二人だけで過ごせる夜が嬉しくて、眠るのが惜しかった。

「ねぇ、寝る前に花火やろ!」

「言うと思ったよ。せっかく買ったんだからやろうか」

 パーカーを着たまゆが物置から小さいバケツを持って来て水を汲んだ。僕はケーキに備え付けられていた蠟燭を4本、花火と一緒に持って庭に出た。リビングから出るとハンモックが思った以上に近い。まゆは庭に置いてあった植木の水受けの皿を引っ張り出し、僕から蠟燭を受け取った。皿に蠟燭を立てようとするが、うまく立たない。

「どうしよう、蠟燭が立たない」

「貸してみな」

 僕は皿の前に座り、蠟燭をまゆから受け取る。

「マッチ」

 僕の端的な指示に対しまゆはマッチをこすって火をつける。『シュボ』という音と共に、まゆの頬が赤く揺れた。蝋燭の根本の銀紙をはずしてマッチを受け取り、火を蠟燭に近づける。蠟が溶け柔らかくなったところで皿に押し付けた。

「え、これで立つの?」

 まゆが不思議そうな顔をしている。僕が蠟燭から手を離すとまゆから歓声が上がる。

「すごい!立ってる!なんで?」

「蠟が溶けて皿に少し広がってからまた固まったんだ。これでブックエンドみたいに立てられる」

「さすがまさと!でもこれ、4本立てられる?固まった蝋が皿に広がってるなら少し離さないとだめ?」

「大丈夫。隣に立てる蠟燭も火で温めれば、その熱で皿の蝋も少し柔らかくなって接着できる。蝋燭の側面も少しあぶればそこもくっつけられるし」

 そう言って、1本ずつ残りの3本も立てた。その様子を抱え膝で見守るまゆの顔が、マッチに火が付く度に照らされる。じっと僕の手元を見つめる澄んだ瞳に映る炎が、とても神秘的だった。

 正方形に4本並んだ蠟燭に火をつけると、一回り大きい炎が1つ出来るかと思いきや、4つの普通サイズの炎が立った。まゆと向き合い、笑った。

「なんか、思ってたのと違うね」

「ああ、1つにまとまるかと思った」

「なんだか、うまく行かないね」

「そうだな、人生みたいだ」

「ま~た、老人みたいなこと言って」

 まゆがそう言いながら線香花火のビニールを開ける。

「でも・・・」

「でも?」

「でも二人でいれば、いつでも笑顔になれるね。はい!」

 僕に差し出す線香花火の奥に、出会った頃から何も変わらない、いつまでも無邪気なまゆの笑顔があった。そしてその笑顔の奥に、誰よりも深い愛情を秘める。僕も自然と笑顔になり、線香花火を受け取る。

「ねぇ、同時に火点けよ!」

 炎が灯ると、二つの線香花火が並んでぱちぱちと弾ける。小さくてもとても優しくて、柔らかくて、なんだか安心する音だ。不規則に散らかる火花が、小さな残像を残して毬の様な球を描く。

「うわぁ、きれいだね・・・」

まゆは嬉しそうに口を開けてその様子を見ていて、僕は線香花火を見ずにそれに見惚れていた。それからたわいのない話をしながら次々と線香花火に火を点け、燃え尽きた10本の花火がバケツの水に浮いた。

 花火が終わると部屋からまゆが毛布を持って来て、二人でハンモックに座った。結構しっかり固定されていて二人で乗っても大丈夫だった。体を寄せ合い、1枚の毛布に二人で包まってずっと話をしていた。なんてこともない、まゆとのいつもの会話。どんな時間よりも愛おしい。見上げると、綺麗な星空が広がっていた。隣からは「ふわぁ」という気の抜けた柔らかい音。

「眠いか?」

「毛布の中あったかくて眠たくなってきちゃった」

「そろそろ寝ようか。もう時間も遅い」

「うん、そうしようか」

 花火とろうそくを片付けて部屋に戻り、掃き出し窓を閉めて鍵がかかっていることを確認し、ふらつく足を2階に運んだ。あの日と同じように、二人で寄り添ってまゆのベッドにもぐりこんだ。僕の腕の中でまゆが眠りに就き、その寝息に誘われ僕も夢に落ちて行った。

 

年が明け、僕らは本格的な受験生になった。会話の端々まで勉強に侵食されたが、将来を語る時間は嫌なものではなかった。忙しさが増すほど、まゆと過ごすわずかな時間は貴重になり、季節だけが速度を上げて過ぎていった。気づけば、もう高校最後の夏を迎えていた。


2003年8月1日。『運命の日』まで4年10か月と、18日。

 この日は夏期講習もお休みで、たまには勉強のことは忘れてのんびりクーラーの利いたリビングで寝そべってテレビを観ていた。閉め切った窓の外から、蝉の必死な叫び声が聞こえる。

「あら、今日は予備校行かないの?」

 買い物から帰って来た母さんがダイニングテ―ブルに食材を乗せながら僕に声をかける。

「この前の模試が少し良かったから今日は休み。あとで少し単語だけやるよ」

「そうね。最近のあんた、少し疲れてそうだったからたまにはそんな日も必要よ」

 手際よく買ってきた食材を冷蔵庫や戸棚にしまっている。

「なんか最近、昔と違ってあれしなさい、これしなさいって言わなくなったな」

 僕がそう言うと、片付けの手を止めて僕の方を向いた。玉ねぎを持った右手で僕を指さす

「甘ったれるんじゃないわよ。もうあんたも子供じゃないんだから、あんたの思うように生きなさい。親も含めて誰もあんたの人生に責任なんか持たないわ」

「なんだよ、息子が間違った道に行くかもしれないとは思わないのか?」

「人生に進む前から正しい道なんかないわ。進んだ道を正解にするのよ」

「何?その名言」

「あんたは小さい頃から屁理屈ばっかりでああ言えばこう言う子だったから、黙らせるためにこれくらいのものは1ダースでも持っているわよ」

「せっかく良いこと言っているのに、動機がひどいな」

「失礼ね。もうすっかり更年期だけど、まだ循環器系はそんなにひどくないわよ。消化器系はサッパリだけどね」

「その動悸じゃないから。それに自虐が酷すぎる。全くこの母親は、ボケてるんだかマジなんだか」

「あんたが将来何になって何をしたとしても、真優ちゃんを悲しませないようにすればその人生は概ね正解よ」

「・・・まゆのことを言われると、何も言い返せなくて腹立つんだよな」

「今日はせっかく休みにしたのに、会わないの?」

 片づけが終わった母さんがダイニングテーブルの椅子に着いた。僕も向かいに座り、携帯を軽く振りながら答える。

「ああ、さっき連絡したら、今日みなとみらいの花火があるらしくて二人で行くことになったよ」

「・・・花火か」

「花火がどうかしたのか?」

「いや、長岡花火ももうすぐだなって思って」

「長岡?」

「覚えてない?パパが中国行く前に最後かもしれないからって、家族4人で行ったのよ」

「ああ、新潟行って花火見たのは覚えてるけど、あれ長岡だったんだ」

「そうよ。あんた花火が始まるって時にフラッといなくなってあちこち探しまわってたから花火どころじゃなかったけどね。結局花火終わる頃にひょんと出てきて・・・あれからあんたがいなくなっても心配して探すのを辞めたわ」

「それいつだっけ?全然覚えてない」

「パパの単身赴任が8年目だから、多分あんたが小4の時ね」

「確かに、新潟の花火は家族と見た覚えがないな」

「あの時一人で観ていたの?」

「全然覚えてないけど、なんか誰かと話していたような気がするんだよね」

「何よそれ。知らない人と観ていたわけ?」

「ああ、全然覚えてない」

「全く。まぁ何はともあれ見つかって本当に良かったわ。あんな人だかりの中迷子になったら普通見つからないわよ」

「でも、花火がすげぇ迫力だったのははっきり覚えてるよ。夜だったのに真っ白だったな」

「一応、歴史も長くて日本でも最大級の花火大会だからね。規模も大きいのよ」

「そんな話を聞いた後に俺はみなとみらいの花火大会に行くのか・・・」

「比べない、比べない。みなとみらいも十分綺麗だし、今度は真優ちゃんと見るんでしょ?長岡とは違うのよ」

「分かってるよ。冗談だって。良い息抜きになるようにゆっくりしてくるよ」

「・・・そういえばあんた、本当に医学部受けるの?」

「もちろん。そのためにずっと頑張ってるんだし。今更どうしたんだ?」

「いや、我が子ながら大層な目標だし、入学がゴールじゃなくてちゃんとその先にしっかりとした目的があるから特に文句はないんだけど、医者は仕事一辺倒になって本当に好きじゃないと人生を楽しめないってよく聞くわよ?特に40歳くらいまでの若い良い頃に。あんた、本当にそれでいいの?」

「急にどうした?選んだ道を正解にするんだろ?仕事中心の人生になるのは覚悟の上だし、あの父親の子供だから自然とそうなるんだろうなとは思っているよ」

「それも良いけど、大切な人と過ごす時間を重ねる人生も、素敵なものよ」

 そう言われたら、自然とまゆのことを考えた。まゆならきっと分かってくれる。心の中でそう言い聞かせた。

「・・・大丈夫。もう決めたことだ」

「そう。なら自分を信じて進むといいわ。でも覚えておきなさい。自分で決めたからと言って必ずやり切らなきゃいけないわけでもないわ。それで自分の首を絞めては元も子も無い。決めたことを見直し時には変えることも、人生で最も立派なことの一つよ」

 そう言われると、なんだか夢にこだわり過ぎて大切な何かを忘れているような感覚が襲ってきた。でも、江ノ島で僕に見せてくれたまゆの笑顔を思い出し、少し肩をなでおろす。

「・・・分かった。気を付けるよ」

「選んだ道なんていつでもやり直せるから、進みたいときは何も気にせず突き進みなさい。大丈夫、あんたなら自分が間違っていたらすぐに気が付くわよ。今すぐに出さなきゃいけない答えでもないし。でもいい?進みながらでも考え続けなさい。立ち止まったあんたを、誰も待ってはくれないから」

 母さんは僕を諭す様に言葉を渡してきた。ここまで僕が決めたことに口を出すのは本当に珍しい。しかも答えを落としてくるわけでなく、自分で考えさせるような言い方だった。きっとこれは僕が自分自身で決めなければいけないことなんだろう。

「・・・母さん」

「何?」

「ありがとう」

「急にどうしたのよ、変な子ね。長岡の時から何にも変わってないわ」


 その日の13時、港南台駅でまゆを待っていたが、珍しく待ち合わせ時間にまゆが来ていない。10分ほど辺りを見渡してみたが姿は見えなかった。少し心配になって携帯の画面でまゆの連絡先を探した。着信履歴からだとすぐに出てくる。

「お待たせ」

 まゆの声に振り返ると、髪を結い上げた浴衣姿のまゆが立っていた。いつもとは全く違う大人びた雰囲気に、思わずドキッとした。

「え?・・・浴衣?」

「うん・・・変かな?」

「ううん、いいじゃん、似合ってる。髪上げるの」

「え~~?浴衣じゃないの?髪の毛も大事だけど!」

「冗談冗談」

「もう!」

 まゆがそう言いながら僕に近づいてきた。僕の耳元にその小さい顎を寄せ、左手の人差し指で僕のお腹をつつく。

「私の格好がいつもと違うから、照れているんでしょ?」

 図星をつかれた僕は、まゆの左手を握った。平静を装い、静かに耳打ちする。

「そういうことは、気づいても言うものじゃありません」

「あ、いつかの仕返し?」

「どちらかと言うと、俺が仕返しされたのかな?」

「あはは、そうだね。そろそろ行く?ごめんね、遅くなっちゃって。浴衣歩きにくくて・・・」

「大丈夫、気にするな。ゆっくり歩こうか」

「うん!ありがとう」

 まゆの手を引き、ゆっくりと改札を通った。


 いつも通りみなとみらいの街並みを二人で手を繋いで歩いて、ランドマークタワーのコールドストーンでアイスを食べた。その後ゆっくりとクイーンズスクエアを回ってたわいのない話をした。花火大会があるからか、みなとみらいはどこを歩いても行き交う人であふれていて、つないだ手を握り返すまゆの手の力がいつもより強い気がする。花火が始まるのは18時だったが、2時間ほど早い時間に臨港パークに着くと、二人掛けのベンチが一つだけ空いていた。海に向かって腰をかける形になり、絶好の花火鑑賞スポットだ。そのベンチに二人で座ってまだ明るい横浜の海を眺めた。潮風が心地よく海のにおいが強い。少しずつ傾き始めた陽に照らされ、まゆの浴衣姿がとても映える。

「まさか座れると思わなかったね」

 歩いて来て暑いのか、まゆは手で右首元を仰ぐ仕草をしている。顔を赤くしながら、いつもの笑顔を僕に向ける。いつもは髪に隠れている首筋がとてもきれいだ。

「そうだな、浴衣だと立って観るの大変そうだから良かった」

「うん、ありがとう」

「早い時間に来てよかったな。江ノ島や鎌倉の花火の時は時間ギリギリになってすごい人だったから」

「あの時はずっと立って観てたもんね」

「もしかして座ってゆっくり一緒に花火観るの、初めてじゃないか?」

 そう言うと、なぜかまゆがうつむいた。少し嬉しそうな顔をしている。

「・・・どうした?」

 そう声をかけると、すぐにこちらを向き直した。

「ううん、ちょっと色々思い出してた」

「色々?」

「一緒に座って花火を観るのは、これが初めてじゃないよ」

 そう言うまゆは、少し声のトーンが低かった。その声色とは対照的に、穏やかな、優しい笑みを浮かべる。

「え?うそ?いつ?そんなのあったっけ?」

「え~?忘れちゃったの?」

「え、いや、忘れてはいないはずなんだけど・・・」

「じゃあまた宿題ね。思い出したら、私をその花火に連れて行ってよ」

「またこういうやつか・・・」

「大丈夫、まさとなら思い出せる!」

「また無責任な・・・」

「私ならいつまででも待ってるから」

「わかったよ、期待しないで待っていてくれ」

「うん、楽しみにしているね」

 結局僕には、まゆがいつのことを言っているのか分からなかった。ただその笑顔は、僕が思っているよりもっと遠い記憶に触れているように感じた。

「浴衣でたくさん歩いて疲れただろ。飲み物買ってくるよ。何がいい?」

「ほんとに?やった、麦茶がいいな」

「分かった。待ってろ」

「うん、よろしく」

 飲み物を買って帰って来ると、ベンチの背もたれから首を出すまゆの背中を見た。浴衣の襟足から背筋が伸び、凛とした佇まいをしている。遠くのベイブリッジを見つめ、少し上向き加減に横を向くまゆの頬から鼻の頭が少しだけ覗き、顎から首筋を結ぶ輪郭が絵に描いた様に整っている。その後ろ姿は少し寂しげで、なんというかとても美しかった。


————そうだ、いつものまゆは可愛いけど、今日のまゆは綺麗なんだ。


 まゆと出会ってから、4年半の月日が経った。中学二年生だった僕らは、もうじき18歳を迎える。ずっと一緒にいるから分かりにくかったが、僕もまゆも少しずつ、確かに大人になっていく。過ぎ去っていく時間を想うと少し寂しい気持ちもあったが、これからの二人の日々がとても待ち遠しく、楽しみに思えた。

 それからまゆと並んで話をしていたら、あっと言う間に暗がりが横浜に綺麗な夜景を連れてきて、花火が次々と打ち上げられた。光と音が織りなす芸術に、僕らの心は奪われた。花火が重なって広がると、不意にまゆが僕の手を握ってきた。反射的に握り返しまゆに目を向けると、じっと空を見上げるいつものまゆの横顔が色とりどりの光に照らされていた。なんとなく、懐かしい感じがした。


————大切な人と過ごす時間を重ねる人生も、素敵な人生


 母さんの言葉を思い出し、胸が苦しくなった。こんなに近くに大切な人がいるのに、仕事ばかりの道を僕は進もうとしているのか。僕は座り直し、まゆに体を寄せ握った手に力を込めた。まゆは僕が何を考えているのか知ってか知らずか、じっと花火を見つめながら僕の手を握り返した。

「まさと」

 その透き通った声は、花火の隙間を縫って僕の耳にしっかりと届いた。もう一度繋いだ手に力を込めることでそれに返事をした。

「私は、あなたがどんな道を選んでもずっとそばで応援するから、心配しないで思った道を進んで」

 そう言って頭を僕の肩に委ねてきた。まるで僕が抱いている不安や葛藤を全て分かっているようだった。まゆに分かってもらえていると知って、心が軽くなった気がした。それからは二人何も話さず、座って並んで、横浜の真ん中で咲き乱れる花火を見上げていた。



2003年11月24日。『運命の日』まで4年7か月と、26日。

 この日は母さんの経過を見てもらうため、二人で木村先生を訪ねた。定期受診は母さん一人で行っていたが、今日は全身麻酔をして消化器官をすべてカメラで検査をする予定だったため、付き添いが必要だったのだ。

 検査が終わり、母さんがまだ寝ている間に診察室に呼ばれた。あの時のように、木村先生が座って僕を迎える。

「経過は良好です。しっかり毎日薬を飲めている様ですね」

「ありがとうございます」

「薬は減らしても大丈夫そうなので、処方変えておきますね」

「はい」

 パソコンの打ち込み作業を終え、木村先生が僕に体を向けた。少し間を置き、先生が口を開く。

「ところで、医師を目指しているそうですね」

 優しい笑みで木村先生が言った。

「はい。母から聞いたのですか?」

「ええ、お母さん、心配していました」

「え、心配?」

「医師とは、人を救う象徴として見られることが多々ありますし、多くのテレビドラマではそのように表現されます」

 少し低めの先生の声で発せられたその言葉が、僕の心に重くのしかかった。妙な緊張感が走り、続く言葉を聞くために身構えた。

「しかし、実際は救えないと感じることの方が圧倒的に多い。放っておいたら亡くなってしまう病状の場合、その4割程の方が治療を施しても残念ながら亡くなってしまう。できても延命くらいで、むしろ苦痛を与えてしまう結果になることも少なくはない」

