光が世界を動かしたとき
静かな朝の光が、まだ誰もいない世界をゆっくりと照らしていく。
その光は、昨日までの痛みも、今日からの不安も、
すべてを包み込むように淡く揺れていた。
人は、喪失を抱えたまま生きていく。
それでも、どこかで必ず誰かの光に触れ、
もう一度歩き出す力を思い出す。
この物語は、そんな“光をまた探し始める瞬間”から始まる。
まさとがまだ知らない未来と、
まゆがまだ叶えていない想いが、
静かに交差する場所から。
ここから始まるのは、
光と影を往復しながら、
喪失を超えて永遠へ向かう物語。
第0章 プロローグ
2009年6月19日 『運命の日』から1年。
梅雨入りして間もないが、その日の和歌山は晴れていた。空は透き通るほどに真っ青で、きれいに整えられた植木とのコントラストが胸を締め付ける。小鳥の声と風に揺れる木の葉の音が、不自然に心地いい。誰もいない墓地で一人きり、佐藤家の年季の入った墓の前に立った。彫られてから1年の、一人だけ真新しい名前に未だ実感が沸かない。ひとしきり墓石を拭き上げた後、花を供え、手を合わせて目を閉じた。
まだ彼女の笑顔がこの目に、香りが鼻に、ぬくもりが胸に、言葉が心に残っている。今でも、背中から風に紛れて僕を呼ぶ声が聞こえてきそうだ。彼女のことを忘れられずに苦しんだ日々も続いたが、それも今日、ここで終わる。
終わるというのは、忘れることじゃない。たとえこの先どれだけ歳月が流れても、僕は彼女のことを忘れることはないだろう。忘れないからこそ生きていくのだと、今でははっきりと分かる。今日はあの手紙の返事を伝え、けじめをつけるためにここに来た。
第一章 奇蹟
1999年4月19日 『運命の日』まで9年2か月。
3月の春期講習で一度聞いたはずの授業を、数学の渡辺先生は今日も寸分違わず繰り返していた。問題も答えも、口調も間の取り方も、まるで録音を流しているみたいに同じだった。先月もこの教室で同じ時間を過ごした顔が並んでいるのに、皆は律儀にノートを取っている。どうも気持ちが悪く、僕だけがその光景から置いていかれたような感覚が離れない。4階の窓の外を見れば、港南台駅から出てくる人たちがよく見える。時刻は19時。ちょうどサラリーマンの帰宅時間で、足早に交差点を歩く姿がたくさん、小さく見えた。
————疲れるのに、どうしてそんなに急いで渡る必要があるんだ。
そんなことを考えていたら、授業を聞いていないことが渡辺先生にばれた。一番後ろの席の一番窓際なのに、なんてめざとい。
「唐嶋、聞いているか」
「はい、聞いています」
僕は視線を教室の前に向けて答えた。
「頬杖つきながら外を見ているようにここからは見えたぞ」
「それは僕の前に座っている黒澤君です」
そう言うと瑛史郎は振り返り、口パクで何かを言っていた。読唇術は全く身につけていなかったが、「お前ふざけんな」と心に響いた。瑛史郎の困り顔に指を指しながらにやけ顔をして無言で返事をしてやった。
「はぁ、お前学校でも先生に対してそんな態度なのか?」
「これでも、結構気に入られている方だと思っています」
「お前成績はいいんだから、そんなので内申点落としたらもったいないぞ」
「はーい、気をつけまーす」
「全く。じゃあ、あいつに当ててもつまらないから、唐嶋と同じく授業を聞いてなかった黒澤。この問題解いてみろ」
「うわ、まじかよ、とばっちりじゃん」
瑛史郎は狼狽して大声を上げた。本当に聞いていなかったらしい。僕はそのやり取りを片耳だけに入れながら、また窓の外へ目を戻した。たった13年しか生きていないくせに、世界は妙に窮屈で、背景が灰色に霞んで見えていた。
授業後、帰り支度をしようとする僕に瑛史郎が振り返った。
「正人、お前ふざけんな、なんで授業聞いてないことなべセンにばらしたんだよ」
「ばらすも何も、マジで聞いていないとは思ってなかったよ。だいたいとばっちりってなんだよ。聞いてないなら自業自得だろう」
「俺もお前も悩める中二。考えなきゃいけないことが多すぎて授業なんて真面目に聞いていられないぜ」
ぐっと腕を組み、天井を仰ぎながら冗談っぽく言いだした。その悪戯なしぐさに少し腹が立った。
「お前と一緒にするな。そして親に授業料返せ。それにお前も春期講習出ていただろ。なんであんな問題解けないんだよ」
「お前の頭と一緒にするな」
「どうせ春期講習も聞いてなかったんだろ。悪いのは頭じゃなくて耳だな」
「相変わらずきっついねぇ。お前はいろいろと考えすぎなんだよ。もう少し頭空っぽにしないと、すぐ老けるぜ」
「うるせえ、お前が考えなさすぎなんだよ」
言い合っているようで、互いが互いを分かっているからこそのやり取り。二人は笑顔だった。
「でも、ま、俺はそんなお前が嫌いじゃないぜ。じゃあ俺帰るわ。また明後日英語でな」
「ああ、じゃあな」
瑛史郎はそう言って跳ねるように教室を出ていった。背負ったカバンの口は開きっぱなしで、歩くたびにパタパタとうるさい音を立てている。持ち主に似て騒がしい。僕は苦笑しながら帰り支度を始めたが、瑛史郎との問答のせいで出遅れてしまい、気づけば教室には僕ともう一人しか残っていなかった。名前も知らない、話したこともない女の子だった。声をかける理由もない。僕の人間関係は、もうこれ以上変わらなくていい。そう思って何も言わず横を通り過ぎようとした、そのときだった。
「ねぇ!」
教室に響く声に思わず振り返ると、5メートルは離れていると思っていた彼女は、いつの間にかすぐ目の前まで来ていた。15センチ低い身長から、まっすぐ僕の顔をのぞき込んでいる。白いブラウスに紺色のジャンパースカート。腰の帯が細い身体を引き締め、顔の輪郭に沿った黒いミディアムボブが、小さなあごの下で静かに揺れていた。学生カバンを腰の後ろに回した両手でぶら下げながら、彼女はまっすぐ立って僕を見つめている。あまりに急で、あまりに近くて、僕は一瞬言葉を失った。
「な、なに?」
僕は戸惑いながら半歩下がり、聞き返した。
「あなた、からしま君。でしょ?」
右手は後ろでカバンを下げたまま、左手の人差し指で僕を指さしながら彼女はそう言った。距離が近くて、そのきれいな指先が鼻に当たりそうだった。その先で、二重瞼のはっきりした瞳が僕の顔をまっすぐ見つめている。
「そうだけど。ごめん、授業中うるさかった?」
左手をカバンが下がった右肩に当てながらまた少し身を引いた。
「授業中?・・・ああ、さっきの?ううん、ああいうの、楽しくて私好きだから大丈夫」
彼女が首を横に振ると、靡いた髪からふんわりいい香りがした。
「そ、そうか。なら良かった」
「ねぇ、そんなことより、あなたの下の名前、教えてよ」
少し足を広げて立ち直し、両手を腰に置きながら上目遣いで見上げてきた。吸い込まれそうな大きな瞳の目力は強く、こんな小柄な子に圧倒されていることに、僕は戸惑いを隠せなかった。
「瑛史郎がいつも下の名前で呼んでいるけど、聞いてないの?」
別に名前を言うのが嫌だったわけではなかったが、なぜか素直になれずに強がった。
「瑛史郎って?誰?」
本当に誰のことか分からないのか、少しみけんにしわを寄せながら目をそらして右手の人差し指をあごに当てるしぐさをした。
「えっと、黒澤君。黒澤瑛史郎」
そう言うと誰のことか分かったのか、パッと表情が明るくなり、あごに当てていた指を伸ばし天井に向けた。
「ああ、あなたと仲のいいあの人ね!彼、声は大きいけど、席が離れてるから、そこまではっきり聞こえないよ。それに私は、あなたの名前を、あなたの口から直接聞きたいの」
彼女はそう言い切って、上目遣いでまっすぐ僕を見た。ここまで言われると、名前を言うのを避けようとしていた自分が少し恥ずかしくなった。
「名前はまさと。からしままさと。漢字は正しい人って言うのが多分一番伝わりやすいけど、自分でそんなこと言うのは嫌だから正直な人って言うようにしている」
「ふふ、何それ、面白いね」
この時初めて、彼女の笑顔を見た。目を閉じて笑う彼女の顔は、見ている方も幸せになれる様な明るい笑顔だった。
「いい名前。呼びやすい!じゃあこれからは、まさとって呼ぶね!」
自分の名前はあまり好きじゃなかったけれど、こんな明るい声でそう言われると、素直にうれしかった。気づけば会話の流れはすっかり彼女のものになっていて、僕はただその勢いに巻き込まれていた。
「そうだ、まだ私の名前教えてなかったね。私はまゆ。さとう まゆだよ。よろしく!」
まゆはまた僕を指さしながらにこっと笑みを見せた。
「ああ、よろしく・・・?」
「よろしくね!じゃあ、とりあえず・・・」
「とりあえず?」
「今日は帰ろう。もう8時になっちゃう。」
「あ、ああ、そうだな。下に降りようか」
「うん!降りよう降りよう♪一緒に降りよう♪」
そう言って教室を出ると、廊下を二人で歩いた。彼女が「先生さようなら~」と声をかけ、僕はそれに合わせて会釈をした。少しぎこちなかった。
「そういえば、英語のクラスは?」
「私はC。まさともCでしょ?」
「なんで知っているの?」
「へっへ~、秘密」
「なんだよそれ」
「女の子は秘密がいっぱいなのさ」
「はいはい」
まゆは常に僕の前を歩き、階段を降りる時も体をこちらに向けながら話をつづけた。途中で転びそうになったこともあったが、無邪気に振る舞う彼女と話をするのは楽しかった。そのまま建物の外に出た。
「まさと、帰りは上?下?」
港南台駅は長い坂の途中にあり、帰りが上りか下りかを聞いているということはすぐに理解できた。
「上。家上郷だから」
「え~~~!上なの?」
急に大きな声をだし、がっかりしたようなしぐさを見せた。
「全然一緒に歩いて帰れないなんて・・・。授業終わってから帰るまでのほんとにちょっとしか話せないじゃない、せっかく話せるようになったのに・・・」
