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向日葵の約束  作者: まさ
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涙の先にあるもの

真優の笑顔に光を見出した少年は、世界に自分の居場所を見出していく。

かつて憧れていた日常を、正人は穏やかに過ごしていた


しかし、そんな日常にも影は静かに忍び寄る。

家族の病気、友人との別れ・・・

自分ではどうにもできない現実が、

少しずつ正人の心を締めつける。


けれど、影の中でこそ二人の絆はかけがえのないものになっていく。


第二章は、

弱さを認め合うことで、愛が芽生える物語。

第二章 それを愛と呼ぶなら


2001年4月5日。『運命の日』まで7年2か月と、14日。

 この日、僕は高校生になった。高校へ続く坂を上り切り、桜の花びらが舞う校門へ足を踏み入れた時だった。前を歩く見覚えのある背中が目に留まった。

「あれは……瑛史郎か?」

 間違いなく瑛史郎だ。どんなに久しぶりでも、見間違えることはない。僕は駆け寄った。

「瑛史郎!」

 瑛史郎は驚いた顔で僕に振り返る。

「おお、正人か!ひっさしぶりだなぁ!」

 僕はそのまま瑛史郎と並び、二人で校舎に向かった。

「なんだよ、やっぱりお前もちゃんと受かってたんだな!安心したよ!」

「え?あ、ああ・・・」

「ん?なんだその反応?まるで俺がいるのを分かっていたみたいな顔してるな」

「新入生名簿見てないのか?新入生の名前載ってたぞ。そこで見た」

「まじか!入学式の日にちと時間くらいしか見てねぇや」

「ちゃんと見とけよ」

「いやぁ、なんだかそわそわしちゃってさ」

「なんだよ、緊張してんのか?」

「今日は初日だ。普通は緊張するだろ」

「する必要あるのか?」

「お前、相変わらずだな」

「お前もな、元気そうでよかった」

「どうやら俺は心が折れない人間だったみたいだぞ」

「それは知ってた」

「お、馬鹿にしたな」

「褒めてる褒めてる」

「うそつけ!顔が嘘って言ってるぞ」

「まぁ、細かいことは気にするなよ」

 瑛史郎とのやり取りは久しぶりだったけど、そんなことを忘れるくらいそこにはあの頃の二人がいた。これからの、瑛史郎のいる高校生活が楽しみで仕方がない。

 体育館の入り口まで歩くと、入口で会場の見取り図の様なものを渡された。そこにもクラス毎の新入生名簿が書かれている。

「うお、俺もお前も6組じゃん」

「知ってる」

「何で知ってんだよ」

「見てきたからだよ」

「そっか、クラスも載ってたんか」

 瑛史郎のボヤキを横目にパイプ椅子が並んだ6組の列に腰かけた。瑛史郎も隣に座る。

「そういえば正人と同じ中学だった人はクラスにいるのか?」

 瑛史郎の質問に応えるべく、クラス表を指さす。

「あ、正人だ~」

 飛んでいきそうなくらいか細い声に振り返ると、瑠璃子が手を振りながら近づいてきてその後ろに紗奈もいた。ミーアキャットみたいに背筋を伸ばして体育館を見渡している。

「瑛史郎、この二人だ」

「あれ、お友達?」

 瑠璃子が僕をよけるように体を傾けて瑛史郎の姿を確認しながら僕に聞いてきた。

「ああ、そう。黒澤瑛史郎って言うんだ。中学のとき塾が一緒だった」

「瑛史郎です!よろしく!」

「あ、もしかして正人が入試の日に探してた人?」

「そうそう。よく覚えてたな」

「ま~ね。黒澤瑛史郎君ってすごい名前だね~、よろしく」

 瑠璃子はそう言って手を振りながら僕と瑛史郎の前を通り、自分の椅子に向かった。瑠璃子だけ『た行』なので少し遠い。振り返ると紗奈が僕の後ろに立っていた。

「よう。おはよう、磯山」

「おはよ、正人。あんたにしては珍しく早いわね」

「ほんとはギリギリに着きたかったけど、思った以上に家から近くて早く着いた・・・って言ったら信じるか?」

「信じない。それが嘘じゃなかったらわざわざそんな言い方しないでしょ」

「相変わらず素直じゃないねぇ」

「どっちがよ。まあ、何でもいいけど」

 その後、紗奈と瑛史郎もお互い自己紹介し、少したわいもない話をした。瑠璃子に目をやると、日向ぼっこをしている猫みたいに大きなあくびをしている。そうこうしているうちに体育館は新入生で埋まり、自然と会話も途切れた。


 入学式は滞りなく終わり、皆各クラスの教室に並んで歩いて行った。担任の鷲見先生から学校の説明や今後のスケジュールが話された。これから始まる高校生活が誇らしく、楽しみな気持ちでいっぱいだった。HRも終わり、瑛史郎や紗奈、瑠璃子に挨拶をして校舎を後にした。校門を出るとすぐにまゆに電話をかけた。びっくりするくらい早く出た。

「入学式、お疲れ様!」

「ありがとう。座って話聞くだけでも結構疲れるね」

「そうだよね、私もそれ苦手だな」

「まゆの方はどうだった?」

「私の方は進学式で、入学式は中学生だけだからそんなに立派な感じじゃないけど、やっぱり疲れた。人多すぎ」

「6学年あるもんな、人多そう」

「もうほんとに大変よ。さっきやっと学校出られた。そういえば、部活も決めたの?やっぱりテニス?」

「ああ、もう硬式テニスで決めてきた。前からやりたかったしね」

「ずっと言ってたもんね。弓道とかも似合うと思ったけどな~」

「弓道も気になってたけどな。まゆは高校になったら部活入るって言ってたけど、どうするか決めたのか?」

「やっぱり無難に吹奏楽かな。友達もいるし」

「音痴なのに?」

「うるさい! 絶対それ言うと思った。私は歌が苦手なだけだから!」

「分かった分かった。コンクールとかあったら観に行くよ」

「ふふふ、たくさん練習しなきゃね。まさとも、部活目いっぱい楽しんでね!」

「ああ、やっとやりたい部活が出来るしな」

「うん、約束ね。まさとは好きなことしている時が一番いい顔してるから」

「これから、会えるか?」

「うん!私も会いたい。お姉ちゃんが一緒にお昼ご飯しよって」

「分かった。教科書家に置いたら駅行くよ」

「うん、また後でね」

「ああ、また」


 こうして、僕らの高校生活が始まった。僕が入った硬式テニス部はいわゆるガチの部活で、練習は日曜日含めて毎日あり、週に3日は朝練もやっていた。中学の通学でだいぶ足腰や体力は鍛えられているつもりだったが、それでもはじめはきつかった。練習が終わるとくたくたで、そのままどこにも行く気になれず、まゆとは毎日会うどころか電話は3日に1回くらいで会うのは週に1回ほどだった。今までとは会う機会はかなり減ってしまったが、限られた時間で近況を伝え合うだけで楽しくて、それだけで毎日を頑張れる気がしていた。

 6月になり新生活にも慣れると、まゆとも少しずつ会える時間が増えた。クラスでは瑛史郎や紗奈、瑠璃子たちと笑い合い、部活でも仲間と打ち解け、どこにいても居場所があった。そんな日々は当たり前ではないと、僕はまゆに教わっていたから、その日常をかみしめながら大事にしていた。でも、そんな日々は突然変貌した。


 

2001年6月28日。『運命の日』まで6年11か月と、21日。

 20時。この日も部活でぐったりと疲れ、カバンを引きずりながら歩いて帰ってきた。ボールが見えなくなったら終わりの硬式テニス部は、陽が伸びるにしたがって練習時間が延々と伸びてくる。もう夏至の時期になり、校門が閉まる19時半まで続けるのが当たり前になってきた。そういえばまゆからメールが来ていた。携帯を開いて確認する元気もなく、帰ってごはんを食べてお風呂に入ってからゆっくり返そうと思っていた。

「ただ・・・」

 家に入ろうとドアノブを引いたが、鍵がかかっていた。

「あれ、珍しいな。鍵がかかっているなんて」

 玄関口の制御盤を開け、ガスメータ―の後ろにある小窓に手をかけた。ここに鍵が入っている。鍵をはずして扉を開けると、さび付いた鈍い音が辺りに響いた。家の中は真っ暗だ。

「ただいま!母さん、いないのか?」

 玄関の明かりをつけ、背中で閉まった扉に鍵をかける。リビングまで続く廊下は真っ暗で何も見えなかったが、奥にあるリビングの窓からは月の光が漏れ少し明るかった。カーテンが開いている。まるで、昼間から電気がついていない様だ。玄関にラケットバッグを置き、手探りで壁伝い廊下を進むとトイレの前で何かに躓いた。その何かは脛の辺りまで高さがあるが、暗くて何かはよく見えない。トイレの電気をつけ、こぼれた光でその何かを確認した。

「母・・・さん?」

 躓いたのは母さんの背中だった。トイレから廊下へ上半身を投げ出すように倒れていて、床は赤い液体で染まっていた。一瞬、それが何なのか理解できなかった。呼吸の音だけがやけに大きく聞こえ、急に状況を理解した。

「母さん!かあさん!」

 肩を揺すっても、母さんはまったく起きなかった。いつもよりその体が冷たい気がして、凍えるような寒気が背中を走った。

「なんだよ、なんなんだよこれ。起きろよ、起きろよ母さん!」

 しばらく横たわる母親をぎこちなく揺すり続けながら叫んでいた。自分の叫び声が耳に届いた瞬間、ふと我に返って携帯を握り締めた。震える指で119を押すと、すぐに落ち着いた声が耳に流れ込み、唇が震えた。顔も名前も知らない人の声を聴いて、これほどまでに安堵したことは後にも先にもこの時だけだった。


 母さんは港南台駅近くの総合病院に運ばれた。救急処置室で治療を受けている間、僕は隣の医務室でそれが終わるのを待っていた。気を遣っていたのか、若い看護師さんが隣に座ってしきりに声をかけてくれていたが、まともな会話は出来なかった。身の毛が弥立つ感覚が未だに腕と肩に残っている。足にも力が入らない。どれほど時間が経ったか分からなかったが、治療を終えた木村先生がカーテンを開けて僕に声をかけた。40歳くらいの先生で医師としては若かったが、とても立派な人に見えた。

「あなたは、息子さんですか?」

「はい、そうです」

「お父さんは、お仕事ですか?」

「父は、仕事で中国にいます。姉もいますが東京で一人暮らしをしています。なので、今日ここに来られるのは僕だけです」

「そうですか・・・。君もしっかりしていそうだから大丈夫でしょう。少し、歩けますか?」

「はい、大丈夫です」

 立ち上がるときに少しめまいがしたが、看護師さんが支えてくれた。

「すみません、ありがとうございます」

「無理、しなくていいから」

「いえ、大丈夫です」

「うん、立派です。こちらに座れますか?」

「はい」

 医務室にある診察台に案内され、木村先生も僕に向かい合うように座った。

「お母さんは大丈夫です。もう容体は安定して今はゆっくり眠っています。あなたの対応のお陰です」

「いえ・・・母は、どうしたんですか?」

「今日の状態を分かりやすく説明するなら、ひどい下血をして少し重めの貧血で気を失ったようです。今は点滴で水分と栄養を摂ってもらっているので、もう大丈夫ですよ」

「下血?トイレ真っ赤でしたけど?」

「はい、お母さんは大腸に病気があって、その症状が強く出てしまったんです。発作みたいに」

「病気?」

「ええ。すごく珍しい病気で、潰瘍性大腸炎という病気です。症状の良いときと悪いときを繰り返すのが特徴で、ひどいと今回みたいになってしまうことがあります」

 潰瘍性大腸炎・・・聞いたことのない病気だ。

「母は、これからどうなるんですか?」

「今は腸の炎症が強く出ているからしばらく入院して点滴で薬を投与する。1週間くらいで落ち着くと思うから退院は出来るけど、飲み薬で症状を抑えながらしばらく安静にする必要があるかな」

 落ち着く。という言葉を聞いて少し安心した。

「良く、なるんですか?」

「・・・君はちゃんとわかってくれそうだから言うけど、今の医学では完治はしません。悪いときは今回みたいにしっかり治療して、良いときもひどくならないように薬は続けないといけない。誤解を恐れずに言うなら、一生付き合っていく病気です」

「一生、ですか。でも、治療すれば元に戻るんですよね?」

「はい、いつものお母さんに戻れますよ」

「わかりました」

 いつもの母さんに戻れる・・・そう聞いて僕は軽めのため息をついた。

「あなたは今、学生さんですか?」

「はい、高校生です」

「そんなに若いのに母親が倒れていてもしっかり対応出来て、すごいですね」

「いえ、自分でもよくわけが分かっていなくて、必死で・・・今先生の話を聞いていてもあまり実感は湧いていないです」

「あんなことが起きてわけも分かっていないのに、感情を乱さず私としっかり話が出来ているのがすごいと言っているのですよ」

「はぁ、そうですか」

「お母さんは大丈夫ですから、今日は帰りなさい。もう高校生には遅い時間になります。一人で帰れますか?」

「はい、帰れます」

「う~ん、心配ですね。・・・これでご飯を買ってタクシーに乗って、家で食べなさい」

 そう言って木村先生は一万円札を僕に握らせた。

「先生、これは受け取れません」

「大丈夫です。治療費に足しておきますので。歩いて帰って、途中で倒れてまたここに来たくはないでしょう」

 よくよく考えれば、総合病院の勤務医が治療費に使途不明の1万円を上乗せすることなんてできない。木村先生のただの好意だった。この時はそんなことには気づけず、後で払うのであればと納得してしまった。

「ありがとうございます」

「明日はお母さん起きていると思いますので、学校終わってからでも顔を見せに来てあげてください。きっとそれが一番体調に効きます」

「はい、分かりました」

「まだ病室は決まっていません。病院着いたら受付で名前を言ってください。私からも通すよう事務さんには伝えておきます」

「はい」

「では、お気を付けて」

「ありがとうございました」

「ちゃんとご飯食べて、しっかり寝るんですよ」

 自分でも不思議なほど落ち着いていて、木村先生の話が素直に頭に入ってきた。廊下で倒れている母さんを見た時のショックが大きかったのか、状況が良くなっているのならと、すんなり受け入れていた。病院に来たときはYシャツが血塗れだったため購買で看護師さんが買ってくれたTシャツに着替えた。ズボンも膝の辺りが血で濡れていたが、暗かったから大丈夫だと思い、そのまま病院入口まで呼んでもらったタクシーに乗って帰路についた。

 家に帰ると、玄関の鍵が開いていた。

「そうか、あのまま救急車乗ったんだったな」

 毎日開け閉めしている玄関の扉は、疲れ切った体にはとても重たかった。もう月も出ていないのか家の中は真っ暗で、廊下の電気をつけた。トイレの扉が開いていて、床は血で濡れ、廊下の壁にはこすられた血の跡があった。目の奥がチクッと痛み、右手の指先から肩口まで蟲が這ったようにざわつき、息が詰まる。直ぐに大きく息をつき自分を無理矢理落ち着かせると、洗面所からタオルを取り出し、水で濡らして床を拭いた。固まり始めた血液の表面がまとまって、僕の腕の動きに合わせて揺れている。その瞬間、涙が出た。顔の筋肉を一つも動かさずに流れる涙に違和感すら覚えず、黙々とタオルを動かした。音も立てずに涙の量は増え続け、結局、タオルが真っ赤に染まるまでそれは止まらなかった。



2001年6月29日。『運命の日』まで6年11か月と、20日。

 結局昨日は掃除が終わったらそのまま疲れてリビングのカーペットで寝てしまっていた。目を覚ますと、白み始めた朝日が窓枠に切り取られていた。こぼれた光に照らされた時計は4時半を指している。昨日お風呂に入らなかったので体がべたべたするのが気になり、風呂場に向かってシャワーを浴びた。不規則に音を立てて流れる水が、徐々に現実を突きつけてくる。

「今日のメシ、どうしよう。小遣い残ってたかな。月末だから怪しいな。弁当作って、昨日の服洗濯して……どうやってやるんだ」

 ぐるぐる考えを巡らせながら風呂場から出て、バスタオルを取ろうとしたら、なかった。そういえば、ベランダに干してあった気がする。洗面台の引き出しに入ったハンドタオルを2枚取り出し、それで体を拭いた。これも洗濯をしないと、次のタオルがない。洗濯物を洗濯機に突っ込み、適当に洗濯洗剤をぶちまけてそれっぽいボタンを押して動かした。僕より背の低いその箱は、ゴウンゴウンと大きな音を立て跳ねる様に揺れていた。

 次は台所に行った。冷蔵庫の中に首を突っ込んで覗いたが、いつも弁当に詰め込まれているおかずがそこには見当たらなかった。結局見当も付かず、炊飯器の中に保温されていたご飯をラップで丸めてカバンに詰めた。モタモタしている間に6時になった。早く家を出ないと朝練に間に合わない。今日は病院に母さんの着替えを持っていくので、朝練くらいは出ないと。洗濯機に呼ばれ、終わった洗濯物を掻き出した。水に濡れているとこんなに重いのか。洗濯籠に詰め込み、ベランダに持って行く。雑にハンガーに通して洗濯竿にかけ、窓の鍵がかかっていることを確認して家を出た。


 朝練に行っても、終わってから教室に行っても、部活の仲間、瑛史郎や紗奈、瑠璃子に母親のことは話さなかった。まだ胸に残る寒気の混じった恐怖心と、不意に始まった一人暮らし、これからの母親の病気のことなど、口に出すためにその光景を思い出すのが怖かった。少しの罪悪感を脇に置き、普段通りの一日を過ごした。

部活の午後練をどう言い訳して休もうかと思っていたが、朝練でガットが切れたのでそんな小芝居はいらなくなった。どうせ駅前に行くし、行きつけのショップで張ってもらっている間に病院へ行こう。ホームルームが終わった後、部室にラケットバッグを取りに行ってから校門に向かった。その前には、行き交う高校生の中に瑠璃子がきょろきょろしながら立っていた。

「あ、正人いた!」

 僕を見つけて近づいてくる。さっきまで教室で一緒にいたのに、どうしたんだ。

「ねぇ、どうして電話出ないの?」

「電話?え、鳴ってないけど・・・」

「うそ!何回もかけてるよ?」

「あれ、今日、一日触ってない気がする」

「そんなことある?でも正人、今日珍しく授業ずっと寝てたもんね。ぼーっとしてることもあったし・・・朝練したから?」

「あ、あぁ、まあそんなところだ。多分携帯家だ。ごめん、変なこと言って」

「ううん、いいよ。大丈夫?疲れてるの?」

「平気平気、ところで、電話どうしたんだ?」

「今日正人全然板書取ってないでしょ?もうすぐ期末試験だし、ノート貸してあげようかと思って。今日部活できないって言ってたから暇でしょ?」

 はい、とノートを4冊突き出してきた。一番上にあるノートの表紙に、細く小さい字で数学Ⅰと書いてある。

「暇ってなんだよ。それにもうすぐって、まだ2週間以上あるじゃん」

「2週間、あっと言う間だよ?」

「俺は大丈夫だよ。予備校でだいぶ進んでるから、少しくらい寝てても」

「やな感じ~。でも本当に大丈夫?授業中寝てるの初めて見たけど、体調悪いとか?」

「何度も言わせるな。部活で疲れてるだけだって。てっしーこそ、最近暑いから倒れないように気を付けろよ」

「何よ、怒ってる?そこまで言うなら、分かったよ。私も大丈夫。この坂の通学もだいぶ慣れたからね。いつも心配してくれてありがと」

「それは良かった。じゃあ俺帰るわ。駅行ってガット張ってもらわないと」

「うん、じゃあね。明日はちゃんと授業聞くんだよ」

「はいはい」

 瑠璃子に手を振って学校を後にした。・・・やっぱり、皆には話せないなと思った。


 家に帰って、朝練で着た運動着とタオルを洗濯機に放り込み、母さんの着替えを準備した。今日は予備校の講義もあるからその支度もして、鍵を取りにリビングに来たら、携帯がテーブルに置いてあった。乾いた赤い手形がついている。そういえば、昨日救急車を呼んでそのままにしていた。取り上げて画面を見たら真っ暗で、電源ボタンを何度押しても画面は明るくならなかった。軽く息を吐き、充電器に乗せてそのまま家を出た。