 瑛史郎を救えなかった感覚がわずかに戻り、胸が締め付けれる思いだった。先生の視線から目をそらすことが出来ない。僕が言葉を返せないと見抜いていたのか、先生はそのまま続ける。

「あなたは医師になるには優しすぎると、お母さんはおっしゃっておりました。自分の行為の先の死に、あなたの心が耐えられるのかと。耐えられたとしてそれが日常になってしまった時、あなたが自分を見失ってしまうのでは、と」

 何も言えなかった。

「あなたの優しさは、初めてお母さんがここに運ばれた時から私も感じています。医師の適正は高そうですが私も概ね同意見です。でも、それだけで医師をあきらめることもありません。医師になる目的をはっきりさせて、それを軸とするといいでしょう。あなたはなぜ、医療を志すのですか?」

 木村先生の口調ははっきりしていて、僕のすべてを言い当てられたようだった。医療の専門家に話すのは少し恥ずかしかったが、医師を目指す目的、その後の夢について話した。

「なるほど、いい視点ですね。もしかしたら医師になるより多くの人を、そして医師でも救えない人達を救えるかもしれません」

「先生、僕はどうしたらいいですか」

 そういうと、先生はくすっと笑った。

「いや失礼、お母さんが言ったとおりの反応をあなたがしたもので」

 その言葉で、木村先生がこの話を切り出した背景が少し見えた気がした。

「そう言われたらこう返してくださいと言われています。『自分で考えなさい』と」

 僕は恥ずかしくなって右手で後頭部をかいた。

「ただこれだけは言えます。あなたの仰ったその先を本気で目指すなら、医師であることは足かせにはなっても利点にはなりにくいでしょう。医師は法と戒律、派閥によって自由な動きはできない。まさに医療制度の手足で歯車です。あなたのような柔軟な発想は、見つかり次第つぶされてしまう」

 医師になるのを止めようとする木村先生は、なんだか嬉しそうだった。かたい説明ではあるが、すんなりと僕の心に落ちていく。

「新しい体制の病院を作るなら、医師としてではなく医師を雇った方が動きやすいと思います。実際、ほかの職種の方が開業し、雇った医師に院長をお願いして自分は別の業務を行っているケースもあります。それこそ、政治など」

「政治・・・文系ですか?」

「政治家になるならそうですが、特定領域の制度改革に携わるなら、やはり専門職の経験は必要でしょう。あなたの話なら、薬剤師なんかもいいかもしれません」

「薬学部・・・」

「ここまで言えばあなたなら答えを出せるでしょう。ここからは、ご自身で考えてみてください。もちろん、医師は素晴らしくやりがいも多い職業ですので、私はおすすめですよ」

「はい、考えてみます。ありがとうございます」

 そう言って診察室を出ようとしたとき、先生に呼び止められた。

「あと、制度改革は正しさだけでは進みません。例えどんなに本質的に誤った制度でも、現行を変えることがとてつもなく困難であることは覚えておくといいでしょう。一方であなたにしかできないことがあり、代わりが利かない存在であることも、決して忘れないでいてください」

 また先生が何を言っているのかもすぐにわかった。その言葉が、瑛史郎が亡くなった夜にまゆからもらった言葉と重なった。ついでにいじめが無くせなくてもがいていた頃の自分も思い出した。僕は「はい」とだけ言って診察室を出た。


2003年12月24日。『運命の日』まで4年6か月と、26日。

 この日もまゆと二人でみなとみらいに映画を観に行った。受験直前だったからさすがに迷ったが、この1日を後悔するなら、受験勉強に取り掛かった日が1日遅かったと思うようにしよう。そう思った。

 ワールドポーターズで映画を観て、クイーンズスクエアに向かって海沿いを並んで歩いていた。

「ラストサムライ、面白かったね!」

「ああ、思ったより良かったね。観る前は外人が侍だと違和感あるかと思ったけど」

「ほら~、私の方にして良かったでしょ?」

「いや、ゴジラとラストサムライどっちかって言われたからめちゃめちゃ心配だったけどな」

「ゴジラの新作も絶対面白かったと思うけどな~」

「系統が違いすぎるって。そう言えば、まゆはどうして女系家族なのにゴジラ好きなんだ?真衣さんも真奈真実も別にって感じなのに」

「おじいちゃんが大好きで、長岡で散々観させられた」

「その言い方だと、あんまり好きじゃなさそうじゃん」

「最初は怪獣が戦ってるだけでつまらなかったけど、実は結構人間のドラマもあって、感動する作品もいっぱいあるよ!デフォルメの二頭身ゴジラもかわいいし!」

「そうなんだ、俺は戦争のイメージしかないな」

「全く、分かってないなぁ」

「うるさいな」

「あ、そうだ」

 何かを思い出したようにそう言って、僕と向き合って足を止めた。

「ねぇ、今日少し話したいことがあるんだけど、どこか座らない?」

 まゆは僕に何か頼み事やお願いをするときには決まって上目遣いをしてくる。そんな小細工をしなくても、断ったことはほとんどないんだけどな。

「改まってどうしたの?もちろんいいよ。またクイーンズのベンチ行く?」

「いつもはみなとみらいと言えばそこだけど、今日はあそこ行きたい」

 まゆは臨港パークの方を指さした。

「ああ、夏に花火観たところ」

「そう!」

「いいけど、寒くない?あんな海の目の前」

「大丈夫、寒くない。すぐ終わるから」

「寒いんじゃん」

「いいの!ほら、行くよ!」

「分かった、分かった」

 まゆが少し小走りに僕を先導する。腕を引っ張られているわけではなかったが、僕もそれに合わせて足早になった。

 日没前ではあったが、夕陽がみなとみらいのビルに隠れ、少し影が落ちた冬の臨港パークは肌寒く、海から吹く風に身を縮こませられた。先にベンチに座ったまゆも、寒さを我慢している。

「ほら、座って」

「大丈夫かよ、ほんとに」

「大丈夫。カイロと、さっき買ったコーンスープがあったかいから」

 寒空の下でも、まゆの笑顔は変わらない。僕はまゆの隣に腰かけた。

「なんだ?話って」

「うん。大学生になってからのことなんだけど・・・」

 まゆが少し緊張している様に映った。その後の言葉がなかなか出てこない。

「・・・うん、大学生になったら・・・どうした?」

「大学生になったら、二人で少し広いお部屋借りて、一緒に住まない?」

「え・・・?二人って・・・」

「私と、まさと」

 はじめは何のことか分からなかったが、少しずつ頭で理解が進み、はっきりわかったところで僕の顔が綻びた。それを見たまゆも、緊張した面持ちが溶けていく。

「いいねそれ、楽しそう。俺もそうしたい」

「ほんとに!?」

「ああ、もちろん」

「ぃやった~!」

 大声で喜ぶまゆは両手を大きく広げて立ち上がり、そのまま僕に抱き着いてきた。手に持っているコーンスープの缶が僕の首筋に触れ、ちょっと熱い。

「あ、でも・・・」

 冷静になったまゆが顔を僕の顔の前に戻し、向き合った。少し悲しそうな表情をしている。

「どうした?」

「まさママ、おうちで一人になっちゃうね。きっと寂しいよね」

 その悲しそうな表情からまゆの優しさが滲んでいた。僕はその頬に、拭う様に手を当てた。

「大丈夫。まゆと暮らすって言ったら、母さんならきっと喜んでくれる。・・・まぁ、寂しいとは思うだろうから週に1回くらいは一緒に遊びに行こうか」

「一緒に実家行くって、なんかいいね♪でも私は少し遠慮して月に1~2回くらいにしておこうかな。まさとは週に1回行ってあげて」

「え?どうして?一緒に行けばいいじゃん」

「う~ん、さすがまさと。何年経っても鈍感。変わらない、治らない」

「やかましい。今回はいつもより悪口が多いな」

「へへ~、どうしてでしょうか?」

「嬉しいからだろ?」

「・・・え?」

 きょとんとするまゆを膝から下ろし、立ち上がった。少しにやけた僕と対称的に、不服そうな顔をしている。

「もう、そういうことは・・・」

「分かっても言わない!・・・だろ?」

 食い気味にそう言うと、まゆの両頬が一気に膨らんだ。

「もう!どうしてよ!」

「いや~、どうしてでしょうか?」

「うぅ~、教えろ~」

 まゆは顔を伏せ、両手の拳を握ってぽかぽかと僕の胸を叩いた。まゆに殴る気はないので痛くはない・・・が、左手だけ妙に痛い。よく見ると、なんだコーンスープか。僕はまゆの両手首を受け止め、そのまま抱きしめた。その瞬間まゆの動きも止まり、その両手はゆっくりと僕の首に回った。

「まゆ・・・」

「うん」

「ありがとう」

「ううん、こちらこそ」

「ずっと、一緒だからな」

「知ってる」

 僕らの腕に力がこもる。

「まさと」

 耳元で僕を呼ぶ声に応えてまゆを離した。

「陽が落ちてきて寒くなってきたね。そろそろ行こうか」

「ああ、そうしようか」


 年の瀬の1週間は毎年、なぜだかどの景色も少し薄暗く感じ、このまま世界が終わってしまうのではないかという錯覚に陥る。年の瀬という区切りも人間が勝手に作ったものだし、気候も1週間前と大きくは変わらないのに、不思議な感覚だ。そんな僕の非常識な心配をよそに、勝手に初日の出と名付けられた朝日が昇り、例年通り大晦日と同じ朝が来る。この年は僕らにとって大学受験の年で、高校を卒業する年だ。人生を左右する、大事な年になるらしい。

 2月25日。横浜市立大学の試験会場で数学の問題用紙と向き合いながら、僕は迷いを抱えていた。このまま受かって進学すると、ほぼ間違いなく医師の道に進むだろう。

・・・できるだろうか。まゆとの時間も十分に取れず、日々誰かを守れない感覚を抱えながら、僕は医師の仕事を続けられるのだろうか。

・・・本当にいいのか?僕は誰のために、何のために夢を追い、医師を目指そうとしているのか。この道でないと、本当に思い描く未来は叶えられないのだろうか。これは目的ではなく手段だったはずだ。「夢を追う」と口にするのは簡単だが、現実的な道を、僕は本当に考え抜いたのか・・・?

 僕は試験中に手を止め、問題の答えを考えることをやめてしまった。悩みが邪魔して試験に集中できない。こんな試験中に手を止めてしまう状況を客観的に見ると、僕の中で答えは出ているんだと悟った。そもそも、十分に集中していても国公立医学部に僕が簡単に受かるわけでもない。悩みを抱えたままであればなおさらだ。僕は数学の試験が終わった後英語の試験を待たずに会場を後にした。建物を出ると再入場できないと何度も注意されたが、一切迷いなく対応して帰路に着いた。



2004年3月9日。『運命の日』まで4年3か月と、10日。

 冬を越えた体には日差しがだいぶ暖かく感じるが、まだ肌寒い空気の中で最後の校門をくぐった。3年前の入学式は瑛史郎と並んであんなに大きな校門を通ったが、今日一人で通る。なんだかあの頃と比べて少し小さく見えた。とても懐かしく思う一方で、あの日がつい昨日のことのようにも感じる。空を見上げると、瑛史郎が満面の笑みを浮かべているかのように真っ青に晴れ渡っている。今日は、僕らの卒業式だ。

 教室に入ると、いつものように紗奈が出迎える。

「おはよう、正人」

「磯山、おはよう」

 この光景は6年前から毎日の様に見てきた。以前は変わり映えのない日々にうんざりしたこともあったが、これも最後と思うととても寂しい。椅子を引き紗奈の隣の席に腰かけた。誰もいない教室に椅子を引きずる音が響く。

「・・・なんだ、話って」

「うん。ごめん、1時間も早く来てもらっちゃって」

「気にするな。ちょうど俺もたまには磯山とゆっくり話がしたいと思ってたんだ」

 紗奈は少しはにかんでこめかみの髪を右耳にかけた。窓からは気持ちのいい風が吹き込み、カーテンがそれに合わせて靡く。

「ほんとに、あんたはいつも言葉選びがうまいわね」

「褒めてるのか?」

「まあね、嫌みもあるけど」

「なんだよ、それ」

 紗奈からふふっと小さな笑い声が聞こえた。横顔は少し寂しそうだ。

「あんた、浪人するの?」

 お互いの方は見ず、黒板を見ながら話を進める。

「ああ、現役で横市の医学部はさすがに厳しかったよ」

「・・・そんなウソ、私に通せるとでも思った?」

 図星だったが、少しうれしかった。

「いや、思ってない。今まで磯山に隠し事ができたことがないからな」

「やりたいこと、他に見つかったの?」

「ああ、そんなところだ。ちゃんとやってても横市に合格できていたとは思ってないけどな」

「そうだと思ったわ」

「・・・磯山は、進学か?」

「うん。4大の第一志望受かったからそこに行く。法学部」

「さすがだな。法学部行って何するんだ?」

「馬鹿ね、みんなあんたみたいにやりたいことベースで大学や学部を選んでないわ。とりあえず有名な大学の受かりそうな学部から順番に受けて、受かったところに行くのよ。その先は、大学入ってから考えるの」

「・・・なんか、若いうちからやりたいことが定まっててすごいねとかよく言われるし、磯山もそういうつもりで言ってくれているのかもしれないけど、別にそんなことはないよ。たまたまだ。俺はたまたま自分のやりたいことに出会えただけで、みんなはまだ出会ってないだけだと思うんだ。だからゆっくり探せばいいさ、磯山にしかできないことが、きっとあるよ」

 紗奈はうつむいて足に両手を挟みながら聞いている。

「そうね・・・ありがとう。ずっとあんたを見ていたから焦っちゃっていたけど、その言葉を聞いてなんだか安心したわ」

「なんだ、焦ってたのか?」

「そうよ。鈍感なあんたは気づいてなかっただろうから絶対に言いたくなかったけどね!」

「なんだよそれ」

 教室に僕らの笑い声が響く。

「6年間、ずっとあんたのことを近くで見てきたけど、芯があって意思が強くて・・・同級生だけど尊敬するわ。それは認める」

「急にどうした?でもそれ、言い換えたらただ頑固なだけじゃね?小学生から中学生までは喧嘩ばっかりして磯山にも迷惑かけてたし」

「そんなこともあったわね。でも、私はあんたのいいところはちゃんと見抜いてたわよ」

「知ってる。ほんとに、それにはだいぶ助かってたよ。でも心配はかけてただろ。あの時は本当に悪かったと思ってる」

「なんか私たち、変わったね。・・・まぁ当然か、基準が中学生だからね」

「そうだな、中学の頃はなんか、どこかで腹の探り合いというか、本音を出し切れてなかったというか・・・そう、お互い素直じゃなかった」

「私はあんたに気を遣ってほしいなんて思ったことは一度もないけどね」

「それはお互い様だ、無理して俺より早く学校来るとかして、どんな気の遣い方だよ。俺が朝練の日はいつもぎりぎりだったろ」

「それは、あんたが朝教室に来た時あたしがいなかったら寂しいかと思って・・・」

 僕が少し呆れた顔をすると、紗奈が何かを思い出したように言葉を止めた。振り返って僕から顔を隠し、両手で頬を2~3回たたく。

————こんな言い方して、馬鹿ね。今日何しに来たかを思い出しなさい。素直になるのよ、紗奈。

「・・・どうした?なんか言ったか?」

 僕が背中から声をかけると、紗奈が振り返った。背筋を伸ばし、先ほどとはうって変わって少ししんみりとした表情をしている。なんかこの表情、いつかどこかで見たことがあるような・・・

「正人、6年間ありがとう。本当に、本当に毎日楽しかった。あんたがいなかったら、毎年同じクラスじゃなかったら、きっとこんなに学校を楽しめなかった。文化祭も、体育祭も、修学旅行も楽しかった。毎朝早く来るのも無理なんかしていなかったわ。あんたと毎朝話をするのが楽しみで、自然と目が覚めただけなのよ」

「磯山・・・」

「あたし、今でもあんたのことが好きよ。6年前からずっと変わっていない・・・ううん、変わっていないだけじゃなくて、高校の3年間でもっと気持ちが強くなったかもしれない。いつも自分の気持ちに正直で、嫌みがなくて気持ちいいくらいはっきりさっぱりしてて、優しくて面白くて、頼りになるあんたが、これからもずっと好き。あたしだけじゃない。あんたが常に想いを寄せる人がいることを知っているから皆口にはしないけど、あんたのことが好きな人は、きっとたくさんいる。みんなが、あんたを認めている」

 紗奈が「うんっ」とのどの調子を整える。

「あたしはね、ひどい女だから、あんたが彼女と別れたら付き合いたいなってずっと思ってて、それを少し期待しちゃって待ってたけど・・・気が付いたわ。それは違うの。やっぱり、好きな人には幸せになってもらいたい。だからずっと、真優さんに、みんなに好きでいてもらえる正人でいて。心配なんかしてないけど、ずっとあんたはそのまま、変わらないでいてほしい・・・お願い」

 紗奈が膝の上で握り合わせた両手に力がこもっているのが分かった。鼻をすすって続ける。

「ずっと考えていたけど、あんたがいないこれからの生活がどんなものになるかは全く想像できないし・・・したくない。だけど、私もそろそろ殻を破らないといけない。だから今日、時間をもらったのよ。私の我儘を嫌な顔一つせず聞いてくれて、ありがとう」

 少しずつ紗奈の目に涙が浮かび、声が細かく震えてきた。僕も気持ちが高ぶる。

「俺の方こそ、喧嘩ばっかりで悩んで辛くてどうしていいか分からない時、磯山には救われた。母さんが入院して一人だった時も磯山や皆がいたから乗り切れた・・・瑛史郎の時も、やっぱりずっと一緒だった磯山やてっしーが心の支えだった。俺がこんなに皆に仲良くして貰えるようになれたのは、なんだかんだ言って磯山がいたからだ。磯山と出会えて、毎日のように話ができてなかったら、きっと今の俺はない」