こんなふうに自分の気持ちを隠さず口にする人に僕は今まで会ったことがなかった。戸惑いはあったけど不思議と嫌な気持ちにはならず、むしろうれしかった。教室で声をかけられたときに感じた圧倒されるような距離の近さは僕の中からもう消えていて、気づけば彼女の笑顔につられて僕も笑っていた。こんな風に自然な笑顔になったのは、いつぶりだろう。
「じゃあ、これからは授業終わったら少し話してから帰ろうか。瑛史郎はいつもすぐ帰っちまうし」
「お、うれしいこと言ってくれるじゃん!そうしようそうしよう」
「国社理のクラスは?」
「私は全部Cだよ」
「あ、俺理科だけDだ」
「裏切り者!」
「なんでだよ」
「あ、でも理科のDって曜日一緒で終わりCより10分早いよね?」
「そう、だったかな」
「終わるの、待っていて、くれるよね?」
「・・・断る」
「えぇ?なんでよ!」
「そもそも待つってどこで?教室に一人で待っていたら先生に追い出されるよ」
「う~ん、じゃあ・・・あそこの、駅の駐輪場裏にある木のベンチは?」
そう言って駐輪場を指さしながらこちらを振り向いたまゆの顔は、満面の笑顔だった。
「ねぇ、いいでしょ?」
「・・・分かった。気が向いたらな」
「へへ、ありがと。気が向きますよ~に」
まゆは催眠術でもかけるみたいに、僕の顔の前で人差し指をくるくる回した。その先でにやける彼女が、とてもかわいく見えた。
「じゃあ、また明後日英語でね」
「ああ、気を付けて」
僕らはお互い小さく手を振って背中を向け、歩き出した。空を見上げたら丸くてきれいな月が僕らを見下ろしていた。少し歩いたらまたまゆの大きな声が後ろから僕を呼び止める。
「まさと~!」
振り返ると、今度は少し離れたところで彼女が大きく手を振っていた。
「今日はありがとう!またね!」
僕は小さく手を挙げて応え、もう一度だけ振り返った。なんとなく、退屈に感じていた毎日がこれから変わっていくような予感がした。
1999年4月20日。『運命の日』まで9年1か月と、29日
昨日はあんな唐突な出会いがあったとは思えないほどいつも通りの朝だった。いつもと同じ時間に起きて、同じペースで支度をして、同じ時間に家を出て、同じ時間に学校についた。皆も同じようにいつも通りの朝を過ごしたのか、毎日同じ場所で同じ人とすれ違う。まるで、毎日同じ日を永遠に繰り返しているかのように。そして教室に入っても、いつもと同じやり取りが僕を待っている。
「おはよう、正人」
紗奈だ。中一の時から同じクラスで、何度席替えをしても毎回隣の席になっていた腐れ縁だ。中二になって最初の席も隣だった。と言っても、紗奈はさばさばとした性格をしていて僕と何かと気が合うので、一緒に話をするのは好きだった。僕はほとんど、学校では紗奈としか話さない。彼女は僕の席の方に体を向け、足を組んでいる。
「相変わらず学校来るの早いな、磯山」
カバンを机の上に下ろしながら椅子をひき、紗奈の方に顔を向けながら座った。
「毎日同じ時間に起きて、同じ時間に家を出ているからね。今日も私はいつも通りの時間に着きました、とさ」
紗奈は足組みを崩して膝を畳みながら教室の前に体を向き直し、けだるそうに言った。手鏡を片手に髪の毛をいじっているので、僕とは目が合わない。
「なんか、そのセリフ初めて聞いた気がしないな」
「私たち毎朝同じようなやりとりをしているから、同じ話をしたことでもあるんでしょう。私は覚えてないけど」
手鏡をパタンと片手で畳みながら顔を僕に向ける。
「ところであんた・・・」
紗奈が僕の顔をのぞき込む。こいつは本当に人の話を聞かない。まあ、聞かなくてもいい話ではあったが。
「なんだよ?」
僕は紗奈に顔を向けずに視線だけ向け、カバンの中身を机に突っ込みながらに訊いた。
「なんかいいことでもあった?いつもよりいい顔している。まあ、いつも人生終わったみたいな顔してるんだけど」
「はぁ?なんだよそれ?」
突飛な言葉に、あきれた顔を紗奈に向けた。
「へぇ~、とぼけるんだ」
「相変わらずお前は面倒くさいな」
「ま、言いたくなったら聞いてあげるから、いつでもお姉さんに言いなさいよ」
「やかましい。やっぱり面倒だな」
「そういえば、あんたさ・・・」
紗奈は話し始めると止まらない。そしてやっぱり人の話を聞かない。
「今度はなんだ?」
「また、榊原に喧嘩売ったの?」
榊原は、全校生徒誰もが名前を知っている不良で、自分が気に食わない人がいると殴りかかったり、女子の髪をつかんで振り回すような最低な奴だった。カツアゲをしたり、弱い人を脅して親からお金を借りてこさせて奪ったり、絵に描いたような不良だったが、親が市の職員に顔が利き、市立中学の教員は見て見ぬふりをしていたためやりたい放題だった。やっぱり絵に描いたような不良だ。
「なんだよ?急に変なこと・・・」
少し俯きながらそう言い返しはしたが、心当たりはあった。
「さっき廊下歩いてたら、外であんたの名前を叫びながらムカつくって言っていたのが聞えてきたからさ。なんかやったの?」
「・・・別に売ってない。1年生からカツアゲしようとしていたから止めただけだ」
「殴ったの?」
「1回殴られそうになったから、その時に少しだけ」
「あんたねぇ、いつか本当に痛い目に合うよ?」
「あいつは卑怯なだけだから、やり返す度胸なんてありはしない。それにだからって、放っておくわけにはいかないだろ。4人で寄ってたかって年下から金を奪うとか、最低だ。」
「あんたが言っていることが正しいのはわかっているけど、これでもあんたを心配しているのよ?」
「・・・それは、わかってる。悪いと思っているよ」
机の上に両手で拳を作り、紗奈の話を聞いていた。紗奈は少し声のトーンを落としてつづけた。
「それに言いたくはないけど、そういう奴ってあんたのいないところでも同じことしているのよ。あんたのおかげで助かる人がいるのは事実だけど、キリがないよ。あんたがいらない恨みを買うだけ」
紗奈は息つく間もなく続けた。
「葵から聞いたけど、あんた小学生の時からからいじめっ子に喧嘩売っていたんだって?皆あんたの良いところは知っているけど、仲良くしたらいじめるやつに目つけられるって、怖がっているんだってさ」
そう言う紗奈は終始真顔で、真剣に話しているのが伝わってくる。僕は何も言い返せなかった。紗奈の言いたいことは痛いほど理解している。顔をうつむく僕の返事を待たず、彼女はつづけた。
「虐められているやつを助けても、あんたとつるんだらただじゃおかないって、ちょっと脅されただけでお礼を言いにも来ない。そんな奴ら、もう放っておきなよ。こんなこと続けていたら、あんたの周りが敵ばかりになっちゃうよ・・・」
紗奈が少し寂し気な表情を浮かべた。
「それも分かっている。でも・・・」
僕が言葉を詰まらせると、補足する様に紗奈が言った。
「放っておけない、でしょ?もう一年も毎日のように会っていたら嫌でもあんたのこと分かってきたわ。本当にしょうがないくらい馬鹿なんだから!」
紗奈は鬱憤が溜まっていたかの様に止まらずに話し続けた。怒っているのは伝わった。ただ、紗奈がどんな気持ちで言っていたかを知るには、僕は幼すぎた。
「なあ、磯山は俺にどうしてほしいんだ?どうして、皆が避ける俺に構うんだ?」
少しうつむき加減に聞いた。その瞬間紗奈が静かになった。返事を求めて紗奈の方に目を向けると、呆れた顔をして小さく口を空けたまましばらく固まっていた。
「・・・はぁ?バッカじゃないの?そんなの知らないわよ!勝手にすれば!」
その日はそれから、一度も紗奈は口をきいてくれなかった。
1999年4月21日 『運命の日』まで9年1か月と、28日
今日も紗奈は口をきいてくれなかった。彼女の言いたいことは分かるけど、いじめを見つけると放っておけない。でもそれを止めると、紗奈の言う通り自分が悪者になって孤独になっていく。どうしたらいいか、まったく分からなかった。
「よう、正人!今日もあんまりテンション高くないな!」
塾へ向かう途中、駅前で瑛史郎に笑顔で声をかけられた。落ち込んでいたつもりはなかったが、瑛史郎は何かを見抜いていたのだろうか。なんだか少しほっとした。
「相変わらず挨拶のバリエーションが豊富だな。初めて言われたわ、そんなこと」
「まぁ、鍛え方が違うものでね」
瑛史郎は右の二の腕をポンポンとたたきながらにやけ顔を向けてきた。力こぶなんてないくせに。
「褒めてねぇよ。鍛えるってなんだ?腕ぷよぷよじゃねぇか。そもそも瑛史郎じゃないんだから、1人でいる時はそんなにテンション上げられないだろ。突っ込み所多すぎて疲れるわ」
「楽しいだろ?クセになるだろ?」
「うぜぇけど、楽しいのは確かだわ。でもクセにはならん」
「まじか~、なんだよぉ。俺はお前とのやり取り、クセになっているけどな!」
「気持ち悪ぃな、お前」
いつも通り、瑛史郎と笑いながら駅前で合流し、交差点を渡り、塾の建物に入った。生徒には使用禁止されていたエレベーターを何度も使い先生に怒られたりもした。僕は中学に友達と呼べるような存在はいなくて孤独だったが、瑛史郎がいれば楽しくて、瑛史郎と週に3日会って話が出来ればそれで十分だった。
今日はエレベーターを使っても先生にばれず、4階まですぐに上がれた。英語の勝間先生は厳しくて、見つかったらただじゃすまない。職員室の前を何食わぬ顔で通り過ぎて教室に向かった。誰もいない教室に着きカバンを席に置いたら、瑛史郎が突然叫んだ。
「トイレ!」
僕の反応を待たず、瑛史郎は走っていった。いつもなら一緒に行こうと誘って来るので、今日は籠るのだろう。まだ授業まで時間はあるが、あいつは長いから始まるまで間に合わない可能性もある。英語の日に遅刻するとは・・・さすが瑛史郎。