 港南台駅に着いたらまずスポーツショップに寄った。いつもの気さくな店長さんが僕を出迎える。

「おう、唐嶋君、今日は練習ないのかい?」

「こんにちは。朝練で切っちゃったので午後は休みです」

「もう?今月2回目じゃない?」

「切れにくいガットないですか?」

「いつものAKパワーは切れにくいはずなんだけどな」

「店長の張り方がダメなんじゃない?」

「ごめんねぇ、ヘタクソで」

「ほんとですよ。またお願いします」

「まいど。いつ取りに来る?」

「すぐ出来ます?」

「今張ってる1本が終わればすぐ始められるよ」

「じゃあ今夜取りに来ます。閉店までに。明日のラケットがないので」

「分かった。すぐ仕上げるよ。いい加減サブラケットは持たないのかい?」

「今度父が帰ってきたら頼んでみます」

「お父さん海外だっけ?大変だね」

「もう慣れました。じゃあお願いします」

そう言って店を後にした。母さんが入院している病院は店から見て駅の裏の団地に囲まれて建っている。足早に病院に向かい、受付で名前を言うと直ぐに病室を教えてもらった。

 辺りを見渡しながらエレベーターに向かった。大きな総合病院は忙しないイメージがあったが、だいぶ落ち着いた雰囲気を感じた。パジャマ姿のおじいさんが点滴スタンドと一緒にのんびり散歩をしていたり、おばちゃんの患者達が廊下で立ち話をしている。母さんの病室は4階の6人部屋で、入院患者を仕切るカーテンが常に開いている明るい雰囲気の病室だった。昨日入院したばかりのはずなのに、母さんは両隣の患者さんと楽しそうに話をしている。

「あ、正人」

 母さんが僕に気付いて手招きした。僕は大きく息を吐いた。

「ほら、着替え持ってきた」

「悪いわねぇ」

「身体はもういいのか?」

「ええ。まだちょっと貧血気味だけどね。あんたには助けられたわ」

「別に俺は何も。助けたのは木村先生だろ」

「こんな時まで素直じゃないわね。まあいいわ。着替えありがと」

 母さんはそう言って着替えを受け取ると、枕元に置いた。すぐにこっちを向き直す。先ほどとは違って少し真剣な表情をしている。

「あんた、ご飯はどうしているの?」

「昨日の夜はさすがに食べられなかったけど、今日の昼は炊飯器にあったご飯と購買で食べた。あと賭けで勝った友達の弁当のおかず」

「そんなこったろうと思ったわ。キッチンの真ん中の引き出しの一番上にレシピをまとめたファイルがあるから、今夜からそれ見ながらごはん作りなさい。帰りにローゼンでこのメモのものを買って帰れば、今冷蔵庫の中のものと合わせてしばらく持つわ。弁当はご飯炊いて、冷凍食品詰め込めば何とかなる。これもローゼンで好きなものを買いなさい」

 そう言ってメモを渡された。

「分かった。それより、いつ退院できるんだ?」

「木村先生は1週間って言ってたわ」

「木村先生?話したの?」

「そりゃあ、主治医だからね」

「今日は休みって言ってたけど」

「昨日は当直だったみたい。お昼まで居たわ。あんたのこと褒めてたわよ」

「なんだよそれ」

「あんな立派な先生に褒められるなんて、私も鼻が高いわ」

「別に・・・」

 何もできなかった。とは言えなかった。

「一人で大変だと思うけど、あんたなら大丈夫。無理だけはしないで」

「分かってるよ。じゃあ、今日予備校あるから」

「どんなに大変でも、食事と睡眠だけはしっかり摂りなさい」

「はいはい」

 食事と睡眠、は母さんの口癖だった。小さい時から言われている。ずっと言われていることだったが、今ほど心に沁みたことはなかった。病院を出てそのまま予備校に行き、夜スポーツショップに寄ってラケットを受け取り、ローゼンで買い物をして家に着いた。もう22時を回っていた。母さんが言っていたレシピを開くとオムライスの作り方が書いてあった。ごはんを研いで炊飯器に入れ、一通り家事をこなしてから慣れない手つきでオムライスを作った。ずいぶん時間がかかった上にヘタクソだったからおいしくはなかったが、少し涙が出た。食べた食器を洗って洗濯物を干したらもう2時だった。運動量は部活よりはるかに少ないが、ものすごく疲れた。ベットに体を預けると、水に沈んでいくように眠りに就いた。


2001年6月30日。『運命の日』まで6年11か月と、19日。

 次の日。疲れているはずなのに3時間しか眠れず目が覚めた。冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、ダイニングに座ってそれを飲んでいると携帯が目に入った。そういえば、まゆにメールを返していないな。それを手に取り電源を入れた。まゆに母さんのことを話そうか・・・?いや、会ったら結構元気そうだったし、1週間で退院する。この生活は正直きついが、母さんが入院しただけで辛いなんて情けない。それにまゆにも親がいない。まゆに言えるはずがなかった。

 その日もあっという間に時間が過ぎ、気が付いたら24時になっていた。前日と同じように、倒れるように眠った。


2001年7月7日。『運命の日』まで6年11か月と、12日。

 それから誰にも事情を話せず睡眠時間もろくに取れない日々が1週間続き、やっと明日は退院予定日だ。この日に母さんが退院すると思えたから今日まで耐えられた。しばらく連絡は取れてなかったが、またまゆと会う時間を作れるかもしれない。病院に着くと木村先生の診察室に通された。

「唐嶋さん、今日はお母さんについてお話があります」

 明日退院する。そういわれると思った。

「実は今朝お母さんに薬の副作用が出てしまい、足がただれて穴が開いてしまった。このままでは、退院が出来ない」

「・・・え?先生、どういうことですか?良くならなかったっていうことですか?」

「治療はうまく行って、大腸の炎症は今ほとんどなくなっています。が、パルス療法って言う治療で必要だった、濃度の高いステロイドが副作用を起こしてしまいました」

「副作用って・・・?」

「右足の甲から土踏まずまでの肉が腐り落ちて、骨が見えてしまっています。鎮静剤を打って痛みは押さえてはいますが、感染症のリスクが非常に高く、正直しばらく退院は難しいでしょう」

「嘘、ですよね?昨日は元気だったんですよ、大丈夫なんですか?」

「やっぱり親子ですね。お母さんも、退院が延びると伝えたらあなたのことを心配していいましたよ」

「母さん・・・」

「大丈夫。抗生剤を打って感染症を予防し、ステロイドが抜けるまで待てば退院できるますよ」

「どれくらい、ですか?」

「ステロイドは少しずつ減らしていくので2週間くらいで抜けます。それから1週間くらいあれば足も回復して歩けるようになるでしょう」

「3週間・・・」

 思わず膝に手をつき俯いてしまった。耐えられる気がしなかった。1週間でさえやっと乗り越えたのに、ここからまた3週間。しかも期末試験もある。でも、僕には何も出来ない。ただ自分の生活を送るだけ・・・そんな当たり前のことに慄く自分が恥ずかしくて、歯がゆかった。

「先生」

「はい」

「母を、よろしくお願いします」

 何もできず、先生に頭を下げるしかなかった自分が情けなかった。医療の知識もなく、知恵もない自分が嫌で仕方がない。奥歯をぐっとかみしめて病院を後にした。

 そのまま家に帰ると、ぐったりとソファにもたれかかった。薄目で携帯を見ると、まゆからメールや着信が何回もあった。もう1週間も連絡をしていない。さすがにこの生活をあと3週間も続けるのはつらい。まゆに打ち明けようか。でもたった1週間や3週間で音を上げるなんて弱すぎる。変に伝わって心配をかけるだけになるのも嫌だ。結局、どう伝えていいか分からず返事をすることはなかった。


 それからの1週間、母さんは感染症対策のためクリーンルームで治療を受け、面会は不可。病院に行く肉体的な負担は軽くなったが、蓄積された疲れと精神的な疲れがピークだった。ろくに準備も出来ずに期末試験を迎え、結果は散々だった。

 どんなにしんどくても、部活をやめる、休むという選択肢はなかった。学校の連中に事情を話たくなかったこともあったが、まゆと部活を楽しむと約束したのを破りたくなかった。実際どんなに疲れていても部活は楽しかったし、体を動かすことで不安なことも忘れられた。でも、皮肉だった。まゆとの約束を守るためにまゆと会えていない。話せていない。少しずつ、心が離れていく。


2001年7月14日。『運命の日』まで6年11か月と、5日。

 この日は奇しくも、母さんの誕生日だった。いつも通り部活が終わって20時に家に着いた。学校では無理していつも通りを振る舞っているからか、最近家に帰ると立つことすら億劫になるほど疲れを感じていた。この日は電気をつける元気もなく、ダイニングテーブルに頭を突っ伏した。大きなため息が脇の間から漏れ出ていく。

 不意に電話が光り、僕に着信を告げた。頭を上げられないまま手を伸ばし携帯を握った。画面を見るとまゆからだった。少し悩んだが、無性にまゆの声が聴きたくなった。今まであんなに躊躇っていたまゆからの電話にすんなり出た。

「まゆ」

「まさと!ああ、よかった。やっと繋がった。なんで、なんで連絡してくれないのよ。心配したじゃない」

「ごめん」

「なんか元気ないけど、何かあったの?」

「なんでもない」

「なんでもないわけないでしょ?声を聴けば何かあったことくらいすぐに分かるよ」

 分かっていた。話さない方がまゆに心配をかけることを。大好きなまゆの声を聴けて嬉しいはずなのに、なぜか寂しい気持ちになった。

「大丈夫。心配いらない」

「その声、大丈夫じゃないでしょ?話して、お願い」

 悩んだが、このまま黙っていたらまゆの心配は大きくなるだろう。正直に話した。

「・・・母さんが、入院した。最初は1週間で退院のはずだったけど、延びてまた3週間って言われた。でも、薬の副作用がひどく出て、今もクリーンルームから出られない。3週間も難しいかもって昨日言われた。結局、退院がいつになるかは分からない」

「うそ、どうして・・・?入院って、いつから?」

「2週間と、ちょっと前から」

「まさと、もしかしてこの2週間、ずっと家で一人だったの?」

「・・・そうだ」

「何で、なんで言ってくれなかったの?」

 このあたりから、まゆの声が涙ぐんでいた。

「まゆに、心配かけたくなかった」

「何を言っているの?ずっと、ずっと心配していたわよ」

「・・・ごめん」

「ごめんじゃないよ。どうして一人で抱え込むの?どうして、私を頼ってくれなかったの?」

「そんなにいっぺんに言うな。一人で、一人でなんとかなると思ったんだ」

「なってない!こんな声して、全然平気じゃないじゃない。どうして一人で何とかしようとするの?」

「うるさいな!どうせ俺は親がいないと自分のことなんて何もできないんだよ!まゆと違ってな!」

「何よそれ!それは違うわ。私にはお姉ちゃんやおばちゃんがいたから出来たのよ!一人じゃなかった。でもあなたは今一人でしょ?全然違うじゃない。くだらない意地なんか張らないでよ!」

「じゃあ、じゃあどうしたらよかったんだよ?俺は今、自分のことだけでいっぱいいっぱいなんだ。誰かを頼る余裕なんかあるわけがない!俺がどんな気持ちで毎日やり過ごしているかも知らないで、簡単に言うな!頼むから、今は放っておいてくれ」

「違う!そんなつもりなんかない!私が今のあなたを放っておけないことくらい分かるでしょ?バカなんじゃないの?」

「ああ、そうだよ、馬鹿だよ。自分の出来ることとできないことの区別もつけられないくらいにな!話はそれだけか?もう切るぞ」

「なんで、そんなこと言うの? 私はただ、あなたが心ぱ……」

 まゆの言葉を最後まで聞かずに、僕は通話を切った。部屋はしんと静まり返り、さっき吐き出した言葉だけが耳の奥で何度も反響した。

まゆの言いたいことは理解していたつもりだった。このままではいけないことも痛感していた。でも、どうしたらいいか全然分からなかった。誰に弱みを見せて、誰を頼って、誰にどう助けを求めたらいいのか、見当もつかなかった。それからしばらく、何も考えられずに時間だけが過ぎていった。


 結局母さんは、8月中旬までクリーンルームでの治療を受け、月末に退院した。その間は夏休みだったが毎日の様に部活があった。予備校では夏期講習もあり、休みに入る前とさほど変わらない日々を過ごした。父さんとは母さんが入院してすぐに連絡が取れ、帰国できないまでも送金で生活費などお金の工面はしてくれた。始めは辛い生活だったが、次第に慣れてきて夏休みに入るころには時間的にも精神的にも余裕が出る様になった。瑛史郎、紗奈、瑠璃子の4人で映画に行ったり、皆で海や花火大会に遊びに行ったり、どこにでもいるような高校生だった。

 退院してからも母さんはしばらく安静が必要で、家事はほとんど僕がこなした。料理もだいぶ作れるようになり、スーパーでの買い出しも板についてきた。初めて母さんに料理を振る舞った時は緊張したが、おいしいと言ってくれて素直に嬉しかった。

学校の授業に、部活、予備校に、家での家事。母さんが退院して、すべてのバランスが整った気がした。僕にもやっと日常が戻って来た。秋には文化祭が催され、皆達成感と充実感で満たされ、僕も楽しかった。部活の仲間とも練習の後にご飯に行ったり、たくさんの楽しい時間を過ごした。

 でも、隣にまゆはいなかった。あれから一切連絡を取っていない。心に余裕が戻るほどあの日のことを思い返す時間が増え、罪悪感が膨らんでいく。ぽっかりと心に穴が空いたような気がして、のどに突っかかった何かがいつまでも残っている。友達と何気ない話で笑ったり、テニスでさわやかな汗を流すたびに、そのコントラストはより鮮明になり、喪失感が次第に大きくなっていった。

 


2001年12月24日。『運命の日』まで6年6か月と、26日。

 この日は朝から雪が降っていて、神奈川でも少しずつ積もり始めていた。さすがにテニスコートは使えず部活も休みで、特にやることもなく、リビングでこたつに下半身を突っ込んでテレビを見ながらみかんの皮をむき続けていた。足がすっかり良くなった母さんは、キッチンとダイニングを行ったり来たりしながらせっせと家事をこなしている。すると11時頃、急に身支度を始めた。

「どうしたの?どこか出かけるのか?」

「ああ、うん、少し出てくるわ」

「お昼は?」

「私は外で食べてくる。あんたはあり合わせで適当に食べなさい」

「分かったよ」

「いや~あんたも料理出来て自分の食事を用意できるようになったのはほんとによかったわ。だいぶ楽が出来る。たまには倒れてみるものね」

「本気で言ってるのか?」

「もちろん冗談よ。でもあんたにとっては家事が出来るに越したことはないから、それはよかったと思っているわ。怪我の功名ってやつね」

「まあ、それはあるな」

「じゃあ行ってくるね。2時くらいに帰ってくると思うから」

「雪だし、転ばないようにな」

「ありがと。たまの休みだし、あんたはゆっくりしていなさい」

 〝ゆっくりしていなさい〟は意外だった。だらだらしているから逆のことを言われるかと思ったのに。母さんを見送ったら玄関のカギをかけ、またこたつに戻って来た。携帯を手に取ると、瑛史郎からメールが来ていた。どうやら瑠璃子と付き合うことになったらしい。とんでもなく意外だった。雪でも降るんじゃないかと思ったら、もう降っていた。お互い自分にないものが魅力に見えたということか。瑛史郎に返信をしようと文章を打っていたら、別のメールが来た。何気なくその差出人を見て目を疑った。まゆからだった。作成途中だった瑛史郎へのメールを削除し、直ぐに開いた。


 ———まさと、久しぶり。元気してた?今日は毎年の映画の日だね。13時からいつものところにいる。待ってるから、きっと来てね。


 メールを見た瞬間、涙が出そうなほど嬉しかった。でも、どうしたらいいか分からなかった。僕はまゆにあんなにひどいことを言ってしまった。今までずっとまゆに優しくできたのは、まゆに好きでいてもらえたのは心に余裕があったからで、また余裕がなくなった時に同じような仕打ちをしてしまうのではないか。ずっとそう思っていた。だから母さんが退院した後もずっと連絡できなかった。自分に余裕が出来たから連絡するというのは気が引けた。僕はまだ、自分自身を信じられていない。こんな状態でまゆに会うわけにはいかない。強烈に後ろ髪をひかれながら、そっとメールを閉じた。


 14時半、母さんが帰って来た。

「ただいま。結構雪降ってる。積もってきてるよ」

「大丈夫だった?」

「私はね」

「私は?」

「はい、これ」

 母さんが映画のチケットを2枚差し出してきた。

「・・・何、これ?」

 母さんの意図を察し、低い声で答えた。自然と眉間にしわが寄る。

「映画。今日行くんでしょ?去年真優ちゃんがうちに来た時に嬉しそうに話してくれたわ。毎年行ってるんだ、って」

「まさか、これを買いに行ってたのか。みなとみらいまで?」

「そう。あんたずっとうじうじしてそうだったから、焚きつけてやろうかと思って」

 母さんはあきれた表情を浮かべる。

「あの子ね、入院中にお見舞いに来てくれたのよ。私が一般病棟に戻った後に」

「え?」

「あんたにひどいこと言っちゃったって、泣いてたわ。ずっと待たせてるんでしょ?もしかして、行かないとか言うんじゃないでしょうね?」

 行くべきなのはわかっていたし、会いに行きたかった。でも、勇気が出なかった。今更どんな顔で会えばいい?