 紗奈の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。僕ももらい泣きしそうだ。

「お礼を言いたいのは俺もだ。磯山の存在は、間違いなくこれまでの俺の人生で欠け替えの無い、特別な存在だ・・・ありがとう。この6年間、俺も楽しかった。毎日バカみたいな話が磯山と出来て、本当に良かったよ」

 紗奈は上を向いて両手で顔を覆っていた。それでも隠し切れず、手のひらから涙が頬を流れてくる。

「ああ、やっぱりダメね。ほんっっっとにダメ!」

 そういうと紗奈は手を顔に当てたまま立ち上がって僕の前に来た。肩を小刻みに揺らし、鼻を何度もすすっている。

「ごめん、正人。1分・・・いえ、30秒でいい。時間を止めて。お願い」

「え・・・?」

僕の返事を待たず、紗奈は座っている僕の体の上にかぶさり、抱き着いてきた。僕の左頬に紗奈の濡れた左頬が触れる。耳元で紗奈が静かにささやいた。

「あたし、やっぱりあんたと会えなくなるのは嫌。ずっとあんたのことが好きだったから、毎日会えて楽しかったから、本当に嫌。だけど・・・もう卒業しちゃうから諦める。あたしは諦めるしかない、から・・・」

 僕は両手をどこに置けばいいか分からず、ひざの上に落とした。今まで向き合ってはこなかったが、紗奈の気持ちは分かっていたのでこの行動の理由も理解していた。

「でも、あたしがこれまであんたに伝えた言葉が、あんたのためになれていたって言ってくれてよかった。あたしの存在があんたの役に立てた。それだけで、もう十分」

 そう言うと、紗奈の腕に力がこもる。

「本当に、6年間ずっと、私のバカみたいな話に付き合ってくれてありがとう・・・大好き」

 僕は何も言えず、ただ硬直していた。しばらくして落ち着いた紗奈が僕から離れる。

「一方的に言ってごめん。返事はいらない。ない方がいい」

「分かった、ならそうする」

「・・・ありがとう」

「別に卒業したってまた会えるさ。俺らは親友で仲間なんだから。瑛史郎の墓参り、また3人で行かないとな」

「ええ、それもそうね」

 隣の教室から物音が聞こえてきた。そろそろみんなが来る頃だ。

「そろそろ、皆来るね」

「ああ、いよいよ俺らも卒業だな」

「いろいろ、本当にいろいろあったね」

「まったくだ。楽しかったな」

「もう、戻ってこない日々ね」

 紗奈は涙を拭いながら声を震わせる。

「どんな瞬間も、二度とは戻ってこないさ」

「あんたに言われなくても、そんなことくらい分かってるわよ」

「心配するな。未来もまたきっと楽しいさ」

「だからぁ、そんなこと、言われなくても分かって・・・」

 そこまで言うと、紗奈は声を詰まらせて嗚咽が出た。そこに、瑠璃子が入ってきた。

「おはよぉ・・・・ぉう?」

 僕と紗奈の二人だけが教室にいて、紗奈が泣いている・・・状況をすぐに理解した瑠璃子が紗奈に近づいて抱きしめた。僕に顔を向けて「任せて」と口パクで伝えた。僕は瑠璃子に紗奈を託し、窓から外を眺めた。憎らしいほど気持ちのいい風が吹き込んでくる。その風に、瑛史郎の影を感じた。


————瑛史郎・・・俺、高校卒業するよ。笑っちゃうよな。あんなに世の中を舐めていた俺が高校卒業して、もうすぐ二十歳だ・・・お前がいたから、俺はここまで頑張れた。まだまだ頑張るよ、お前の分まで。


 それから次々と教室に入ってきたクラスメイト達に声をかけられ、皆との最後の時間を分かち合った。瑛史郎と出会うまで孤独に過ごしていた僕にも、いつの間にかこんなにたくさんの友人が出来た。そのおかげで僕の世界が拓け、もう窮屈だなんて思わない。僕は広い世界を生きていける。その最初の一人だった瑛史郎はここにいないけど、一生忘れない。瑛史郎だけじゃない。紗奈、瑠璃子やたくさんのクラスメイトとの思い出を胸に、卒業してからも生きていく。僕のことを想ってくれている人のために、しっかりと生きよう。



2005年3月9日。『運命の日』まで3年3か月と、10日。

 高校卒業してから一年後。大学の合格発表が出てすぐ、まゆからお祝いがしたいと言われて港南台駅で待ち合わせをした。待ち合わせの10分くらい前についたが、そこにはもうまゆがいた。

「あ、まさと!早いね」

「まゆもな。もう居たのにびっくりした」

「へへ~、なんだか待ちきれなくて」

「それは・・・1年間お待たせしましたからね」

「ふふふ、合格おめでとう!」

「ああ、ありがとう」

 まゆは自分のことのように、本当にうれしそうにしている。

「今日はどうする?またみなとみらい行く?」

「ううん、今日は佐藤家でお祝いするんだ!お姉ちゃんも、なぁみぃもいるよ!」

「ほんとに?うれしいな」

「じゃあ早速行こう!」

「もしかして、まゆはとんぼ返り?なんだか悪いな」

「そんなことない、迎えに来るからいいんじゃない。家で待ってたらそわそわしちゃってお姉ちゃんにいじられるし」

 もう付き合って6年になるのに、まゆは昔の気持ちを一切忘れていない。まゆが当時の気持ちを忘れていないから、今まで当たり前のように何度もつないだこの手も、今でもとてもかけがえのない、大切なことに感じることが出来る。

「今日は、お姉ちゃんに同棲のこと言うから」

 まゆは歩きながら緊張した面持ちでそう言った。

「今日言うのか。まぁ、このタイミングだよな・・・緊張する」

「お姉ちゃん、さっさと一緒に住んじゃいなよって言ってたくらいだから絶対大丈夫なのに、私もなぜかそわそわする」

「そうだな、普段は砕けた会話もしてるけど、こういう時はちゃんとしよう」

「うん、そうだね」

 まゆの家に着いて玄関を開けると、真衣さんが真っ先にこちらに駆け寄ってくれた。

「正人、受験お疲れ様。おめでとう」

「真衣さん、ありがとう」

「上がって。お昼ごはん出来てるよ」

「うん、お邪魔します」

 ダイニングテーブルに付くと、ごちそうが所狭しと並べられていた。自分のことのように喜んで、家族でもない僕のためにここまでしてくれることに、涙が出そうになった。

「これ、全部真衣さんが?」

「ううん、家族四人、みんなで作ったのよ。真奈と真実も頑張ったのよね」

「そうそう、私たちもやればできるのよ!」

 出会ったころ小学生だった二人ももう高校生だ。妹のように接してきた二人が、ずいぶんと大人びて見えた。

「あぁ・・・ありがとう」

「あれ?さとにぃ泣いてる?」

「泣いてません!」

 あたりが笑いに包まれた。穏やかな空気の中、泣くのをこらえるのが大変だった。


 食事が終わり、みんなでコーヒーを飲みながら落ち着いて話をしていた。話すなら、ここしかない。

「・・・真衣さん」

「うん?どうした?急に真面目な顔して・・・」

 僕は椅子の上で姿勢を正し、改めて座りなおした。それを見たまゆも意図を感じ取ったのか同じように姿勢を正した。

「・・・私も、ちゃんとしようかしらね」

 そう言って真衣さんもマグカップを置き、組んでいた足を降ろして姿勢を正した。僕が口を開く。

「これからお金貯めて、まゆと部屋を借りて一緒に住もうと思っている」

 ものすごく緊張したが、自分でもビックリするくらいすんなりと言葉が出た。まゆも、まっすぐに真衣さんを見つめている。僕とまゆを交互に見て、真衣さんは目を閉じた。

「・・・わかった。そんな気がしていたよ。あなたたちももう大人よ。自分たちのことは自分たちで決めなさい。それに、私もそうした方がいいと思う。あなたたちはこれから二人の時間をもっとたくさん作って、お互いしっかりと向き合って今後のことを話し合いなさい」

 まゆの顔を見ると、それに気づいて満面の笑みを僕に向けた。うれしそうだ。真衣さんもコーヒーをすすりながらうれしそうな顔をしている。

「・・・緊張した?」

 真衣さんが僕に向けてそういった。

「うん、だいぶ」

「そうね、声が上ずってたわよ」

「もしかして、試した?」

「いやいや、そんなことはないけど、出会ったばかりの頃を少し思い出してたわ」

「まさと、最初お姉ちゃんに敬語使ってたもんね」

「そりゃあ、使うだろ」

「あの頃の正人はまだ幼かったけど、今日は大事なことを迷いなくちゃんと言い切ってて、かっこ良かったわ。二人のことはずっと弟妹だと思ってたけど、なんだか今日は親の気持ちになった気がする」

「・・・ありがとう」

「うん。あなたのお母さんには話したの?」

「ああ、昨日話した」

「なんて?」

「家狭かったからちょうどよかったって」

「そうだったの?あはは、まさママらしいね!」

 まゆが笑った。それだけで周りの景色が変わって見えた。

「あぁあ、ついにこんな日が来たわね」

「お姉ちゃん、早く一緒に住んじゃいなよって言ってたもんね!」

「冷やかしでね。実際にあなたたちからこんな話を聞くと、いろいろと考えちゃうわ」

「真衣さん・・・」

「私は一人暮らしをしたことはないけど、一応働きながらこの家の家計を管理しているからね。家賃とか、光熱費とか、生活のことはわかる範囲で何でも教えてあげる。だけど、決めるのはあなたたちよ。住む場所とか部屋とか、自分たちで決めなさい」

「うん、わかった」

「バイトはするの?というかしないならさすがに反対するけど」

「大丈夫。お世話になった予備校で講師することになった」

「あら、なんか似合うわね」

「父さんも仕送りしてくれるって言ってたけど、できる限り自分たちでやりくりして、余った分はいつか何かで返そうと思ってる」

「出来た息子ね・・・でも大学生なんだから、根詰めすぎず無理しないで学生生活をしっかり楽しむことも、大事な親孝行よ」

「・・・うん、わかった」

「よろしい」

「なんか、うちの母親よりよっぽど母親みたいだな」

「一応、保護者だからね。でも答えにくいこと言うのはやめて」

 笑い声が部屋を包んだ。僕らは家族の様に信頼し合い、認め合っていた。



2005年4月29日。『運命の日』まで3年1か月と、20日。

 3月の春季講習からバイトをはじめ、4月には大学入学と引っ越しでバタバタし、あっという間に2か月が経った。大学でも硬式テニス部に入部し、久しぶりに友人が増えた。週4回のバイトもなんとなく慣れてきて、メンターとして30名の生徒、講師として3科目担当を持つことになった。バイトは22時までなので家に帰ると23時を過ぎるが、そんな日でもまゆと過ごす時間が取れるのはいい。この日は祝日で大学も予備校も講義はなかったが、自習室を開放するために僕が出勤していた。

「唐嶋さん!」

 朝10時。開校してすぐ三年生の霜山が登校してきた。電車で20分ほどの駅にある県立高校に通う元気な男子高生だ。メンターでも担当していて、僕によくなついてくれている。

「霜山か、早いな」

「いやいや、遅いくらいですよ。9時から開かないんですか?」

「俺は別に稼ぎたいから9時に来てもいいんだけどな。塾長に言ってくれ」

「いつもの席、空いてます?」

「空いてるも何も、霜山が一番乗りだ。好きなところ座りな」

「やった、行ってきます!」

「暑い寒いがあったら言いな。空調いじるから」

「はーい!」

 霜山を自習室に見送った後も続々とやってくる生徒に対応し、11時には45人座れる自習室はいっぱいになった。資料の作成などをしながら、生徒のわからない問題を見たり、志望校や進路などの相談を一人でこなしているとあっという間に21時になった。一人ひとり僕に挨拶をしながら高校生が予備校を後にしていき、自習室にはもう霜山一人になっていた。

「霜山!22時で教室閉めるから、ぼちぼちキリをつけてな」

「あ、もうそんな時間ですか」

自習机の仕切りから霜山が顔を出す。今日1日だけでも10時間以上机に向かっていたからか、さすがに少し疲れの色が見える。

「4月からそんなに飛ばすと夏にばてるぞ。ゆっくりする時間も大事にしな」

「じゃあ・・・過去問やる時間がもうないので片づけて帰ります」

「そうか。忘れ物するなよ」

 職員室に戻ってパソコンに向かうと、霜山が自習室から出てきた。

「お疲れ、今日も頑張ってたな」

「いつもありがとうございます。・・・唐嶋さん、少し話聞いてもらえますか?」

「ああ、いいよ。そこ入って」

 生徒指導室の机に誘導し、僕も向かっていった。進路の相談だと思っていた。

「どうした?何かあったか?」

「唐嶋さん、俺、実は妹がいるんです」

 霜山は財布から中学生くらいの女の子と二人で写っている写真を僕に手渡した。唐突な話でびっくりしてきょとんとしてしまった。

「いもうと・・・?」

「はい、言ってなかったと思うので」

「いや、担当生徒の情報はみられるから妹が居るのは知ってる」

「そうだったんですね!知らなかった・・・」

「妹がどうかしたのか?」

「妹は昔から病弱で、そのせいか引っ込み思案で人とうまく話せなくて、あまり友達を作れないんです・・・」

 霜山は少しうつむきながらそう切り出した。本当に妹の行く末を案じているように感じ、妹思いの印象を受けた。

「そうか、それは心配だな」

「はい。だから、俺が立派な大人になって妹を守ってやらなきゃいけないんです」

 霜山は急に口調を強め、自分に言い聞かせるように言い切った。その言葉の端に、自分を追い詰めている雰囲気があった。

「・・・霜山、大丈夫か」

 僕の質問の意図が伝わったか伝わらなかったか分からないが、霜山は不自然なほど満面の笑みで返した。

「大丈夫ですよ」

そう霜山は笑った。けれど口元だけが持ち上がり、僕を見る目には力がなかった。

「必ず、僕が妹を守ります」

「いや、だから霜山・・・」

 僕が真意を伝えるために言い直そうとした言葉をふさぐように、霜山は語気を強めた。

「だから唐嶋さん、これからたくさん色んなことをお願いすると思います。勉強のことや悩みを聞いてもらったり、いろいろと教わったり・・・」

 僕は霜山の様子に強烈な違和感を持ったが、それを言葉で表現出来ずつばと一緒に飲み込むしかなかった。

「あ、ああ。わかった。何かあったら何でも相談してくれ」

「はい、本当にありがとうございます」

 霜山はそう言って両手を机につけて深々と頭を下げ、しばらくあげなかった。もしかしたら、霜山はこの時から嫌な予感がしていたかもしれない。


「ただいま」

 家に帰ると23時を過ぎていた。まゆが玄関まで来て僕を出迎える。

「おかえり、まさと。お疲れ様。バイトどうだった?」

「今日は講義じゃなかったからそんなに疲れてないよ」

「それでも、お疲れ様。ごはん食べる?」

 まゆの声がとても落ち着く。

「ああ。おなかすいた」

 食事を済ませて食器を洗い、まゆとダイニングテーブルを挟んで向き合った。マグカップにスティックタイプのインスタントコーヒーを取り出し、お湯を注ぐ。スプーンでかき混ぜながら、ふと霜山のことを思い出した。

「そういえば、今日霜山が変なことを言っていたな」

「それって、この前まさとが話していた生徒のこと?」

「うん、そう」

「なんて言ってたの?」

「なんか、自分が妹を守らなきゃいけないんだって」

「う~ん?妹思いのお兄ちゃん・・・ってこと?」

 まゆはコーヒーをすすりながら答える。僕も一口すすった。

「でも、なんだか様子がおかしかった。鬼気迫るというか、具体的に何から守るかはっきりしているというか・・・うまく言えないけど、そんな感じがした」

「そう、なんだ。まさとが直感でそう感じたのなら、何かはありそうだね」

 あの時感じた違和感と、何かを睨めつけるような霜山の表情が頭から離れない。その様子を見て、まゆが言葉を重ねる。

「いつもと様子がおかしいって思えたのも、まさとがちゃんと生徒のことを見ているってことだと思うよ。それは生徒にも伝わっているはずだから、何かあったら相談してくれるんじゃない?その時に、ちゃんと向き合えれば大丈夫よ」

 まゆは優しく言葉を投げかけた。霜山の様子がおかしくて不安になっていた僕にとって、それは一番必要なものだった。

「今日のごはん、どうだった?」

 まゆが顔を綻ばせながら聞いてきた。出会ってから時が経ちずいぶん大人っぽくなったが、こういう時のまゆは昔のままだ。

「おいしかったよ。前から料理はよく作ってたんだっけ?」

「うん!高校生になってからは私とお姉ちゃんがごはん担当だったから」

「そうか、どうりで」

「へへ、よかった」

 バイトの悩みや心配も、いつでもまゆの言葉で解けていく。ただ、嫌な予感は思ったより早く現実のものとなった。



2005年8月5日。『運命の日』まで2年10か月と、14日。

 職員室の時計を見上げると、23時を指していた。この日は夏期講習の講義があり、生徒たちを帰したあとの雑務もこなして夜遅くまで予備校に残っていた。

霜山は昨日から予備校に姿を見せておらず、講義の欠席連絡もない。明日も来なかったら連絡をしないといけないなと思っていた。疲れた体を背もたれに預けると、急に予備校入口の扉をたたく音が鳴り響いた。

こんな時間に誰だ?と思いながら扉を開けると、頭からほほにかけて赤い血の筋がついた霜山が立っていた。来ていた学ランは破れていて、シャツもはだけている。明らかに誰かと争った後だった。