しばらくして教室が人で埋まり始めると、その流れの中をまゆが通り過ぎていった。2日前までは意識もしなかったのに、今は大勢の中でもすぐに見つけられる。声をかけようとして目が合うと、まゆは微笑みながら唇の前に人差し指を立てた。声は聞こえないのに、「あとでね」と言われた気がした。
「はいはい、授業始めますよ~」
勝間先生が教室に入り、立っていた生徒も一斉に席についた。瑛史郎はまだいない。
「ああ、今日の授業、早く終わらないかな」
久しぶりに、授業に対してかったるさを感じた。
「ああ~終わった~!」
英語の授業が終わると、瑛史郎が僕の前で両手を突き上げながら伸びをした。そのまま体を捻り、僕の方に体を向けた。柔らかいな、こいつ。
「カツマッティ、あんな怒ることなくね?」
「今日は特別機嫌が悪かったんじゃないか?ほら、噂の彼女に振られたとか?」
「あり得るわ。でも俺に当たらないでほしいね」
「いやでも、まさか20分も遅れてくるとは思わなかったよ。腹痛いのは仕方ないにしても、さすがにあれは怒られる。ていうか、宿題やってなかったのが一番の原因だろ」
「俺は毎日忙しいんだよ」
「どうせ遊んでいるだけだろ」
「中2が遊び以外で忙しいことなんかあるのか?」
「なんだよそれ。まだ中2になってからあんまり経ってないから俺はよく知らね。それより、職員室に行かなくていいのか?愛しのカツマッティが待っているぞ」
「行きたくねぇ、皆の前でこってり怒られて宿題増やされた上にまだ何かあるのかよ」
「いいから行ってこいよ、俺先帰っているから」
「待ってねぇのかよ!この薄情者ぉ!・・・まぁ、お前が居残りの俺を待ったら4月でも雪降るから困るけどな。じゃあ行ってくるわ、すんげぇ面倒くせぇけど。またな」
「おう、またな」
瑛史郎が教室を出て行った。いつもと違い足取りは重そうだ。帰り支度をしていると、まゆが僕に近づいてきた。
「二人の会話、楽しいね」
「あいつはいつもあんな感じだよ。全く、本当に騒がしい」
僕はまゆの方は見ずに、席に着いたまま帰り支度を進めながら答えた。
「鬱陶しがっているふりして、黒澤君と話をしているまさとは楽しそうだよ?」
「・・・ばれてたか」
僕は少しにやけて帰り支度の手を止め、目をまゆに向けた。彼女も僕の方を見ていて、僕らは目が合い、笑った。
「今日さ、このあと一緒に駅前のTSUTAYA行かない?」
まゆは座って身支度する僕の隣に立ち、僕の手元をのぞき込むように見ていた。
「いいけど、何か借りるものあるの?」
「ううん、CD返しに行くの」
「授業前に返してこなかったのか?」
「はあ、鈍感ねぇ」
まゆは呆れたようにそっぽを向いた。意味がわからず眉をひそめる僕を見て、さらに可笑しそうに笑う。
「なんでもいいからほら、早く準備して。行くよ!」
こちらに向き直した彼女はそう言うと、いきなり僕の腕をつかんで引っ張った。
「待て、まだカバン閉めてない!」
椅子や机の脚に僕の足やカバンの紐をひっかけ、転びそうになった。仕舞った筆箱が転がる。
「あはは、ドジドジ!」
転びそうな僕を見て、まゆは声を立てて笑った。
「誰のせいだよ、全く」
瑛史郎といる時とは違った騒がしさが優しく僕を包み、なんだか安心した。
まゆが先ほどまで持っていた、CDの入ったTSUTAYAのバッグが回収箱に吸い込まれ、ゴトンと鈍い音を立てた。
「これで良し。ねぇ、上も行かない?」
「今日は返すだけじゃなかったのか?」
「いいから、いいから」
港南台のTSUTAYAは、一階に返却ボックス、二階にCDやビデオが並んでいた。まゆは学生カバンを腰の後ろに回して両手でぶら下げ、鼻歌まじりに僕を先導する。CDを返すだけのはずだったのに、その足取りは来る前からこの先が決まっていたかのように軽かった。
「ほら、こっちこっち」
まゆCDコーナーを指さしながら笑顔を見せた。少し小走りになる。
「まさとは、好きなアーティストとかいるの?」
まゆが前を歩きながら唐突に聞いてきた。
「う~ん、ゆずとか、ミスチルとかは聞くけど、これと言って好きなアーティストはいないなぁ。まゆは?」
そう聞くと、少し背伸びをしてつま先を軸にクルっと振り返り、上目遣いで僕を見上げながら左手で棚を示した。
「これ!」
「L’Arc~en~Ciel?」
少し意外だった。
「そう、ラルク!」
そう話すまゆは、嬉しそうにしている。
「私女子校だからさ、ラルク好きな子は周りにたくさんいるけど、皆と好きな理由は違うんだよね」
まゆは棚を目で追い、CDを探しながら話をつづけた。
「確かに、顔は皆きれいだと思うけど、きれいすぎて私は少し苦手かも。お、あったあった」
お目当てが見つかったのか、表情が明るくなり1枚のCDを手に取った。
「ラルクはね、顔よりも曲がいいんですよ!そう、これこれ」
まゆは取り上げたCDを顔のすぐ横に右手で持ち上げ、左手で指さした。
「このCD、〝HEART〟っていうアルバムなんだけど、これがいいのです!はい」
そういうと、僕に差し出してきた。
「今日はこれを借りて、明日までに聞いてきて!」
「はぁ?」
「今日の宿題。私からの」
「いやいや、アルバム全部?シングルならまだしも」
「そう言うと思って、明日のテストに出る曲を特別に教えちゃいます!」
「・・・テストなんかあるのか?」
「それがあるんですよ。え~と、虹と、あなたは必ず出します。あとはFateでしょ。Milky wayに・・・」
パッケージの裏の収録曲リストをひとつずつ指さしながら読み上げた。彼女がのぞき込んでいるから、僕にはリストが見えない。
「そうそう、これには入ってないけど、forbidden loverが最近また好きかな」
「・・・それはテスト出るのか?」
「えぇ~、どうしようかな~」
「・・・シングルも1枚借りていくか」
「ほんと?なんだかんだ言って乗り気じゃん!」
「まあな」
「へへ~、なんだかうれしい」
「そうか?」
「うん。私が好きなものとか、楽しいと思うこととか、もっとあなたに知ってほしい。それにあなたのことも、もっと知りたい」
まゆは、らしくもなく少し自信なさげにしていた。そんなこと誰からも言われたこともなく、初めて言われた言葉に驚いて、なんて返事をしたらいいかわからなかった。
「・・・だめ?」
言葉を詰まらせて黙って目を合わせていたらまゆが曇った顔を見せた。
「いや、だめではない・・・です」
返事はこの言葉で良いのかと迷いながら絞り出した。
「でも・・・」
まゆの返事を待たずに僕はつづけた。
「・・・でも?」
少し心配そうにまゆが僕を見つめる。
「急ぐ必要はない。ゆっくり知っていけばいいと思うよ。お互い」
そう言うと、その言葉が正解だったとでも言うかのように、まゆの顔が明るくなった。
「そうだね。時間はいっぱいあるしね!」
まゆが笑った。なんだかそれが単純にうれしかった。なにより出会ってからまだ2日しか経っていないとは思えないほど、僕は自然と彼女に心を開いていた。
その日はCDを借りて、二人で笑いながら駅へ向かった。帰り際、駐輪場裏の木のベンチをもう一度二人で確かめた。今まで全く意識もしていなかった場所が、とても特別なように思えた。
1999年4月22日 『運命の日』まで9年1か月と、27日
理科のDクラスには、まゆも瑛史郎もいなかった。静かな教室はいつも落ち着くはずなのに、今日はなんだか物足りない。授業が終わり隣のCクラスの前を通りすぎるとき、扉の窓越しに見えたまゆは、いつものように真剣な顔で板書を写していた。僕はそれを確かめて、そのまま駅へ向かった。港南台駅の駐輪場は改札口のすぐ近くにあり、ダイエーと隣接している。その間にある道は裏の団地に抜けていて、駅から帰路に着く人だけが利用している。『裏道』と呼ぶにふさわしいような道だが、駐輪場を抜けるまでにある三つのベンチそれぞれの脇に街頭が1つ立っていて、暗くはなかった。僕は真ん中のベンチに座った。
こんなふうに、外で一人きりになって考え込むのは久しぶりだった。静かに夜風に吹かれていると、嫌なことも思い出されてくる。紗奈に言われたことも、自分に抱いていた違和感も、結局、昔からずっと消化しきれず胸の奥に残っていたものだった。
僕は昔からいじめがどうしても許せなかった。自分より弱い誰かが追い詰められるのも、理不尽に誰かが傷つくのも、見て見ぬふりなんて出来なかった。だから見つけると放っておけずに口を出し、ときには手も出した。たくさん喧嘩にもなったけど、その時は力でいじめを止められた。
自分では正しいことをしているつもりだった。でも、それはただの自己満足だった。助けた人が僕のいないところでもっとひどいいじめを受け、僕が止めたせいで別の誰かが矛先を向けられることもあった。自分の正しさを振りかざせば振りかざすほど、また誰かがひどい目に遭ってしまい、結局本質的には止められていなかった。喧嘩をするような僕からも周りの人は離れて行き、いつの間にか僕の世界は孤独で窮屈になっていった。
「はぁ、俺はどうしたらいいんだろう・・・」
「うーん、たしかに悩ましいねぇ」
急に隣から声が聞こえた。目を向けるとまゆが座っていて、腕を組んで、悩む素振りをしている。本当に考えているのかもしれないが、きっと振りだ。
「……いつからそこにいたんだよ」
「う~ん・・・さっき?」
「声かけろよ」
「何度もかけたよ!でもなんだか、まさと悩んじゃってさ、全然気付いてくれないんだもん」
「そう、だったか。それは悪かった」
「ううん、謝らないで」
まゆが首を横に振った。すぐ隣に座っていて距離が近い。
「……何かに悩んでるなら、私でよければ聞くよ。全部解決することはできないかもしれないけど、味方にはなれる」
まゆの方に顔を向けると、その大きな瞳がより大きく見えた。少し迷ったが『あなたのことを知りたい』という昨日の言葉を思い出し、結局すべてを打ち明けた。まさか出会ってから数日の人に何年も悩んでいたことを話すことになるとは思わなかった。