「うるさいな、放っておいてくれ」

 言葉を投げつけて部屋に向かった。はあ、と母さんが溜息をつく声が背中から聞こえる。


 部屋にこもって考えていたが答えは出ず、時間はあっと言う間に過ぎて行ってすでに17時半を回っていた。どうしても、自分に自信が持てず一歩が踏み出せない。

「まだ悩んでるの?人を待たせてるくせに、ずいぶんとのんびり出来るのね。感心だわ」

 母さんが部屋に入って来た。僕をたきつけるためか、嫌味をやたらと言ってくる。

「俺はもう、自分が信じられない」

「いつまでもウジウジとめんどくさいわね。あんたの自信なんて今の真優ちゃんにとって全く関係ないわ。あんたがどうしたいのか、それだけよ」

「どうしたい?俺はやっぱりまゆに会いたい。でも、また余裕がなくなった時に同じようにひどいことを言ってしまうと思う。そうやって繰り返してしまうなら、もう会わない方がいいんじゃないかって思う」

「それは違う。あんたが言ったのはただの本音に過ぎない。何を言ったか私は知らないけど、あんたは自分が言った本音がひどいことだったと思われたくないだけ。要は自分勝手なのよ。あの子はね、それがあんたの心からの本音だったって、ちゃんと受け止めているわ」

 いつになく厳しく叱咤をしてくる。何も言い返せなかった。

「あんたが本当に信じるべきは、あんたのありのままを受け止めてくれる真優ちゃんよ。あんた自身なんかじゃないわ」

「まゆを・・・信じる・・・?」

 そうだ、まゆはいつも僕を受け入れてくれた。そして、僕に受け入れてほしいと言っていた。自分がひどいことを言ったと思っていても、僕に受け入れてほしいと頼ってくれている。誰にも頼れず余裕をなくしてまゆに当たった僕とは大違いだ・・・行かなきゃ、まゆのところに。

「どうやら決まったようね」

「ああ、行ってくるよ」

 跳ねるように起き上がり、身支度を急いだ。上着を着て、財布と携帯をポケットに突っ込んだ。映画のチケットを握りしめ、玄関のドアノブに手をかける。

「正人!」

振り返ると母さんがダウンを投げてきた。

「何これ?着てるからいらないよ」

「勘違いしない。あんたのためじゃないわ」

「・・・分かった、行ってくる」

 家を出て、駅に向かって走り出した。雪が積もっていて足元は悪かったが、轍を踏みしめて倒れないように走った。13時から待っているとして、まゆが駅に着いてからもう4時間以上は経っている。ふと、昔のことを思い出した。家路を急ぐ人たちを塾の教室から見下ろし、どうして急いでいるのか理解できなかった。・・・今なら分かる気がする。自分を待ってくれる人がいる時に、人は急ぐんだ。もしかしたら、まゆはもう帰っているかもしれない。それでも走らないわけにはいかなかった。もしいたら、まだ待っていたら、これ以上待たせるわけにはいかない。

 駅前に着いた。激しく切れる息を押さえつけながらまゆの影を探したが、求めている姿はなかった。いつもこの日の待ち合わせは改札前だったが、ここではないところとなると・・・ベンチか。息を整えながらゆっくり歩いて行った。ベンチには雪が2㎝ほど積もっており、積雪が丸く切り取られていて誰もいなかった。

 ・・・遅かった。丸くベンチが見えている部分には雪がまばらに落ちている。ついさっきまで誰かが、雪が降る前から長時間座っていたことを示していた。ぐったりと肩を落とし、まゆが座っていたであろう場所に腰かけた。丸い跡が、小さく僕のズボンを濡らす。

「まゆ、ごめん。本当にごめん」

 諦めの混ざった小さな声が、白い息となって凍てつく空気に消えて行った。膝に肘を置きしばらくうずくまって地面を見つめていると、誰かが僕の前に立った。見覚えのある小さいローファーを履いている。心臓の脈打つ音が頭のてっぺんにまで響いた。心拍数が上がり、突き動かされるようにゆっくりと顔を上げた。少しずつ、前に立った人の全身が見えてくる。

パリッとした白のブラウス、紺色のジャンパースカート、腰にはベルトの様な帯があり、彼女のウエストを引き締める。顔の輪郭に沿った黒いミディアムボブの毛先が、小さい顔のあご下でキレイに整っている。その顎から、涙がこぼれ落ちてくる。

「まゆ」

 手を震わせながら、まゆに手を伸ばした。まゆの手がそれをつかむ。

「まさと」

 涙で顔はぐしゃぐしゃになり、声を震わせながら僕の名前を口にした。暖かい涙が僕のほほに落ち、その温度が確かに伝わる。もらい泣きしそうになり、僕の声も震えた。

「ごめん、遅くなった」

 僕がそう言うと、まゆは糸が切れたように泣き出し、そのまま僕の胸に倒れ込んできた。跳ねた髪の匂いが、懐かしい記憶ごと僕を包む。鼻をすすりながら小刻みに震える小さな背中に、そっとダウンをかけた。

「まさと、ごめんね。本当にごめん。一人でつらかったのに、私、あんなに、あんなにひどいことを・・・」

 まゆはずっと顔を僕の胸に押し付け、顔を上げずに泣いている。ぽんぽんと頭をなでると、きれいな髪から細かい雪がぽろぽろと落ちる。

「いや、あれは俺がまゆに心配かけたからだ。俺の方こそ、心配してくれたまゆにひどいこと言った」

「ううん。私はあの時自分のことしか考えていなかった。まさとから連絡ないのがつらくて、寂しくて、会いたいっていう自分の気持ちだけ優先してまさとのこと考えずにわがまま言ったの」

「そんなことない。俺が変な意地を張って、抱えなくていいものまで抱え込んだだけだ。ちゃんとまゆに話せてたら、一緒に乗り越えられたのに」

「まさとは悪くない。誰だってあんな大変なことになれば余裕はなくなるよ。まさとは一人だったし、責任感強いから、自分のことは自分でなんとかしなきゃって思ったんだよ」

「でも、俺は未熟だった。結局なんとかならなかったし、まゆに寂しい思いをさせてしまった。そんなんじゃ何の意味もない」

 僕が言い終わる前に、くすくすと笑いだした。僕にはその理由がすぐに分かった。

「私たち、お互いおんなじこと言ってるね」

「そうだな。俺も途中から少し面白くなってた」

「もうおしまいね、この謝り合い」

 まゆがベンチの上の雪を除けて僕の隣に座った。

「ずっと、ここにいたのか?」

「うん。最初は改札前に立っていたけど、コンビニの店員さんと何度も目が合って何か居づらくなったからこっち来たの。何度かダイエーのトイレに行ったけど、それ以外はずっとここにいたよ」

 雪の中ずっと待っていたのに、辛かった素振りは一切見せない。

「ごめん、待たせすぎたな」

「あ、また謝った」

「そっか、おしまいだったな」

 まゆはニコニコしている。会えなかった半年間も長かったが、それ以上にその笑顔は久しぶりな気がした。それと同時にあの辛かった夏の2か月間が無かったかのようにも思えた。不思議な感覚だ。

「雪の中で5時間も待つなんて、ふつうはおかしいと思う。まさとが来るかどうかも分からなかったし。でも、ただ会いたかった、顔が見たかった、声が聴きたかった・・・謝りたかった。途中で帰ろうかと思った時もあったけど、あきらめて家に帰っていたら後悔していたと思うし、もしあなたが来たらと思ったら、帰るなんてできなかった。やっぱり、帰らなくてよかった」

「まゆ・・・」

「私、あなたじゃなきゃダメなのよ。お父さんもお母さんもいなくなって辛かったときからずっと捜していて、やっとあなたと出会って、それからあなたは私を受け入れてくれて、ずっと傍にいてくれた。そんなあなたが私の前からいなくなったら、毎日何をしたら、何を考えたて過ごしたらいいのか分からなくなっちゃって。本当にあなたじゃなきゃダメなんだなって、思った」

 まゆは少し寂し気にうつむいてそういった。少し話の脈絡がつかみ切れなかったが、会えなかった半年間のことを言っているのだろう。

「俺もこの半年間、ずっとまゆのことを考えていた。学校の友達と一緒に話したり、部活も楽しかったけど、ずっと、胸に痞える感覚が残っていて何かが足りない感じがした」

 そう言い終えてまゆの方を見ると、まゆもこちらに顔を向けて優しく笑みを浮かべていた。嬉しそうだ。

「やっぱり、同じこと考えてたんだね」

「そうだな」

「ダウン、あったかい。ありがとう」

「ああ、母さんが持って行けって」

「まさママ!」

「お見舞い、来てくれたんだって?」

「うん。・・・ばれた?」

「最初は俺を焚きつけるために母さんが嘘ついているかもと思ったけど、まゆが今日母さんのこと聞かなかったから、良くなったの知ってるんだなって思った」

「私、あの日まさママにも甘えちゃった。私がお見舞いに行ったはずだったのに、私の方が泣いちゃって。まさとの電話で大変そうだったから、元気な顔見れてほっとしたのもあったけど、あそこは甘えちゃいけなかったな。反省してる」

 僕はその言葉に対して首を横に振って応えた。

「俺、ずっとまゆに会うのが怖かったんだ。また余裕がなくなった時にひどいことを言ってしまうんじゃないかって、自信なくなって。そうしたら、自分のことなんか信じる必要ないから、ありのままを受け入れてくれるまゆを信じなさいって、言われた」

「・・・すごい発想」

「母さんも、まゆがお見舞いで泣いたことは気にしてないよ。むしろ心配していた」

「そっか。優しいね、まさママ」

「ああ。なんかいつも勝てる気しないな。今日また思い知らされたわ」

「別に敵じゃないし、勝つ必要ないんじゃない?」

「まあ、それもそうだな。なんか悔しいけど」

 二人の笑い声が響いた。雪が僕らを包んでいる様だった。

「あ、そうだ!」

「ん?どうした?」

「これからは、何かあったら余裕がなくなる前に私にちゃんと話してください。変な意地張らない。私もちゃんと話すし、迷惑だなんて絶対思わない。何があっても一緒に何とかしていくからね。分かった?」

「分かってるよ。もう懲りたわ」

「よろしい。会ったらこれだけはちゃんと言わないとって思ってた」

「さすが、しっかりしてるね」

「お褒めにあずかり光栄です」

「なんだよそれ。それより、映画どうする?今からでも行く?」

 くしゃくしゃになった映画のチケットをまゆに見せながら言った。

「え?用意してくれてたの?何時からの映画?」

 二人でチケットをのぞき込む。ふたつのおでこがこつんと当たった。

「18時15分・・・あと15分で始まるね」

「今からじゃ間に合わないな」

「じゃあ、せっかくだけど明日にする?イヴじゃなくて本番ってことで」

「そうだな、そんな年があってもいいか」

「代わりに今日はこのあたり散歩しない?せっかく雪積もってるし」

「楽しそうだな」

「決まりね!行こ行こ!・・・はいっ」

 まゆが手を差し出した。

「まさとが転ばないようにしっかり繋いでないとね」

「普通逆だろ」

「そんなことない。私はあなたに倒れられると困るのです」

 言葉が詰まった。手を重ねると、まゆもしっかりと握って来た。それはとてもあたたかかった。


2001年12月31日。『運命の日』まで6年5か月と、19日。

 この日は、僕からまゆを誘った。いつもの通り駅前で待つまゆに声をかけた。

「早いね。お待たせ」

「へへ、少し早く来すぎちゃった」

「なんかあったの?」

「まさとからデート誘ってくれるの珍しくて」

「そうだったか?」

「そうだよ!先週の映画も面白かったね」

「まさかクリスマスにゴジラ観るとは思わなかったな。ハム太郎とギャップありすぎたし」

「近年稀にみる傑作でしたね」

「来年も楽しみだな」

「だね♪それで、今日はどこに行く?」

「江ノ島、行こうか」

「冬に?」

「ああ」

「いいね、空気が澄んで綺麗な景色見られそう。良い天気だし」

「じゃあ、行こうか」

「うん、楽しみ」

 まゆは満面の笑みで僕の前を歩き、改札に向かった。


 江ノ島には1年以上来ておらず、懐かしい感じがした。冬に、しかも大晦日の寒い日に来るのは初めてで、冷たい海風が僕らを縮こませる。

「結構寒いね」

 まゆは肩をすくませながら歩いている。

「大丈夫か?」

「大丈夫、これくらい」

「橋渡っちゃえば風マシになるからな」

「うん、そうだね。頑張る」

 きっとまゆはこれから二人がどこに行って何をするのか分かっているのだろう。寒い風に吹かれながら健気に歩く姿がとても可愛かった。

 江ノ島に着いて、いつも通りお店を見ながら進み、坂を登る。途中の泉でお賽銭を投げ、まゆと何気ない会話を楽しみながら歩いた。さらに進んで竜宮に着いたとき、少し立ち止まった。いつ来てもここでは自然と心が落ち着き、惹きつけられる。不思議とここは寒くなかった。

「まさと、ここ好きだよね」

「ああ、毎回来ると鳥肌が立つ」

「成長した姿、竜神様に見てもらったら?」

「成長?久しぶりだから?」

「違うよ。今年、まさとは立派になったよ。大きなことを乗り越えた」

 夏の辛かった時を思い出した。振り返ると、今なら動じずに対応できるような気がする。これが成長なのか。

「・・・ああ、そうだな」

 ゆっくりと鳥居をくぐって竜神様までの道を歩いた。左右に構える二対の狛犬が僕を迎える。竜神像のすぐ下に立って目を閉じて手を合わせた。確かに、あの出来事を乗り越えて成長は感じられた。でもそれと同時にまだまだ未熟であることも突きつけられた気がする。これから立派な大人になるために、まゆを守っていける様に、もっともっと越えなきゃいけない壁はある。

 目を開けると、隣にまゆを感じた。視界には入っていなかったが、僕の横顔をのぞき込んでいるのがよく分かる。

「何、お願いしていたの?」

「何も。俺は自分に必要なものは自分で手に入れたい。だから、何もせず見守っててくださいって」

「強がっちゃって。でも応援してるね」

「・・・今日は、まゆに話したいことがあってここまで来てもらったんだ」

「うん、分かってる。もう行く?」

「ああ。今日は走って行かないからな」

「ふふふ、分かってるって」

 まゆの手を引いて、海岸まで下りて行った。大晦日の稚児ヶ淵には誰もいなかった。波が打ち付けるような荒い海岸だったが、風は強くなく寒さはそんなに感じなかった。以前来た時と違って夕陽の時間までは少しあったが、夕陽を差し引いても息をのむその風景を、手すりに体を預けて二人で眺めた。

「ここ、久しぶりだね」

「そうだな。竜宮までは何回か来たけど、ここは2回目だ」

「ここも変わらないね」

「ああ、相変わらずすごい景色だ」

「それで、話って?」

「・・・前ここに来た時話したこと、覚えているか?」

「もちろん。将来の夢決まったらってやつでしょ?」

「まだ決まったわけじゃないけど、なんとなくだけど話そうかなって」

「うん、聞かせて」

「俺、医療に行くよ」

「・・・うん、そっか」

 まゆは優しい笑みを浮かべながら静かに聞いていた。

「母さんが入院した時、俺は何もできなかった。でも、病院で働いている色んな人と会って、話が出来た。皆立派でかっこよくて、あんな風に誰かを救える人になりたいなって思った」

「それじゃあ、病院で働くの?」

「・・・でも、目の前の一人を助けるだけじゃなく、もっと多くの人を支えられる仕事がしたいと思った」

「どういうこと?」

「医療制度を、変えたい」

「医療制度?」

「母さんの薬のことを調べるうちに、病院と薬局が分かれている医薬分業の仕組みが可笑しいなって思った。医療費もかかるし、患者にとっては負担が大きいだけな気がしたんだ」

「うん」

「木村先生も言っていたけど、このまま医療費が増えたら今みたいに誰でも安心して医療を受けられる仕組みが続かないかもしれない。このままじゃだめだって思った」

「・・・うん」

「きっと、俺が社会人になる頃には医薬分業は完成しちゃうと思う。きっとそれが皆の当たり前になって、誰も不思議に思わない。それじゃあだめだ。止めるのは無理でも、何とかしたい。今は情報少なくて全然分からないけど、医療に進めば何か分かるかもしれない」

 僕は遠くの水平線を見ながら話した。寄せては返す波の音が時折言葉にかぶったが、まゆはしっかり聞き取ってくれていた。

「まさと、すごいね」

 手すりを伝い、僕に体を寄せてきた。ふんわりした感触が僕を温める。

「そんなところまで考えているなんて思わなかった。でも、まさとがそう感じた理由は分かる気がする」

 そう言うと、まゆは少し険しい顔をしてこちらを向いた。

「医薬分業が悪いなら、薬局や薬剤師さんがいなくなった方がいいと思うの?」

「・・・分からない。でも、薬剤師もやっぱり必要だとは思う。医薬分業が悪いんじゃない。でも今の仕組みのままでいいとも思えない。だから、自分で考えられるようになりたい」

 なぜか僕は焦っていた。自分で言っていることが簡単ではないことをなんとなく分かっていて、自分の中にその手段がないことが僕を苛立たせた。手すりに置いた手の甲に額をつけて息を切らした僕の肩に、まゆが優しく頭を寄せる。

「大丈夫。どうしたらいいか、一緒に探そう。まだ私たちにはたくさん時間がある。焦らなくて大丈夫。まさとなら、絶対大丈夫。微力だけど、私も傍にいるから」

 まゆは小さく、そしてはっきりと僕にそう言った。夢や目標と呼ぶにはあまりにもはっきりしておらず、あまりにも突飛で、今後本当に起こるか分からないことを懸念した、今世の中に逆行する発想。自分でも何を言っているのか分からないような妄想だ。それでも、まゆはしっかり聞いてくれた。まゆだから、受け止めてくれた。

「まゆ、ありがとう」

陽が傾いてきた稚児ヶ淵は寒かったが、夕陽がとても暖かかった。顔を上げてまゆの方を向くと、夕陽で真っ赤に染まったまゆの優しい笑顔がすぐ目の前にあった。とてもきれいで、愛おしくて、もう二度と手放したくないと思った。そのまま、僕の唇をまゆの唇に重ねた。まゆは一瞬少し驚いたような仕草をしたが、すぐに優しく目を閉じそれを受け入れた。

 顔を離すと、まゆは少し泣きそうな顔をしてはにかんでいた。少し俯いて前髪を必死にかき分けようとしていたが、海の湿気で張り付いた髪がはがれていない。

「ばか。急なんだから」

「予告した方がよかったか?」

「いじわる」

 まゆが不貞腐れたような顔をしていたが、僕は構わずまゆを抱きしめた。僕の背中に回したまゆの手にも力が入る。

「もう、離さないからな」

 まゆの腕の力が更に強くなった。

「うん。私も」

 身体を離すと、大好きな笑顔がそこにあった。真っ赤な夕焼けが二人を染める。自然に、二人は同時に顔を夕陽に向けた。

「今年も、終わるね」

 まゆがぽつりとそう言った。

「ああ、そうだな」

「あっという間、だった」

「半分くらいは会えなかったな」

「でも、その分二人の心がもっと近づいたね!」

「それ思った。そう考えると、悪くない年だったのかな?」

「うん。二度と繰り返したくはないけど」

「全くだ」

 二人で笑い合った。この瞬間がたまらなく愛おしい。

「帰ろう。陽が沈んだら冷えそうだ」

「そうだね」

「今日は、聞いてくれてありがとう」

「とんでもない。まさとのことならなんでも聞きますよ。いつでも話してね」



2002年1月7日。『運命の日』まで6年5か月と、12日。

 この日は高校の始業式だった。部活は4日からあったが、まゆと仲直りして初めての登校だった。いつも通り校門前で瑛史郎と合流し、教室に向かう。教室でホームルームを行い、体育館で始業式、そしてまたホームルームを教室で行った。いつもこの往復が不思議だった。担任の先生から明日からのスケジュールが共有され、その日は解散となった。今日は部活も休みだ。

「まっさと~」

 一番前廊下側の席の瑛史郎が、一番後ろ窓側の僕の席に真っ先にすり寄って来た。こいつの帰り支度の速さは相変わらず一級品だ。

「どうした?変な呼び方して」

「今日、なんだか機嫌いいんじゃないのか?」

「急になんだ?別に普通だけど」

「お前さ、もしかして俺らが気づいてないとでも思ったのか?」

 隠し事の自覚はあったので少しドキッとした。澄ました返事をする。

「・・・何の話だ?」

「詳しい話は、我らが姐さんから聞きましょうか」

 瑛史郎が僕の隣にいる紗奈を手の平で指し示した。紗奈の方を向くと、驚いたような表情をしていた。

「は?あたし?てか瑛史郎、姐さんって何よ?」

「うお、素直じゃないやつね」

「うるさいわね、そして人の話聞きなさいよ」

 どっちもどっちだなと思っていると、瑠璃子が会話に合流してきた。

「皆始業式お疲れ~。あれ、何の話しているの?」

「お、いいところに来た。ほら、前話した正人のことでさ」

「ああ、もしかして紗奈が心配しすぎてたってやつ?」

「ちょっ、てっしー何言ってるのよ?」

「正人聞いてよ、夏頃から正人がずーっと元気なかったって、冬休み中紗奈がうるさかったんだから」

 瑠璃子がからかうようにそう言うと、紗奈がショートボブの髪をかき上げてうなじを搔きながら目線を皆から逸らした。

「その、あんた、大変だったって聞いて・・・」

 紗奈のはっきりしない様子を見かねて瑠璃子が言葉を重ねる。

「紗奈、そうじゃないでしょ。正人って気を遣われるのをすごく嫌がるから皆黙っていたけど、夏休み前からずっと元気なかったのは皆気づいてたの。それで冬休みに葵から聞いたのよ。お母さんが入院して、家のことずっと一人でやってたんだって。授業で寝てたのも、それが理由だったんだよね」

 いつの間にか教室には僕らだけになっていた。だからか、この日の僕は瑠璃子の言葉に正直だった。皆全部分かっていたことを悟り、恥ずかしくなった。手の平で顔の半分を拭うように隠した。