「霜山・・・どうしたんだ、その傷」

 出で立ちとは対照的に、霜山は明るい表情を浮かべる。その笑みは、この世のものとは思えないくらいに不自然だった。

「ああ、これですか?僕はいいんです。大丈夫ですから」

「大丈夫じゃないだろう。とりあえず中に入って傷を見せてみろ。手当てくらいしてやる」

「唐嶋さん!」

 霜山の手を取ろうとした僕の右手を払いのけ、僕の目を見ながら霜山は続ける。

「ごめんなさい。俺じゃあ、妹は守れませんでした」

「妹・・・?」

 そのワードを聞いた瞬間、異常な危機感が滲む5月の霜山を思い出した。背筋に緊張が走る。

「妹が、どうかしたのか・・・」

 その言葉が届いたかはわからないが、徐々に霜山の顔が下を向き、声色も落ちていくのが分かった。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい・・・」

「いいから中に入って落ち着け、な?」

 このまま霜山を離してはいけない、そう直感した。でも、霜山はそれを強く拒む。

「だめです。俺はもう、そっちには行けない・・・それに、妹の手を取るにはこの手は汚れてしまった」

「言っていることが何も分からない。お願いだから、中に入って話してくれ」

「俺はもう救われなくていいんです。でも妹は、朱里だけは放っておくわけにはいかない。だから唐嶋さん、お願いします。朱里のところに、俺の家に行ってあの子を守ってください」

「それは俺にはできない。お前が守るんだろ?それに俺が、今のお前のことを放っておけると思ったのか?俺はお前と一緒に何とかしたいから、事情を話してくれ」

 霜山の話は何も見えてこなかったが、ただ必死に霜山を引き込むことだけを考えた。この霜山の姿と切羽詰まった感じからは、嫌な予感しかない。まだ未熟な高校生に背負わせてはいけないと、心が叫んでいる。

「いいからほら、中に・・・」

 霜山の手首をつかんだ瞬間、耳を劈くような声が上がった。

「やめろおおおおぉぉお!」

 掴んだ霜山の左手は強烈な力で引き戻され、丸まった肩の奥に吸い込まれた。その小さな体は小刻みに震え、怯えるウサギのような顔を僕に向ける。

「止めてくれ唐嶋さん、俺はもう、あなたが触れていいようなまともな人間じゃないんだ」

「霜山・・・いったい何があったんだよ」

「唐嶋さんにしか、頼めない。頼れない・・・妹を、朱里をよろしくお願いします」

 そう言って、霜山は夜の闇に走り去っていった。呼び止める僕の声は、きっと彼の心には届いていない。

「くそっ、何なんだよいったい」


———どうする?追いかけるか?かといって、ここをこのままにしておくわけにもいかない。


 僕は職員室に戻り、塾長に電話して状況を報告した。校長の指示で警察に連絡していきさつを伝え、霜山家に同行してもらうことになった。


 霜山の家の前で警察が来るのを待った。気持ちがはやって落ち着かず、門の前をうろうろと往復してしまう。時間はもう0時を回っていた。霜山家は大きな一軒家で、明かりが1つもついていない。一階の出窓は割れていて、引き裂かれたカーテンが風に揺れて外にはみ出ていた。中で何かがあったのは間違いない。「手が汚れてしまった」という霜山の言葉が、ずっと頭から離れない。

 ほどなくして、パトカーが1台やってきた。降りてきた二人組の警官に事情を話す。

「このお宅ですか?」

「そうです」

 警官の一人が割れた窓を見上げる。非常事態であることは共有された。

「では、まずはインターホンを押しましょう」

 そう言って三人で視線を合わせてうなずいた。警官の人差し指が、霜山家のインターホンのボタンに触れる。その瞬間、そのスピーカーと家の中から、同時に来客を告げる音が重なった。一度だけ響いたその音は闇夜に消え、暗闇と静寂がまた不安を募らせた。

「まいったな、このままじゃどうすることも・・・」

「あの・・・私が入ってもいいですか?」

「いや、それでは不法侵入になってしまう」

「私は、この家の長男に入ってくださいと言われているんです」

「それでも」

「この荒れた家の中に、中学生の女の子が一人でいるかもしれないんです。どんな状況かもわからない。お二人は立場があるから難しいかもしれないけど、私はここの家族の関係者です。このまま何もせず帰るわけにはいかない」

 警官の二人に、僕の気持ちは伝わった。

「分かった。上への報告はどうとでもなるから行きましょう。危険なので、私も同行します」

「ありがとうございます」

「これを・・・」

 そう言って小型の懐中電灯を差し出された。

「中は恐らく真っ暗だ。見たところガラスもところどころ割れている。必ず必要になる」

「はい」

「私は青山です。行きましょう。先導します。危険を感じたら私に構わずすぐに引き返してください」

 もう一人の警官が門の前で待機し、青山さんが僕と一緒に家に入った。霜山家の中は真っ暗でひどい有様だった。玄関の床には大きなへこみがあり、靴棚は大きく破損し靴が散乱していた。その異様な光景を前に、おぞましいほどの恐怖心と寒気が僕を襲った。壁にも大きな穴があり、クローゼットも倒れ、ドレッサーや洗面台の鏡には大きなヒビが入っている。

「いったい、何があったんだ・・・」

「唐嶋さん、私のそばを決して離れないでください」

「はい」

 しっかり床を踏みしめながら慎重に進み、家の中で霜山の妹を探した。この有様の元凶がまだ家の中に残っているかもしれない緊張感と、霜山の想いに応えたい気持ちがぶつかって、震える足を一歩ずつ前に進めた。

「一階はもう誰もいないようだ。2階に行きましょう」

「分かりました」

 1階を一通り回って僕らは向かい合って頷いた。階段に向かう青山さんの後ろを歩くと、背中からか小さな咳が聞こえた気がした。キッチンの方に気配がある。青山さんに伝えようと前を向き直したら、気が付かなかったのかすでに階段を上っていた。気のせいか風のせいかとも思ったが、どうしても嫌な予感を振り切れず、呼び寄せられるようにダイニングを通ってキッチンに向かった。

 ダイニングは家屋の損傷が特にひどく、大きなダイニングテーブルの脚は折れて力なく転がり、割れたビール瓶の破片が大量に散乱していた。続くリビングの窓は窓枠ごと破壊され、ソファからは綿が飛散し、破れたカーテンの隙間から月明かりがキッチンまで差し込んでいる。

 キッチンに入ると、立派な食器棚が倒れていたが、すぐに違和感を覚えた。この食器棚、傷も少なくきれいな状態で倒れている。誰かが意図的に倒したように感じた。よく見るとその後ろにわずかな隙間を見つけた。食器棚を引っ張りずらすと、床を擦る音に合わせて小さな声が聞こえてくる。半地下のパントリーに、朱里はいた。

「だ、誰?」

 ライトを向けると、腕で顔を覆うように目をそらした。僕はすぐにライトを消したが、月明かりだけでも朱里の姿はしっかりと確認できた。

「霜山朱里さん?」

「いやぁ!来ないでぇ!」

 朱里は怯えていた。

「大丈夫、君を迎えに来た。警察の人も一緒だ。もう心配ない」

「え・・・?」

 その言葉を聞いて、朱里が少し落ち着いてきた。

「もしかして・・・唐嶋さん・・・?」

「そうだ。君のお兄さんに呼ばれてここに来た。もう大丈夫だ」

 そう言うと緊張の糸が切れたのか、朱里は声を上げて泣き出した。僕の手を取り自分でパントリーから出て、寄りべを求めて僕の体にしがみつき、か細い声を上げて泣いた。着ていた制服が少し汚れてはいたが、怪我はなさそうだった。そのまま朱里を背負って玄関まで戻り、パトカーに朱里を乗せた。安心したのか、「ありがとうございます」とだけつぶやいて目を閉じた。

「中の様子は・・・?」

「ひどい有様でした。怪物が暴れまわったような、荒れ果てた状態で・・・」

「青山はどうしましたか?」

「一人で2階に・・・すみません、途中ではぐれてしまい、この子を見つけたのでいったん連れてきてしまいました」

「いえ、それが最優先なので大丈夫です。無線もありますし・・・」

 そう言いかけた時、無線から青山さんの応援を要請する声がした。でも、切羽詰まっている様子はなかった。何か見つけたのか・・・?

「2階で大柄な男性が倒れているのを見つけた。おそらくもう・・・応援を要請してくれ」

 その無線を聞いていて、背筋が凍り付いた。「手が汚れてしまった」って、まさか・・・!

「分かった。応援を要請する」


 ほどなくして、霜山家の周辺はパトカーや救急車のサイレンで赤く染め上げられた。一人の婦警さんが警察手帳を片手に僕に近づく。

「神奈川県警の庄司です。唐嶋正人さんですか?」

「はい」

「パトカーの中で結構ですので、少しお話を伺えますか?」

「はい、もちろんです」

 僕はパトカーの中で朱里と並んで事情聴取を受けた。僕は知っていることと今回の経緯を説明し、朱里からも経緯が話された。出所したばかりの二人の父親が、朱里に暴行を加えようとしたところで霜山が止めに入り、包丁とビール瓶で霜山を襲い続けていたらしい。途中で霜山にパントリーに隠れるよう促され、霜山本人が食器棚を倒して入口をふさいだことで、朱里は状況を把握することができず、ガラスや陶器が割れるような音、家が揺れるほどの鈍い衝突音、恫喝するような父親の叫び声が絶えず聞こえ、一人で震えていたとのことだった。

 そんな凄惨な出来事を、朱里は自分の肩をさすりながら震える声で庄司さんに伝えていた。どれほどの恐怖と不安がその心を支配したのか、想像に難くなかった。すべての説明が終わったら兄を心配する言葉を朱里は繰り返していて、僕はそんな朱里を見ていられずパトカーの外に出た。外は深夜とは思えないほど騒がしく、あたりが赤色光で染まりあがっている。

「唐嶋さん」

 背中から庄司さんに呼び止められた。

「お話、ありがとうございました」

「いえ、霜山はどうなりますか?」

「まだご子息は見つかっていないので、なんとも・・・」

「そう、ですよね」

「ご子息は、警察が必ず見つけ出します」

「よろしくお願いいたします。その・・・」

 僕は声が詰まった。何を言いたかったか察したのか、庄司さんは続ける。

「妹さんは、警察で保護します。安心してください」

それを聞いて、胸をなでおろす。

「ありがとうございます」

 そんな話をしていたら、朱里がパトカーから降りて僕らに近づいた。それに気づいた庄司さんが朱里の肩を抱く。

「霜山さん、これから、休めるところにお連れします」

 朱里の目は僕を向いていた。それに庄司さんも気が付く。

「唐嶋さん・・・」

「・・・どうした?」

「あの、唐嶋さんのことは、兄からよく話を聞いています。今日は来ていただいて本当にありがとうございました」

 中学3年生とは思えないほど丁寧で、誠実な対応だった。

「霜山は、絶対に見つかる。安心して待っていて」

「・・・はい」

 わずかに涙を浮かべながらそれだけ返事をして、朱里はパトカーに戻っていった。

「唐嶋さんも乗ってください。自宅までお送りします」

「はい、ありがとうございます」


 家に着いたときにはすでに2時を回っていた。携帯の電池が切れていたので、まゆには連絡できていなかった。部屋からわずかに明かりが漏れているのが窓から見える。鍵を差し込み回すと、扉を開ける前からパタパタと忙しない足音が響いた。扉を開けると目の前に寝間着姿のまゆが立っていた。震える唇を噛み締めている。

「ごめん、帰り遅くなった」

 僕がそう言うと、何も言わず僕に抱き着いてきた。鼻をすすっている。

「・・・おかえり」

「・・・ただいま」

「心配した」

「・・・ごめん」

 まゆが僕の胸に埋めた顔を左右に振る。

「無事に帰ってきてくれて、よかった」

 胸が少し締め付けられた。また、心配をかけてしまった。

「座ろう。今日のこと話すよ」

 まゆはうなずいた。でもその動作とは裏腹に、僕から離れようとしない。

「うん、聞かせて」


 ダイニングテーブルに向かい合って座り、コーヒーをすすりながら今日の出来事を話した。まゆは真剣な表情で聞いていた。

「そっか、そんなことが・・・」

「霜山がそんなことをするとは思えないけど、状況的には十分あり得る・・・」

「うん、本人が見つからないとわからない。けど・・・」

「けど?」

「信じてあげよう。あなたの生徒だもの」

 まゆはいつも通り、優しい笑みを浮かべていた。

「そうだな。ありがとう」


2005年8月18日。『運命の日』まで2年10か月と、1日。

 ほどなくして、霜山が出頭し保護されたと連絡が入り、僕は青山さんを訪ねた。保護といわれたが、重要参考人としてであることは理解していた。青山さんは8月15日付けで刑事となり、この事件を担当しているも聞いていた。

「青山さん、霜山、見つかったって聞きました」

「はい、私が唐嶋さんにも連絡するよう伝えました。今は重要参考人として留置所にいます。事情聴取は終わったので面会できますが・・・しますか?」

「ぜひ・・・霜山、なんて言っていますか?」

「それは、申し訳ないですがお伝え出来ません」

「そう、ですよね、すみません」

「いえ、本当は知ってほしいのですが、こればかりは」

「気を使わせてしまって、すみません」

 その場で青山さんが留置所に連絡し、面会の許可が出た。

留置所に行くと、透明な板を挟んだ向かいにすでに霜山がうつむきながら座っていて、後ろには立会人が座っていた。僕は駆け寄った。

「霜山、大丈夫か?」

 僕が呼びかけると、霜山はゆっくり顔を上げた。申し訳なさそうな泣き顔をしている。

「唐嶋さん・・・ごめんなさい、俺、俺・・・」

「謝ることじゃない。お前が無事に帰ってきてくれて、よかった」

 僕の言葉が意外だったのか、霜山は声を荒げた。

「なんで、なんでそんなこと言うんですか?俺は、人を死なせたんですよ!帰ってきていい人間なんかじゃなかった。死ぬべきだったんだ・・・でも、死にきれなかった・・・朱里にも合わせる顔がない」

「馬鹿なことを言うな。お前の帰りを待っている人がいることを絶対に忘れるな!お前はその人たちのために帰ってきて、死にたくなるような事実と向き合うことを選んだんだ。立派だよ」

「唐嶋さん・・・」

「本当に、お前が無事でよかった」

「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」

 霜山は泣きながらまたうつむいた。僕は核心に迫った。

「・・・あれは、お前がやったのか?」

 霜山は涙を浮かべながら力強く首を振った。僕は肩をなでおろした。

「本当に殺されると思って、揉み合ってたらあいつが持ってた包丁がのどに刺さって、たくさん血が出てた。微動だにしなかったからすぐに死んだと分かった。怖くなって朱里と逃げようと思ったけど・・・血の付いた自分の手を見て、もう俺が朱里の手を取っちゃだめだと思って、唐嶋さんのところに」

 その時の霜山の恐怖と罪悪感を思うといたたまれなかった。僕はその感情を持った経験がある。強く共感ができた。

「それ、ちゃんと警察の人には言ったのか?」

「うん。言った。弁護士の人も、包丁から俺の指紋は出なかったから状況的に意図ではないなら大丈夫と言ってた。不起訴の公算が高いって」

「そうか、なら正当ぼう・・・」

「・・・でも!俺は、俺は殺したんだ。実の父親を・・・一瞬だったけど、のどに包丁が刺さる感覚がずっと手に残っている。洗ってもぬぐっても、全然消えない・・・一生忘れることなんてできない。俺はもう人殺しなんだ。こんな手で、もう朱里の頭は撫でられない、あいつの手は引けない・・・俺はもう幸せになんてなっちゃいけない・・・俺なんか、いなくなった方が・・・」

 霜山は涙ながらに僕に訴えた。まさに、瑛史郎が亡くなった夜の自分が今の霜山に重なった。どうしたら、どんな言葉を掛けたら、どん底の霜山を救えるだろうか。その答えは、もう過去に受け取っている。

「お前は、あの時必死だったんだ。ただただ、自分に迫る脅威を払い退けただけだ。そんなお前を、誰も責めたりはしない」

「でも!俺の代わりに親父が・・・死んだ。俺が殺されていれば親父は死ななかった。誰に許されても、自分自身が許せない・・・」

「甘えるな!あの時お前が死んでいたら、朱里も殺されていたかもしれないんだぞ!お前は、お前自身とあの子の命を必死に守り抜いたんだ。そんなお前が、殺されていればよかったなんてことあるわけがないだろう!それに、霜山の未来はかけがえのない物のはずだ。そんな簡単に、手放すものじゃない」

「唐嶋さん・・・」

「辛いかもしれない。罪悪感で押しつぶされそうな感覚が常にあるかもしれない。でも、乗り越えてほしい。誰のためでもない、お前自身と妹のために。お前は生きろ。生きて、亡くなった父親のことも全部背負って、立派な男になれ。お前なら、きっとできる」

 思わず、僕の目からも涙がこぼれた。

「唐嶋さん、どうしてそこまで・・・」

「俺も、人を死なせてしまったことがある。その時霜山と同じように自分を責めて、いなくなった方がいいんじゃないかって思った。でも、大切な人達に支えられて、立ち直れた」

 霜山の目は僕をまっすぐ見つめている。

「だから俺は今の霜山が放っておけない。誰かに支えられることは恥ずかしいことじゃない。その価値を、お前にはわかってもらいたい」

「唐嶋さん・・・」

「心配するな。俺はずっとお前の味方だ。もちろん妹もな」

 そこまで言うと、霜山は大きな叫び声を上げて泣き出した。その様子を見た立会人が霜山を抱えて連れて行った。向こうの扉が閉まって霜山の声が聞こえなくなってからも、しばらくガラスに手をつきその場で涙を流して立ち尽くしていた。