「……そっか」
話を聞いたまゆは、ぼそっと一言つぶやいた。喧嘩をするような奴だと、愛想をつかされると思った。次に出る言葉が怖くて目を瞑って続く言葉を待った。
「ふふ」
まゆは何かを思い出すように笑った。この笑顔の理由が、僕には最後までわからなかった。
「まさとは、強いね」
「・・・ひぇ?」
意外な返事に驚いて、いつもより高い声で返事をした。
「何その声?変な声。人がせっかく真面目なこと言っているのに」
「いや、ごめん。そうじゃないんだ」
「そうじゃないって何よ」
噛み合わないやり取りに、僕らはこらえきれず笑った。
「もう!笑っちゃダメだって。はい、仕切り直し!」
「ごめん、ごめん。ほんとごめん」
まゆは咳払いして仕切り直した。それも面白かったが、僕は今度こそ笑わないように堪えた。
「私は、いじめられている人を助けに行けること自体がすごいと思う。しかもあなたは、それで終わりとも思っていない」
正面をまっすぐ見ているまゆの横顔は、真剣そのものだった。
「きっと私がやったら、『助けたぞー!どうだー!』ってなると思う。でもあなたはその後のこともしっかり考えていて、自分が見えていないところでも、助けたい、どうにかしたいって思っている。それはあなたが優しくて、強いから」
まゆは時折頷きながら言葉を並べた。僕は少し俯きながら答える。
「それは、皆が自分から離れていく経験をしたからだ。初めは俺も同じこと考えていたと思う。あまり覚えてないけど」
「だから、今のあなたはそれが分かるようになったんでしょ?誰だって最初からなんでもかんでもできる人なんていないよ。色々経験して、失敗をして、成長するの。大事なのは、今。あなたが今何を考えて、何をしているか」
その言葉には妙に強い説得力があり、言い返す言葉がなかった。
「それに、今あなたは悩んでいる。小学生の頃には気づきもしなかった壁を見つけて、しっかり自分と向き合って、乗り越えようとしている」
まゆは僕の方ではなく、正面を向きながらつづけている。
「勘違いしないで。あなたがしたいのは、誰かにやり返すことじゃない。いじめられている人を助けて目の前の人を笑顔にしたいだけ。だったら、その気持ちを守れるやり方を考えればいいんだよ」
まゆが少しおしりを上げて、スカートを直した。
「いじめっ子は、あなたにやられるからまたやり返す。だったらやり返さなければいいんじゃない?」
「・・・どういうこと?助けないってこと?」
「いや、いつも通り間に入って助けて、話し合いをするか、逃げるか・・・」
そこで言いかけて目だけこちらに向けた。
「逃げるか・・・何?」
「あなたが代わりに殴られる」
「はぁ?」
「そして絶対にやり返さない」
「いや、だから」
「そしていじめられていた人に、『俺はいいから逃げろ!』って叫ぶ!いや~、かっこいい」
両手でほほを覆いながら楽しんでいそうなまゆに少し呆れた。
「・・・本気で言っているのか?」
「7割くらいは本気」
10割本気でも、冗談半分でも嫌だなと思っていたら、いい塩梅の数字が来た。まゆはこちらに体を向けて、両手で僕の腕をつかみ、僕をまゆの正面に向けた。相変わらず吸い込まれそうな大きな瞳が、僕をまっすぐ見つめる。
「まさと。私は、あなたの行動は勇気あるすごいことだと思う。でもあなたの行動を怖いと思う人もいる。あなたのおかげで助かったと思う人も、さらにひどいことされて迷惑だったと思う人もいる。いろんな人がいる」
まゆは続く言葉を音にするため、息を吸い込んだ。
「人にいろいろ言われたりすると、それに振り回されて自信が無くなってしまうけれど、結局はどれも他人の言葉。そんなの気にしないで。大切なのは、自分が何をしたいか、何をしようとしているか。あなたのおかげで助かる人は、必ずいる」
まゆは僕をまっすぐ見て、迷いを見せずにはっきり言い切った。
「あなたのしようとしていることは、間違っていない。あなたは悪くない。だから私は、あなたの味方。もし世界中が敵になったとしても、ずっと。誰かのために、傷つかないで」
まゆの言葉に込められた気持ちが徐々に強くなっていくのがよく分かった。一つ一つの言葉をはっきりと言い切る。
「だからこそ、あなたには誰のことも殴らないでほしい。傷つけないでほしい。それがたとえ、誰かを一方的に傷つけるようなひどい人だったとしても」
どうして出会ってまだ数日しか経っていない相手に、ここまで言い切れるのか。それはやっぱり不思議だった。けれど、不思議なくらい、その言葉はまっすぐ胸に落ちてきた。自分でも整理できなかった感情が、少しずつ形を持ち始めていくのがわかった。
「・・・分かった」
しばらく黙ったあと、ようやくそれだけ言えた。まゆの顔が、ぱっと明るくなる。
「何とかしてみるよ。相手を傷つけずに止められるように」
「うん、応援してるね」
「ありがとう。そういえば冗談の3割は代わりに殴られるってとこでいいんだよな?」
「ううん」
まゆがツンとした表情で首を振った。口元は少し笑っている。
「逃げるってとこ」
「そこかよ」
「あなたが逃げるとは思えないからね」
「じゃあ、俺はいいから逃げろも本気?」
「あ、そこが一番冗談でした」
「もう半分くらい冗談じゃん」
「言い方悪いよ。半分は本気って言って・・・あれ、こっちの方が悪いか」
僕らは顔を見合わせて、声を上げて笑った。さっきまで胸の奥に絡まっていた何かが、いつの間にか消えていた。どうするべきかは、まだまだこれから考えていくことになる。でも、自分が何を大切にすべきかだけは、はっきりした気がする。
「あ、そうそう、テスト!」
まゆが思い出したように叫んだ。
「あ、ラルクの?昨日ちゃんと全部聞いてきましたよ」
「さすが!ラルクはねぇ・・・」
それから僕らは、ラルクの話も、どうでもいい冗談も、時間を忘れてたくさんした。その間、僕は終始笑顔だった。
それから、僕らは授業のたびにベンチで話すようになった。一つ一つ言葉を交わすたび、互いの距離が少しずつ近づいて行くのがよく分かった。日々重なる僕らの何気ない時間がいつの間にか、二人にとってかけがえのないものになっていく。
1999年5月24日。『運命の日』まで9年と、26日。
この日もまゆとベンチで話をする時間はいつもあっという間に過ぎ去り、いつも別れ際は寂しい気持ちでいっぱいになる。
「今日ももう時間か」
「もう?最近授業終わるの、遅くなったんじゃない」
「今度なべセンあたりに授業早く終わらせてーって言ってみようか」
「いいね、それ」
いつも通りくだらない話で盛り上がっていた。
「じゃあ、次は明後日か」
「うん、そうだね。・・・あ、明後日とその次の日、ビルのなんちゃらで休みじゃなかったっけ?」
「ああそうだ、電気設備点検だっけ。なんちゃらってなんだよ・・・」
「そうそう、そうなると、今度はいつになる?」
「振り替えが金曜日にあるから、4日後だな」
「4日?えぇ~?4日も会えないの?」
まゆは頭を抱え、困ったように眉をひそめた。4日間会えない、それだけのことでまゆはここまで露骨に寂しがる。その顔が可愛くて、少し可笑しくて、そしてとても嬉しかった。
「長い。それは長いぞ・・・何か楽しみなことでもないと待てん・・・」
「じゃあ、っていうほどでもないと思うけど」
「え、なになに?」
「次に会うまでに、榊原と話してみるよ。また誰かをいじめているところを見つけたら、じゃ遅い気がする。本当はその前に止められるなら、それが一番いいから」
「・・・そっか。無理しないで」
「あいつと一区切りついたら、まゆにちゃんと話したい」
「ありがと。私は信じてるよ。あなたなら、きっと大丈夫」
「ありがとう。じゃあまた」
「うん、じゃあね」
1999年5月27日。『運命の日』まで9年と、23日。
この日の昼休み、僕は榊原を校舎の中庭に呼び出した。
「珍しいな唐嶋、お前から俺を呼び出すなんて」
腰のあたりまで落とした制服のズボンに、ポケットへ突っ込んだ両手。立っているだけで周囲を遠ざけるような荒んだ空気をまとっている。出で立ちから声の大きさ、セリフに至るまで、やっぱり絵にかいたような不良だ。きっと榊原も、誰からも避けられていて孤独を感じているのだろうか。僕が向き合うべきはいじめではなく、きっと榊原自身だ。
「お前こそ、本当に来るとは思わなかったよ。しかも律儀に一人で」
「おいおい、俺は三年だぞ、敬語使え」
「そういうことは敬意を払って貰えるような人間になってから言うんだな」
「うるせえ!用はなんだ?なんもないなら帰るぞ」
「俺、ずっと聞きたかったんだ。自分より弱い相手をいじめて、何が楽しいんだ?」
「なんだなんだ、説教か?弱ぇのがいけねぇんだろ?・・・ったく、うぜぇな」
「弱いのは、お前の方だろ?」
「なんだとぉ!」
「弱いから、暴力でしか自分を守れない。弱いから、やり返されるのが怖くて、自分より弱い相手にしか向かえない。……違うか?」
「・・・お前!」
「お前は!まだわからないのか?自分が何をしているのか。自分がしていることがどれだけひどいことなのか、まだ気がつかないのか?」
「うるせぇ!」
榊原は僕の胸倉をつかんで右手を振り上げた。殴られると思ったが、彼の拳は宙で震えていた。僕は榊原の左手を抑え、その光を失った目をまっすぐ見て言葉を重ねた。
「もう、やめろよ。そんなこと続けたって、誰もお前を認めたりしない。お前がもっと独りになるだけだ」
「お前に、お前に何が分かる」
「わかる。・・・わかるさ。きっと、俺と同じだからな。俺だって今まで、力でしかいじめを止められていない」
そう言うと、榊原の拳の震えが止まり、少しずつ下がってきた。右手が力なく落ちると同時に、僕の胸も苦しくなくなった。榊原の左手首をつかむ。