「なんだよ。皆知ってたのか。葵もおしゃべりだな」

「葵も紗奈も、私も瑛ちゃんも、皆正人を心配してたのよ」

「全く、水くせぇなぁ、何で言ってくれなかったんだよ」

 瑛史郎が優しく諭してくる。目頭が熱くなってきた。

「ああ、そうだよな。悪かったよ」

「うお、なんだか素直だな。でもそれだけじゃねえだろ?彼女のことも、俺はちゃんと気づいてたぜ」

 瑛史郎も瑠璃子も紗奈も同じ目で僕を見ていた。・・・もう観念しよう。小さなため息が出た。

「・・・そうだ。母さんの入院のことでまゆと喧嘩して、半年くらい連絡取ってなかった」

「やっぱりな。どうせお前のことだから、何にも話さねぇ頼らねぇで怒らせたんだろ。お前は他人には余計な世話焼くくせに、自分のことは何でも抱え込んじまう大馬鹿野郎だからな」

「うるせぇな、その通りだよ」

「その様子だと、無事仲直りできたんだな」

「ああ、もう大丈夫だ」

「全く、相談くらいしろっての」

「それ、まゆにも言われたわ」

「私たち、仲間でしょ?辛いことや困ったことがあったらお互い様なの。いつも私たちが困っていたら助けてくれる正人の力に、私たちもなりたいのよ。彼女に言えないこともあるだろうから、そんなときはいつでも私たちを頼ってね」

 いつもはか細い瑠璃子の声が、この時はとてもしっかり聞こえた。

「ああ、悪かった」

 まさか、皆こんなに心配してくれていたなんて。

「・・・なんか、俺バカみたいだな。皆に心配かけないように隠し通しているつもりになって、でもバレバレで。変な意地張らずに早く皆に相談したら、半年も待たせずに済んだかもしれないのにな」

 3人に全部見抜かれて諭されていることが情けなくなり、腰に両手を当てて肩を落として足元を見た。すると紗奈の上履きが僕の前で並んだ。謝るために顔を上げる。

「悪い、磯山にも心配かけたな」

 言い切る前に、紗奈の正拳突きが飛んできた。僕の胸に綺麗に当たり、鈍い音がした。

「うぉっ・・・いった。急になんだよ」

 拳の出どころをたどると、少し赤くなった紗奈の顔があった。その神妙な面持ちを前に、僕は言葉が詰まった。

「あたしは、全然気づけなかった。部活で疲れてるだけだって思ってた。あんたはいつも、あたしが元気ないとすぐ気づくのに。あんたがそんなにしんどかったこと、全然分かってあげられなかった」

 言葉を続けるにつれ声が弱まるのに合わせて、紗奈は少しずつうつむいていく。

「磯山・・・」

「いつもあんたが、あたしのアホみたいな話に付き合ってくれるから学校は楽しいし、体育祭でも文化祭の準備でも頼りになった。でもそんな時もあんた自身はずっと悩んでて、誰にも話さないで自分でなんとかしようとしちゃって・・・そんなの、全然嬉しくない」

 力が抜け、もはや拳にもなっていない手をつかみ、紗奈に返した。

「ああ、悪かった」

鼻をすする音が聞こえた気がした。瑠璃子に紗奈を預けて瑛史郎に顔を向ける。

「まぁ、そういうことだ」

「どういうことだよ」

「俺は大馬鹿野郎だったってことだ」

 そう言うと、瑛史郎は呆れたように笑った。

「なんか珍しくお前がしおらしくてやりにくい感じもするが、俺らが言いたいことは一つだけだ。正人が辛い時くらい俺らを頼ってくれても、いいんじゃないか」

 こんなに瑛史郎が立派に見えたのは初めてだ。嬉しくて泣きそうだった。

「ああ、気が向いたらな」

「はは、ひっさしぶりにそれ聞いたわ」

「別に、何度も言ってただろ」

「本気のやつだよ」

「わけわかんねぇよ」

「やっと調子上がって来たな?今年もよろしくな、相棒」

「誰が相棒だ」

「それで、今日は部活ですか、ボス?」

「誰がボスだ。今日部活はない。今朝霜が降りててコートがぐちゃぐちゃだった」

「よし、四人で昼メシ行こうぜ」

 そう意気込むと、瑛史郎は意気揚々と教室の出口に向かう。全く、調子がいいのはいつになっても変わらないな。瑛史郎を追いかけた瑠璃子について行こうとしたが、荷物の片づけに手間取っている紗奈に振り返った。

「ほら磯山、早くしろよ。あいつらの馴れ初め聞いてやろうぜ」

「うるさいわね、誰のせいだと思ってるのよ。先に行っててもいいけど、ちゃんと待ってなさいよね」

「どうすりゃあいいんだよ、それ」

 呆れていたら準備を終えた紗奈がバタバタと歩いてきた。少し顔が緩んで嬉しそうだった。あっという間に僕の横を通り過ぎ紗奈が僕を振り返った。

「ほら、何もたもたしてるの?置いてくよ!」

「めんどくせぇな、あいつ」

 この四人の関係も、やっとしこりが取れたような気がした。



 それから、これまでの半年間が嘘だったと言うかの様に穏やかな日常が続いた。休み時間には友達とトランプで弁当のおかずを賭けて勝負した。瑛史郎も常連だったが、直ぐ顔に出るからこれほどやりやすい相手はいなかった。朝練のせいで10時の休み時間には弁当がなくなる僕にとっては決して負けられない戦いが毎日起こっており、負けると購買部まで走っておかずを買いに行った。瑠璃子や紗奈には怒られたり小言を言われたりしたが、毎日楽しかった。

 部活の仲間とは皆クラスが別で部活以外の時間に学校で会うことがほとんどなかったがとても気が合い、部活が終わってから駅まで毎日一緒に帰った。そこで学校から帰って来たまゆと合流し、予備校の講義が無い日は一緒に駅前のお店を回ったり、家まで送ったり、いつものベンチで話したりした。部活で疲れた日はまゆの肩で眠ってしまったこともあったが、それでも一緒にいた。たまの休みの日曜日は、瑛史郎やクラスメイト、部活の仲間、まゆと毎週のように過ごした。

 母さんが入院していた夏の日々と比べると、とても体が軽く、疲れを感じることはほとんどなかった。肉体的な負担が無いこともあるが、毎日が楽しくて仕方がなかったから、のんびり過ごす日を必要としなかった。誰にも隠し事をせず、不安なことがなく、皆と信頼し合い、些細なことでも友人や恋人と話し合えることが何より大切であることを学んだ。


2002年4月19日。『運命の日』まで6年2か月。

 皆で揃って高校二年生になり、新しいクラスも決まった。相変わらず紗奈とは同じ6組で、瑛史郎は2組、瑠璃子は4組になった。各クラスから男女一人ずつ各委員会に所属するため、皆で示し合わせて学園祭の実行委員になった。この年は体育祭が6月、文化祭が11月に開催される。僕と瑛史郎はそれとは別に体育祭の応援団に参加することになった。僕はあまり乗り気でなかったのだが、瑛史郎に押し切られた。クラスは違ったが、体育祭のチーム分けは2組・6組が同じ赤組だったため、瑛史郎とは同じチームだ。この日は放課後に初めて応援団全体で顔合わせし、3年生から型の指導があった。早すぎて何も覚えられない。

「瑛史郎、覚えたか?」

「その聞き方、さてはお前も分からなかったな」

「ご名答」

「いや、あの団長マジで教える気ないだろ。早すぎて分かんねぇ」

「さすがにあれでやってくれはないだろうな」

 そんなことを話していると、応援団を8チームに分けてそれぞれ3年生が直接指導するとアナウンスが入った。

「やっぱりな」

「いや~、さすがにそうじゃないときついって。さて、どの先輩が付くのかな~。」

「知ってる人いるのか?」

「いや、いない」

「じゃあ誰でもよくね?」

「どうせならかわいい先輩がいいな~」

「・・・てっしーには黙っておいてやるよ」

「それ彼女にチクったら男失格だぞ」

「なんだよそれ・・・お、決まったっぽいな」

「誰誰?どの人?」

「・・・うわ、マジかよ」

「知ってる人?」

「ああ、早川樹里先輩。テニス部のOGだ。退部させられたクチだけどな。よかったな、間違いなく美人枠だ。性格はやばいけど」

「複雑だねぇ、どうやばいの?」

「嫉妬心が漆黒以上に黒い」

「何厨二病全面に出してんだ、分かりやすく言え」

「恋人がいると分かると誰彼構わず別れさせようとする性根が腐った人だ。実際にあの人が原因で別れた人もいる。皆から嫌われるわけだよ。まゆはお前以外この学校の人たちと会ったことないから大丈夫だったけど、同じ学校だと間違いなく面倒になる。てっしーのことは黙っておいてやるよ」

「お、おう。頼むわ」

 応援団の人数から3年生一人が2人を指導することになり、僕と瑛史郎が早川先輩に見てもらうことになった。早川先輩が腰までまっすぐ伸びる黒髪をなびかせながら僕らの前に立った。身長が175cmある僕と目線があまり変わらなかったので、女性にしてはかなりの長身だ。瑛史郎は少し見上げることになる。モデルみたいな体形をしていて顔も美形だが、性格だけがすべてを台無しにしていた。なんてもったいない。

「あれ、もしかして唐嶋君?久しぶり!知ってる子がいてよかった。よろしくね」

「はい。お久しぶりです。先輩お元気そうで」

「私が夏合宿で部活辞めた以来だから、8か月くらい?」

「はい、廊下で何度かすれ違ったことはありますけど、話すのはそれくらいですね」

「へぇ~、覚えててくれたんだ~。嬉しいな」

 家の鏡で何度も練習していそうな角度を決めた笑顔で、いちいちお世辞に反応するのがものすごくやりにくかった。機嫌を損ねることを言うと圧倒的に面倒くさい。機嫌を良くすることを言っても、やっぱり面倒くさい。

「そういえば、彼女は元気なの?」

 早速来た。完全に瑛史郎は無視している。結局これを聞きたかっただけだろう。変に嘘をつくと瑠璃子や紗奈とも一緒に居づらくなる。

「ええ、まあ」

「そうなんだ~、2学期はほとんど会ってなかったみたいだけど?」

 吐き気がした。なんで知ってんだ?

「そんなことないですよ」

「へぇ、まあいいけど。隣の子は?」

 急に瑛史郎に振ってきた。少し緊張しながら瑛史郎が答える。

「あ、黒澤瑛史郎って言います。今日からこいつと一緒にお世話になります」

「うん、よろしく」

「よろしくお願いします」

「全体練習以外は基本的に3人でやるからよろしくね。本番の体育祭まで2か月しかないから、さっそく始めましょう」


 その日は一通りの流れを再確認して終わった。

「早川先輩、そんなに悪い人に思わなかったけど、本当にやばい人なのか?」

 瑛史郎と昇降口で靴を履き替えながら早川先輩の話をしていた。

「まぁ、早速お前に彼女のこと聞いてたから何かありそうだったけどな」

「ああ、多分俺にはあまり突っ込んだことできないだけだと思う」

「なんでだよ?」

「結構言い返したからな」

「マジかよ。なんて?」

「俺の彼女のこと何も知らないくせに知ったクチ利かないでください。とか」

「言うねぇ、敬語なところがまた憎いわ。どんな場面だったんだ?」

「あの人、彼女が他の男と歩いているところを見たとか、彼女がAV出てる作品を知っているとか言ってくるから、まじで頭に来て」

「こわ。でもそんなの信じる人いるのか?」

「ふつうは信じないよ。でも、それを相手にもやるんだってさ」

「なるほど、それでお前は大丈夫だったってことか」

「それ以外にも、彼氏に保健室で押し倒されたとか、告白されたとかもあって、最後は部活内で皆に呆れられて、去年の夏合宿で先輩たち全員から4日間無視されて、帰りのバスで大泣きしてそのまま辞めてった。誰も同情してない」

「お前、よくそんな強烈なキャラいたのに俺らに話さずにいられたな」

「思い出すだけで虫唾が走るからな。意識して思い出さないようにしていた」

「虫唾が走るって、なかなか使わないな」

「走るどころじゃない。ダッシュだ。虫唾がダッシュ」

「なんだよそれ」

 僕らの笑い声が昇降口に響く。僕はすぐに一つの不安を口にした。

「早川先輩、どうしてまゆと会ってなかったこと知ってたんだろう」

「どこかで偶然聞いたんじゃね?誰もお前には直接言わなかったけど、結構言ってるやつ居たぜ、お前が彼女とうまくやれてないんじゃないかって」

「どっちも嫌だな。まあいいか。瑛史郎も気をつけろよ。てっしーも言葉だけで信じるタイプじゃないし俺もフォローするけど、何があるか分からん」

「ああ、なんかあった時は頼むわ」



2002年5月3日。『運命の日』まで6年1か月と、16日。

 事件は思ったより早く起こった。それまで早川先輩にはたくさんまゆのことで絡まれたが、うまくかわしてやり過ごした。本当にこの人と関わっていると疲れると言うか、世渡りのスキルが身についていく気がする。一通り演舞の型を覚えた僕らは、お互いに見せあいながら練習をしていた。一人が太鼓をたたいて、もう一人が演舞をした。こういう時にふざけなくなった瑛史郎を見て、自分たちが確かに成長しているんだなと感じる。少し寂しく、中学生の頃を懐かしみながら、これからもこうやって瑛史郎と成長していけると思うと嬉しくなった。

 この日は祝日で応援団の全体練習はなく、自主練という形で学校へ来ていた。休みでもやっている部活はあり、体育館からは乾いたシューズがこすれる音に交じって重たいボールが床に叩きつけられる音、グラウンドからは歓声を突き抜ける金属バットの気持ちいい音が聞こえてくる。テニス部は午前中だけ練習があったので、僕はお昼から応援団の練習に合流し、瑛史郎と二人で黙々と練習をしていたらいつの間にか夕方になっていた。瑛史郎と中庭のベンチで座って話をした。

「正人は、今日これから予定あるのか?」

「明日は部活も学校も休みだからな。まゆがうちに来て夕飯食べてく」

「お前のとこ、家族ともほんと仲良いよな」

「瑛史郎は家族で会わないのか?」

「お前見ているとそういうのいいなって思うけど、なかなかハードルが高くてだな」

「まだ半年だもんな。俺も1年以上はなかったからそんなもんじゃね?」

「まぁ、のんびりやるわ。そういえば、お前時間大丈夫か?そろそろじゃないのか?」

「連絡来てるかな?携帯、ケータイ・・・」

 ポケットを叩いても見つからなかった携帯を探して辺りを見回した。ベンチにもない。

「あれ、携帯ないな・・・」

「マジか。教室は?」

「こっちで見てた気もするけど、見てくるわ」

 中庭から校舎に入ると、廊下の角から早川先輩が出てきた。少し浮かない顔でけだるそうにしている。

「あ、唐嶋君。もしかしてこれ捜してる?」

 携帯電話を僕に差し出してきた。間違いなく僕のものだ。背筋に緊張が走った。

「・・・先輩、どうしてこれを持ってるんですか?」

「さっき拾った」

 指先だけで端末をつまみ、目線を僕と合わせない。

「・・・ありがとう、ございます」

 そう言って、溜息を吐く早川先輩から携帯を受け取った。

「どうしたんですか?怒ってます?」

 なんとなく先輩が何をしたか悟り、僕も不機嫌に聞いた。

「別に。あんたたち、つまんないわ」

 一言だけつぶやいて中庭に出ていく先輩を睨みながら携帯を開いた。やはり記憶のないメールのやりとりがある。相手は、まゆだ。

 ———ごめん、急だけど、別れたい。

 ———急にどうしたの?何かの冗談?

 ———冗談じゃないよ。もう、一緒にいるのがしんどくなった。

 ———あなた、誰ですか?

 ———誰って、正人だよ。

 ———まさとは自分の名前をメールで打つとき、いつも平仮名で打つんです。あなたはまさとではありません。まさとに携帯を返してください。私はあの人と連絡取れなくなると困ります。返してください。

 ———打ち間違えただけじゃん。話逸らさないで

 ———名前だけじゃありません。あの人がそんな大事な話をメールなんかで済ませるはずがないんです。もし何か理由があってその決断をしたとしても、必ず直接私に話してくれます。あの人のこと侮辱しないでもらえますか?

 ———メール返ってきませんけど、まさとに携帯返してくれましたか?もし何も言い返せず携帯の画面とにらめっこしているだけなら、早く返してください。誰がどういうつもりでこんなことをしているのかは知りませんが、私本当に怒っているんです』


 最後のメールが30分前の記録だった。消されてなければ、その後送信も受信もしていない。さすがに頭にきた。中庭に出て行った先輩を追いかける。

「先輩!」

 足と腕を組んで中庭のベンチに深々と腰を落とす早川先輩に声を荒げた。視界の端で、瑛史郎が心配そうに見つめる。

「なんですかこのメールは。先輩が送ったんですか?」

「・・・そうよ」

 先輩は頑なに僕と目線を合わせない。不機嫌そうに腕を組んだままだ。

「どうして・・・どうしてこんなことを」

「別にいいじゃない。別れなかったんだから」

「そういう問題じゃないんだよ!先輩は、まゆが最初のメールを見た時どんな気持ちだったのか、どんな気持ちであんたと不毛なやり取りをしたのか、今どんな気持ちでいるのか、考えなかったんですか?」

「そんなの、私は知らないわよ」

「ふざけるな!何でそんな自分勝手なんだよ?俺やまゆだけじゃない。そうやってたくさんの人の気持ちを踏みにじって、楽しい時間を奪って、あんた何がしたいんだよ」

 先輩の顔がこちらを向いた。整った顔から鋭い目つきが飛んでくる。

「先輩に向かって、何よその口の利き方は」

 立ち上がった先輩が鼻の先が触れそうな距離まで詰めてきた。こんな美人がすぐ目の前にいるのに、ちっとも嬉しくない。このまま無視しても良かったが、ここで僕が引いたらこの人はきっとこの先変われない。ふと榊原のことを思い出した。

「今のあんたに先輩面される筋合いはない。昔、とんでもない不良が先輩でいたな。今のあんた、そっくりだよ。あいつとおんなじこと言ってる。見かけはあんたの方がよっぽどマシに見えるけど、やってることは何倍もえげつない」