2005年8月30日。『運命の日』まで2年9か月と、19日。

 この日は瑛史郎の命日だ。紗奈と瑠璃子と三人で江の島に来た。あの日と同じ海の家で、三人でテーブルを囲って飲み物をすすっていた。

「もう、3年か」

 ぼそっと瑠璃子が漏らした。少し寂しそうな声色だったが、その横顔は笑顔だった。

「なんだか、高校卒業してから時間があっという間に過ぎてる気がする」

「わかる!もうすぐ二十歳なんて信じられない」

 四人でいたころと同じような会話が弾む。それで瑛史郎がいない寂しさが引き立つのか、和らぐのか複雑ではあったが。

「正人は最近、調子どうなの?」

 紗奈が僕に話を振る。なんとなく浮かない表情に気が付いたのだろう。

「実は、ちょっと今心配事があるんだ」

「ほんとに?私たちに話せる?」

 瑠璃子も紗奈も僕を本気で心配しているような表情を僕に向ける。僕らはいつまでも仲間であることに安心感が立つ。僕は霜山の件を二人に話した。


「そんなことが・・・」

 瑠璃子が少し目線を落としながらつぶやいた。

「それから、進展はないってことだよね?」

「進んではいるんだろうけど、俺はあくまで部外者だから、何も情報はない」

「そっか、歯がゆいね」

「ああ、待つしかない」

「でも、正人すごいね。その生徒さん、そこまで言ってもらってうれしかったんじゃない?」

「・・・そうかな?そうだといいけど」

「うん、そうだよ!瑛ちゃんも、正人にはっきり言ってもらったことをずっと誇らしげに話してたもん」

「ああ。でも、次また霜山と話す時が来たら、同じように伝えられるかな」

 少しうつむく僕を見て、瑠璃子が笑った。

「悩んだら、いつでもまた私たちを頼ってね。仲間なんだから」

 瑠璃子は優しい笑顔を浮かべている。紗奈も同じ顔だ。

「ああ、そうするよ。ありがとう」


2005年12月12日。『運命の日』まで2年6か月と、7日。

 今日は青山さんに呼ばれて警察署に来た。霜山の件で話があるらしい。

「唐嶋さん、すみません、お呼び立てしてしまって」

「いえ、霜山のことでって聞きましたが、何か進展ありましたか」

「ええ、捜査の結果正当防衛が正式に認められ、彼は不起訴となります。そのあと現場から逃走したことに関しても、状況と年齢が配慮されました」

 それを聞いて、目頭が熱くなった。

「そうですか・・・それはよかった」

「はい。話をしていても彼は好青年で誠実なので、認められてよかったです」

「よかった、本当に良かった」

 青山さんも笑顔で応対してくれて、本当に良かったと思ってくれていると信じた。いい刑事さんと巡り会えた。

「ところで」

 少し声のトーンが下がった青山さんが話題を変えた。

「はい、何かありましたか」

「霜山さんの妹さんの件ですが・・・」

 少し重い話になりそうだと構えた。

「お母さまが事件の数日前から入院されていて、ご両親以外二人には身寄りがありません。自宅も現状住める状況ではないですし、釈放が決まった以上警察でも預かることが出来ず・・・」

「・・・というと?」

「お母さまにはもちろん事件のことは伝えていて、警察立ち合いのもと業者に自宅修繕の依頼をしていただきました。引き渡しまで2週間程度かかる見込みです。ご長男は勾留期間を延ばすことで預かれますが、朱里さんは難しい」

「彼女は、どうなるんですか?」

「本人と話したところ、もし唐嶋さんが良ければ2週間だけでも唐嶋さんのお宅でお世話になりたいと」

「え?」

「妹さんがお兄さんと面会したとき、唐嶋さんからの言葉で立ち直ったと伺ったそうです。お二人は唐嶋さんにとても感謝しております。お母さまも、一度唐嶋さんとは予備校でお会いになられたとのことで、本人たちがそう言うならと」

 それを聞いて、なんだかとてもうれしかった。霜山が、前を向いてくれている。

「もちろん無理強いはできませんが、ご都合はいかがでしょうか」

「・・・わかりました。一度、家の者と相談してもいいですか」

「もちろんです。とんでもないお願いをしてしまってすみません」

「青山さんが謝ることでは。また連絡します」

 

 その夜、まゆに霜山のことを話した。

「そっか、よかったね」

 まゆはいつも自分のことのように喜んでくれる。どんな時でも心の支えだった。

「ああ、一安心だよ」

「これからも本人たちは辛いだろうけど、二人が前を向いていれば大丈夫だね」

「そうだな」

 まゆはにこにこと、いつでもご機嫌にしている。

「そういえば・・・」

「どうした?」

「あと2週間だけど、今年のクリスマスどうする?映画」

 2週間・・・そうか、朱里のことを伝えないと。

「そのことなんだけど・・・」

 まゆに朱里の現状と今後のことを話した。この家でお世話になるということは、まゆとも一緒にいるということだ。まゆに話さず決められない。

「いいよ、私のことは気にしないで」

 あまりにもあっさりとした返事で、驚きを隠せなかった。

「え?いいの?」

「うん。だって困ってるんでしょ、その子」

「そうだけど・・・迷惑じゃない?まゆが直接関係あるわけじゃないし」

「そんなことない。まさとのことは、私のこと。あなたにとって大切な人が困っていたら、私が協力しないことはないのよ」

 いつかの時のように、まゆは僕をたしなめるように言い切った。

「それに・・・」

「それに?」

「親がいない生活がどれほど大変なことか、私たちなら十分理解してあげられるでしょう。きっと、その子にとってもここは居場所になれると思うわ」

 僕は目を閉じ、いろんなことを思い返した。まゆの言葉がゆっくりと僕の心に沈み込んでいく。

「・・・そうだな。ありがとう」

「預かる前に二人のお母さんに挨拶行くでしょ?私にも行かせて」


2005年12月16日。『運命の日』まで2年6か月と、3日。

 インターホンの呼び出し音に呼ばれて僕は玄関を開けた。青山さんが立っていて、その背中から朱里が顔をのぞかせる。

「唐嶋さん、お連れしました」

「ありがとうございます」

「霜山家の引き渡しが25日になるので、1週間と少しですが、よろしくお願いいたします」

 その声に背中を押されるように。朱里が前に出てきた。

「・・・お世話になります。よろしくお願いします」

 僕は彼女に目線を合わせた。

「よろしく。ここからなら、学校も通えるかな」

「はい。実は家より近いんです」

「それはよかった。1週間だけど、自分の家だと思ってくつろいでいいから」

「うれしいです。ありがとうございます」

 朱里は終始笑顔だった。霜山の家で保護したときの張りつめた表情からは想像もつかない。本当に良かった。僕は青山さんに視線を向けた。

「警察のお仕事って、こんなことまでしていただけるんですね」

「正直言うと、業務外です。本来はここまで介入してはいけないので内緒ですよ」

「ですよね」

「唐嶋さんこそ、明らかに予備校講師の業務外ですよね」

「そう言われてみれば、そうですね。俺バイトですし」

 二人で笑いあった。その様子をまゆが優しく見つめる。

「あ、こちらが?」

「ごめんなさい、紹介してなかった」

 僕がそういうと、まゆが僕の隣に歩み寄って青山さんに深々とお辞儀をした。腰まで伸びたきれいな黒髪が揺れる。

「申し遅れました。真優と申します。よろしくお願いします」

 青山さんもまゆに応えて会釈をした。

「お二人はお若いのに落ち着いていらっしゃって、お母さまがすぐに安心されたのもうなずけます」

「そんなことないですよ。青山さんこそ、25歳で刑事ってすごいことらしいですね」

「いえいえ、運がよかっただけですよ。庄司のサポートもあったからこそです」

「僕とそんなに年齢変わらないのに社会でもう結果出して、それでいて謙虚で、尊敬します」

「唐嶋さんこそ、本当に19歳ですか?あの日からずっと年上に見えていて、大学生って聞いたときびっくりしましたよ。今の返答も社会で十分通用します」

「年上に見えたは嘘ですよ。でもありがとうございます。僕もこれまで、たくさんの人に支えられてきましたから」

「ずっと不思議でしたし、19の頃の自分と比べて少し恥ずかしい気持ちになってしまっていましたが、今日ここにきて納得出来た気がします」

 青山さんの言っている意味が少しわからなかった。

「どういうことですか?」

「いえ、すみません。忘れてください」

 青山さんの返事も理解できず、僕はたまらずまゆの顔を見た。まゆは僕と目が合った後、すべてを理解しているようにくすっと笑い、青山さんに顔を向ける。

「ごめんなさい。この人、鈍感なんです」

「なんだか安心しました」

「どういうこと?よくわからない」

 まゆも青山さんも、朱里も笑顔で、穏やかな空気が流れた。

「では、私はこれで失礼します。25日にお兄さんを連れて、また伺います」

「ありがとうございました。またお願いします」

「じゃあ上がって。・・・朱里ちゃん、でいいかな?」

「はい、真優お姉さん。私お姉ちゃんが欲しかったからうれしいです」

「ふふふ、かわいい」

「あの、お姉さん・・・」

「なぁに?」

「髪、こんなに長いのにすごくきれいで素敵です」

「あら、うれしい。まさとは髪の毛のことは何も言ってくれないのよ。髪型変えても、伸ばしても」

「ごめんって、ちゃんと気づいてはいるよ。たまに言ってるし」

「たまにじゃだめですよ、ちゃんと毎回口で伝えないと。髪は女の命ですから」

 朱里が満面の笑みで僕を見つめる。

「そうよね、だめよね?」

 まゆが意地悪な顔でそれに重ねる。

「何これ、そういう感じ?」

「ふふふ、1週間賑やかで楽しくなりそうね」


2005年12月24日。『運命の日』まで2年5か月と、26日。

 この年のクリスマスは、朱里も一緒に三人でみなとみらいに出かけた。まゆと朱里がずっと手をつなぎ、二人がはしゃいでいる背中を見ながら着いていった。いつもは隣で歩いているまゆが僕の前にいるのは少し違和感あったが、楽しそうにしている二人を見てそこはかとなくうれしかった。

 お昼を食べてから早めにみなとみらいを後にし、ケーキと飲み物、夕食を三人分買って家に帰った。食卓を囲んで、楽しい会話が弾む。

「今夜で最後か・・・」

 朱里が突然寂しそうにつぶやく。

「明日、お兄さん帰ってきて一緒に家に帰れるね。お母さんも、手術が成功して1月中には退院できるかもって聞いたし」

「はい、1週間本当に楽しかった。ありがとうございます」

「こちらこそありがとう。俺もまゆも楽しかったよ」

「唐嶋さんも真優お姉さんも、ほんとの夫婦みたいで仲良しですよね。うちの両親も、二人みたいだったら良かったのにな・・・」

 僕とまゆは言葉を失って目を合わせた。僕らが躊躇っているのに気付いたのか、朱里がテーブルの食器を見つめながら話を進めた。

「うちの父、会社を経営していたんですけど、裏で結構悪いことしてお金稼いでいたみたいで、おととしに逮捕されたんです」

 今までずっと、僕もまゆも父親のことは聞かないようにはしていたが話を止めることはしなかった。朱里が続ける。

「父の会社は結局継続できなくて、お母さんが私たちを食べさせるために無理して働いて、持病が悪化しちゃったんです」

「そう、だったんだ」

「父は昔からお母さんに暴力はよく振ってて、私も乱暴されたことがあります。お兄ちゃんもたくさん怒鳴られて・・・やっと、私たちはあの人から開放されたんです」

 朱里は少し目に涙をためながら少しずつ言葉を口にした。

「でも、結果的に私たちが父を死なせてしまった。今では、少し複雑だと感じています。私たちを育てたお金がどんなに汚いものだったとしても、父がどんなにひどい人だったとしても、やっぱり家族ですから」

 朱里が顔を上げて、僕らの目を見た。涙を浮かべたその力強い目は、引っ込み思案で他人とうまく話せないような人の目とは思えなかった。涙を拭いながら朱里が続ける。

「これからは三人で、父のことを背負いながら仲良く、強く生きます。お二人のように・・・」

 それを聞いたまゆは僕を見つめて微笑み、立ち上がって朱里を抱きしめた。

「朱里ちゃん、立派よ。強くなったね。でも無理はしないで、何かあったらちゃんと周りの人たちにも頼るのよ。私たちもそうだし、朱里ちゃんたちを支えてくれる人はたくさんいるわ。誰かに頼ることを恥ずかしいことだと思わないでね」

 朱里の涙は頬を伝い、何度もうなずく。まゆの腕を強く握っていた。


 次の日、青山さんが、勾留が解かれた霜山を連れてきた。霜山は何度も何度も泣きながら僕らにお礼を言い、前の日に朱里が言っていたように強く生きると繰り返した。きっと二人が面会したときに話したんだろう。そのまま二人は生まれ変わった霜山家に帰っていった。


 1月末、霜山の母親が退院した。長期の入院だったこともありリハビリしてからの退院となったため予定よりは遅れたが、代わりに退院直後の生活に不安はなさそうだった。まゆと二人で霜山家に退院祝いを持っていき挨拶をしたが、みんな笑顔で、どこから見ても仲睦まじい親子の姿がそこにはあった。


2006年3月9日。『運命の日』まで2年3か月と、10日。

 この日、多くの生徒の合格発表の日だった。霜山も、その一人だった。

「唐嶋さん!」

 霜山が勢いよく予備校に入ってきた。満面の笑顔だった。

「第一志望、受かりました!」

「やったな」

「はい、唐嶋さんのおかげです」

「俺は何もしてない。お前が努力した結果だよ」

「そんなこと言わないでくださいよ。本当に感謝していますから」

「自信を持て。お前は自分で自分の合格を勝ち取ったんだ」

「本当に、ありがとうございます」

 後ろから霜山の母親が顔を出した。朱里もいる。

「お母さん。身体はもういいのですか?」

「ええ、おかげさまで。今日は唐嶋さんにご挨拶とご相談に参りました」

 僕は三人を応接室に通した。

「唐嶋さんにはこの一年間、私たち家族のことで本当にお世話になりました。おかげで無事、息子が大学生になれます」

「いえ、とんでもございません」

「そしてご相談とは、息子はこの予備校を卒業いたしますが、春期講習から今度は娘をお願いしたいと思いまして」

「お願いします」

 朱里が跳ねるように頭を下げる。

「あ、そうか、4月から高校生か」

「ええ、お願いできますか?」

「もちろんです。入校手続きの書類お持ちしますね」


 その夜、まゆに霜山家のことを話した。

「そうなんだ!二人とも無事合格でよかったね」

「うん、一安心だ」

「朱里ちゃんも明るくなって、本当に良かった」

「ああ、まゆのおかげだ」

「あ、またそれ言ってる」

「え?」

「全部あなたよ。私は少しお手伝いしただけ」

「あれ、なんだかこのやり取り、既視感があるな」

「そうよ。何回言ったらわかるの?」

「う~ん、実感が・・・」

「ふふふ、相変わらずね。まぁそんなところがいいんだけど」

 そういってまゆは、ダイニングテーブルからソファに座っている僕の隣に座りなおした。腕を僕の腕にからめる。

「ねぇ、朱里ちゃんいたとき、楽しかったね」

「ん?ああ、賑やかでよかったよな」

「まさとは、男の子と女の子、どっちがほしい?子供」

「まゆ・・・」

「さ、先の話よ。ほら、将来まさとの子供が産まれたらってこと」

 まゆは顔を赤めらせて照れくさそうにしている。僕は気が付かないふりをした。

「そうだな、どっちかには絞れないし、やっぱりどっちもいたら楽しいだろうな」

「私もそう思う!二人ともまさとに似たら、女の子はクールで知的な感じになって、男の子だったらお茶目で少し抜けてる感じになりそうよね!どっちも可愛いんだろうなぁ」

 まゆは楽しそうに話している。まゆと出会って、ずっと一緒にいて、もう7年が経った。はっきりと明言はしなかったが、朱里との3人の生活を経て僕も自然とまゆとのその先を考えるようになっていた。


 2006年は、本当にまゆと色んな所に出かけた。江の島やみなとみらいなどお馴染みのところや、これまでは行ったことのないところにもたくさん旅行した。

 5月には千葉に行き、鴨川シーワールドでシャチを見た。おいしい海鮮のお店で舌鼓し、お酒も飲んだ。ドイツ村のイルミネーションや鋸山など、これまでなじみの無かった千葉の魅力を二人でたくさん発見した。

 9月には北海道に行き、レンタカーで洞爺湖、小樽、札幌を回った。洞爺湖の圧倒的な自然と、小樽のどこか懐かしいレトロな雰囲気、札幌での暖かい食事を堪能した。北海道は広く、1回の旅行ではごく一部しか回ることが出来なかったから、また行きたいねと二人で笑った。

 11月には九州に行った。ここでも福岡で車を借り、大宰府、大分、小倉、下関、博多と回った。江の島とは違った大宰府天満宮の凛とした雰囲気、大分で遭遇したゲリラ豪雨でのトラブル、下関で初めて食べたフグ、博多のもつ鍋。二人で九州を目いっぱい楽しんだ。

 いつも二人で歩き慣れた道も、初めて訪れる場所も、思った通りに進んだことも、思わぬことで困惑したことも、まゆと一緒ならいつでもなんでも楽しかった。二人でこれまでいくつもの困難を乗り越えてきたからこそ出る落ち着きと、幼いころから一緒にいるからこその無邪気さが、二人の時間を色鮮やかに、特別なものにしていた。

 これからもずっと、当たり前の様に二人の時間が続くと思っていた。二人で人生を歩んで、子供も生まれて、これからもいろんな困難を乗り越えながら、支え合って、笑って一緒に老いていく未来が自然に描けていた。とても幸せな感覚だった。


2007年3月18日。『運命の日』まで1年3か月と、1日。

「まさと、誕生日おめでとう」

 この日は僕の21歳の誕生日だった。まゆのサプライズでみなとみらいのレストランで食事をしていた。

「ありがとう。このお店、結構高かったんじゃない?」

「そういうことを、祝われる人が気にしてはいけません」

「わかったよ。もう聞かない」

「よろしい」

 まゆはいつでもご機嫌だ。満面の笑みを僕に向けてお酒に口をつける。

「今日は、俺からも話があるんだ。食事が終わったら、あそこに行こう」

「あそこ・・・?」


 食事が終わって、僕はまゆの手を引いてコスモクロックに臨むバルコニーへやってきた。時間は夜で、あの日と同じように足元や手すりがきれいにライトアップされている。二人並んで手すりに手をかける。