「お前は最低なことをしてきた。でも、相手が動けなくなるまで痛めつけるような真似はしなかった。もちろん許されることじゃない。けど、それでも俺は、お前が根っからそこまで酷い人間だとは思えないんだ。自分じゃどうにもならない何かに、巻き込まれてるんじゃないか?」
榊原はうつむきながら僕の声を聴き、胸倉をつかんでいる左手は細かく震えている。しばらくその状態が続いたと思ったら、急に左手で僕を押し出して胸を離した。僕の方を向いた榊原の顔は、寂しそうな、呆れたような、不思議な表情をしていた。
「・・・はっ、皮肉だな。俺といつもつるんでいたやつらは俺に殴られてまで離れていきやがったが、今までさんざん邪魔してくれたお前に・・・お前に、理解されるなんてよ」
「榊原・・・お前」
「陣だ。榊原陣。俺の名前だ。別に覚えなくていいけどな」
「は?どうして急に名前なんて・・・」
「心配すんな。もうお前とは関わらねぇよ。もう弱いものいじめも飽きてきたしな。ただ覚えておけ。いつか俺も、お前みたいになってやるよ」
「何を言っているんだ?俺みたいに?はあ?お前、なんか気持ち悪りぃぞ」
「うるせぇ、そんなんじゃねぇ。・・・俺の親父が、お前には見込みがあるんだとよ」
「お前の親父?急になんだ?俺会ったこともないけど」
「俺もそんなの知らねぇよ。ただ、それがあまりにも気に食わなくてな。ムシャクシャしていたんだ」
「なんだよ、それ。そんな理由で弱い人をいじめてたのか?」
「あ~もう!いちいちうるせぇな。説教はいいんだよ。でも、なんとなくわかっていた。誰も、先公でも俺には何も言わなかったが、お前だけが俺を止めようとしてきた。この学校の中でも一番頭のおかしな奴だよ。俺はもう行くぞ。じゃあな、3年はお前ら2年と違って忙しいんだよ」
榊原はそのまま、ポケットに両手を突っ込んだまま校舎へ戻っていった。今まで何度も見てきた後ろ姿が、少しだけ大きく見えた。こうして、一年近く続いた榊原との確執は、拍子抜けするほどあっさりと終わり告げた。もっと怒鳴り合って、殴り合って、顔の痕を母さんにどう言い訳するかまで考えていたのに、そんな必要はなくなってしまった。ほっとしたのか、寂しいのか、自分でもうまく分からないまま、僕はしばらくその場を動けなかった。
1999年5月28日。『運命の日』まで9年と、22日。
その日も、僕らはいつものベンチに並んで座っていた。榊原と向き合った日のことを話し終えると、不思議と寂しい気持ちになった。
「・・・そっか、まさと頑張ったね」
「うん・・・なんかあいつ、変だったな」
「変、じゃなくて変わったんじゃないかな?漢字一緒だけど」
「どういうこと?」
「あなたが変えたのよ」
「え?なに?どういうこと?何を言っているか全然わからないんだけど」
「まあ、自覚がないならそれでもいいけどね」
そう言ってまゆは、ベンチの端にそろえていた足を前へ投げ出し、ぴょんと地面へ降りた。体操の着地みたいに両腕を上げて振り向き、「どう?」とでも言いたげににやりと笑う。さっきまでの静かな空気が、そこでふっとほどけた。
「いやいや、めっちゃ低いじゃん。自信満々な顔をするほどじゃないぞ」
まゆの足元を指さし、堪えきれていない笑いを堪えながら言った。
「言ったなぁ!こうしてやる!」
まゆは僕の両ほほを両手でつまみ、上から体重をかけてきた。突然のまゆの攻撃に、体勢を整えるのが間に合わず僕はそのままベンチに倒れ込んだ。
「痛っ、やめろ」
「謝るまでやめな~い」
「イテテ、ごめんって」
「聞こえな~い」
「ごめんなさいってば」
最後は少し低い声でそう言いながら、僕はまゆの手首をそっとつかんで体を起こした。顔が近い。どちらが先ともなく笑いをこらえきれなくなって、また二人の笑い声が空を舞う。通りすぎる人の視線すら、そのときは気にならなかった。
「そういえば、来月2日学校休みって言ってなかったっけ?」
まゆが唐突に立ち上がり、僕の前に立って聞いてきた。
「うん、横浜市の学校は横浜開港記念日に休みになるんだ。小学校もそうだったな。良い時代だわ」
「うんうん、じゃあさ、その日一緒におでかけしない?」
「え、平日だよ?学校は?」
「その日うちはミサだから、お昼で終わるんだ。だから迎えに来て」
「ミサって?」
「キリスト教の、変な儀式みたいなやつ。私はいつもテキトーにやってるからよくわからないけど、皆で暗い中ろうそく持ってなんかやるんだよ。うちの学校キリスト教だからさ、毎月やるんだ。なんか辛気臭くて、ほんっとーに面倒くさい!」
ミサの話をしている間、まゆの眉間にはずっとしわが寄っていた。イライラしているのが手に取るようにわかる。
「なるほど。とりあえずまゆが嫌っているのだけは理解した」
「そんなことないよ~、私は清廉なキリシチャンですからっ」
「うそくさ。それで、どこに行けばいいの?」
「藤沢本町駅。小田急線、なんだけど・・・まさと大丈夫?ちゃんと一人で来れる?」
「馬鹿に・・・するなよ」
そう強がりながらどうやって行くかを必死に考えていたが、頭の中の情報が少なすぎて答えは出なかった。
「本当に、大丈夫なの?」
「・・・すみません。教えてください」
「素直でよろしい」
まゆがポンポンと僕の頭を軽くたたく。見上げるとニヤついていた。頭ぽんぽんから頬ぺちぺちに音が変わる。
「藤沢で会ってどうする?」
「へへ~、秘密」
「なんだよそれ」
「会った時に話すよ。本町からまた電車乗るから、お金は多めに持ってきてね」
「本当にどこ行くんだ・・・」
「秘密秘密~」と言いながらベンチの前をウロウロしていた。まゆが楽しそうにしているのが伝わってくる。
「・・・まゆ」
つぶやくように呼んだ。その声が届いたのか、まゆはウロウロしながら「ん~?」と声にならない音で返事をした。
「ありがとう」
僕がそう言うと、動きを止めて振り返りこう言った。
「どうしてお礼言われたか分からないや」
腰に両手を回し少し上目遣いをしているその顔は、満面の笑みだった。
1999年6月2日。『運命の日』まで9年と、17日。
14時。まゆに言われた通り大船と藤沢で乗り換え、僕は藤沢本町駅に着いた。改札は思ったより分かりづらく、線路を挟んだ向こう側に見つけて足早に向かった。ホームの端にある5つ並びのベンチのいちばん奥へ座ると、防音壁の隙間からのどかな町並みが見えた。まだ梅雨入り前で、風はやわらかく、少しだけ飼料みたいな匂いがした。ほどなくまゆと同じ制服を着た学生たちがホームを埋め尽くし、喧噪の中からまゆを探そうとしたが、すぐに諦めて目を閉じた。今のこのホームの混雑は、あまりにも人探しに向かない。
しばらくすると駅のアナウンスと共に急に静かになった。目を開けると同じ制服がパンパンに詰まった電車が走り出すところだった。電車が動く方向に目線が釣られると、誰もいなくなったホームに一人だけこっちを見て立っている制服を見つけた。いつもの通り、学生カバンを腰の後ろに回した両手でぶら下げている。
「へへ、お待たせ」
僕はまゆを見上げて答えた。
「すごい数の人だな。毎日こんな感じなのか?」
「うん、うちの生徒、ほとんどの人が藤沢本町使うからね。この駅狭いし、中高一貫だし」
まゆはそう言いながら僕の隣に座り、カバンを反対側のベンチに置いた。いつもより少し声がしんみりしている感じがする。
「人混みか・・・それは大変だな」
「最初は本っ当に嫌だったけど、意外と慣れるもんだよ」
僕らは向かい合わず、反対側のホームを見つめながら話した。辺りは静かで、風の音さえも聞こえてきそうだ。
「・・・友達と駅まで来てたんじゃないのか?今更だけど、俺がいて大丈夫だった?」
そう言うと、まゆはうつむきながら両腕で足を挟むように手をベンチについて、足をパタパタさせていた。いろいろと言葉を選んでいるのか、なかなか返事が出てこない。
「・・・私、ね」
少し間が空いたあと絞り出したように言葉を吐いた。話し出した声にいつもの元気がない。
「学校にあんまり、仲のいい子、いないんだ。今日もここまで一人で帰って来たの」
「え?そうなの?」
びっくりした。こんなに明るいから、友達がたくさんいて皆の中心になっていると思っていた。そういえば、今までまゆから友達の話を聞いたことがない。
「うん。私1年の、今年の1月に編入したんだけど、皆もう仲の良いグループが出来ていて。2年に上がるときにクラス替えはあったんだけど、もう皆仲良くて。なんか、うまくいかなくてさ」
「そうなんだ・・・いつも明るいし、いつも通りしてればまゆなら友達すぐ出来そうなのに」
「・・・明るく出来るのは、あなたの前だけ。いつもの私は、そんなに明るくないよ」
うつむいた顔は、なかなか上がらなかった。いつも僕の前で笑っているまゆからは想像もつかない寂しそうな姿に、言葉が詰まる。4日僕と会えないだけであんなに寂しがったことや、TSUTAYAで「もっと知ってほしい」と言っていたこと。今なら全部つながる気がする。僕はようやく、彼女が見せてくれていた小さなサインの意味を、少しだけ理解できた気がした。
「・・・無理、しなくていいんじゃないか?」
言葉が出るまで、時間がかかった。
「え?」
まゆはびっくりしたように僕に顔を向けた。
「友達って、無理して作るものじゃないと思う。本当に気が合う相手に出会えたときに、大事にできればそれでいいんじゃないかな。大丈夫だよ。まゆはまだ、出会えてないだけかもしれないし、もう出会ってるけど、お互い気づいてないだけかもしれない」
まゆは何かをこらえるみたいな顔で僕を見ていた。泣きそうなのか、寂しいのか、うまく分からないまま、僕は少しだけ言葉を継いだ。
「俺も学校で仲のいい人いなくて、友達と呼べるようなのは瑛史郎くらいだからな。あいつも、別になりたくて友達になったわけじゃなくて、なんか勝手にくっついてきていつの間にかそんな感じになっていただけだし」