 そう啖呵を切って睨みつけたが、先輩も腕を組んだまま僕を睨み、微動だにしなかった。しばらくの静寂を挟み、先輩の口元が緩んだ。

「ふっ、全く、熱くなっちゃって」

 急に柔らかい口調でそう言うと、早川先輩は僕のおでこを優しくたたき、校舎に入って行った。ガラス戸に手をかける先輩に声をかけた。

「待ってください。まだ話が・・・」

「終わったわ。あなたたちはお互いを信じあっている。ただそれだけ」

 僕の言葉を遮る様にそう言って、微笑む顔を背中越しに僕に向けた。もう先輩が何を考えているのか全く分からない。もはや怒る気も失せていた。

「本当に、何がしたいんですか?」

「さあね、教えてあげない」

 そう飄々と言い切ると、少し跳ねる様にふわりと校舎に上がった。先輩の腰の周りで黒髪の毛先が同じように跳ねる。瑛史郎の方を見ると、目が合った。

「どうしたんだ?」

「分からん」

 瑛史郎の問いに、両手の掌を上に向ける仕草をした。

「あ、そうだ!」

 早川先輩が戻って来て校舎から顔を出した。中庭につんのめらないように両手でガラス後の縁をつかんで体重を支えている。

「あなたたち、演舞はもう大丈夫そうだから、私は全体練習以外いらないと思うわ。自主練は好きにやっていいよ」

 それだけ言うとまた校舎に消えて行った。また呆れ顔の瑛史郎と目が合う。

「それで、何があったんだ?」

「殺人未遂に遭った」

「だから、分かるように言えって」


 瑛史郎にメールを見せて説明した。瑛史郎は引きつったような笑みを浮かべている。

「ひでぇな、これ」

「まさかこんなことまでしてくるとは思わなかったわ」

「どういうつもりなんだよ、あの人」

「教えてあげない。だってさ」

「お前も、あそこはもっと怒っても良いところだったんじゃないか?」

 先輩の急に緩んだ表情を思い出し、気になった。

「なんか、先輩にも理由あるのかな」

 しかめっ面の瑛史郎の彫りがさらに深くなった。お前は平井堅か。

「なんだよ瑛史郎、人形焼きみたいな顔しやがって」

「お前、こんなことされてよくそんなこと言えるな。頭でも打ったか?彼女がどういう気持ちで~~~の怒号はなんだったんだよ」

「あの時は頭に血が上って取り乱したけど、あんなこと言ってもあの人治らなさそうだからな。冷静になってみると見えてくるものがあるのだよ、ワトソン君」

「うっせぇよ」

「マジな話、何か理由があってやっているとでも思わなきゃ人間不信になりそうだ」

「まぁ確かになぁ、意味なくあれやってたらもう人間じゃねぇよ・・・おいおい、そんなことより連絡しなくていいのか?今日会うんだろ?」

「やべ、もう校門まで来てる頃だ。あんなことあったし早めに来て待っているかもしれない。もう連絡しないで直接行くわ」

「え、そこまで来てるの?」

「ああ、今日はうちに来るから、通り道だし寄るって言ってた。久しぶりに会ってくか?」

「いや、遠慮しとくわ。いつの間にかもう俺なんかが入る隙間ねぇよ」

「何勘違いしてんだ、初めからそんな隙間なんかねぇよ」

「急に厳しいこと言うじゃん。嫌いじゃないけど」

「気持ちわり。じゃあまたな瑛史郎」

「おう!先輩に会ってるとこ見つかるなよ」

 瑛史郎からの返事に手で応え、足早に教室に向かった。荷物をまとめ、半開きカバンをぶら下げながら昇降口で靴を履き替える。昇降口を出てからすぐ見える遠くの体育館棟の広場の端っこに、一人で寂しそうにベンチでしゃがんでうずくまっている人が見えた。夕陽の逆光で少し見にくかったが、背中が丸まっていて、体育座りをして顔を膝にうずめているようだ。長い黒髪が背中全体を覆っている。

「早川先輩・・・?」

 校門に心と体を向けながらその人影を目で追っていたが、次第に首がつらくなり前を向いた。少し複雑な気持ちになった。

「まさと!」

 校門に着く前にまゆの声が僕を呼び止める。辺りを見渡すと植木の陰からまゆが出てきた。

「まゆ!」

「良かった、ちゃんと会えた」

 まゆは眉毛を丸めて心配そうな顔をしている。それはそうだ。

「ごめん、連絡できなくて。早かったな」

「あの・・・メール」

「ああ、心配かけた」

「何があったの?」

「ここじゃまずい。一旦出よう」

「う、うん。分かった」

 少し俯きながらぎこちなく頷いた。不安そうにしている。

「大丈夫。あれを送ったのは俺じゃない。ちゃんと話すから」

「うん。ありがとう」

 校門を過ぎ、駅と反対方向に坂を下って行った。まゆは何も言わなかったが、つないだ手から不安な気持ちが滲み出ている。坂の途中に林に入る獣道があり、ここがうちまでの近道だ。畑とビニールハウスの横を過ぎると、大きな私立高校の校門の前に出る。そこを逸れて進んで行くと唐嶋家のマンションだ。僕はマンションに向かわず、校門脇の階段に向かった。

「あれ、家こっちじゃないの?」

「その前に、今日のことちゃんと話すよ。この先に座れるところがある」

「うん、わかった」

 階段を登り切り、もう少し坂を上って行くと公園に出る。この公園はすぐ裏に鉄塔も建っており、このあたりでは一番標高が高いところだ。ここには、西に沈む夕陽を臨むベンチが設置されている。知る人ぞ知る絶景スポットだ。ちょうど、夕陽がきれいなタイミングだった。遠くに見える丘が影になり、まるで絵葉書みたいだ。

「うわぁ・・・綺麗だね。まさとの家行くときここ何度か通ったけど、こんな綺麗な景色観られるの知らなかったな」

「ここも綺麗でしょ。江ノ島とどっちがいいかな?」

「う~ん、さすがに江ノ島には勝てないかな」

「なんだよそれ、そこはこっちって言うでしょ」

 まゆが笑った。ホっとした。

「まさと。私、あなたのこと信じてるから大丈夫だよ」

 相変わらず、夕陽が照らすまゆの笑顔はたまらなく綺麗だ。はっきり言ってずるい。

「知ってる。まゆからのメールも見た。不謹慎だけど嬉しかった」

「へへ、恥ずかしいな。あとで消しといてね」

「消すわけないじゃん」

「もう!」

 二人で並んでベンチに座り、早川先輩のことを全部話した。今までは心配かけないように話してなかったが、ここまで来たらもう隠せない。


「やっぱり!全く、その先輩どういうつもりなのかしら!」

 まゆが珍しく怒っている。確かにメールにも怒ってると書いてあったな。

「俺も今日はさすがに頭に来たから突っかかったけど、含みのある事言われたよ」

「そうなの?なんて?」

「話はもう終わり。あなたたちは信じ合っている。ただそれだけ。って」

「何それ、どういうこと?そんなの当たり前なんですけどね!」

まゆはまだ怒っている。話が進まないので言葉を重ねた。

「その言葉だけ聞くとネガティブな感情で言っているような感じするけど、少し嬉しそうな声で、悲しそうな表情で言ってた。その時もう何が何だか分からなくなって、怒る気も失くしたよ」

「嬉しそう?別れさせようとしたのに、どうしてだろうね」

「うん。それに、その後先輩が一人でうずくまっているところを見たよ。もしかしたらなんか理由あるのかなって思った」

「どんな?」

「う~ん、よく分からないけど、羨ましい・・・とか?」

「それ、妬みってこと?」

「そういうんじゃなくて、なんか、自分には信じあえる恋人が現れないと思っているみたいな?」

「なるほど。根が深そうだわね」

「トラウマとかだったら可哀そうだな。あんなことしなきゃ明るくていい人だから、いい人現れるだろうに」

「ずいぶんと肩入れするのね」

 まゆがそう意地悪に言った。少しにやけているので冗談だとすぐに分かった。

「誰にどんなに肩入れしても、俺にはまゆだけだよ」

「へへ~、知ってる!」

「言わせただろ」

「そんなことない。そう言ってくれるって信じてただけ」

「それを言わせてると言います」

「え?じゃあ本音じゃないの?」

「本音ですけど何か?」

「あはは、可笑し」

 まゆがお腹を抱えて笑った。ベンチから転げ落ちそうだ。

「まあ、今度先輩に聞いてみるかな」

「なんか、前にもこんなことあったね」

「榊原でしょ?本当にダブって仕方ないんだよな。今の早川先輩」

「今あの人何しているか知ってる?」

「なんかあいつの父親、政治家らしい。あいつも政治家になるために高校早実行ってめちゃめちゃ勉強しているみたいだよ」

「へぇ~、変わったね!早川先輩も変えてあげないとね」

「俺は何もしてないよ」

「またまた」

「先輩もそうだけど、瑛史郎がすげぇビビっちゃって、何か見てられない。あいつの彼女も大丈夫だと思うんだけど」

「あれ、その時瑛史郎君もいたの?」

「うん。先輩が勝手にメールしたってのも話した」

「一緒に帰って来なかったんだ」

「ああ、まゆに会っていくか?って聞いたけど、俺らの間に入る隙がもう無いから遠慮するって言ってた」

「何よそれ。最初からそんなものないわよ」

「俺も同じこと言った」

「あはは、瑛史郎君可哀そう。いないところでこんなに散々言われて」

「俺はちゃんと目の前で言ったけどな」

「それもどうなのよ」

 僕らを穏やかな空気が包む。邪魔が入っても崩せない関係性を示せたみたいで、ほっとした。信じているつもりだが、いざその時になると疑うことになるんじゃないかと思っていたが、杞憂だった。

「もう18時か。そろそろ行くか?」

「うん!まさママのご飯楽しみ♪」


 この日から体育祭の日まで、全体練習の時以外に早川先輩と会うことはなかった。僕らはグループだったが、会っても話すこともなくなった。やっぱり、先輩はあの日のことを気にしているんだろうか。瑛史郎もすっかり先輩を毛嫌って見えない溝を感じた。そういう見方をすると、先輩は誰にでも話しかけるが、みんな一言二言交わすだけで先輩から離れていく。時折寂しそうな顔を見せる先輩を、僕は見つけてしまった。


2002年6月17日。『運命の日』まで6年と、2日。

 体育祭当日。生徒は皆、普段おとなしく抑えていた感情を解き放つかの様に盛り上がった。全員が髪を赤く染めた赤組応援団の演舞も完璧に揃い、瑛史郎と一緒に喝采の中で気持ちを高ぶらせた。夏至でもあるこの時期は、体育祭が終わった時間でもまだ陽が照っている。閉会式を終えた後、グラウンドの真ん中に集まり応援団全員で写真を撮った。カメラを構える3年女子の遙か奥に、校舎に戻る早川先輩を見つけた。

「団長!」

「どうした正人、もうシャッター切られるぞ」

「早川先輩がいません」

「樹里?マジか、またあいつ!ああもう仕方ない、時間ないからこのまま撮るぞ」

 そのまま勢いでシャッターが切られた。大勢の中で埋もれないように必死になっていたら、瑛史郎の上に乗っかっていた。

「おい、俺が映ってねぇよ!」

「大丈夫、大丈夫、きっと映ってる」

 皆でお腹を抱えて瑛史郎を囲った。

「本当にもう写真終わりかよ?皆、もう1枚、もう1回お願いします!」

 今度は埋もれないように、僕が瑛史郎を肩車してもう1枚写真を撮った。この時の写真には皆の笑顔が収まっていて、憂いなんかなかった。・・・一人を除いて。瑛史郎を下ろすと校舎の方に目を向けた。早川先輩の姿はもう見えないが、なんとなく居場所が分かっていた。喧騒から一人抜け出し、早川先輩の影を追った。


 体育館棟広場は、夕方になると西日が直接入り込み、立つ者の影を長く落とす。横浜屈指のホタルの名所がある森から顔を出す夕日は絶景で、いつも部活終わりに堪能している。その端っこに、卵みたいに丸い影が横たわっていた。顔を伏せていて僕には気づいていない様だ。

「・・・先輩」

声に気が付き早川先輩が顔を上げた。驚いた表情をしている。

「唐嶋君・・・どうしてここに?」

「先輩こそどうしたんですか?皆で写真撮ってたのに、一人でこんなところに座って」

 僕は白々と答えた。早川先輩が僕から目を背けて夕陽に顔を向ける。陽の光を受ける先輩の横顔は、溜息が出るほどきれいだ。

「この高校に、私の居場所なんてもうないのよ」

 寂しそうにそうつぶやいた。いつもの凛とした雰囲気は一切感じられない。僕は後頭部を掻きながら答えた。

「それは、いつからですか?」

 その質問が意外だったのか、先輩が目を丸くして僕に向ける。目が合うと先輩から弾けた様に笑みがこぼれた。

「唐嶋君、面白いね。普通は そんなことないですよ とか言うものよ」

「でも、先輩の居場所があるかないかなんて俺には分からないですもん。先輩がないって言うなら俺には否定できません」

「はは、それもそうね」

 先輩は笑っていたが、どこか寂しそうだった。

「・・・あんなにひどいことをしたのに、唐嶋君は私に話しかけてくれるんだね」

「ひどいことって、先月のメールのことですか?」

「そう。最低でしょ?私」

「はい。本当にびっくりしましたよ。結果的に大丈夫だったから良かったですけど、イタズラにしてはやりすぎです」

「・・・怒ってないの?」

「あの時は怒りましたけど、時間経ったら怒るよりも気になりました。どうしてこんなことするのかなって。絶対先輩にいいことないのに」

「理由・・・ね」

 先輩はベンチの上で足を抱きかかえてまた夕陽に顔を向けた。

「私、ちょうど一年前くらいに親友だと思っていた人に彼氏を奪われたのよ。二人ともこの学校の生徒」

 絞り出す様に話し始めた。僕は体重を壁に預け、続きを待った。

「最初はきっぱり諦めて応援しようと思った。でも、考えれば考えるほどつらくなって、悔しくて、憎くて、二人がとても妬ましくなった。あの二人に、親友と恋人を同時に奪われた気がして」

 先輩が抱えた膝のジャージを強く握っている。肩が震えているように見えた。

「それで、あんなことを」

「ええ。それからカップルを見ると、あの二人とどうしても重ねてしまう。どうしても壊したくなってしまう。ひどいことだって分かっているけど、スイッチが入ると止められないのよ。私はもう、病気なの。あなたにもひどいことをしたわ。本当にごめんなさい」

 泣いているのか、鼻をすする音が聞こえた。

「・・・よかったじゃないですか」

「・・・え?」

 無意識に出た言葉だった。何を言っているんだろう?といった顔を先輩は僕に向ける。当然の反応だと思った。僕は真意を伝えるために言葉を重ねる。

「その二人、親友でも恋人でもなんでもないですよ。俺にも親友も恋人もいますけど、二人とも俺がどちらとの時間も大事にしたい気持ちを分かってくれてますし、いつでも前向きな言葉をかけてくれます。きっと、俺が困ったり辛い思いをしないように気遣ってくれているんだと思います。二人とも、俺にとってかけがえのない大切な存在です」

 先輩は左目から涙の筋を落としながらじっと僕を見ている。

「先輩が辛い思いをして、一人で寂しくこんなところにいるのに声もかけずにいられるのなら、その二人は先輩にとってなんでもない人です。名前と顔だけ知っているだけの、ただの他人です。そんな人のために先輩が心を痛める必要なんか全くない。考える必要なんかない。先輩の時間がただただもったいない。その出来事が無かったらそれに気づかず二人と付き合いを続けて、人生の大半を損していたかもしれない。そう思うとぞっとしますね。早めに本性が知れて良かったじゃないですか」

 先輩は唇を震わせながら広角を上げている。泣き顔も見とれそうな程綺麗だ。そのまま左手で両眼を覆って顔を伏せた。今度は肩を上下に揺らしている。先輩からの反応は期待できなかったのでつづけた。

「そんな人たちのために、先輩が嫌われるようなことをするのはやめてください。俺、この学校に入学してテニス部入って初めて早川先輩を見た時、女性なのにかっこいいなって素直に思ったんです。美人で明るくて、皆に好かれて皆の中心になって、テニスも上手くて。でも、途中からなんだか変わってしまった。性根こんな人だったんだ、残念だなって先輩を疑ってしまっていた」

 息継ぎのつもりはなかったが、ここで深呼吸した。

「きっと、皆もそう思ってしまっている。そういう風に先輩を見ている。もったいないですって。本当に早川先輩がそんなことをしない人なら、直ぐにやめて、ひどいことしてしまった人たちにさっきみたいに謝って、元のかっこいい先輩に戻ってくださいよ」

「・・・もう、無理よ。私は自分の気持ちを抑えられずに罪を重ね過ぎたわ。言ったでしょ、居場所が無いのよ。二人は関係ないわ。誰のせいでもない、私自身のせい」

「・・・先輩は、まゆからのメール見た時どう思いました?」

「あなたの彼女のこと?」

「はい。あのメールに、先輩の答えがあると思うんです」

「うわべの言葉やメールだけでなく、ちゃんと恋人のことを信じているんだなと思ったわ。良い彼女を持ったわね」

「あの時まゆがすぐに俺じゃないって分かったのは、普段の俺を見てくれているからです」

「何よ、のろけ?」

「違います。早川先輩のことをちゃんと見ていて、今でも信じている人いますよ。前はあんなにいい人だったのに、何があったんだろうって、いっつも言っている」

 早川先輩は膝を両腕で抱え、あごを埋めて上目遣いで僕を見ている。

「先輩のしたことは許されないかもしれない。最低だと思う人もいるかもしれない。だけど、先輩の本当の姿を見てくれている人はちゃんといて、今の先輩が嘘だと信じてくれています。その人を、どうか見失わないでください」

「誰よ・・・そんな人。いるわけないじゃない」

「・・・団長です」

「え?」

「応援団に先輩を誘ったのも団長なんですよね?俺、あのメールのことを団長に相談したんですけど、本当はそんな奴じゃないって、頼むから恨まないでくれって、謝りながらすごい説得されました」

「・・・そん、な」

 先輩は唇を震わせながら涙を目に溜めている。

「団長言ってましたよ。早川先輩と幼馴染なんだって。幼稚園からずっと一緒で、ずっと仲が良くて、ずっと傍で見てきたって。小学校入って話す機会が減ってきてからも、ずっとって」

「・・・佳寿馬が?」

「はい。前の先輩に戻るのをずっと待っているって言ってました。それまで彼女は作らないって」

「本当に?本当に佳寿馬がそう言ったの?」

「疑うなら、本人に直接聞きますか?まだ校庭にいるはずです。行きましょう。二人にとって高校最後の体育祭だし、団長も先輩と写真撮りたいんじゃないかと思います」

 うつむきながら何度も頷いた先輩の手を引いてグラウンドに連れ出した。グラウンドの壁際に寄せられた朝礼台に一人で乗って辺りを見渡している。まるで誰かを探しているかのように。

「佳寿馬・・・!」

 遠くに団長の姿を見つけると、早川先輩は団長の名前をつぶやいて駆け出して行った。僕はその場に立ち止まり、先輩の背中を見送った。

「お、正人いた」

 背中から瑛史郎に声をかけられた。「よう」と振り返る。

「お前、急にいなくなってどこに行ってたんだよ」

「まあ、ちょっとな。人と話してた」

「誰だよそれ・・・ってあれ早川先輩か?」

 先輩の方に視線を戻すと、団長が笑顔で先輩と向き合っていた。距離があって良く見えなかったが、一方で早川先輩は泣いているように見えた。瑛史郎も僕に並んで早川先輩に目を向ける。

「なるほどな」

「誰と何を話してたか、分かったみたいだな」

「まあな。だってあれ、早川先輩だろ?お前がそれを遠くから見てるんだからどういう状況かだいたい分かるわ。団長と早川先輩の話もお前から聞いていたしな」

「お前も賢くなったな」

「うるせえ。それで、どうだった?」

「多分もう大丈夫だ。瑛史郎はちょっかい出されずに済みそうだ」

「そいつは助かるわ~、すげぇヒヤヒヤしてたからな」

 諸手を上げ、後頭部に両手を回しながら瑛史郎が言った。夕陽が目に入るのか、まぶしそうな顔をしている。

「何度も言ったけど、てっしーなら大丈夫だったと思うけどな」

「いやいや、別に瑠璃を疑ってるわけじゃないよ。結果良かったとしても何も無い方がいいって、絶対」

「それは・・・全くだ」

 瑛史郎と笑い合った。その顔を見ると、夕陽で額の汗が光っている。

「・・・やっぱり、お前はすげぇよ」

「どうした、急に」

「早川先輩、お前に救われたと思うよ」

「なんもしてねぇよ、俺は。団長のおかげだろ」

「謙遜すんなって。俺だって、3年前お前に説教されたのがまだ心に残ってるぜ。『伝える覚悟も無いのに分かってもらえると思うな』って、あれマジであの時の俺には刺さりまくったわ」

「あの時は、瑛史郎だってしんどかったんだろ?」

「まあな。でも正人にあそこまでされなかったら今の俺はなかったと思う。ずっと言えなかったけど、お前には感謝しているよ。ありがとう」

「なんだよ急に、ガラじゃねぇな」

「・・・なぁ、正人」

「うん?どうした?」

「・・・いや、やっぱりいいや、なんでもない」

「なんだよ、変なやつ」

 瑛史郎の言葉を心半分に、昇降口の方に体を向けて疲れた足を前に出した。

「よし、俺らは帰るか。磯山とてっしーが教室で待っているだろ」

「そう言ってたな。写真撮っているところは教室から見えているはずだから、あんまり待たせると怒られるぞ。いや~俺もう疲れたわ。皆で早く帰ろうぜ。そういえば、お前の彼女は迎え来てないのか?」