「ここ、懐かしいね」

「ああ、最近来てなかったな」

「この手すり、こんなに小さかったっけ?」

「あれからもう8年かな?大きくなったな、二人とも」

「うん、あの時はまだ中学生だったもんね、私たち。あっという間」

 あの日と同じように柔らかい風が僕らを包んだ。不思議と僕の気持ちは落ち着いている。

「まゆ・・・」

「なぁに?」

「これ・・・」

 僕はそう言いながら、手のひらに乗る小さい箱を取り出した。それを見てまゆが息を飲む。

「え、これ・・・」

 僕は何も言わず箱を開けた。指輪についた小さなダイヤモンドが、周囲の光を弾いて輝いていた。時間を開けず、まゆの目から涙がこぼれた。

「ごめん、バイト代貯めただけじゃあまりいいもの買えなかった」

 まゆは両手で鼻筋から口元を隠し、しきりに首を振る。声は出ていなかった。

「まだ二人とも学生だけど、気持ちは本物だ。これから死ぬまで、一緒にいてほしい。俺のそばには、まゆが必要だ」

 まゆは泣きながら、今度は何度もうなずいた。声にもならない音が聞こえてくる。僕が指輪を箱から取り出すと、まゆは左手を静かに差し出した。そのきれいな指に指輪を通すと、そこが居場所と言うかのようにすんなりと収まった。

「まさと・・・」

「ずっと一緒って、言っただろ?」

「・・・うん、うれしい」

 まゆはそう言っての胸に顔をうずめた。僕はその愛おしい肩を抱き寄せ、きつく抱きしめた。幼い頃から見守ってくれているコスモクロックが、その鮮やかな光で僕らの周りを幻想的に彩った。


 僕らは確信していた。これから、大学を卒業して、社会人になって、結婚して、家庭を築いて、夢を追いながら楽しい生活を送っていくものだと、当たり前の様に疑っていなかった。でも、その未来が少しずつ崩れていく音が、ひっそりと僕らに近づいていた。


 2007年7月29日。『運命の日』まで10か月と、21日。

 大学にいた僕のところに、真衣さんから連絡が入った。まゆが貧血で倒れ、真衣さんの勤務先の病院で点滴を受けているから迎えに来てほしいという連絡だった。貧血を起こして倒れるなんて、まゆは今まで一度もなかった。でも最近の猛暑で体が疲れていたのかと思い、まゆを病院まで迎えに行った。

「まゆ、大丈夫か?」

 処置室に入るとまゆがベッドで横になり、その左腕には点滴がつながれていた。僕の姿を確認すると、まゆは上体を起こして僕を迎える。

「うん、大丈夫。だいぶ楽になった。ごめんね」

「謝ることじゃない。最近暑いし、疲れていたんだろう」

「そうかも。国家試験の勉強もあるし、無理してたのかな」

「しばらくゆっくり休みな。俺隣にいて点滴見てるから」

「うん、ありがと」

 そう言ってまゆは目を閉じ眠った。その穏やかな寝顔を見て少しほっとした。

 少し待っていると、処置室の引き戸が開いた。真衣さんが立っている。

「あ、正人」

「真衣さん」

 真衣さんはまゆに近づき額に手を当てる。熱を測るというよりも、まゆを案じている様子だった。

「今日はありがとね、来てくれて」

「当然でしょ。真衣さんこそ連絡くれてありがとう」

「今日、二人の家にお邪魔していい?真優心配だし」

 あまり起こさないとは言え、貧血で倒れた成人の妹をそこまで心配するものなのか?少し引っかかるところはあったが、僕も久しぶりに話したかったし真衣さんが来てくれるのは歓迎だった。

「かまわないけど、真奈と真実は大丈夫なの?」

「二人は昨日からサークルの合宿で家にいないわ」

「そうなんだ、二人は大学生活満喫してるの?」

「楽しんでるわよ、ものすごく」

「あの二人らしいね」

 何気ない会話で、静かで張りつめた空気が少しほどかれた。


 まゆの点滴が終わり、真衣さんと三人で家に帰った。冷蔵庫の中の食材から真衣さんが夕飯を作ってくれ、久しぶりに三人で食卓を囲んだ。食事を終えると、まゆは疲れたのか寝室に行って眠った。二人分のコーヒーを淹れ、カップを一つ真衣さんに差し出す。

「ありがと」

「こちらこそ。夕飯まで作ってもらっちゃって。相変わらず美味しかったよ」

「どういたしまして」

 少し、沈黙が流れた。特に気にするようなものではなかったのだが、なんだか嫌な予感がした。耐えきれず、僕がそれを破った。

「そういえば・・・」

「うん?どうしたの?」

「4人のお母さんって、今も行方不明なの?」

 真衣さんはコーヒーを一口すすり、テーブルに置いた。コトリと周囲に音が散る。

「どうしたの?突然」

「いや、まだ結婚は先だけど婚約したから、もし会えるなら会いたいな。まゆたちは知らなさそうだけど、真衣さんなら何か知ってるかなって思って」

 少しの間をおいて、真衣さんが口を開いた。この感じ、何か知っている。

「お母さんは、亡くなっているわ」

「・・・やっぱり、そうなんだ」

「驚かないのね」

「まぁ、ずっと話にも出なかったし、もしかしたらそうなのかなって」

「4年前に香菜子おばちゃんに聞いた。治らない病気だったんだって。家を出たのも家族に迷惑かけないように一人になって、ひっそりとって」

「・・・そっか」

 会ったこともないのに、とても切ない気持ちになった。

「3人にもちゃんと話さなきゃって思っていたんだけど、なかなか踏ん切りがつかなくて。結局一番落ち着いている正人に最初に伝えてしまったわ」

「なんの病気だったの?」

「血液系の難病。もう、見つかった時には手の施しようがなかったそうよ」

「子供を遺して、つらかっただろうな」

「うん、あんなに子煩悩だったお母さんが家を出るなんて信じられなかったけど、それだけつらかったんだと思う」

 険しい表情を浮かべてそう言う真衣さんもとてもつらそうに見えた。会ったことはないけど、みんなに慕われていたのがよくわかる。

「正人の家族には、挨拶行ったの?」

「母さんには二人で話しに行った。父さんは年末帰って来れればその時かな。電話でまゆと話はしてもらったよ」

「そうだったの。どうだった?」

「まゆがすごく緊張してて、声上ずってた」

「へぇ~、聞きたかったわ」

「あとは新潟と兵庫にうちの両親の実家があるから、8月に新潟行こうって話していた」

「あ、新潟出身なのね、うちのお母さんと一緒だ」

「そっか、真衣さんには話してなかったか」

「私たち新潟で暮らしてた時もあったから、もしかしたらどこかで正人と会っていたかもね」

「別に俺は住んでたわけじゃないし、広いからそんな簡単には会わないでしょ」

「正論だけど、つまらない返事ね」

「やかましいわ」

 先ほどの緊張感が嘘のように空気が変わった。

「じゃあ私帰るね。起きたら真優によろしく」

「わかった。今日はいろいろとありがとう。気を付けて」

「いいえ。そちらこそ、新潟気を付けて行ってらっしゃい」

「ああ、行く前にまた二人で顔出すよ」

「わかった。その時にでもなぁみぃにも会ってあげて」

「うん、おやすみ」

「おやすみなさい」

 真衣さんが家を出て、鍵をかけた。寝室に行くとまゆが目を閉じて眠っている。隣に座って顔に手を触れるとその大きな瞳がゆっくり開いた。

「ごめん、起こした?」

「ううん、なんか眠れなくて・・・」

「もしかして、さっきの話聞いてた?」

「うん。でも私、知ってたよ」

「そうなの?」

「多分お姉ちゃんが初めて聞いたとき、家で二人が話しているのを聞いたの」

「・・・そっか」

「でも、なんとなくそうかなってずっと思ってたから、あんまりショックじゃなかったかも。むしろ、どうなったか知れてよかったよ」

 まゆが僕の腕にそっと手を添えた。

「私にはまさとがいるから大丈夫。今日はごめんね、ありがとう。明日にはよくなると思うから」

「わかった。今日はもう休もう」

「おやすみ」


2007年8月20日。『運命の日』まで9か月と、30日。

 この日、車を借りて二人で新潟の母さんの実家に行った。母さんの弟にあたる、治義叔父さんが僕らを迎える。事前に婚約者とあいさつに行く旨は伝えてあった。

「おじさん久しぶり」

「おお、正人!久しぶりだなぁ。遠くまでよく来たな」

 本当に久しぶりだったが、昔と変わらず大らかな雰囲気にほっとした。

「それで、こちらが?」

 叔父さんが手のひらをまゆに向ける。それに気づき、まゆが一歩前に出た。

「まゆと申します。今日はありがとうございます。よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げるまゆに、叔父さんは少したじろいだ。

「そんな、ええってええって。暑いけど、自分の家だと思ってゆっくりしてけ」

 聞きなれない新潟弁のイントネーションに困惑したまゆが僕を見て、僕はそのまま目線を返した。微笑む僕の顔を見て緊張がほぐれたのか、まゆも可笑しそうに笑った。夏の新潟の強い日差しが、その笑顔を爽やかに輝かせる。


 その日の夜は、叔父さんと叔母さん、祖父祖母、3人の従兄妹と一緒にごちそうを囲んだ。普段お酒はあまり飲まないが、新潟のおいしいお酒に僕もまゆも夢中だった。皆まゆを僕の婚約者として受け入れてくれ、また二人でこれからのことを強く実感した。

 夕食の片づけが終わり入浴を済ました後、客室の縁側でまゆと並んで座った。夜でも暑かったが、お風呂上りの火照った体には通り抜ける夜風がとても気持ちいい。見上げると、澄んだ空気が満天の星空を僕らに見せてくれた。

「うわぁ、綺麗だね」

「田舎は星がよく見えるよな」

「うん、横浜とは違った夜景でいいね」

「みんな、どうだった?」

「皆いい人で、おしゃべりで面白くて楽しかった!」

「良かった。皆もいい人見つけたねって言ってくれたよ」

「ほんとに?良かった」

「でも本当は、俺を見つけてくれたのはまゆの方なんだけどな」

「ううん、あなたが私を見つけてくれたのよ。それがなかったら今の私はなかったわ」

「え?でも初めて会った時はまゆから声かけてくれたじゃん」

「ふふ、そういえばそうだったかしらね」

「なんだよ、それ」

「まさと、私幸せだよ」

「ああ、俺もだ」

「一緒に、幸せになろうね」

 夜空を見上げたまゆの横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。僕は以前から思っていた言葉が自然と口をつく。

「俺、夢を焦らないことにしたよ」

「え?」

「母さんのこととか、瑛史郎のこととか、医薬分業がどうとか・・・なんだか俺、ずっと焦ってた気がする」

「うん、それはちょっと感じてた」

「でも、霜山や朱里のような生徒たち、仲間に、真衣さんや真奈真実、家族、まゆ。大切な人たちが周りにはたくさんいて、そんな人たちとの日常を大切にした上で、自分にできることをやっていこうって、思った」

 まゆは何も言わず優しい表情で僕を見つめる。

「これからもたくさん一緒に楽しい時間を過ごして、幸せになろう」

「うん!私はまさとが選んだ道を応援して、一緒にいる」


2007年11月14日。『運命の日』まで7か月と、5日。

 ついに、運命の歯車が狂い始めた。この日もまた、まゆが貧血で倒れて運ばれて病院まで迎えに来た。部屋に入ると真衣さんが一人でベット脇に座っていた。

「真衣さん」

「正人、来てくれてありがとう」

「ああ。まゆは?」

「今、精密検査を受けに行ってる」

「精密検査・・・って?貧血だろ?どうしてそんな必要が・・・」

 そう言うと、真衣さんの顔つきが変わった。急に寒気がして部屋の空気が重たくなっていく。

「落ち着いて、聞いてね」

「あ、ああ」

 嫌な予感がした。

「真優は、お母さんと同じ病気よ」

「え?嘘だろ・・・?それってまさか・・・」

 真衣さんは何も言わずに目を逸らした。その時の真衣さんを気遣う余裕が僕にはなかった。駆け寄り、その肩を両手でつかんで揺らす。

「なあ真衣さん、悪い冗談はやめてくれ。今朝まで、いつも通り元気にしていたんだ。そんなわけがない。嘘なんだろ?なあ?嘘だって言ってくれよ、真衣さぁん!」

 どんなに強く体を揺らしても、真衣さんはうつむいたまま何も言わなかった。

「ごめん正人。私も・・・私もすごくショックで、嘘をついてあげられる余裕がないの」

 上ずった声でそう絞り出す真衣さんの瞳からは、涙がこぼれていた。きっと真衣さんも信じられなくて違う可能性を探ったはずだ。その結果がこの反応なら・・・もう。

「どうして・・・どうしてまゆが。なんとか、なんとかならないのか?」

「私も同じことを先生に聞いたわ。でも『延命しかできない』って言われた」

「そんな・・・」

 その時ふと気配を感じて振り返ると、扉が開いていて検査着を着たまゆが立っていた。腕には点滴がつながれている。

「まゆ・・・」

 すぐ目の前にいるのに、ものすごく遠くにまゆを感じた。いつも眩しい笑みを浮かべるその顔が、ぎこちなく揺れている。

「まさと・・・来てくれたんだ。あれ?お姉ちゃんもいる・・・なんで?」

 真衣さんはまゆを見ることができないのか顔をまゆから背けてうつむいている。まゆは焦点が合わない目線を僕に向ける。

「まさと。ほら、おうち帰ろ?私はもう大丈夫だから、一緒に帰ろうよ。お願い。私のそばにいて。ずっと隣にいて、手を握って、私を抱きしめて。お願いだからぁぁ!そばにいてよぉぉお!まさとぉぉぉおおお!」

 まゆはそう叫びながら膝から崩れ落ち、泣き出した。点滴スタンドが倒れ、まゆの腕から注射針が抜ける。やっぱり、まゆは僕らの話を聞いていた。今一番辛いのは僕らじゃない、まゆだ。僕はまゆに駆け寄って抱き寄せた。まゆも両手を僕の背中に回し、すがるように強い力で抱きしめる。僕も思わず涙がこぼれ、気づけば声を上げて泣いていた。二人の泣き声は、静かな夜の病院に寂しく響いていた。


 次の日、改めて二人で病院を訪れ正式にまゆの病名が告げられた。昨日は二人で泣き疲れて寝てしまったのに、この日はすんなりと先生の話を聞いていられた。一週間後から入院するため、それまでに準備とやりたいことを済ませておくようにと言われた。実感なんて何もない。ただずっと、震えるまゆの手を握り続けていた。


 家に帰ると重苦しい空気が僕らを迎えた。つらい現実から目を背けるように中身のない話をしては二人で沈黙し、また現実に引き戻された。もうこの時何を話したかさえ覚えていない。

「明日から1週間、何しよっか・・・」

 ふとまゆがつぶやいた。僕はどこにも行く気になれなかったが、同時にずっと家にいるのも耐えられる気がしなかった。

「どこか、出かけようか。行きたいところある?」

 こんな時でもやっぱり、何かをする提案は気持ちを上向かせてくれる。まゆは右手の人差し指を顎に置き、天井を見上げた。名案が思い付いたのか、パッと表情が明るくなりあごに当てていた指を伸ばし天井に向けた。

「今まで一緒に行った思い出の場所、回らない?」

 その時のまゆの仕草を見て、とても懐かしい気持ちになった。どんなに大人になっても、まゆは変わらない。

「いいね、そうしようか」

「決まりだね!」

「じゃあもう休もうか。今日は疲れただろ」

「うん。明日から楽しみだね」

 そう言うまゆの笑顔は、少し寂しそうだった。


2007年11月15日。『運命の日』まで7か月と、4日。

 二人で身支度を済ませ、玄関でお互いの格好を見せ合った。

「うん、今日も決まってる」

「まゆも、今日もかわいいよ」

「おや珍しい?今なんて?」

「・・・2回も言わん」

「知ってる~、雨が降っちゃうから聞かなかったことにしておこう」

「やかましい」

「あはは、楽し」

「じゃあ、行こうか」

「最初に行く場所、分かってる?」

「もちろん、あそこだろ?」

「うん、あそこだね!」


 二人で歩いて港南台駅に着いた。目指すのはもちろん、あのベンチ。

「なんだか、ここ久しぶりだね」

「そうだな」

「ここは本当に、私たちの始まりの場所だよね」

「ああ、いろんな話をしたな」

「最初はまさとの悩み相談だったなぁ」

「懐かしい。榊原、元気かな?」

「あなたのお陰で立ち直った先輩ね!」

「俺じゃないよ。まゆだ」

「またまた~」

「・・・仲直りも、ここでしたな」

「雪の日のやつだね。あれが今までで一番おっきい喧嘩だった」

「まさか本当に雪の中で待ってるとは思わなかったな」

「頑固さは日本一ですから。まさと、本っ当に来るのが遅くて、謝りたくて仕方がなかったのに少しイライラしてたわ」

「え、イライラしてたの?」

「うん、実はね」

「そういえば意地張るなって怒られた気がする」

「あ、ちゃんと覚えてた。そうそう、意地なんか張ってないで早く来い!ってずっと思ってた」

「なんだよ、それ」

「あはは、可笑し」

 まゆはあの時と同じように、足をパタパタさせながら笑顔を見せる。

「あ、そういえば・・・」

「どうした?」

「あのTSUTAYAも一緒に行ったね」

「ああ、あの時はどうして授業前にCD返さなかったのか不思議でしょうがなかったな」

「あれ?今は分かるの?」

「馬鹿にするなよ?」

「あの時、これからたくさんお互いを知っていけばいい、ってまさと言ってくれたの覚えてる?」

「ああ」

「本当に、あれからたくさんまさとのこと知って、今では誰よりも知ってるって自信ある」

「うん」

「でも私はまだ、大人になったまさとを知らない。親になったまさとを知らない。仕事をしているまさとを、知らない。やっぱり、知りたい。もっともっと、まさとのことを、まだ誰も知らないまさとを、知りたい」