僕が半笑いをしながら話していると、まゆは途中から目をこする仕草をして、肩を揺らして笑っていた。
「あはは、そうだね。瑛史郎くんはまさとのこと大好きだもんね」
だんだん、まゆに笑顔が戻ってきた。それだけで少しほっとした。もう少し・・・と思いながら言葉を重ねる。
「だからさ、まゆもあまり気にしないで自分らしくいたら、あいつみたいな、鬱陶しいくらいにいい友達が出来るよ」
「・・・うん、そうだね、ありがと」
まゆはそう言うといつも通り足を投げ出してぴょんと立ち上がった。僕の前に背中を向けて立ち、腰で両手の指を遊ばせていた。
「へへ~、また、うれしいこと言われちゃった」
「ん?なんか言ったか?」
はっきり聞こえていたが照れくさくて聞こえていないフリをした。それに反応してまゆがこちらに向き直した。
「全く、せっかく聞こえるように言ったのに、聞いていなかったなんて」
僕の頭をポンポンとたたきながら無邪気にそういった。まるで聞こえていることがばれているような言い方だった。まゆを見上げると顔に笑みがこぼれている。
「もう一回言ってくれてもいいよ?」
「絶対に言いません!聞き逃した罪は重い」
誰もいないホームで二人は笑い合った。反対側のホームの人にもきっと聞こえている。
「ほら、電車来た。あれ乗るよ!」
駅に止まるためにスピードを抑え始めた電車を指さしながらはしゃいでいる。やっぱりまゆは笑っているのが一番だと思った。
僕らを乗せた電車は、四角い景色をいくつも後ろへ流して、片瀬江ノ島駅にたどり着いた。改札を抜けると、まゆは小走りで少し前に出て、くるりと振り向いた。
「じゃーん、実は今日の行き先は江ノ島でした!分からなかったでしょう、残念。いや~、難しい問題だったと思います」
まゆは両手を腰に当て、目をつぶって悦に入っていた。今日の行き先を隠し通せたと思っているらしい顔が、とても可笑しかった。
「いや、昨日『藤沢で乗り換える時に片瀬江ノ島までの切符を買って藤沢本町まで来て、改札出ないでね』って言われた時から分かっていたけど」
まゆは体勢を変えず左目だけチラッと開けてすぐに閉じた。口は笑っている。
「器用だな。ウインクできるんだ」
「突っ込むのそこ?ウインクとは逆な気がするけど・・・」
「じゃあ、キセル乗車させやがって!の突っ込みの方がいい?」
「人聞きが悪い!初めて藤沢で乗り換えたから乗る電車間違えただけでしょ?すぐ気が付いて一駅で帰ってきているから大丈夫。問題なし!」
「イケナイ考えだこと」
「へへ~。でもなんか悪いことした気はするから、次からはちゃんと切符買って改札前で待っててもらおうかな」
「ああ、そうしよう。こんな曲がったことしていたら、少し前の俺に殴られてしまう」
「あはは、そうだね、怖い怖い」
「ところで、ここから江ノ島にはどう行けばいいのかな?」
「こっちだよ!」
まゆに案内され、駅前の細い道をまっすぐ進むと、大きな通りに出た。
「あそこ!あれが江ノ島!」
まゆの指の先に海に浮いている大きなコブがあり、青と白の塔が刺さっていた。江ノ島は写真で見たことはあったが、どれも空撮写真で見上げたのは初めてだった。思ったより厚みはなく、思ったより小さかった。
片瀬江ノ島駅から島へ向かう道には、潮の香りと初夏の日差しで満ちていた。広い車道を地下道でくぐり、江ノ島弁天橋へ出ると、光が集まり視界が一気にひらける。まだ海で遊ぶには早い時季で、浜にいる人影はまばらだった。波打ち際ではサーファーが海を見つめ、海の家を組み立てる人たちが忙しく動いている。まゆはそんな景色のひとつひとつに目を輝かせ、僕もつられるみたいに何度も立ち止まっては海を見渡した。
「まさとは、江ノ島初めて?」
まゆは僕の前を、後ろ向きで歩きながら訊いてきた。
「うん、初めて」
僕はまゆの方は見ず、左右に広がる海を交互に見ていた。
「そっか~、初めてか」
そう言うとまゆは僕の隣に並んで前を向き直した。まゆの髪が少し強めの海風に靡いて、前髪をしっかり押さえている。
「まゆは来た事あるの?江ノ島」
「ううん、初めて」
「なんだよ、来た事あるような言い方して」
「へへっ、騙された?せっかく藤沢の学校に転入したから、夏に来てみたかったんだ。まだ海に入るにはちょっと早いけど」
「今の学校来る前は、どこにいたんだ?」
「小学校4年生の夏休み入るまでは和歌山にいたけど、その夏休みから去年の年末までは新潟にいたよ」
新潟には母親の実家があり、新潟のどこかと深く訊こうとしたが、実家付近の地名しか知らなかったことを思い出し触れない様にしようと思った。
「そうなんだ。いろいろ行ってたんだね。親の転勤か何か?」
「まぁ、そんなところかな」
その言い方には少しだけ含みがあったけれど、僕はそれ以上聞かなかった。二人で並んで歩くには、そのくらいの沈黙はちょうどよかった。
そのまま弁天橋を渡り切って江ノ島に着くと、僕らを最初に出迎えたのは青銅の鳥居で、色んなお店が立ち並んでいる通りがあった。一つ一つのお店に入り、お団子や、タコせんべいも食べた。まゆはずっと笑顔で、僕も釣られてたくさん笑った。仲見世の奥まで来ると、大きな赤い鳥居があり、そこから急に階段がきつくなっていた。
「さあ、登るよ!」
「きつそうだな。まゆ大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫!駅から学校に行くまでの坂と比べたら!あなたこそ大丈夫?登れる?」
「これでも運動部だしな。それに、うちの学校も山の上にあるから慣れてるよ」
「よし、じゃあ行こう!」
そのまま、二人で江ノ島を登った。階段はきつかったが、上に行くにつれ小さくなる片瀬の町と広がっていく海を見ながら、なんでもない話をつづけた。話をしながらならしんどいと思うこともなく、江ノ島神社の鳥居まで来た。そこよりもう少し道を先に進むと江ノ島の頂上部に着く。頂上部には青と白が目を引く展望台があり、迷わず二人で上った。頂上から広がる景色は島を見上げて感じたものと違ってとても高く、登り切った達成感と相まってなんとも言えない開放的な気持ちになった。まゆも同じ感想を言い、またどっちが先に思ったかでくだらない言い合いをした。展望台を下りた後、疲れたからと休憩のつもりで座ったベンチでも話し込み、また時間が経って、少し陽が傾き始めた。そのまま帰るかと思いきや、まゆがまだ先に行くと言い出した。
「え?まだ奥行くの?」
「何言っているの?この先が大事なんだから」
そう言って、奥に続く道に僕を引っ張っていった。海が見晴らせるようなお店が立ち並び、木陰が気持ちいい小さな階段を下りながら進んだ。少し赤みを帯びた陽の光が、木の葉の隙間から漏れている。心なしかまゆが少し急いでいるような気がした。そこからさらに古い家屋に囲まれた道を足早に進むと、少しずつ人気がなくなっていき、少し欝蒼とした雰囲気のところに出た。
緑が他の場所よりも濃く、陽の光はほとんどが遮られ、少し暗い印象を受けた。人はまばらでとても静かで、葉と葉がこすれ合う音が聞こえてくる。ゆっくりと歩いて奥に進んでいくと、その先に『奥津宮』と書かれたもう一つの鳥居がひっそりと佇んでいた。先ほど頂上部で見た鳥居とは違い訪れる人は少なかったが、そのせいなのか、オーラと言うか、なんとも言えない存在感を感じた。
「・・・まだ、こんな奥に神社があったんだ」
僕は少し息を切らしながら呟いた。
「正確にはこっちも江ノ島神社で、こっちでは龍神様が祀られているんだって」
「龍・・・なんか、かっこいいね」
二人で鳥居をくぐり、境内を見渡しながら奥に進んだ。
「ほらほら、書いてあるよ」
そう言いながらまゆは僕の腕を引き、小走りで説明文の看板の前に立った。
「龍に宮で〝わだつみのみや〟って読むんだって。〝りゅうぐう〟じゃないんだね」
「ふ~ん、龍が棲むところ、か。江ノ島はただの観光地だと思っていたけど、そんなすごいところだったんだ。なんかびっくりだ」
「ここは江ノ島の中でも一番すごいところなんだって」
「うん。そんな感じ、するよ」
僕は吸い込まれるように龍宮に入り、食い入るように奥に立つ龍の石像を見つめていた。隣に目を向けたわけではないが、まゆがその横顔を見ながら微笑んでいるのがわかった。
お賽銭を入れて参拝をし、龍宮の入り口まで戻った。もうすっかりあたりは夕陽に包まれていた。
「よし、ちょうどいい感じ」
「どういうこと?」
「もう少しだけ、奥行くよ」
「え?まだ行くの?そろそろ帰らない?もう夕方だよ」
「いいからいいから。せっかくここまで来たんだし」
まゆはまた僕の腕を引っ張った。
「分かった分かった。行くから引っ張るなって」
「絶対、後悔しないから」
そう言うと、まゆはまた足早に奥への道に進んで、僕はそれに遅れないようについていった。さらに緑が生い茂った道を進み、突然急な下り階段が現れた。下っていくとだんだん拓けた場所が現れて、眼下に夕陽に照らされた海が広がった。それまでは綺麗に整備された道が続いていたが、コンクリートを打ちっぱなしにした地面に、少しボロい手すりに変わっていった。
「早く早く、ちょうどいい感じだよ」
まゆはそう言うと、階段を駆け下り始めた。
「待て、この先に何があるんだよ。それにこんな急な階段あんまり急ぐなよ」
「いいから!転ばないようにね!」
「全く。まゆも転ぶなよ!」
「はいはい、分かっていますよ~」
そうこう言い合っているうちに、一番下まで下り切って海岸に出た。ここは江ノ島の西端に当たり、水平線が見える綺麗なところで、この時は特に夕焼けがものすごくきれいだった。海面がはじく光がキラキラしていて辺り一面をオレンジに染めている。初めて、景色を見て鳥肌が立った。
「よかった~、間に合った!」
「ここは・・・」
「ね、来てよかったでしょ?」
「ああ。すごい景色だ」