「そんな頻繁に来るかよ。今日は学校で遅くまでホルンの練習するんだってさ」

「吹奏楽部だっけ?コンサートとかあるのか?」

「ああ、9月の土曜日に文化会館でやるみたいだ」

「マジで?すげぇじゃん。正人も観に行くのか?」

「ああ、そのつもりだ」

「曲は決まってるのか?」

「カノンとかクラシック何曲かって言ってたな」

「カノンってあの、威風堂々の?」

「ちげぇけど、それもやるかもな」

 瑛史郎と教室に向かって歩き始めた時、ふと先輩たちを振り返った。二人は手を繋いで歩いていた。



2002年8月29日。『運命の日』まで5年9か月と、20日。

 あっと言う間に夏休みは終わりが見え、この日は瑛史郎、瑠璃子、紗奈と4人で夏休み最後に江ノ島まで遊びに来た。まゆと江ノ島には何度も来たが、江ノ島水族館かその西浜と本島しか行ったことがなかったが、今日は初めて東浜で遊ぶ。なんでも、東浜より西浜の方がクラゲの発生が多く、この時期は東しかまともに海に入れないらしい。

 集合は10時に港南台駅前。僕は5分前に着いたが、まだ誰も着いていなかった。まゆには今日のスケジュールを伝えていたので、メールで『行ってきます』とだけ送った。携帯をポケットにしまいながらバス停の方に目をやると、瑠璃子と紗奈が同じバスから降りてきた。

「あ、正人だ。おはよう、早いね。待った?」

「おはよう二人とも。早いも何も、もう5分前だ」

「あんたが私より早いなんて珍しいわね」

紗奈が突っかかって来た。夏休みはほとんど会わなかったからこのやり取りは1か月ぶりだ。紗奈の表情は少しほぐれている。

「中学の頃はそうだったとしても、高校入ってからは大体部活の朝練行ってるから学校に着いているのは磯山より早いと思うぞ」

「ふ~ん、教室に着いているのはいつも私の方が早いけど。まぁそういうことにしておいてあげましょう」

「なんなんだよ、それ」

「紗奈、今日すっごく楽しみにしていたんだよね~!」

「てっしー!なんでそんなこと言うのよ!」

 瑠璃子と紗奈の凸凹コンビのやり取りは見ていて飽きない。

「まぁ二人とも久しぶりだけど、元気そうでよかった」

「正人もね。結構焼けた?」

「ああ、部活でな。この黒の8割くらいは山梨の合宿で焼けた分だ」

「へぇ、すごいねぇ。あと、また少し筋肉付いた?高校で部活入ってからがっちりしてきたと思っていたけど、この1か月でまた変わった気がする」

「そうかな、あまり変わってない気がするけど。しばらく会ってないとそう感じるんじゃないか?」

「ふ~ん、そんなもんなのかな。ねぇ、紗奈?」

「何で私に聞くのよ」

「だってほら、今紗奈しかいないし」

「あ、ほら、瑛史郎も来たわよ」

 僕の後ろを紗奈が指さす。瑠璃子は紗奈の反応を見て少し呆れた表情を浮かべている。振り返ると敬礼の仕草をしながら瑛史郎が歩いてきた。

「よう!皆お待たせ」

「少し時間過ぎてるぞ」

「主役は遅れて来るものさ」

「誰が主役だ」

「皆が主役!俺もその一人!」

「うるせぇ。瑛史郎だけ遅れた理由になってねぇよ」

「ってお前、前より少しデカくね?」

「やっぱり、そうだよねぇ!ねぇ紗奈?」

「だから、なんで私に振るのよてっしー!」

「正人、お前まさかドーピングでもしたのか?いいから考え直せ。テニスで勝てないからってそんなことをしたらいかんぞ」

 ・・・やかましいなぁ、こいつら。この夏休みが終わったら、皆少しずつ受験を意識してあっという間に3年生になって、受験勉強に集中してこうやって皆で集まる機会も減ってきて、卒業したら散り散りになるのか。なんか寂しいな。これからも出来る限りこうやって皆で遊びに行きたいな。

「正人!聞いてる?」

「ん?あ、ああ」

「なんだ、ぼーっとして。薬のせいか?」

「だからやってねぇよ。ほら、うだうだしてないでそろそろ行くぞ」

「あ、切符買ってない!どこまで買えばいいの?」

 瑠璃子を先頭に、券売機に三人が群がった。先にお金を入れた瑠璃子の隣に行き、券売機のボタンを押した。出てきた切符を瑠璃子に渡す。そのまま紗奈と瑛史郎が切符を買えるように二人で券売機から離れた。

「ここから一旦藤沢まで買って小田急線に乗り換える。そこでまた片瀬江ノ島駅まで買えば大丈夫だ」

「お~、詳しい!さすが!」

「受け売りだ。てっしーは普段電車に乗らないのか?」

「うん、全然乗らない。だからよく分からないんだ。乗り換えとか特に良く分からない。正人がいてくれて良かった」

「まぁ俺も最初は全然分からなかったからな。でも大学進学とかしたら使うことになるだろうから、慣れておくといいよ」

「え~、ずっと高校生が良いな」

「子供か」

「だって、こうやって四人でバカみたいに騒ぐの楽しいんだもん」

「・・・卒業しても時間作ってこうやって集まればいいさ。また久しぶり、とか言いながらな」

「・・・うん、そうだね」

 そんな会話をしながら改札口の前で二人を待っていたが、瑛史郎と紗奈が着いてきていることを確認して切符を機械に通した。


 片瀬江ノ島駅に着くと、まず近くのボウリング場に行った。四人ともびっくりするくらいヘタクソで、誰もまっすぐ投げられない。もはやまともに投げるつもりもなく、皆でお腹がよじれるほど笑った。個人戦、二人1組のチーム戦でスコアも競ったが、八百長でもしているかの様にどれも接戦で、皆が皆同じくらいヘタクソだった。ボウリングを3ゲーム楽しんでから、13時頃にお好み焼き屋でお昼を食べた。お好み焼きに火が通る感覚が瑛史郎には全くなくて、生焼けなのに瑠璃子に食べさせようとしていた。もんじゃ焼きの作り方が誰にも分からず店員さんに焼いてもらい、ヘラの裏側にくっついて浮き上がった時は歓声が上がった。何気ないただの食事でも、四人は面白可笑しく過ごせる仲だった。こんな関係をずっと守りたかった。

 

 14時半、遠くの西の空に少し厚い雲は見えたが、太陽の光が降り注ぐ片瀬東浜海水浴場に四人は着いた。8月も末だからかそこまで海水浴場は混んでおらず、シートを広々と広げて各々の荷物を置いた。

「やっぱり海は気持ちいいなぁ!」

 瑛史郎がまぶしそうな顔をして海を見ながら叫んだ。瑠璃子と紗奈はいそいそと靴下の脱ぎ、小走りで波打ち際に向かった。それを見て僕と瑛史郎も海に入り、膝のあたりで水をかけあいながら四人で遊んだ。夢中になって1時間ほど遊んでいると、いつの間にか腰の深さまで来てしまい、ズボンが全部濡れた。瑠璃子と紗奈も、だいぶ濡れている。

「こんなに濡れて、どうするのよ?」

「暑いからそろそろ上がって乾かせば帰るまでには乾くだろう」

「じゃあ、そろそろ上がる?」

「そうだな、瑛史郎どうする?上がるか?」

「じゃあ最後に、少し深いところまで行ってみるか」

「え~、危ないよ、やめておきな」

 瑠璃子が止める。気持ちが高ぶっていたのか、僕も少し乗り気だった。

「まぁ、せっかく海に来たし、直ぐに戻るからてっしーと磯山は先に上がってろよ」

「う~ん・・・分かった。行ってらっしゃい。気を付けてね!」

 瑠璃子と紗奈の背中を見送り、瑛史郎の隣まで来た。

「こんなつもりじゃなかったけどな。海パン持って来てないし」

「まぁまぁ、せっかく海まで来たんだし、瑠璃にいいところ見せて思い出作りたくてね」

「瑛史郎は泳げないんだから、無理するなよ?」

「馬鹿にするな、今日のために今月猛特訓してきたわ」

「お、じゃあお手並み拝見といきますか?」

「あのブイまででいいか?」

「マジかよ、大丈夫か?」

「あのブイは水深180㎝位らしいから大丈夫だ。それに、ここでお前に負けるわけにいかないんだ」

「そう言うの、嫌いじゃないぜ」

 二人で海を甘く見ていた。泳ぎ出してすぐに異変は起こった。すぐ20mほど先にあったブイが見えなくなった。まだ足が着くはずの位置なのに、波が上がると頭を越える。波は浜に向かっているはずなのに、背中から波を感じる。

 ————これは、離岸流か!

「瑛史郎! まずい、戻れ!」

 波に言葉の端々が遮られ、すぐ目の前にいるはずの瑛史郎に届かない。波に合わせて瑛史郎の頭がモグラたたきみたいに出入りしている。時折現れる両手を見る限り、泳いでいる様子はない。もともと泳げなかった瑛史郎が離岸流の中を一人で戻れるとは思えなかった。瑛史郎に向かって泳ぎ、その腕をつかもうと探したが、見失ってしまった。慌てて周囲を探してもどこにもいない。そうこうしているうちにみるみる浜から遠ざかり、ブイが僕と浜の間に見える。慌てて浜に泳ぎ出しても、全く進まず沖に流されていくのが分かった。水もずいぶんと飲んだ。一旦立ち泳ぎで気持ちを落ち着ける。

 ————このままだと、二人とも沈む。僕が死んだらどうなる。瑛史郎は、紗奈は、瑠璃子は、皆は……まゆは?——死ねない。まゆを残して、死ぬわけにはいかない!

 まゆのことを想ったら感覚が鋭くなった。離岸流の性質を思い出し、浜に水平に泳ぐと浜からの波は感じなくなった。それでもまだ水深は深く、返す波で沖に押し出される。必死に浜に向かって泳いでいると自分がどこにいるのかも分からない。沖から浜に流れている間に泳ぎ、波が返って来るときは海底にしがみついてやり過ごした。そうやって夢中で泳いでいたら、いつの間にか足が着いた。立ち上がると、水深は膝の辺りまでしかない。

 ————助かった・・・

 ひどくむせながら安堵をしていると、現実を思い出した。

 ————瑛史郎は・・・どこだ?

 はっと振り返ると、遠くで海に浮かんでいる瑛史郎が見えた。必死で腕を海面に叩きつけてもがいている。

「瑛史郎・・・・瑛史郎!」

 瑛史郎の姿を見ると急に足が軽くなり、さっきまで震えていたのが嘘の様に、あんなに怖かった海に向かって走った。今度は見失わない。瑛史郎を連れ戻す。遠くから瑠璃子の叫び声が聞こえた気がしたが、気にしなかった。

「瑛史郎!大丈夫か!」

 瑛史郎の元に泳ぎ着き腕を伸ばすと、ものすごい力で僕の体を引き込んできた。顔が海に沈んでは浮かぶを繰り返す。

「バカ!落ち着け!そんな力入れたら、二人共溺れるぞ」

 声が聞こえていないのか、瑛史郎は落ち着く気配が全くない。おそらく相手が僕であることすらも理解していない。

————このままじゃダメだ。助けられない!

 僕は必死で瑛史郎の腕をほどき、岸へ戻った。助けられなかったという事実が、海水より冷たく全身にまとわりつく。足は笑い、肺は焼けるようで、もうどこにも力が残っていなかった。

「正人!」

 瑠璃子と紗奈が僕に駆け寄って来た。

「よかった、正人帰って来た。大丈夫?」

「ああ、何とか」

「ねぇ、瑛ちゃんが・・・瑛ちゃんが溺れちゃうよぉ」

 瑠璃子が涙目で震えた声を出している。何とか、何とかしなければ・・・

「てっしー、ライフセイバーだ。磯山と二人で呼んできてくれ。俺は学校に連絡する」

「・・・うん。分かった、わかった!」

 瑠璃子は動揺しながらも力強く頷き、紗奈と一緒にライフセイバーを呼びに行った。僕は皆の荷物のところに戻って自分の鞄に手をかけた。瑛史郎の鞄が寂しそうに主を待っている。携帯を取り出し、電話帳から学校の電話番号を検索した。電話をかけると担任の高島先生が出た。取り乱していて何を言ったかは覚えていない。何度も何度も同じことを言っていた気がするから、きっと支離滅裂になって何も伝わっていなかったんだと思う。ただ、電話をしながら見つめていた瑛史郎の頭が海に消えて行った瞬間が、ずっと脳裏に焼き付いて離れない。


 19時。ライフセイバーが呼んだ警察の事情聴取を終え、僕は海の家に戻って来た。建物の前には紗奈と瑠璃子が座っている。瑠璃子が嗚咽しながら肩を震わせ、紗奈が背中をさすっていた。かける声もなく、頼りない足取りで海の家に入ると瑛史郎の両親が僕を出迎えた。会うのは初めてで誰だろうと思っていると、声をかけられた。

「あなたが、唐嶋さん、ですか?」

 知らない人に急に名前を呼ばれたが、不思議と嫌な気分にはならず、少し頭を下げながら素直に受け答えをした。

「はい。そうです」

「瑛史郎の、父です。あなたのことは毎日のように瑛史郎から聞いています。いつも、息子と仲良くしてくださって、本当にありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いします」

 そう言って、僕に向かって深々と頭を下げた。なんとも言えない、複雑な気持ちになった。この時は思わなかったが、きっとお父さんも自分に言い聞かせていたのかもしれない。

「ああ、瑛史郎の・・・いえ、とんでもないです」

 首を横に振りながら答えた。恥ずかしかった。瑛史郎は毎日親に話をするほど僕のことを想ってくれていた。そんな瑛史郎を、僕は止めなかった。救えなかった。『これからも・・・』という言葉が、僕の胸を強く握り締める。

その後沈黙に包まれた海の家に居づらくなり、外に出た。紗奈と瑠璃子とは少し距離を置いて浜の上に座り、視線を海に向けた。どこを見るでもなく、ぼーっと海を見つめた。月の光も届かない真っ暗な世界で、瑛史郎を求めるヘリコプターのライトだけが漆黒の海を照らし続けている。こんな寒そうな海に、まだ瑛史郎はいるのか・・・?まだこの海にいるとしたら、きっともう・・・

「唐嶋・・・」

 事情聴取の間に海に到着していた高島先生が声をかけてきた。

「先生・・・来てくれたんですね」

「ああ、もちろんだ。唐嶋も大変だったのに、連絡をくれてありがとう」

「いえ、俺は何もできませんでした。二人で一緒に流されたのに、一人だけで海から戻って来た。あいつを俺は、俺は見捨てた・・・」

 拳を震わせながら俯く僕にかける言葉を選んでいたのか、高島先生はただ僕の肩を叩いた。

「そんなことを言うな。まだ分からない。どこかに流れ着いたけどケガをして動けないだけかもしれない。希望を捨てるな」

「・・・はい。ありがとうございます」

 そう、言葉を振り絞った。自分を鼓舞するために絞り出したが、皮肉にもその言葉で心はまたえぐられた。


 瑛史郎はまだ見つかっていないが、20時にその日の捜索は終了した。それがどういうことなのか、口にはしなかったがそこにいた誰もが分かっていた。静寂の中誰かがすすり泣く声だけが辺りを包み、言葉を口にする者はなかった。瑠璃子と紗奈はそれぞれ親が車で迎えに来ていたため、車の近くまで行って二人を見送った。紗奈は終始呆然としていて、瑠璃子は目も当てられないほど泣いていた。母さんは車の運転ができないので誰も僕の迎えには来られず、高島先生に送ってもらうことになった。

 助手席に座り、走っている間ずっと窓の外を見た。海は反対側だったため見えなかったが、僕はずっと窓の外に広がる暗闇の中に海を見ていた。高島先生が気を遣ってしばらく話しかけてくれていたが、僕が何も反応できなかったので次第にそれも止み、タイヤがアスファルトの上を転がる音だけが、僕の不安を和らげるように繰り返し車内に響いていた。


 自宅に着き、高島先生と母さんが少しだけ話をしていた。すぐ隣にいたはずなのに、何を話していたかは分からない。話が終わって車に乗り込む高島先生に頭を下げ、本当にゆっくりと家に入った。玄関に荷物を置く僕の背中に、母さんが言葉を選びながら話しかける。

「正人・・・」

「・・・なに?」

 振り返らず、小さな声を絞り出した。

「お腹、すいた?」

「ああ・・・・すこし」

「ご飯用意するから、お風呂で温まってきなさい」

 そう言われると、急に寒気を感じた。当然だ。6時間以上ずっと体が濡れては乾いてを繰り返している。

「わかった。そうする」

 僕がそう言うと母さんはキッチンに向かった。僕に背中を向けたとたん、母さんが鼻をすすったのが分かった。お風呂には湯船が張られていたが、なんとなく怖くてシャワーをひねる。冷たい水が背中に当たったが、その刺激に対して体は何も反応しなかった。シャワーの落下点に頭を移動させ、下を向いて目を閉じた。少しずつ水が温かくなっていっても、涙は出なかった。

 お風呂を出て体を拭き、Tシャツと短パンをはいた。夏だったが少し寒かったのでパーカーも羽織った。味噌汁と白米、ハンバーグが食卓に並んでいる。無言で席に着き、何も言わず鼻の前で手を合わせ、味噌汁をすすった。ハンバーグを一口と甘く煮たニンジンを一切れ咀嚼し、箸の先に白米を乗せて口に運んだ。ここで満腹を感じた。

「ごちそうさま。のこして、ごめん」

「このまま残しておくから、またお腹が空いたら食べなさい」

「・・・わかった。もうへやにいくよ」

 そう言って席を立ち、黙って部屋に向かって廊下を歩いた。母さんも何も言ってこなかった。もしかしたら何か声をかけてくれていたかもしれないが、僕には届いていなかった。

 部屋に入り、電気もつけずにベッドに座った。こんなに疲れているのに、眠れる気配は一切ない。ふと携帯電話の画面を見るとメールが1通。まゆからだ。少し動きが早くなり、メールを開いた。夕方頃に来ている。よく見たら20時頃に何度か着信もあったみたいだ。

『————江ノ島、楽しかった?今度話聞かせてね!』

 それを見て固まった。何も知らない無邪気なまゆに、なんて返したらいいか分からなかった。悩んだが結局ストレートに返した。

『————瑛史郎が、海から帰って来なかった』

そう送信すると、電源ボタンを長押しして画面を消した。部屋の中は真っ暗になったが、窓の外を見ると月が出て夜を照らし、江ノ島の海と打って変わってとても明るい。そのまま辺りが白んでくるまでずっと、ただぼーっと夜空を見つめていた。眠っていたのか、ずっと起きていたのかすら分からない。ただ、何も考えられてはいなかった。


2002年8月30日。『運命の日』まで5年9か月と、19日。

 朝8時。この日はまだ夏休み中だったが、高校の登校日で皆は学校に行っている。本当だったら僕や瑛史郎も行っていたはずだが、高島先生に許可をもらって瑛史郎を迎えに江ノ島に来た。高島先生もホームルームが終わったら江ノ島に来てくれるらしい。東浜ではもう複数のダイバーが海に潜って捜索を始めている。今朝学校に電話した時に、今日の全校集会で瑛史郎のことを校長先生が皆に伝えると聞いた。瑛史郎を連れて帰って、心配かけてごめんって、皆に伝えたい。

あの海の家に着いてしばらくすると、紗奈と瑠璃子も来た。特に連絡を取って示し合わせたわけではないのに、考えることは一緒だった。少し離れたところに瑛史郎の両親もいる。