「・・・ああ、そうだな」


2007年11月17日。『運命の日』まで7か月と、2日。

 この日は藤沢本町の駅に来た。中高生の頃、何度もこの改札前までまゆを迎えに来た。今日は江ノ島に向かうため、ホームのベンチに座って電車を待っていた。

「このベンチも、あの時のままだね」

「まゆ、悩んでたよな」

「友達作るの苦手だったなぁ」

「あの頃同級生の前であんまり明るくなれないって言ってたけど、やっぱりお父さんお母さんのことがあったから?」

「・・・まあそれもあるかな。やっぱりなんだか少し怖くて・・・ばれてた?」

「なんとなくだったけど」

「でも、あれからたくさん友達出来た。あなたのお陰で、学校楽しかったよ」

「それはよかった」

「ほら、電車来たよ」

「今日は中高生でパンパンじゃないよな?」

「まだ、皆授業中だからね」


 そのまま江ノ島に着き、龍宮までやってきた。

「ここも、最近来てなかったな」

「うん、でもここもたくさん二人で来たね」

「いつ来ても、神秘的な場所だよな」

「ここでお祈りするまさとの横顔見るの、好きだったな」

「え、まゆもお祈りしてたんじゃないの?」

「お祈りしてるふりしてチラチラ隣見てた」

「バチ当たりな・・・」

「ふふふ、きっと龍神様も私の気持ち分かってくれるわ」

「確かに、そうかもな」


 そのままいつも通り手をつないで稚児ヶ淵に降りて行った。この日も水面が陽の光を反射して、キラキラと眩しい景色を僕らに見せてくれた。

「ここは、やっぱり綺麗だね」

「ああ、何回来てもいいところだ」

「たくさん、まさとの将来のこと、ここで聞かせてもらったね」

「ああ」

「でも、まだ叶えられてないね」

「・・・そうだな」


2007年11月19日。『運命の日』まで7か月。

 この日はみなとみらいに来た。いつもはデートで来ていたので二人ではしゃぎながら歩いていたが、この日は口数がどうしても増えず、波の音を聞きながら街並みを歩いた。向かったのは、コスモクロックがよく見えるあのベンチ。

「ここも、たくさん来たね」

「ああ、まゆから告白されたのが、ついこの間みたいだ」

「プロポーズしてもらったのは、本当についこの間だったね」

「そうだな」

「まさとのそばに私が必要って言ってくれて、うれしかった。まさとの気持ちは今までの言葉や行動で伝えてくれていたけど、やっぱり言葉にしてくれたのも心に響いたよ」

「最初ここに来た時も、そう言ってたしな」

「今でも、私のこと必要って思ってくれてる?」

「もちろん。まゆのいない人生なんて、もう考えられない」

「うん、ありがと」

「だから・・・」

「・・・だから?」


 ———死なないでくれ。


と言いたかったけど言葉にできなかった。代わりにまゆの肩を抱き寄せ、力を込めた。まゆは僕の背中に腕を回し、少し震えながら顔を僕の胸にうずめた。

「分かった」

 唐突にそういわれたが、まゆが何のことを言っているのかは理解した。


2007年11月22日。『運命の日』まで6か月と、27日。

 そして、まゆの入院の日を迎えた。二人で身支度をして、入院に必要なものを揃えて家を出た。家の扉が静かに閉まり、まゆは二度とこの部屋に戻ることはなかった。

 病院では個室が用意され、看護師さんから入院に関する簡単な説明を受けた。その後病室にやってきた主治医から治療の方針について相談があった。まゆの病気は疾患例がほとんどなく治療法も確立されていないため、まだ承認はされていないが効果があると思われる医薬品、治療法を行うことになっていた。僕もまゆも、治る可能性が少しでもあるのならと、承諾した。

「じゃあ、俺はもう行くよ。また来る」

「うん、ありがと」

 病室を出ようと振り返った僕の腕を、まゆがつかんだ。

「どうした?」

「私、頑張るね。絶対に死なない」

 そう言うまゆの瞳には、涙がこぼれそうに溜まっていた。

「まだ私、まさとと結婚してない。夢に向かうまさとを支えられていない。私が必要と言ってくれたまさとに、まだ何もしてあげられていない。だから、こんなところじゃ死ねない。こんな病気すぐに治して、またまさとの隣に戻ってくる。絶対に」

 僕はすぐにまゆを抱きしめ、耳元で伝えた。

「分かってる。信じてる。いつまでも待ってる。また、ピアノでカノン弾いてくれ」

 何度もうなずくまゆの頬は、涙で濡れていた。


2007年11月23日。『運命の日』まで6か月と、26日。

 入院した次の日から、薬での治療が始まった。点滴で数時間かけて体の中に入れる治療で、ずっと座っているだけでも大変そうだった。副作用も強く出るといわれたが、この日は初日だからか特にそのような症状は出なかった。


2007年11月30日。『運命の日』まで6か月と、19日。

 この日は薬の副作用が出てずっと吐き気が止まらなかった。食事ものどを通らず、栄養は点滴で入れてもらった。吐き気が落ち着けば会話は問題なくでき、面会の時間はいつもの笑顔もたくさん見られた。


2007年12月15日。『運命の日』まで6か月と、14日。

 面会に行くと、まゆは眠っていた。ベッドの脇に座って本を読んでいると、あっという間に面会時間が過ぎていった。終わりかけた時にまゆが目を覚ました。

「あ、まさと来てくれてたんだ。私、ずっと寝てたみたい」

「ああ、ぐっすりだったよ」

「ごめんね」

「気にするな」

「お話、できる?」

「もうすぐ面会時間終わるから、少しだけなら」

「え?もうそんな時間?せっかく来てくれたのにな」

「また来るよ。毎日でも」

「えへへ、ありがと。待ってるね」

「じゃあ、またな」


2007年12月24日。『運命の日』まで5か月と、26日。

 この日はクリスマスだったので二人分のケーキを買って病院に行ったが、結局面会時間中にまゆが目を覚ますことはなかった。まゆと出会ってから9年間、初めてクリスマスの日にまゆの声を聴けなかった。冷蔵庫にケーキを入れ、メモを残して病室を後にした。



2008年1月6日。『運命の日』まで5か月と、13日。

 この日は病院で会った真衣さんがちょうど退勤の時間だったのでうちに寄ってくれた。

「へぇ、ちゃんときれいにしているのね」

「まあね。そこ座って、コーヒー淹れるよ」

 二人でダイニングテーブルをはさみ、コーヒーをすする。

「正人はちゃんと、ごはん食べられてる?」

「ああ、何とか。毎日気が気じゃないけど」

「そう、だよね」

「でも、まゆの方が辛くて大変だから、これくらい」

「無理はしないのよ」

「ありがとう。こうして気にしてくれるだけでもだいぶ助かるよ」

「私たちも家族だからね、なんでも言って」

「まゆの経過は、どうなの?何か知ってる?」

「よくはない、というか、治療の効果は出ていないみたい」

「・・・そっか」

「でも、正人が来た日は真優いつもうれしそうだし、正人が来てくれるから、正人とまた暮らしたいからって言って頑張ってる。気持ちは前向きよ」

「よかった」

「ありがとね、本当に」

「急にどうしたの?」

「あなたがいたから、あの子はどんなにつらくても前を向けたのよ。出会った時から、ずっと」

「・・・やめてくれ」

「正人と出会わなかったら、あの子の人生は・・・」

「真衣さん!」

 思わず声を荒げてしまった。真衣さんが驚いて言葉が止まる。

「まだ、まゆは死なない」

「・・・そうね、ごめんなさい。ひどいこと言った」

「謝らないでくれ。真衣さんは俺以上に現実が分かっているだろうし、気持ちもわかる」

「正人・・・」

「俺だって、まゆの病気のことは調べた。これからまゆがどうなるのか、俺なりに理解しているつもりだ。だけど、受け入れられる気は・・・しない」

 今まで押し殺していた気持ちを言葉にするたびに、手が震える。そして、止まる気配がない。

「俺は、無力だ。医療でたくさんの人を救いたいって大層な夢を掲げておきながら、大学で医療の一端を学んでいながら、大切な人一人、守れないなんて・・・」

「自分を責めることじゃないわ」

 真衣さんも、カップを持つ手に力がこもる。

「分かってる。分かってるけど、何かを呪わないと、誰かを恨まないと、こんな理不尽を許すことなんかできないよ。でも誰も悪くないから、誰も恨めない。だったらせめて自分の無力さでも責めないと、俺は自分を保てない」

 真衣さんは立ち上がって、震える僕の背中をさすってくれた。それがまた、涙を誘う。

「真奈と真美は、どう受け止めてるの?」

「二人に詳細は伝えてないけど、二人なりに調べて動揺はしているみたい。あなたと違って表面的な情報しか持っていないからあまり理解はできてないようだけど」

「きっと二人も辛いけど気を遣って表には出してないんだと思う。俺は大丈夫だから、二人の傍にいてやってくれ」

「・・・分かった。二人にも気を配ってくれてありがとう」

 真衣さんは少し間を開けてそう言い、帰って行った。きっと一人になりたい僕の気持ちが伝わったのだろう。


2008年1月27日。『運命の日』まで4か月と、23日。

 この日のまゆは調子が良さそうで、二人で少しだけ病院の周りを散歩した。しばらく外に出ていなかったまゆはとても気持ちの良さそうな表情をしていて、久しぶりにまゆの満面の笑顔を見た気がした。あんなに数えきれないほど見てきたまゆの笑顔が、急に切なく感じた。


2008年3月3日。『運命の日』まで3か月と、16日。

 毎日の様に面会に来て見ていたから気づきにくかったが、明らかにまゆは痩せていた。当然だ。治療はきつく、食事もとれないことがある。自分がどうなってしまうのかという恐怖とずっと戦ってきていたはずだ。それでも、僕の前では決して弱音を吐かなかった。まゆが諦めていないからこそ、僕も自分を奮い立たせることができた。


2008年4月13日。『運命の日』まで2か月と、6日。

 まゆは明らかに弱ってきている。昨年受けた余命宣告のことを考えても、今のまゆの姿を見ても、いつその日が来てもおかしいとは思えなかった。でも、覚悟を決めないといけないと思えば思うほど、それを考えることなんてできなかった。

「まさと、ごめんね」

 最近のまゆは、面会に行くと開口一番この言葉が出てくる。きっとまゆが一番、今の自分の状況を理解している。

「謝るなって」

「でも、私がこんなんじゃなかったら、もっと一緒に楽しいこと出来たのに」

「まゆが俺の立場だったら、同じこと言わせてたか?」

「・・・怒ってると思う」

「ほらな」

 ふふ、とまゆが笑った。その笑顔も、弱弱しかった。

「私ね、死ぬのは怖くないの」

「まゆ、そんな話は・・・」

「お願い、聞いて」

「・・・分かった」

「いつか、人が死ぬことは皆知っている。私はそれが今っていうだけ。だから、受け入れないといけないの。でも、きっとあなたはここで立ち止まってしまう。私はそれが何よりも嫌で、耐えられない。私もあなたの立場だったら、絶対立ち止まってしまう。でも、必ずいつかまた歩き出してほしい。10年後、20年後でもいい。それでも遅くない。あなたは夢に向かってまた歩き始めて、成し遂げて、たくさんの人を幸せにして・・・」

 その話を聞いて、自然と涙が出た。まゆも涙を流している。

「今まで、本当にありがとう。あなたと出会って、ずっと一緒にいられて、私は本当に幸せだった」

 まゆが思いを口にすればするほど、二人の涙は増えていった。

「ほら、泣かないの。今日は昨日亡くなった人が生きたいと願って止まなかった明日よ。そんな奇跡みたいな日を、悲しい涙でつぶさないで」

「俺は、俺はどうしたらいい?まゆがいなくなったら、俺はどうやって生きていけばいいんだ?」

「忘れるの。楽しかった思い出だけ残して、忘れるのよ。これからまさとには良いことがたくさん待っているから、悲しい思い出を振り返る暇なんかないはずよ」

「勝手だな。自分には絶対できないことを」

「そうよ。私は勝手なの。私の願いはまさとが幸せな人生を送れることだから、勝手なことをあなたに頼むのよ」

「・・・駄目だ、考えられない。諦めるな。そんな話をしないで欲しい」

「まさと、お願い、分かって。私はね、諦めているわけじゃないのよ。でも、ちゃんとお礼とお別れも伝えたいの。言葉だけでは絶対に伝え切ることはできないけど、私は今までたくさん、あなたに希望と幸せを受け取った。ちゃんとお礼を伝えて、しっかりお別れをしないと、あなたが前を向けなくなっちゃう」

「いやだ、まゆのいない未来なら、前なんて向けなくたっていい」

「そんなこと言わないで。私は、もうあなたの傍に長くいられないの。悔しくて、悔しくて仕方がないけど、だからこそ、私のことで立ち止まらないでほしいの」

 もう二人の顔は涙でぐしゃぐしゃになり、言葉にならない音を言い合っていた。

「そうじゃない、そうじゃないんだ。俺が言いたいのはそういうことじゃない。こんな時にまで俺に、周りに気を遣うな。もっともっと、まゆが本当に望んでいることを口に出してくれよ。こんな運命を簡単に受け入れるなんて、絶対に違うだろ」

 まゆは言葉を詰まらせてうつむき、肩を震わせて僕の言葉を咀嚼していた。顔を上げたその表情には、怒りにも似た感情も混ざっていた。

「私だって、嫌だよ!まだ死にたくない。まさとの傍から離れるなんて、本っ当に嫌。だって、一緒に行きたいところとか、やりたいことがまだまだいっぱいあるんだよ?結婚して子供産んで、幸せな家庭を築けるって思ってた。ずっと一緒なんだって、疑ったことなんて一度もなかった!辛いことや悲しいことも、あなたとなら乗り越えられるから大丈夫って、ずっと、ずっと安心してたの!なのになんで、なんでそんな未来が私には来ないの!?あなたのそばで、あなたが夢をかなえる姿を見たかった。落ち込んでる時は笑わせてあげたかった。ただ、たったそれだけ、それだけなのに・・・どうして?なんで私にはそんな小さな幸せすら奪われないといけないの!なんでよぉ!」

 僕の胸倉をつかんで弱弱しく引っ張りながらまゆは叫んだ。僕は思わずまゆを抱きしめていた。

「いやだ、いやだよぉ。まさとと離れたくない。ずっとそばにいてよ。私の前からいなくならないで。まだ、死にたくないよぉぉお」

 まゆは僕の腕の中で小刻みに震え、嗚咽を抑えられていなかった。僕はただ、その言葉を受け止めるしかなかった。

「・・・ふふふ」

 まゆが突然笑みを浮かべた。不思議に思ってまゆの顔を覗き込むと、涙を流しながら明るい表情をしていた。

「可笑しいね。なんか私、あなたのことばかり。これからやりたいこと、心残りなこと、全部あなたのこと。もし出会わなかったら、どうしていたんだろう。きっとこの9年間がとても長く感じていて、将来のことなんて考えられなくて、勝手に自分の一生を生きた気になって、すんなり受け入れられたんだろうな」

 まゆは僕の頬に手を触れ、二人の泣き顔を向き合わせた。

「もちろん私は、まだまだまさとと一緒に生きていきたい。だけど、それが叶わないかもしれないから、あなたのことを一瞬でも長く考えて、あなたの想いや姿を目や心に焼き付けることもしないといけないの。私の体や気持ちのことばかり、気にかけてはいられないのよ」

「まゆ・・・」

「だから、お礼だけはちゃんと伝えさせて。今までずっと一緒にいてくれて、私の想いに応えてくれて、本当にありがとう。そして約束ね。必ず、また夢に向かって顔を上げて。私はまさとが夢を話す表情が、いつでも大好きなのよ」

 もう何も言えなかった。まゆの切ない想いが、僕の心に押し込められたのが分かった。


2008年5月25日。『運命の日』まで25日。

 あれからまゆは、日に日に起きていられる時間が短くなっていった。体力が落ちていて、症状が進んでいる何よりの証だった。まゆが言うように、僕も覚悟を決めてちゃんと二人で話さないといけない。次話せる時があったら話そうと思っていた。

「あ、まさと。今日も来てくれた」

 か細い声でまゆが僕を迎えた。話をするのは1か月ぶりだが、病室に来たら必ずメモを残すようにしていたから、僕が来ていたことをまゆは知っていた。・・・もしかしたら、今日が最後のチャンスかもしれない。

「今日は起きてたな」

「うん。今日は少し、体が軽いかな」

「そっか。よかった」

 それから少し、静寂が流れた。どう切り出すか考えていたが、すぐにでもまた眠ってしまうかもしれない。考えている余裕なんかなかった。

「まゆ」

「うん?なに?」

「まゆに、ちゃんとお礼を言いたい」

 それを聞いて、まゆは優しく微笑んだ。

「うん。私も」

「まゆと出会うまで俺は、人生を窮屈に感じていて、誰かと仲良くすることをずっと避けていた。まゆがいたから自分と向き合えて、たくさんの人と関わって世界が広がって、ここまで成長することができた。ありがとう。全部、全部まゆのお陰だ」