息は上がっていたが、呼吸に景色を邪魔されるのが嫌で無理矢理に抑え込んでいた。
「・・・私、ずっとあなたと一緒に綺麗な夕陽を見たいと思っていたんだ。今まで会って話ができたのは、いつも夜だったから」
まゆは微笑みながら、少しだけ寂しそうにそう言った。夕陽に染まった横顔が、息をのむほど綺麗だった。僕らはしばらく何も言えなかった。波の音だけが、静かに足元へ届いていた。
「・・・ねぇ、まさとは、将来の夢とかあるの?」
少し間を空けてまゆが訊いてきた。
「・・・なんだよ、急だな」
二人ともじっと海を見ながら話をした。
「こんな綺麗な景色を見ながらなら、なんでも教えてくれそうな気がして」
「別に、いつ聞いてもちゃんと教えるよ」
「知ってる。あなたは優しいから」
「・・・聞いても笑うなよ?」
「笑わないよ。あなたの大切な夢だからね」
「……まだうまく言えないけど。皆が『仕方ない』って当たり前になってしまっているものの中に、実は誰かが困ってるものってあると思うんだ。そういうものを、無くしたい。大きなことを成し遂げたいとか、立派になりたいとか、そういうのじゃなくて……誰も声を上げないことに、ちゃんと気づいて、変えられる人になりたい」
「・・・ふふ」
「だから、笑うなって!」
「ああごめん、違うの。笑ったんじゃなくて、うれしくなったの」
「え?うれしくって、どういうこと?」
「あなたの夢を聞いたら、なんだか安心した。やっぱり、あなたなんだなって思えたから」
まゆはこちらを向きなおして続けた。
「あなたの夢は、優しい夢。見えないところで困ってる誰かのための夢……誰も想像さえできなくて、簡単には叶えられない。だからこそ、とても大切で、すごいと思う。なんというか、あなたらしい」
「まゆ・・・」
「私、応援するよ」
「ありがとう。まぁ、まだ何をしたらいいかも全然わからないけど」
「それも含めて、応援するね」
「ああ、いつかわかるように頑張るよ」
「まさとなら、きっと大丈夫よ」
「・・・まゆは?」
「え?」
「まゆは、将来の夢、あるのか?」
まゆはまっすぐ、海を眺めながら答えた。
「私は、将来の夢とか今まで考えたこともなかったから、正直よくわからない。でももう少しで、見つかりそうな、分かりそうな気がするの」
そう言ってこちらを向き、優しく微笑んだ。その笑顔は夕陽に照らされ輝いている。僕も思わず口元が緩んだ。
「そうか。まゆも見つかるといいな」
「うん!見つかったら真っ先にまさとに教えるね!」
「その時はまたここに来るのか?」
「う~ん、そのためだけに来るには遠いから、もう少し近い場所探すよ」
「そうだな、そうしてくれ」
また僕らは笑いあった。まゆといるといつも笑っているような気がする。
「ここは、もっと大切な日にまた来ようか」
「それも良いけど、もっと色んなところ行くのも良いんじゃない?」
「え?例えば?」
「どこでもいいから色んなところ!私、あなたと一緒に色んなところに行って、色んなものを見て、色んな経験をして、楽しい時間をたくさん過ごしたい」
「そうだな。今日だけでも新しいものたくさん見れたし、楽しかった」
「私も楽しかった。でもでも、もっと、もーっとね!」
両手を目いっぱい広げるまゆは、キラキラした笑顔で楽しそうに話していた。
「うん、また一緒にどこかへ出かけよう」
「約束ね!」
「とりあえず、今日は・・・」
「今日は?」
「帰ろうか。ほら、もうじき陽が沈む」
夕陽がまっすぐ僕らを照らし、これからの未来を見せてくれているようだった。僕とまゆの足元からは二人の影が長く伸びていて、寄り添っている。
「うん、そうだね、もう帰らなきゃ。でも・・・」
まゆはそう言うと、僕のシャツの袖をそっとつまみ、海を見たまま肩を寄せてきた。突然のことに、僕は息を止めて固まった。動揺していることを悟られたくなくて、ただ視線だけを夕陽の向こうへ逃がす。
「もう少しだけ、このままでいさせて」
こうして二人は、季節をまたぎながら同じ景色をいくつも共有した。思い出が増えるほど、言葉にしなくても伝わるものが増え、二人の仲は静かに、けれど確かに深まっていった。
その年の夏、僕らは約束通りいろんな場所へ出かけた。6月は横浜の円海山で蛍を見た。7月は平塚の七夕祭りと鎌倉の花火大会。8月は江ノ島の花火、小町通り、鶴岡八幡宮、七里ヶ浜の海。どこへ行っても、二人とも初めての景色ばかりだった。知らないものを一緒に見て、一緒に笑って、それだけで十分だった。
塾の帰りには相変わらずベンチで話し、会えない日はそれだけで少し寂しかった。長く一緒にいても、何度顔を合わせても、飽きることなんかなく、会うたびにもっとそばにいたいと思った。僕はもう、まゆのことが好きだった。恋心は初めて抱いた感情だったが、その存在は疑いようがなかった。ただ、それを急いで言葉にしなくても、この時間はもう十分に特別で、伝える必要なんかないと思っていた。
まゆといる日々はいつも風のように過ぎていき、夏が去り、秋もまた二人でたくさんの時間を重ね、気づけば空気の色が白く変わりつつあった。
1999年11月14日。『運命の日』まで8年7か月と、5日。
その日は日曜で、まゆと二人でみなとみらいへ出かける約束をしていた。朝10時に港南台駅で待ち合わせ、いつもと同じように改札を抜ける。でもこの日の僕は朝から胸騒ぎがしていて、今日が今までとは違う一日になるような、そんな気がしていた。港南台駅のホームは想像以上に混んでいて、まゆははぐれないように何度も僕の袖に触れた。そのたびに、胸騒ぎは大きくなっていった。
「うわ~、混んでるね。日曜日だからかなぁ」
「日曜日にしても混んでいる気がする」
「座れるかな?」
「さぁ、どうだろう」
電車がやってきた。僕らはそれに乗り込むと、ちょうど二人分空いている座席を見つけて走って座った。若い二人がなんてことを、と目が合って笑った。その後もたくさんの人が乗ってきて、僕らの車両は満車状態になった。人がたくさんいる中ではなかなか話をすることもできずお互い黙っていたが、その状態がなんとも面白くて笑いを堪えるのに必死だった。隣を見ると同じように思っているであろう表情が見えて、更にお腹が痛くなった。途中の駅で降りる人はいたが、立ち替わりに乗ってきて、結局そのままの状態が桜木町駅まで続いた。
「着いたねぇ~。まさと電車で何も喋らないんだもん。ここ来るまで乗っている間ずっとおかしかったよ」
「人のこと言えないでしょ」
「私は別に喋ってもよかったんだけどね~」
「嘘つけ」
「あはは、ほら行こ。まずはランドマークタワー行きたい」
動く歩道を渡ってランドマークタワーへ向かい、展望台の料金に二人で顔を見合わせて笑った。服を見て、アイスを食べて、クイーンズスクエアで少し早い昼を済ませ、ディズニーストアやワールドポーターズを歩いた。映画を観て、ゲームセンターではしゃいで、大道芸に拍手を送りながら、気づけば夕方になっていた。楽しい時間はいつも、気付いたときにはもう、終わりの方が近くなっている。最後にクイーンズスクエアの外にあるベンチに二人で落ち着いた。
「今日は、なんだか疲れたな。江ノ島の時より疲れたかも」
「そうだね、ちょっと、あちこち行き過ぎたかな」
「まゆが振り回すから」
「まさとも楽しんでたくせに~」
「そりゃあもちろん」
「あはは、よかった」
まゆは笑いながらいつも通りぴょんとベンチから降りて、バルコニーの手すりに体を預けた。夕陽に照らされた海を見つめる彼女の髪が、少し肌寒い潮風に靡いている。きれいな後ろ姿に目を奪われていると、その背中がこちらを振り返った。
「本当は、いつも振り回してごめんねって言うのが可愛い子なんだと思う。でも私は、あんまりそういうふうに言いたくない。あなたといる楽しい時間を、謝る言葉で曇らせたくないから・・・いつも一緒にいてくれて、ありがとう。あなたのおかげで、私の毎日はちゃんと楽しいよ」
いつものはしゃぐ様な笑顔ではなく、落ち着いた優しい表情を見せ、ゆったりとしたトーンでひとつひとつの言葉を丁寧に音にしていた。僕は返す言葉が見つからず、口元を緩めて彼女をじっと見つめていた。まゆはそのまま続けた。
「あなたは、私にとって初めて、どんなときも味方でいてくれると信じさせてくれた人。まさとと出会って、独りじゃないって思えることがこんなに心強いことを知ったの。あなたの言葉を聞いているだけで、私は前を向けた。……私も、いつでもあなたの味方だよ」
泣いているのか、まゆは少し鼻をすすりながら、優しい顔で自分の気持ちをありのままに話している。一点の偽りもないと分かるからこそものすごく照れくさくなったが、続くまゆの言葉を逃さない様にじっと聴いていた。きっと、僕のここまでの人生の中で一番優しい顔が出来ていたと思う。
「あなたと出会ったばかりの私は、全然うまく笑えていなかった。でもあなたに言葉と勇気をもらって、少しずつ前を向けるようになりました。辛い中でも前を向けたこと、今周りにたくさんの友達がいること、毎日がずっと明るく見えることも、全部、あなたと出会えたから。本当に、感謝しています」
まゆはそこまで言うと、少し俯いてお腹の辺りの服を両手でつまんでもじもじしていた。僕は続く言葉を待ち、ほどなくして沈黙が落ちた。
「まさと。……私は、あなたのことが好きです」
僕はその言葉を聞いて何も言わず立ち上がり、まゆの隣に並んだ。夕暮れの風が二人の間を通り過ぎる。11月とは思えないほど、その空気はやわらかかった。
「・・・そんなの、前から知ってるよ」
まゆは泣き顔のまま笑っていた。ばれていたことを認めるかのように、ただ小さく鼻をすすっている。その顔が、どうしようもなく愛しかった。
「……俺も、まゆのことが好きだ」
「・・・へへへ、知ってる。ばればれだよ」