「あ、正人・・・」

「二人とも・・・」

「やっぱり、こっち来るよね」

「ああ。落ち着かなくて」

「そうだね・・・昨日は、ごめん」

「どうして謝るんだ?」

「皆大変だったのに、私だけずっと泣いていて・・・」

「それは仕方ないよ、てっしーが一番つらいだろ」

「ううん、そんなことはない。皆同じ。瑛ちゃん帰りを信じなきゃいけないのに、私はダメだった」

「いや、ダメなんかじゃない。ダメなのは俺の方だ。そもそも俺があいつと一緒になって・・・」

「ダメ!」

 僕が言いかけると、紗奈と瑠璃子が僕の口を手でふさいだ。

「正人、それだけは、絶対に言わないで・・・お願い」

 二人の手を振り払い、背中を向けて海の方を見た。納得がいかなかった。だって、僕があの時瑛史郎を止めていれば、海に入らず二人と一緒に上がっていれば、僕がもっと泳ぎがうまくて瑛史郎を連れ帰せていれば、自分で助けに戻らずにもっと早く助けを求めていれば、きっとこんなことには・・・

 それから三人は会話もせずに時間だけが過ぎて行った。お昼頃、高島先生がやって来て僕らに声をかけた。どうやら瑛史郎が「引き上げられた」らしい。「救出された」わけではないみたいだ。もう心のどこかで分かっていたことだが、いてもたってもいられなかった。引き上げられたのが江ノ島本島と聞いてすぐに走り出した。

 まゆと何度も笑顔で渡った江ノ島大橋を、歯を食いしばり泣きそうになりながら本気で走った。ヨットハーバーの船着き場に人だかりができている。がむしゃらに走り抜けたその先で、ぼろぼろに変わり果てた瑛史郎を見つけた。両眼から顎の先まで太く赤黒い血の筋がくっきりと残り、苦しんだ痕が刻まれていた。昨日僕に挨拶をしてくれた瑛史郎の父親が横たわる亡骸に顔を寄せ、名前を叫んで泣き崩れている。僕はその現実を直視できず、後ずさりして何も言わずその場を後にした。

 右手で額を押さえ、ふらつきながら江ノ島大橋まで戻って来た。あとから来た瑠璃子達とすれ違ったが、目を合わせるだけで何も言葉が出なかった。放心状態で橋の高欄に手をかけ、それを頼りにたどたどしく橋を進む。そのまま橋の真ん中まで来て、まぶしい陽の光を弾く海を見降ろした。穏やかに、大量の水を何度も押しては返す波の力強さに圧倒された。恐怖を感じて見続けることが出来ずに視線を上げると、今度は真っ青に晴れ渡った空が僕の胸を強く締め付ける。現実を受け入れられない僕をあざ笑うかの様に、それでも受け入れろと言わんばかりに、今までの瑛史郎との思い出が蘇ってきた。こういう時に限ってやけに鮮明に思い出せる。


———友達のいない僕に鬱陶しい程話しかけてきた。もう誰とも関わらず静かに過ごしたかったのに、うるさかった。

———僕の隣で馬鹿みたいに勝手に騒いで、僕も一緒に先生に怒られた。同類かと思われるから本当にやめてほしかった。

———親に心配かけて、家出したとか言いやがった。しかも甘えたことまで言っていたな。怒鳴り散らしてやった。何とか、立ち直ってほしい。

———僕と同じ高校に行きたいとか言い出した。せいぜい頑張れよ。先の未来を楽しみにするのは初めてだ。

———悩んだら瑛史郎を頼れとか言ってきた。相談しても適当なことしか言わないくせに。なんだか気持ちが軽くなった。

———瑛史郎が瑠璃子と付き合った。それから瑠璃子が毎日本当に楽しそうにしているのがよく分かる。瑛史郎にしては上出来だ。

———ずっと、僕のことを気にかけてくれていた。まゆのことも自分のことの様に一番に応援して、心配してくれた。瑛史郎の心配なんかなくてもうまくやっていける自信はあったけど、やっぱり嬉しかった。


 瑛史郎は、本当に最高の友達だった。仲間だった。親友だった。でも僕は救えなかった。あのとき伸ばされた手を、最後までつかみきれなかった。気づけば、大粒の涙が次々こぼれていた。声を上げて泣いていた。両腕には、瑛史郎の腕が離れた感覚がまだ残っている。どれだけ悔やんでも瑛史郎と未来は語れない。もう二度と、調子の良いあの笑顔は僕の前に現れない。

 僕の涙は橋から海に落ちて飲み込まれたが、海は何事もなかったかのようにいつも通り波を寄せては返していた。


 失意の中で、登校日に配られた書類を回収するために学校に帰って来た。別に今こんなことをしなくてもいいのだろうけど、何か目的を持って動いていないと自分を保てない気がした。校舎には生徒が誰もおらず、校庭やテニスコート、体育館や視聴覚室などで部活をしている人もいない。

 広すぎる教室に一人きり。真っ赤に燃える夕陽が広い窓から差し込み、整然と並んでいる机と椅子が仲良く同じ影を落としていた。その中にひときわ長い影が一つ紛れている。その影は人の形こそしているが、まるで異質な存在で、無垢な大勢の市民の中に潜む悪魔を表しているようだった。

 自分の机に残された書類を持ち上げると、机の中に見覚えのない紙がたくさん入っていることに気が付いた。それをゆっくり取り出してみると、全部クラスメイトからの手紙だった。高島先生が話したのか、僕が海で瑛史郎を助けに戻ったことを市民たちは知っていた。


『元気出せよ』

『瑛史郎はお前を恨んでないよ』

『事故だよ、誰のせいでもない』

『溺れている人を助けるなんて、簡単に出来ることじゃないよ。仕方がなかった』

『唐嶋君が助けに来てくれただけでも、黒澤君は嬉しかったと思うな』

 

 皆、僕を本気で心配して励まそうとしてくれている。その気持ちはしっかり伝わった。嬉しかったが、どれもこれも全て・・・



【お前は黒澤瑛史郎を救えなかった】

【お前のせいで黒澤瑛史郎は死んだ】



 と言われているようにしか受け取れなかった。僕は奥歯をかみしめながら目を閉じ、震える拳で手紙をまとめて握りつぶしてカバンに突っ込んだ。1枚零れ落ちて踏みつぶしたが、拾わずにそのまま教室を後にした。

 ふらふらと、いつもの数倍時間をかけて家に着くと、直ぐに部屋に入って扉を閉めた。きっと学校から瑛史郎の訃報は入っている。母親に、人殺しになった息子の顔なんか見せられない。

 ベッドの上に座り込み、窓の縁に体を預けて外を眺めた。夕陽も影を潜めはじめ、暗がりがいつもの景色を蝕んでいた。近所の小学生がまだ遊んでいるのか、楽しそうな声が窓を突き抜けて耳に届く。あいつと初めて出会ったのは中学生の頃だったが、きっと瑛史郎にもあんな頃があって、楽しい笑い声を上げながら大人になるのを楽しみにしていたのだろう。僕はそんな瑛史郎を死なせてしまった。その未来を奪ってしまった。もう、辛すぎて何も考えられない。瑛史郎はあんなに大切な存在だと思っていたのに、親友だと思っていたのに、その手をあんなに簡単に振り払えるなんて・・・手を離したらこうなるって分かっていたはずなのに、なんで離してしまったんだ・・・自分が信じられない。自分が許せない。・・・もう、すっかり疲れてしまった。

「俺なんて、いなくなった方が・・・」

 そうつぶやきながら、ふと携帯電話の電源を入れた。そういえば、昨日の夜に電源を切ってから一度も入れていなかった。電源が入ると、まゆからのメールが表示された。昨日僕が送ってからすぐの時間だ。

『————さっき、ニュースになってたよ。高校名が出てて男女4人組の男子生徒って言ってたからまさとなんじゃないかって思ってずっと怖かったけど、メールが来てホッとした。私、あなたの声が聴きたい。落ち着いたらでいいから、電話がほしい。あなたの帰りを、ずっと待ってる』

 そのメールを見た瞬間、声も出ず涙があふれてきた。……そうだ、思い出した。あの時、溺れそうになったあの瞬間、僕はまゆにまた会うために必死になって泳いで戻ってきた。あの時はそれ以外、何も考えられなかった。でも、いつの間にかそんなことも忘れていた。……会いたい。まゆに会いたい。今はただ、いつものまゆに会いたい。声が聴きたい。肌に触れたい。優しい想いを感じたい。気が付くと、電話からコール音が鳴っていた。

「まさと・・・」

 電話に出た時からまゆが泣いているのが分かった。

「まゆ・・・」

「よかった・・・声聴けた・・・本当に、良かった」

「ごめん、まゆ・・・ごめん」

 なぜか分からなかったが、自然と贖罪の言葉が真っ先に出た。

「ううん。今日もニュースで続報やってた。瑛史郎君のこと・・・。まさと、辛かったね。ごめんね、ホッとしたなんて言って。瑛史郎君が亡くなっちゃったのに・・・私、最低だね」

 ヒックヒックと高い音を出しながらまゆが言葉を並べる。

「でも、でもね、それでも、あなたが生きていてくれて、帰ってきてくれて、本当に、本当に良かった。・・・ニュース観てからずっと怖かったの。ごめんね。昨日私、どうかあなただけは無事でいてって、ずっと祈ってた。やっぱり私、最低だ。あなたの無事を知って、あなたの声が聴けて、本当にホッとしちゃったんだよぉお」

 まゆはそう絞り出すと、糸が切れたように声を上げて泣き出した。号泣しながら謝るまゆの声を聴いていたら、いてもたってもいられなくなった。力の抜けた右手から携帯が滑り落ち、ベッドの中に飛び込んだ。気が付くと、僕は玄関扉が壊れそうな勢いで家を飛び出し、まゆの家に向かって走り出していた。早く、1秒でも早くまゆに会いたい。いつもの駅までの道を全力で走った。

 辺りはすっかりと暗くなっていて、仕事を終えたのであろうスーツ姿がパラパラと港南台駅方面から歩いてくる。一度、足の疲れがあったからか角度の急な下り坂で転んだが、痛みなんか気にせずすぐに立ち上がってまた走り出した。今はただ、まゆに会いたい。

 まゆの家は、駅からベンチの前を通ると早い。角を曲がって路地に入ると、ベンチの前にまゆが立っていて、息が上がっていた。僕に気づいて腕を広げる。溢れる涙が増え、駆け寄ってまゆを抱きしめた。

「まゆ、会いたかった」

「わたしも、会いたかった」

 まゆも泣いている。

「俺、瑛史郎を助けられなかった。頑張ったんだけど、手を離してしまった。何もできなかった。俺がもっと、もっとうまく泳げていれば」

 まゆは僕の背中と後頭部を強く抱きしめる。しきりに首を振っていた。

「そんなことない」

「でも・・・でも!俺が手を振り払った。俺は、あいつを見捨てた」

「あなたは、ちゃんと帰って来たわ」

「そうだ。何もできずに、ただ逃げ帰って来た」

「違う!私たちのために帰ってきたのよ。それだけで救われる人がどれだけいることか。確かにあなたは、瑛史郎君を助けられなかったかもしれない。それでもあなたは、あなたの帰りを待つたくさんの人を救ったのよ!」

 まゆの言葉を聞いて、海の家で泣きじゃくる瑠璃子と、瑛史郎の傍で泣き崩れる両親の映像が蘇った。

「あなたは瑛史郎君を助けられなかったんじゃない。あなたの帰りを待っている人たちのところへ、生きて帰ってきたのよ。あなたが海から戻らなかったら、瑛史郎君と一緒に死んでしまっていたかもしれないじゃない!」

 まゆは泣きじゃくりながら気持ちを言葉に込めている。ただただ涙があふれてくる。

「それはただ、悲しむ人が増えるだけ。あなたまで死んだら私はどうなるの?まさママや、まさパパはどうしたらいいの?まさパパなんて、遠い外国であなたの訃報を聞くのよ!」

 あの日夕飯を作って一人で待っていた母親と、家族のことを想いながら一人海外で働く父親の顔がちらついた。涙が止まらない。

「何もできなかったなんて言わないで。あなたはちゃんと助けようとした。その上で、生きて帰ってきたの。あなたの帰りを待っていた人たちのところへ、ちゃんと帰ってきたんだよ。だから、そんな厳しい言葉でこれ以上あなたの心を傷つけないで・・・追い詰めないで。ただでさえあなたは今、これ以上ないくらいに傷ついているんだから」

「まゆ・・・まゆ」。

「瑛史郎君は、あなたの中で生きてるよ。ずっと、覚えていてあげよう。そのためにも、もう自分を責めないで。辛いなら、私が半分持つ。だから決して一人だなんて思わないで。私はずっと、あなたのそばにいるわ」

 もう、何も言うことはなかった。まゆの言葉で罪悪感と後悔が抜けるように消えていく。まゆはずっと僕の頭をさすっていた。それがまた涙を誘う。

「うぅっ・・・くわっ・・・」

 嗚咽が止まらない。まゆがぎゅっと僕を抱きしめる。



「うわぁぁぁぁあ!えぃしろぉぉぉぉぉぉお!」



 まゆの体をきつく抱きしめ、大きな声で叫んだ。まゆも、僕の声量に合わせて強く僕を抱きしめる。

「どうして、どうして瑛史郎がこんな目に!なんでお前が死んじまうんだ!ずっと一緒だと思っていたのに、もっともっと、お前と一緒にやりたいことがあるのに、話したいことがたくさんあったのに!なんでだぁ!何でだよぉぉぉお!」

 それまでは罪悪感と後悔に押し潰されそうになっていたが、このとき初めて瑛史郎がいなくなったと受け止めて泣いた。周りに誰かがいるかなんて、気にならなかった。まゆも何も言わず、ただ強く、静かに僕を抱きしめ続けてくれていた。


 ひとしきり泣いた後、二人でベンチに座った。まさかこんな気持ちでこのベンチに座ることになるなんて。

「まゆ。ありがとう」

「落ち着いた?」

「うん。変なこと言ってごめん」

「ううん。辛い思いをしたのはまさとだもの。何でも言っていいのよ」

「・・・まゆの言う通りだ。皆に心配かけた。母さんも何も言わなかったけど、ホッとしていたのかな」

「もちろんよ・・・あ、ほら、噂をすれば」

 まゆが携帯電話の画面を見せてきた。僕からの着信だ。まゆが通話ボタンを押し、耳に当てる。

「はい」

「———あぁ、真優ちゃん、うちの息子知らない?」

「はい。今私と一緒にいます」

「———ほんと?あぁよかった、急に家を飛び出したから心配で・・・」

「替わりますね」

 まゆはそう言って僕に電話を差し出した。

「・・・はい。まさママ、心配してるって」

 まゆから電話を受け取った。保留になっておらず、息切れをした母さんの息遣いが聞えてきた。もしかして、僕を探して・・・?

「・・・母さん」

「正人!よかった、真優ちゃんと一緒だったのね」

「ああ。ごめん、何も言わずに家を出て」

「あなたが一番辛かったんだから、何も気にしなくていいのよ。私が勝手に心配になっただけ」

 まゆと同じことを言っている。

「でも、俺がちゃんと声かけていれば心配しなかっただろ」

「自分に余裕がない時に私を気に掛けるのは10年早いわ。それよりも声、少しすっきりしたわね。真優ちゃんと話して落ち着いた?」

 このなんでもお見通しの感じも、ここまでくると頼もしくて仕方がない。本当に確信していなければ今の状況でそんなことは言えない。安心感で口角が上がる。

「ああ、もう大丈夫だ」

「今日は、帰って来るの?」

 まゆの方を見た。優しく微笑んでゆっくり頷く。

「今日は、まゆといるよ。もう少し話したい」

「真優ちゃんが大丈夫なら無理に家に帰るよりあんたにとってその方がいいわ。迷惑だけはかけないようにね」

「分かった」

「じゃあ、真優ちゃんに代わって」

 まゆに電話を渡した。まゆも安心しているのか、優しい笑みを浮かべている。そのまま電話に出て、「はい。はい。わかりました。おやすみなさい」と間を空けて答え、電話を切った。

「じゃあもう遅いし、うち行こうか」

「こんな時間に急に行っちゃって、本当に真衣さん達迷惑じゃないのか?」

「それは大丈夫。ニュースは皆で見ていたのよ。皆、あなたを心配しているわ。さっき家を出た時お姉ちゃんに『まさとに会って連れて来る!きっとお風呂とご飯まだだから、用意して待ってて!』って言ってきたの。お姉ちゃんもあなたが来るものだと思っているよ。まさとのことだから、ご飯まだでしょ?」

 今日は朝から何も食べていない。急に空腹を感じた。

「・・・俺って、そんなに分かりやすいか?これでも結構色々考えて行動しているつもりなんだけど、そんなに見透かされる?」

「世界で私だけの特殊能力ですからね」

「あれって、手を繋いでるときだけじゃなかったのか?」

「ちっちっち、もう3年も経ちますからね、私も成長しているのですよ。最近は電話越しに声聞くだけで分かる様になりました~。少しはまさママみたいになれて来ているかな?」

「こわ~」

「え~?そこは安心するところじゃないですかね?」

「まぁ、頼もしくはあるな」

 思わず笑みがこぼれた。まゆも涙の跡が残る笑顔を僕に向ける。

「・・・よかった」

「え?」

「笑顔に、なった」

 その言葉に、どれほどの想いが込められているのだろう。

「・・・ああ。ありがとう」

「・・・行こう。おいで」

 差し出されたまゆの手を取り、立ち上がろうとしたら、足に力が入らない。

「あれ・・・立てない」

 腰が抜けてしまっていた。

「ほら」

 まゆがそう言いながら僕を強く引っ張った。僕は立ち上がり、勢いで倒れそうになりまゆにもたれかかった。まゆはそのまま僕を抱きしめた。

「大丈夫だよ、私がいるから」

「・・・ありがとう」

「歩ける?」

「ああ、大丈夫だ」


まゆの家についた。家に入ると玄関で真衣さんが迎えてくれた。真実と真奈は部屋に行ったらしい。気を遣ってくれているのか。

「正人、いらっしゃい」

「真衣さん、こんな時間にごめん」

「ううん、何も言わないで。カレー食べる?」

「うん。お腹空いた」

「時間があまりなかったから、昨日の残りを温めたものになるけど」

「十分だよ。ありがとう」

 ダイニングに上がってテーブルに着くと、急にどっと疲れを感じた。


「まさと、まさと!」

 まゆに肩を揺らされハッと目が覚めた。どうやら、座りながらテーブルに肘をついて眠ってしまったようだ。前を向くと目の前にカレーの皿が置いてある。

「大丈夫?もう、休む?」

「ごめん。せっかくだし、これ食べたらにするよ」

 そう言ってカレーを一口含むとまた涙が込み上げてきた。それでも気にせずに、そのまま黙々とカレーを頬張った。体内の物量を保つかの様に、カレーを口に運ぶたび流れる涙の量が増える。カレーを食べ終えた後も、何も考えず、何も言わず、声も出ず、ただ涙を落とし続けていた。

 

 しばらくすると落ち着いたのか枯れたのか、涙は出なくなった。お風呂に入り、次泊まるときのためにと言っておいてあった自分のジャージを纏った。まさかこんな形で着ることになるとは。そのまままゆと一緒に2階に上がって部屋に入った。まゆはベッドに上がり、僕はすぐ下に敷いた布団に横になった。「おやすみ」と言い合って目を閉じたが、なかなか眠れない。色んな事が頭を巡り、海での出来事がフラッシュバックした。熱帯夜だったが強烈な寒気を感じ、体が小刻みに震える。

「まさと・・・?」

 まゆもまだ起きていた。僕の異変に気付いて声をかけてくれたのか。

「寒い」

「ごめん、起こした?大丈夫、心配いらない」

「違うの」

「え?」

「私が、寒いの」

「・・・大丈夫か?」

「大丈夫じゃない・・・こっちに来て」

 まゆの手が上から降りてきた。その綺麗な指先をつまむ。

「こっち、おいで」

身体を起こし、まゆに振り返ると、まゆがゆっくりとかけ布団を避けた。ゆっくりと、その隙間に体を横たえる。背中に腕を回し、まゆは僕の体を抱き寄せた。とても暖かかった。