 まゆはずっとニコニコしながら聞いていた。体が辛いはずなのに、そんな様子を僕には一切見せない。

「私こそ、まさとにたくさん救われた。まさとが、私を変えてくれたのよ」

「俺は何もしていない。まゆは変わってないよ。出会った時から明るくて、太陽みたいだ。俺の暗い世界に光を当ててくれた」

「ふふふ」

 僕がそういうと、そうではないと言いたげに口元に手を当ててまゆが笑った。

「どうしたの?何か可笑しかった?」

「いや、違うんだよなぁって思って」

「どういうこと?」

「まさとはずっと、気になっていたでしょ。どうして私があの時急にあなたに声をかけたのか。どうして初めて会った時からずっと大好きだったのか。あれは、一目惚れなんかじゃないのよ」

「え?あれほんとに理由があったの?」

「うん。だって、私たちが初めて会ったのは中二の春じゃないもの。まさとはすっかり忘れていたけどね」

「え、え?でも、そんなこと・・・」

「私たちが初めて会ったのは、小四の8月よ。再会して名前聞けたときはうれしくて泣きそうだったわ」

「小四の夏休み?それってまさか、まゆ達が新潟に住み始めた頃じゃあ・・・」

「そう。私たちはその時に、新潟で会っているのよ」

「え、うそだろ・・・」

「ついに、これを話す時が来たようね」

 僕はまゆの顔をじっと見た。少し口角を上げて、まゆが過去の話を始めた。



1995年8月2日。

 お母さんが失踪しお父さんを亡くした私たち4姉妹は、和歌山に身寄りがなくなり学校でも陰湿ないじめに遭っていた。逃げるように長岡のおじいちゃんの家に身を寄せたけど、ショックが大きくて私は新しい環境にもなじめず、親がいない異質な存在としてまたいじめに遭っていた。両親のことを自分のせいだと感じていた私は心を完全に閉ざしてしまい、真奈や真実、お姉ちゃんに対してでさえ、感情を出すことをしなくなっていった。もう未来に対する希望や、毎日を楽しむ余裕なんかなく、常に死ぬことを考える日々をただ数えていた。

 この日は、お姉ちゃんと香菜子おばちゃんがそんな私を見かねて外に連れ出すために、長岡の花火大会にやってきた。疲れるだけで本当に嫌だったけど、無理やり車に押し込まれた。それが、この日私がいつもより不機嫌だった要因にもなった。

「ねぇ!ゆぅ姉ちゃん」

 少し私の後ろを歩く真実に呼ばれたが、振り返ることもせずひたすら人込みの中を歩き続けていた。

「ねぇってば!二人の時くらい、ちゃんと私の話聞いてよ。はぐれるのが怖いから手つなぎたい」

 人込みの中で私と真美だけお姉ちゃんたちとはぐれてしまった。真実には悪いけど、このままはぐれたまま、私のことを誰も知らないところで拾われるか、死んでしまいたいと思っていた。お姉ちゃんたちを探すつもりなんか、なかった。

「ゆう姉ちゃん待ってよ!もう疲れたぁ!」

 そう言って真実が泣き出した。鬱陶しくなった私は仕方なく真実に歩み寄り、手を引いて川岸にある芝生が広がる土手に座らせた。

 二人でしばらく並んでぼーっと川を眺めていたら、真実が頭を私の肩に預けて来た。鬱陶しくて急いで払いのけた。またうるさくされると思ったら、真実は何も言わずにその場に倒れた。のぞき込むと顔色が真っ青で、呼吸が細かくなっていて、何度も何度も私の名前を小さく口にしていた。

「真実大丈夫?どうしたの?そんなに疲れてないでしょ?ちゃんと座って」

 強い口調でそう言っても、真実の反応は変わらなかった。呼吸だけどんどん荒くなっていき、こんなに暑いのに体は小刻みに震えていた。私は急に怖くなって土手の上で行き交う人たちに助けを求めようと立ち上がって手を伸ばした。

「だ、誰か・・・」

 私はその時、誰に、どうやって、何を伝えて助けを求めたらいいか分からないことに気がついた。ただその場に立ちすくんで、時間だけが過ぎていく。そのまま膝が崩れ、手を地面に着き、下を向いてしまった。

「どうしよう・・・このままじゃ真実が・・・」

 真実の顔に手を当てると、汗をびっしょりとかき、火傷しそうなほど熱かった。このままだと本当に死んでしまうと思い、恐怖で体が動かない。

「おい!大丈夫か?」

 私があたふたしていたところに、後ろから声をかけられた。振り返ると同い年くらいの男の子が心配そうな顔をしてこちらを見ている。この子にどうにか出来るとは思わなかったけど、ただただすがる思いだった。

「い、妹が・・・」

「見せてみろ」

 その男の子は真実に駆け寄って、熱を測るように額を触った。

「これは日射病ってやつだな」

「にっしゃ、びょう?」

 私の言葉には見向きもせず、彼はタオルに持っていたペットボトルの水を染み込ませ、真実の首に巻き付けた。タオルやペットボトルは荒く扱っていたが、真実の頭を持ち上げるときは両手を使い、ゆっくりとした動きだったのが印象的だった。

「おい、このままタオルがずれないように持っていてくれ」

「え、あ、うん」

「ちょっと行ってくる」

「え?え?どこに?」

 そのまま彼はどこかに走り去ってしまった。私はわけがわからずそのままタオルを持ち続けていると、5分くらいで彼は戻って来た。手にはビニール袋を提げている。

「氷に、水とタオル、あとスポドリ買ってきた。お前はそのままタオル持ってろ」

「う、うん」

 そういうと、彼は氷を取り出し、水を染み込ませたタオルに包んで真実の脇の下に挟ませた。扱いが荒っぽかったから、氷が何個か土手を転がり落ちていく。それからペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、キャップに注いで少しずつ真実の口に含ませた。やっぱり、真実の体に触れるときは動きがゆっくりになる。

「よし、これで多分大丈夫だ」

 しばらく真実の様子を見ていたら、どんどん顔色がよくなっていった。顔ももう熱くない。呼吸もゆっくりになっていて、眠っているようだ。彼も嬉しそうに真実を見ている。

「良かったな、これで一安心だ」

 まぶしい笑顔を私に向けてきた。私はなんて応えたらいいかわからず、お礼も言わず目を背けた。

「どうしたんだ?元気ないのか?」

 彼は私を心配しているのか、私の隣に座ってきた。鬱陶しかった。

「別に。あなたには関係ないでしょ」

「うん、まぁ、確かに関係はないな。この辺りの小学校か?何年だ?俺は四年だ」

「どこだっていいでしょ?そんなこと聞かないでよ」

「俺は神奈川から来たんだ。横浜の港南台って駅のとこ」

「そう。ならもう会うことは無いわね」

「なんだよそれ、まあいいけど。じゃあな」

 彼はこの場から立ち去るために立ち上がった。私は一瞥もせずに川を睨みつけていた。

「お前、もしかして・・・」

 立ち去ったはずの彼が私の右腕を持ち上げた。

「ちょっと、何?」

「この痣、なんだよ」

「別に、転んだ時にできたものよ」

「転んだだけでこんなに痣ができるわけないだろ」

 彼の言う通り、嘘だった。本当はいじめられて倒れて机に強く打ち付けた時にできたものだった。そんなことが何度もあるから、いくつもある。

「見ないでよ」

「・・・いじめられてるのか?」

 私は何も言い返せなかった。いじめられていることを知られたくない恥ずかしさでいっぱいだった。

「どうでもいいでしょ、そんなこと。いいからもう行ってよ!」

「まさかお前、死にたいとか思ってるんじゃないだろうな」

 この人、なんでもお見通しだと思った。私は何かをあきらめたようにため息をついた。

「・・・私はもう、疲れちゃった。どこに行ってもいじめられる。私がいけないのよ。私がいい子にしなかったから、皆いなくなっちゃったの」

 膝を抱え、うつむきながらそうこぼした。常に考えていたことだったけど、口にしたのはこれが初めてだった。それも、名前も知らない男の子に。

「いじめる奴、ほんとにたくさんいるよな。俺、いじめをする奴大っ嫌いなんだ」

「え?」

 彼は再び私の隣に座り、夕陽に赤く染められた空を見上げながらそう言い切った。はっきりとした口調で、その横顔はなんだか頼もしく感じた。

「いじめなんて、いじめる奴が100%悪いんだ。どんな理由があっても絶対にそうだ」

 私の顔を覗き込む彼の瞳はまっすぐで、自信に満ちていた。

「私が悪い子だから、いじめられるのよ」

「そう思わせるのがあいつらの手口だ。人にいろいろ言われると、自分に自信が無くなっちゃうよな。でも結局は何も知らない他人の言葉だ。そんなの気にする必要ない。お前は、絶対に悪くない。他人のために、傷つかなくていい」

「どうして、初めて会った私なんかにそんなことが言えるの?」

「妹のために助けを求めてただろ?その行動のお陰で妹が助かった。お前がしたかったこと、やろうとしたことは間違ってない。そんな人が悪いなんてことないんだよ。だから俺は、世界中が敵になっても絶対にお前の味方だ」

 ずっといじめられているのは自分のせいだと思っていたから、その言葉で私の心を縛る鎖が外れていくような感覚があった。味方。という響きが、確かな重みとなって心の奥に沈み込んでいく。

「負けるなよ。あいつらは何も言わない人をターゲットにする。言い返されたら怖いと思っている臆病者だからな。ちゃんと、嫌なことはいやだって言うんだ。そうすれば、絶対誰かが味方してくれる。もしいなかったら教えてくれ。俺が代わりにぶっ飛ばしてやるよ」

 救われた気がした。自分の気持ちを言っていいんだって、不思議と思えた。私は彼の顔を見て何も言わずうなずいた。

「お、ちょっといい顔になったな」

 思わず笑顔になっている自分に気が付いた。少し照れ臭かったけど、嫌な感じはなかった。こんな気持ちになるのは久しぶりだな。

「そういえば、家族は?もしかして妹と二人で来たのか?」

「あ、お姉ちゃんとおばちゃん、あともう一人妹と来たけど、はぐれちゃって・・・」

「そうなんだ。俺と一緒だな」

「そうなの?」

「そう、気づいたら皆どっかにいなくなってた」

「それ、自分がはぐれたんじゃなくて?」

「皆から見たらそうかもな。でも俺から見たら皆がはぐれた」

「あはは、何それ」

「ほんとに、勝手にはぐれて大変だよな、お前もそうだろ?」

「ふふふ。そうね、大変だね」

 自然と笑顔が続いた。彼はそれを見逃さなかった。

「その調子だ。あんまり、周りで起こったことを自分のせいだと思うなよ。何億人って人間はいるんだ。世界で起こる大体のことが自分ではどうしようも出来ない」

 なんだかよくわからない理屈だったけど、妙に納得した。すっかり彼の言葉を求めている自分がいる。

「せいぜい、自分と目の前の人を笑顔にできれば万々歳だ。難しいこと考えないで、それを繰り返していけばいいんじゃないかって思ってる」

「うん、そうだね」

 彼の言葉が、次から次へと私の凍り付いた心を溶かしていく。この人になら、話せるかもって思った。

「・・・私ね」

 少しトーンの落ちた声で話しはじめ、その雰囲気を彼は感じ取ってくれた。

「うん、どうした?」

「両親がいないの」

「まじかよ・・・」

「・・・うん。二人とも、いなくなっちゃった」

「そうか、それでおばちゃんか・・・つらいな」

「私、ずっと、私のせいで二人がいなくなっちゃったって思っていたの。だからいじめられているんだって。全部、ぜんぶ私が悪いんだって」

 気持ちが抑えられず、涙がほほを伝った。

「はぁ?なんでだよ!お前がなんかしたわけじゃないんだよな?どうせいじめた奴がそんなこと言ったんだろ。本当に最低だな」

彼はその口を開くたびに私が欲しかった言葉をくれた。理解してくれる安心感で心が満たされていき、涙が止まらなかった。言葉がのどにつかえ、ただうなずくことで思いを伝えた。

「事情はよく知らないけど、お前の父さんも母さんも、そんなこと絶対思ってない。そんなふざけた奴らの言葉を鵜呑みにするな」

「うん。だからさっき、あんまり自分のせいにするなって言ってくれて、うれしかった」

「そうか。でもそれ本当だぜ?何もできなかったって自分を責めるより、何ができるかなって思った方が絶対にいい」

「うん、そうする」

 二人で笑いあっていると、一発目の花火が打ち上げられた。心を震わせる大きな音がお腹に響く。

「あ、ほら、始まったよ!」

「な!すげー音だったな!」

 彼は大はしゃぎで空を指さした。そのまま次々とたくさんの花火が打ち上げられ、二人で並んで大迫力の花火を見上げた。私は時折彼を見て、その眼差しに見惚れていた。そして、花火が照らすその横顔にすっかり惹かれていることを、幼心ははっきりと理解した。


「正人~!どこにいるの~!?」

「あ、母さんだ」

 花火が佳境に近づいたときに、彼が突然立ち上がった。

「どうしたの?」

「近くまで親が来てるっぽい」

「え、じゃあもう行っちゃうの?」

「ああ。お前も妹ももう大丈夫そうだしな。じゃあな、いじめなんかに負けるなよ」

 そう言って、彼は土手を駆け上がっていった。

「待って!名前・・・」

「真優!!」

 彼が走り去った反対側から名前を呼ばれ、振り返るとお姉ちゃんが駆け寄って私に抱き着いてきた。

「良かった!見つかった~!」

「お姉ちゃん!?待って!離して!」

「こんな時までそんなこと言って!どれだけ心配したと思ってるのよ!」

「違う、違うの!いいから離して!早くしないと行っちゃう・・・!」

 お姉ちゃんを振り払って振り返ると、彼の姿はもう見えなくなっていた。

「何?真優、どうしたの?」

 私はお姉ちゃんを睨みつけた。

「お姉ちゃんのせいで、お礼言えなかったじゃない!」

「え?え?どういうこと?誰かいたの?それより真優、なんか雰囲気変わった・・・?」

 私はまた彼の影を求めて振り返った。そこは花火を見上げる人たちで埋め尽くされていて、やっぱり彼の姿は見えない。

まさと・・・?横浜、港南台・・・

「・・・本当にありがとう。いつかまた、きっとあなたに会いたい」



 話し終えたまゆの顔は涙でつぶれていたが、穏やかな表情をしている。

「うそ、だろ・・・」

「ほんとよ。私たちはあの時、長岡の花火大会で会っているの。一緒に、日本一の花火を座って観たのよ」

「確かに、俺はその日長岡に行って、家族とはぐれて、花火が終わるころに合流した」

「その間、私と二人でいたのよ。真実もいたけど」

「全然覚えてなかった」

「知ってる。あなたにとっては、無意識に救いの言葉をかけたたくさんの人の中の一人だったかもしれないけど、私は本当にあの言葉で救われたのよ。だから、ずっと覚えてた。あなたにまた会いたくて、会いたくて仕方なくて、皆で横浜に出るときに港南台駅の近くに住みたいって駄々こねたのも私」

 その頃のことを思い出せない。でも、そうであると腑に落ちることがあまりにも多い。真優が話したこともない僕に前触れもなく話しかけたこと。出会ったばかりの頃からずっと僕の味方であり続けてくれたこと。昔座って花火を観たことがあると言っていたこと。小四の夏休みに長岡花火に行って、家族とはぐれて誰かと話していた記憶があること。まゆが立ち直った本当の理由を真衣さんが僕に教えてくれなかったこと・・・今まで感じていた僅かな違和感が、線で真っすぐつながった。

「まさと。あなたは私が本当につらかった時、誰にも開けなかった心を解かしてくれた。あの頃の私はあなたの言葉だけが救いで、あなたのことを想い続けたから辛くても前を向けた。そんなあなたが、私に何もしていないわけがないじゃない。あなたは私にとってとても大きい存在で、出会った頃から今までずっと恋をしているのよ。あの日がなかったらきっと、私は今も生きていない」

「まゆ・・・」

「私は、太陽なんかじゃないわ。太陽はあなたで、私は向日葵。あなたをずっと見つめていたから、今まで上を向いて、胸を張って歩き続けることができた。私が太陽みたいに見えていたのであれば、それはあなたが私を照らしてくれたから、そう間違われるくらい立派な花を咲かせられたのよ。でも、太陽を追いかけているのは私だけじゃない。この世界には他にもたくさん、あなたを必要としている向日葵たちが日陰でしぼんでいる。まさとは、その片隅を照らしてあげて。そうすればきっと、あなたの周りは満面の向日葵畑みたいに綺麗な明るい景色になるよ。それはそれは、とても幸せな景色」

 涙が止まらなかった。まゆも、大粒の涙を流し続けている。

「まさと、今まで本当にありがとう。あなたのお陰で前を向いて生きてこられた。愛を知れた。希望を知れた。それはどんなに長生きをすることよりも、ずっと価値のある事」

 僕はまゆへの想いを言葉にできず、ただただ何度も頷いた。

「だからまさとも、前を向いて。そして忘れないで。あなたの想いを、心を、優しさを。あなたがあなたらしくいれば、その思いや行動が必ず誰かの胸を打つ。多くの人の心を動かす。私はそう、信じてる」

 まゆは病室の窓から夜空を見上げた。月に照らされたその姿は、それはとても綺麗だった。

「長岡の花火は、死者を弔うために打ち上げられたんだって。私が死んだら、会いに来てよ。私たちが初めて会った大切な場所だからね。出来ればもう一度、一緒に見たかったな」

「・・・分かった、約束する」

 まゆは僕の方を見て、いつもの笑顔を僕に向けた。

「ありがとう。大好き」


2008年6月19日。『運命の日』

 まゆの急変の連絡があってから駆け付けた時はまだ意識があり、最期にその眼を見ることができた。小さく「ありがとう」とだけつぶやいて、そのまま静かに息を引き取った。

 それからその日のことは何も覚えていない。

運命は時に出会いを引き寄せ、色のない世界に光を射す。

一方で、時に誰も望まない未来もつれてくる。


かつて少年の背中を押し、人として成長を遂げさせた運命は

残酷すぎる現実を突きつけた。


二人の出会いの真実と、

正人の心に残った約束は、

どんな運命をたどるのか


それは、残されたものに委ねられるのかもしれない

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。