「ぎゅっとして」

 まゆが優しく言葉を重ねる。僕もまゆの頭と背中に腕を回し、抱きしめた。

「あったかい・・・」

 その言葉には涙が混ざっていた。僕の腕の中でまゆの小さい肩が震えている。

「良かった・・・まさとが帰ってきてくれて、本当に良かった」

 何も言えなかった。静かに愛しい体を抱きしめる。いつの間にか震えはすっかり止まっていた。そのまま二人とも眠ってしまい、何事もなかったかの様に世界がいつもと同じ朝を迎える。


2002年8月31日。『運命の日』まで5年9か月と、18日。

 窓から差し込む日差しがまぶしく、目を覚ました。左足だけ膝を曲げ、右手をついて上半身を起こした。隣を見たらまゆはいなかった。窓から外を見ると、真上に太陽が見える。

「あんなに陽が高い・・・そんなに寝ていたのか」

 部屋のドアの上に付けられた鳩時計は、11時半を指していた。12時間以上は寝ている。一回も目を覚まさずにそんなに寝ていたことはなかった。きっと、まゆと一緒にいて安心したのもあるだろう。ベッドから足を下ろし目の前の小さいテーブルに目を向けると、スポーツドリンクとコップが置いてあった。そういえば、のどがカラカラだ。

「至れり尽くせり・・・ってやつか」

 ペットボトルのキャップを開け、コップに注ぎ、飲み干した。しばらくそこにあったのか冷えてはいなかったが、乾いた体には十分沁みた。ゆっくりと立ち上がって部屋を出て、階段を降りてダイニングに向かった。

「おはよう、正人。よく眠れた?」

 キッチンから真衣さんの声がした。背中でエプロンの紐を解きながら、優しい笑みを僕に向ける。

「うん、おかげ様で」

「そっか、良かった。コーヒーでも飲む?」

「ありがとう、貰おうかな。そういえば、まゆは?」

 ダイニングテーブルから椅子を引き出し、座りながら訊いた。

「なぁみぃと買い物」

「そうなんだ、相変わらずあの三人仲いいな。何買いに行ったの?」

「それがさ、聞いてよ。あの二人夏休みの宿題を今日までやってなくて、読書感想文を書くための本を買いに行ったのよ」

 真衣さんが爆笑しながらそう言った。僕も釣られて笑顔になった。

「今から?間に合うの?まぁ、あの二人らしいな」

「でしょ?全く、ずっと遊んでばっかりなんだから、あの二人は」

「中二が遊び以上に忙しいことなんかないからな。でも、なんだかんだ上手くやってるなら、いいんじゃないの?」

「何よその名言。あの二人は昔っからずる賢いのよ。いっそ間に合わなくてこってり怒られればいいのに、今回もうまくやって乗り切っちゃうんだろうねぇ、きっと」

 そんな話をしていたら、小さい頃のまゆのことが気になった。

「そういえば、まゆは小さい頃ってどんな感じだったの?」

「真優?」

「うん」

「・・・・・まぁいっか、今は誰もいないし。あんたに余計なこと言うとあの子怒るから、内緒ね」

「いいね、そう来なくちゃ」

 僕は座り直し、正面に座った真衣さんに体を向けた。淹れたてのコーヒーカップが二つ、二人の間に置かれる。

「多分、正人が想像している真優とは全くの別人よ」

「え、そうなの?明るくて快活で皆の中心で、ズバズバ色んなことを言うようなイメージだったけど」

「全っ然。あの子の小さい頃は引っ込み思案で、無口で、自分の感情を表に出すのが出来ないタイプだったわ。なんか喋っても声が小さくて聞こえなかったし、昔は正直私も苦手だったかも」

「へぇ、意外。感情を出すのが苦手とかなら分かるけど、出来ないって相当だな。って言うかそれほんとにまゆか?」

「今では本当に考えられないでしょ?私ともまともに会話出来ないくらいだったからね。学校でも友達はいなくて、近所の1コ上の仲の良いお姉ちゃんにいつも遊んでもらってたわ」

「こっちの中学に転入した時に最初友達がうまく出来てなかったのも、それが原因?」

「ああ、そんなこともあったわね。その頃には今みたいに明るくなってたから、あれはまた関係ないと思うわ。女子校特有のしがらみみたいなのもあったみたいね」

「こわ~」

「女は怖いのよ。覚えておきなさい」

 少し前かがみになり、眉間にしわを寄せた。

「もう知ってる」

「あはは、最高だわ、あんた」

 僕も釣られて笑う。

「まあ、真衣さんに言うのも変か」

「そう言われればそうね。私も一応女なんだけど?」

「真衣さん・・・というか佐藤家4姉妹はサバサバしてていい意味で女性っぽくないからいいよな」

「別に、皆何も考えてないだけよ」

「そんなことはないでしょ」

「それで、どこまで話したっけ?」

「女子校のしがらみ?」

「そうそう、あの時も正人がまゆに話してくれたんでしょ?」

「うん、あの時まゆ元気なかったし、出会ってからあんなに落ち込んでるまゆを見たのも初めてだったから、夢中で・・・でも、あの時は元気出してくれて嬉しかったなぁ」

「その時の話も、あの子何度もうちで話してたわ」

「そうなの?めっちゃ恥ずかしいじゃん」

「正人と会ってからのまゆは、本当に明るくなったわ。すんごくいい子」

「照れるね」

 そう言われて悪い気がするはずがない。ほほを人差し指で掻きながらごまかす。

「でも、昔は大人しかったと」

「そうそう。大人しすぎて、真優が小学生の頃お母さんがよく学校に呼ばれてたわ」

「大人しくて親が呼び出し?そんなことあるの?」

「うん、同級生の男子にからかわれて泣いて、何度か。私は詳しく知らないけど、あれはいじめみたいなもんだったと思うよ」

「そういうことかよ・・・最低だな」

 僕がしかめ面をすると、真衣さんがコーヒーをすすりながら優しく微笑んだ。

「やっぱり、あんたなんだね」

「え?」

「ううん、なんでもない」

「・・・なんだ?」

 真衣さんは少し僕と目を逸らし、直ぐに戻した。

「うちの両親のことは、真優から聞いたんだよね?」

「・・・ああ、1年半くらい前に聞いた。・・・ショックだったな」

「あっ、ごめん。今のあんたに、こんな話・・・」

「いや、気にしないで。俺はもう大丈夫だから」

「そう、わかったわ」

「・・・まゆのおかげだ」

「うん、そうね。正人の強さもね」

「そんなことはない」

「・・・続けるわ」

「よろしく」

「あの子はお父さんっ子だったから、あの時の真優は本当に見ていられなかった。長岡に移っても毎日の様に泣いて、ずっと一人でいて。連れ出すように皆で色んなところに出かけたけど、どこに出かけても上の空だったのよ」

「ショック・・・だよな。俺には想像もつかないや」

「こう見えて私も十分ショックだったんだけどね・・・あの子を見ていたら、私がしっかりしなきゃって嫌でも思ったわ」

「真衣さんもその時中学生でしょ?ほんとすごいわ。真衣さんがいたから、まゆは立ち直れたんじゃないかな?」

「それは違うわ」

「えっ?」

 あまりにも間髪入れずに否定してきて、僕は反射的に体をのけぞらせた。

「私は・・・いえ、あの時は真優の心の傷が深すぎて、誰も閉じこもったあの子を救えなかった。誰が何をしても、どんな言葉をかけても、悪魔に心を抜かれたかの様に生気がなかったの。感情を表に出さないし、たまに言葉を発しても氷の様に鋭かった。香菜子おばちゃんとも協力して、皆で真優がお父さんの後を追わないようにするのが精一杯だったわ」

「うそだろ・・・じゃあ、どうやって?まさか、閉じこもった状態であれって訳じゃないよね?」

「あはは!今の状態で閉じこもってるとか言い出したら、もう開放しちゃいけないわ」

 二人で笑い合った。大きな口を開けて笑う真衣さんの笑顔は、まゆとそっくりだ。

「それで、まゆはどうやって立ち直ったの?」

「・・・え?」

「・・・ん?」

「そんなこと・・・私からは言えません」

「はぁ?ここまで話しておいて?」

「言えない、言えない!ほんとに言えない」

「嘘だろ?本当に言わないつもり?こんなところまで姉妹で似るなよぉ、マジで!」

「いや、じゃあ私は知らなかったってことに・・・」

「もう遅いわ!」

 真衣さんはまたもや豪快に笑っている。僕も笑うしかなかった。

「ごめん、ごめん。でもいつか、正人には真優から必ず話すと思う。私からではなくて、あの子の言葉で聞いてあげて」

「ずる・・・そう言われたら、そうするしかないじゃん・・・」

「さすが真優が選んだ男、聞き分けが良いわ」

「なんかムカつく」

二人共笑顔で、終始穏やかな空気がダイニングに流れていた。今日は、瑛史郎の告別式だ。その後すぐに帰って来たゆぅなぁみぃの三人と少し話をして、僕は家に帰った。母さんにすっきりした元気な顔を見せ、制服に着替えてまた家を出た。


 紗奈、瑠璃子と合流し告別式に参列した。見慣れた瑛史郎の大きな笑顔が飾ってあり、もう一度瑛史郎の死を実感した。目の奥を刺す痛みと共に、瑛史郎としっかりお別れをした。告別式が終わると、親が迎えに来た紗奈を見送り、夕暮れの路地を瑠璃子と二人で歩いた。何気ない会話をしながら進むと、僕らは川辺にベンチを見つけた。瑠璃子が僕に体を向けながらそれを指さす。

「ねぇ、あそこで少し座って話さない?」

 僕はその誘いに静かに頷いた。三人掛けのベンチに、身体半分くらいの隙間を空けて瑠璃子と並んで座った。川の流れる音に加え、遊んでいる小学生の笑い声も聞こえてくる。二人の間に流れる沈黙を先に破ったのは僕だった。

「てっしー、大丈夫か?」

 目を向けると、瑠璃子は俯きながら微笑んでいた。

「何をもって大丈夫かにもよるけど・・・」

「まぁ、そうだよな・・・」

「とりあえずは、大丈夫」

「・・・そうか」

「・・・たくさん、笑わせてくれたね・・・瑛ちゃん」

「・・・そうだな、楽しかった」

「あの人、私と二人の時もずっと正人の話ばっかりしてたよ」

「そうなの?」

「うん、妬いちゃうくらい」

「なんだよそれ」

「だって、私の話聞いてほしい時でもお構いなしなんだもん」

「バカだな、あいつ・・・」

「でも、嬉しかったな」

「え?・・・どうして?」

「正人は私にとって初めての男の子の友達。それまで男子は苦手だったけど、正人は話しやすくて、一緒にいると落ち着けて、頼りになって、自慢の友達」

「そう・・・か?」

「そう。だから、そんな正人の話も、私は楽しく聞いていたの」

「・・・どんなこと話してたんだ?」

「瑛ちゃんが正人と初めて会った時のこととか、怒られた時のこととか、二人で遊びに行った時のこととか。おんなじ話も何度だって聞いたわ」

「・・・そっか」

 その言葉に誘われ、僕も昔を思い出していた。

「瑛ちゃん、本当に正人のことが大好きだったんだよ」

「ああ、鬱陶しいくらいにな」

「正人はずっと私のこと気にしてくれているけど・・・正人も、よっぽど辛いんじゃないの?私よりずっと付き合い長いし」

 少し言葉に詰まった。通り抜ける風が嫌に心地いい。

「・・・正直、おとといと昨日は本当にしんどかった。俺が見殺しにしたって、助けられなかったって、ずっと自分を責め続けて、疲れすぎて、もういっそ死んでしまおうかとも思った」

「・・・それは、嫌」

「でも、もう大丈夫。全部受け止めてもらった」

「真優さん・・・に?」

「・・・ああ」

 静かに、しっかりと頷いた。

「・・・なんて、言われたの?」

「それは・・・内緒だ」

「そうだよね、聞いてごめん」

「謝ることじゃない。話せなくてごめん」

「・・・何よ、それ」

 瑠璃子が小さく笑みを浮かべる。その横顔を見て少しほっとした。

「てっしー、変わったよな」

「ええ?どうしたの?急に」

「中学入ってすぐの頃は、おとなしいと言うか、いつも何かにビクビクしていて、周りの機嫌をうかがうような、そんな感じだった。俺も正直話しかけにくかったよ」

「うん、そうだったかも」

「中2くらいからかな?よく笑うようになった。それから高校入るまでクラスは一緒にならなかったけど、よく話すようになって・・・瑛史郎と付き合ってからは毎日楽しそうにしていて、嬉しかったな」

「・・・うん、そうだね」

 瑠璃子は鼻をすすりながら答える。

「・・・心の整理は難しいかもしれない。でも、てっしーにはこれからも笑っていてほしい。無理して作った笑顔じゃなくて、心から笑って。あいつのことを、ずっと忘れないでいてほしい」

 そう言うと瑠璃子が固まった。何かを堪えているように、ぎこちなく答える。

「正人、ほんの少しでいいから、胸借りていい?真優さんにはちゃんと謝るから」

「・・・気にするな。まゆもきっと分かってくれる」

 瑠璃子が僕のすぐ隣に座り直し、僕の胸に顔を押し付け、泣いた。僕のブレザーの裾と袖を強く握り締め、普段からは想像も出来ないくらいに大きな声を出していた。その華奢な肩に手を添え、今にも消えてしまいそうな小さい体を支えた。もう泣かないと思っていたが、瑠璃子の泣き声が僕の涙を誘った。

 僕らは、瑛史郎の死をゆっくりと、そしてしっかりと受け入れて行った。僕はまゆの言葉で立ち直り支えられ、今度は僕が瑠璃子を支えられた。こうやって人は繋がって、弱さを認め合いながら生きていくのだろう。



2002年9月7日。『運命の日』まで5年9か月と、12日。

 瑛史郎のいない新学期が始まって一週間が経った。始業式当日こそ皆悲しい感情を隠しきれていなかったが、瑛史郎と交流があまりなかった人たちから次第に日常が戻って来た。僕らにも徐々に笑顔が戻り、瑛史郎の席を囲んでクラスメイトが談笑していた。少し寂しい気持ちもあったが、きっとこれでよかった。皆で、前を向いて歩んでいきたい。

 この日はまゆが所属する吹奏楽部の演奏会の日だった。朝10時半に文化会館に着き、会場の椅子に腰かけた。500人ほど入る大きな会場だったが、僕の席が前の方だったためステージはそんなに遠く感じなかった。友達の演奏を聴きに来たのかまゆと同じ制服を着た人であふれていたが、親らしき大人と幼い子供も混じっていた。皆楽しそうに笑顔で会話している様子が聞こえて来る。その喧噪のなか、僕は静かに座って開演を待っていた。ここには真衣さん、真奈、真実も来ているらしい。合流してもよかったのだが、なんだか今日は一人で聴きたい気分だった。

 11時。場内が暗くなってステージにスポットライトが当たった。観客の拍手に迎えられ、まゆたちがそれぞれの楽器を携え次々と入場してくる。大きい楽器を担当する人は、手ぶらだ。たくさんの人が入場してきたが、すぐにまゆを見つけた。まゆも僕に気が付き少し口角が上がる。こんなに暗くてもこちらが見えるものなのだろうか。全員が席に着いて少しの静けさの後演奏が始まり、クラシックの厳格な音楽が流れ始めた。まゆがホルンを吹く姿は初めて見るが、とても真剣で、綺麗で、穏やかな横顔だった。終始楽しそうに演奏している。


 コンサートも佳境に近づき、最後の曲はパッヘルベルのカノンだった。まゆ達のホルンから始まり、オーボエ、アルトサックス、クラリネットが続く。フルートやトランペットに、ピッコロ、バイオリン、コントラバス、チェロなど小節を経るごとにだんだんと多くの音が絡み合い、まるで生きているような合奏に成長した。その存在感に鳥肌が立ち、心が震え、永遠に続きそうな美しい旋律に僕は引き込まれた。一段階音に重みが増したその瞬間、急に目の前に広がる景色が褪せ、遠のいていく感覚に襲われた。カノンの演奏もボリュームが下がり、演奏の隙間から瑛史郎の声が頭に響いてくる。


————正人、今までありがとう。初めてお前を見た時は不愛想で、話しかけても素っ気なくて、常に人を遠ざけようとしてとっつきにくかったけど、絶対にいいやつだって俺は思ったぜ。俺の見る目に狂いはなかったな。

————それから永いこと一緒にいて、楽しいことやバカみたいなこともたくさんして、お前にはいつも助けられていた。お前が居なかったら、人生はこんなに楽しいものだって気が付かなかっただろうな。こんな俺とずっと付き合ってくれて、ありがとう。

————海で助けに来てくれた時は正直、お前は来るんじゃねぇ!って思ったけど、やっぱり嬉しかった。お前が巻き込まれなくて本当に良かったよ。辛い思いをさせてすまなかった。俺がお前の立場だったら、耐えられるかどうかは分からない。

————まだまだ一緒にやりたいことがたくさんあったけど、それが出来なくなってしまって本当に申し訳ない。お前は俺の分まで生きてくれ。お前ならきっと、将来デカいことをやってくれるって信じてるぜ。

————それから、彼女を大事にしろよ。俺以上にお前を信じてくれていて、本当の意味でお前の支えになれる、お前が幸せになるために必要不可欠な存在だ。何があっても絶対に手を離すな。約束だぜ。

————あんまり湿っぽい顔をするな。全くお前らしくない。真剣な顔で『夢がある』と言い切って見せたお前の邪魔にはなりたくないから、俺のことは気にせずお前は前を向け。俺の分まで彼女と一緒に幸せになれ。ずっと、見守っていてやるからよ。

————じゃあな、相棒。お前と出会えて本当に良かったよ。お前は最高の友達だぜ。元気でな。

 

 瑛史郎が、最後の別れを言いに来た。僕はそう受け取った。あいつに伝えたいことが山ほどあったはずなのに、何も思い浮かばずただ涙があふれ、懸命にホルンを吹くまゆを見つめることしかできなかった。何度拭っても涙は止まる気配はない。まゆはそんな僕に気づき、何かを察したように瞳だけで優しい笑みを浮かべた。


 パッヘルベルのカノンは総勢72名の若いオーケストラによって壮大に奏でられ、すんなりと聴く人の心に沁み込んでいく。クライマックスでは全員が同じ動作で体を揺らしながら会場全体を圧倒し、荘厳な音を指揮者が制止したその瞬間、鼓膜が震えるほどの静寂が辺りを包んだ。高校生のものとは思えないその演奏は、息をのむような余韻を聴衆に残し、完成した。何拍か空いた後、観客全員が譜面でも持っているかのように一斉にスタンディングオベーションが起こり、拍手と歓声が演者たちを包み込む。僕は一人座ったまま涙を流し、膝にホルンを置いたまゆの姿をじっと見つめた。まゆも、聴衆にお辞儀をするオーケストラを横目に僕をずっと見つめている。唇を震わせながら頬に涙を流し、泣き顔で優しい笑顔を浮かべていた。僕の涙もまた頬を伝い、それを見たまゆは力強く頷いた。ずっと会場を止まない拍手が包んでいたが、僕とまゆの二人だけ別の空間にいるようだった。


 親友の瑛史郎はいなくなってしまったけれど、僕にはまゆがいる。まゆがいれば、この先どんなことがあっても、きっと生きていける。まっすぐ僕を見つめ返すその瞳を見れば、そう信じるのに言葉は要らなかった。これからもずっと、まゆと一緒に生きていきたい。支え合って歩いていきたい。そう強く願った。それを愛と呼ぶなら、そのとき僕は、確かにまゆを愛した。

涙は、弱さの証じゃない。

誰かを想い、誰かのために心を削った証だ。


正人が流した涙は、

真優にとっては、ただの悲しみではなく、

“この人を支えたい”という想いを強くする光だった。


ともに悲劇を乗り越え、二人は未来につながる確かなものを手に入れた

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