もうまゆの顔が涙でぐしゃぐしゃになっていたが、その笑顔は夕陽に照らされてきらきら光っていた。僕もつられて目頭が熱くなった。
「本当は、言わなくてもいいかなって思ってた。私があなたを好きで、あなたも私を好きで、それをお互い分かっていて……それだけで十分な気もしてたの。でも、」
まゆが言葉に詰まる。
「・・・でも?」
「でも、分かっていることでもちゃんと言葉にして伝えるのは同じように大事かなって思った。ほら、ちゃんと伝えたらこんなに胸がいっぱい」
「・・・そうだな。俺も言わなくていいと思っていたけど、ちゃんと伝えられてよかった」
僕はゆっくりと右手を運び、まゆの頭をそっと撫でた。小さくて、やわらかくて、あたたかった。まゆはしゃくりをこらえるみたいに息を詰めて、僕の胸へ顔を寄せた。僕はぎこちなくその後頭部に手を回し、震えながら支えた。涙から伝わる温かさも、僕の身体に預けるその重みも、まゆの全部が愛しかった。
「やっと、あたま撫でてくれたね。ずっと待ってたんだよ」
「なんだ、言ってくれればいつでもやったのに」
「ばか。そんなこと、言えるわけがないじゃない」
「・・・知ってる」
「・・・いじわる、でも、ありがとう」
まゆはそう言うと、糸が切れたのか声を上げた。
「ふえぇえぇん。やっと、やっと言えたよぉぉ」
まゆはしばらく、僕の胸に顔をうずめながら泣いていた。両手は僕の背中に回し、しっかりと小さな指で僕の服を握っていた。まゆの存在を、体温を、全身で感じて僕の頬にも涙が流れた。この時の気持ちをうまく表現することは出来ないが、たぶん、自分の気持ちが通じたこと以上に、こんなに自分を想ってくれる人がいることが嬉しかったんだと思う。
ひとしきり泣いたあと、僕らはまたベンチに並んで座った。話したのは、さっきまでと何も変わらなかった。これまで一緒に行った場所のことや、これから行きたい場所のこと。想いを伝え合う前と何も変わらない、いつも通りの会話だった。それが何よりも心地よかった。
だんだん辺りが暗くなってきて、バルコニーの手すりや足元がすこしずつライトアップされてきた。見上げると、コスモクロックも鮮やかな色を僕らに魅せている。
「暗くなってきたな。そろそろ帰ろうか」
「うん。そうだね」
「・・・ほら」
僕は先に立ち上がり、まゆの前に右手を差し出した。彼女はその手をしばらく見つめ、それから顔を上げて、泣いたあとの少し赤い目で笑った。
「うん!」
まゆの左手が重なった。しっかりと、離れないように強く手を握った。
1999年11月15日。『運命の日』まで8年7か月と、4日。
この日は、不思議な感覚を抱えて目覚めた。いつもの時間にいつもの目覚ましの音という日常の中で、僕は胸の奥にまゆのぬくもりを感じていた。高揚しているのか、安心しているのか、自分でもうまく整理できないまま、しばらくベッドの上で目を閉じていた。
いつもと違う寝起きではあったが、着替えて部屋を出てからはいつものルーティンだった。家族に挨拶をして、顔を洗って朝食を摂り、歯を磨いていつもの朝の番組を観た。卓球が特技の眼鏡をかけた男性アナウンサーが、今日も元気よく月曜の朝を伝えている。全く参考にならない気休めばかりの占いを観て、終わると同時に家を出た。冷たい朝の風に、白い雲が浮かぶ空の青がとても映える。
通学路も変わらずいつも通りだ。木々に囲まれた階段も、風が吹き抜ける坂道も、しばらく青にならない信号も、毎朝同じところであくびをしている猫も、いつも通りの光景だった。でもその景色が、今日はいつもと少し違って見えた。
そして校舎についてからもいつも通りで、校門を抜け、昇降口で靴を履き替え、廊下で何人か友人と挨拶をしながら教室に入った。教室でもおはようとクラスメイトと声を交わし、机の上にカバンを乗せた。そして、隣には体を横にしてこちらに向いた紗奈が座っている。なんだかほっとした。
「お、正人。おはよ」
「おう、おはよう」
右手を上げるだけの、紗奈のいつもの挨拶。なにも変わらない朝だった。
「なあ」
椅子を引きながら呟いた。
「ん?何?」
いつの間にか紗奈は机に向かい、鏡を見てリップクリームを塗りながら心半分で返事をした。
「もう2年の2学期も終わりそうだけど、どうして俺らはいつもとなりの席なんだ?」
「知らないわよそんなこと。いやなら誰かと代わってもらったら?」
「別に嫌ってわけじゃないけど、毎日ずっと変わらない感じがするのは座席のせいな気がしてきてな」
「何あんた、中学入ってから成長してないの?」
紗奈は少し鼻で笑っている。
「そんなことは言ってない」
「まあそうよね、あんたは変わったよ」
リップクリームを塗り終えた紗奈がこちらに体を向けた。そのリップクリームで僕を指してくる。
「え?」
「喧嘩しなくなってしばらく経ったから、皆とも仲良く話すようになったし、よく笑うようになった。最近のあんた、なんか楽しそうだよ」
そう言う紗奈は、からかっているようでいて、どこか本当にうれしそうだった。僕はうまく返せず、ただ肩をすくめるしかなかった。
「なんだよ、気持ち悪い」
「ねえ、いい加減何があったのか言いなさいよ。榊原と和解したのほんとに衝撃だったわ。あいつ、今真面目になってめっちゃ勉強しているらしいじゃん。髪も黒くしてるし、一緒にいる人たちも普通になったし。人って変われるもんねぇ」
僕の話から急に榊原の話になったのが少し気になったが、後半の榊原の話にだけ答えた。
「知ってるよ。俺と同じ塾通ってるからな。いつも成績上位に入ってるよ」
「そうなの?いや~、人はわからないわ」
「まあ、何か吹っ切れたんじゃない?」
「へぇ~、そうなんだ~」
「なんだよ?」
「い~え~」
「いつもだけど、お前何考えてるか分かんねぇよ」
「私のことはいいからいいから。それで?何があったの?」
「何がって、榊原のことか?」
「何言ってんのよ、違うって。今日のあんた、いつもと違うよ」
話の流れからは明らかに榊原のことだったが。相変わらず話をすり替えるのがうまい。まゆのことが真っ先に頭に浮かんだが、それは紗奈とは関係のないことだ。それとも、最初からまゆのことを言っているのか?
「・・・半年前と?」
紗奈から視線を逸らし、カバンから教科書を取り出しながら答えた。気づかないフリは苦手だ。
「相変わらずとぼけるの下手ねぇ。先週と、よ。昨日何かあったんじゃないの?」
紗奈の言葉に、手が止まった。どうしてこんなに疑われているのか分からなかった。紗奈にまゆのことは話したことはない。気づけるはずがない。
「な、なんだよ、急に」
「やっぱりそう来ますか。まあいいけどね~言わなくても」
紗奈が煽ってくる。別に隠すようなことでもないが、なぜだか頑なに言いたくなかった。
「くだらね。何言ってるんだか」
そういうと、教科書を仕舞わないまま机に突っ伏して顔を沈めた。我ながら、なんて隠し事が下手なんだ。
その夜はまた塾で授業だった。学校でもクラスメイトとよく話すようになり楽しくなってはきたが、それでも瑛史郎は特別だった。週に3回も会っているが、やはり会えるのは嬉しくて、いつも呼び止められるのを楽しみにしながら駅に向かう。
「まさと!」
その日、僕を駅で呼び止めたのは、瑛史郎ではなくまゆだった。今日は寒いからかダッフルコートを着ていて、いつもと違ってもこもこしたフォルムになっている。
「まゆ?」
「初めてだね、授業前に会うの」
まゆはいつもニコニコしながら僕の隣に駆け寄ってくる。やっぱりかわいい。
「そうだな。いつも瑛史郎とここで会うから、なんか新鮮」
「知ってる。いつもいいな~って思ってた」
「なんだよ、見てたなら声かけてくれたら良かったのに」
「あなたたち、仲良すぎてなんか間に入りにくいのよ」
軽く眉間にしわを寄せている。怒っているわけではないと分かるから、余計かわいく見える。
「そんな仲じゃないよ。あいつも別に気にしないんじゃない?」
「瑛史郎君には、私のこと話してるの?」
「いや、ぜんぜん」
「もう、はっきり言いすぎ!」
「まぁ、なんて言っていいのか分からないし。あいつと真面目な話全然しないし」
「まあ、それはそうなんだけどさ・・・」
「それにしてもあいつ、今日はなかなか来ないな」
「どこかで私たちを見ていて、入りにくいんじゃない?」
「皆そうなのか?別に声かけりゃあいいのに。俺にはよくわからん」
「じゃあ、私と瑛史郎君が並んで歩いてたら声かける?」
「そりゃあかけるよ。かけない方がいい?」
「ごめん、それは声かけてほしい、です」
「ほら」
「でもでも、まさとが私ばっかりになって瑛史郎君との時間を大切にしなくなったら嫌だなとか思って・・・って、何言わせてるのよ、バカ!」
「・・なんで怒られてるんだ俺」
「もう、ばかぁ、私のばかぁ」
まゆは真っ赤になった顔を両手で隠すしぐさをした。顔は隠せているが、同じように真っ赤になった耳は全く隠せていない。
「大丈夫。心配しなくてもどっちも大切だよ。まゆも、瑛史郎も」
「へへ、いつも優しい言葉かけてくれるね」
「・・・まゆだって、瑛史郎のこともいつも気にかけてくれるじゃん」
「まあね。ありがと」
そんな話をしていたら、ビルの入り口に着いた。振り返ってみても、瑛史郎の姿は見えない。少し後ろ髪引かれながらビルに入った。
「あれ?エレベーター使わないの?」
階段に向かおうとするまゆに、エレベーターの方を指さしながら言った。
「使わないよ。だって生徒は使用禁止でしょ?」
「俺、瑛史郎と毎日の様に使ってるわ」
そういうと、まゆが少し呆れた顔を向けた。
「どうりで。ビル入ったら二人の姿が見えなくなると思った」
「めっっちゃ早く階段登ってると思った?」
「最初はそれも思ったけど、ここの階段吹き抜けなのに声も足音も聞こえないし、ずっと不思議に思っていたよ。まさかエレベーター使っていたとはね」
「1回使うとなかなか快適ですよ?」
「でしょうね。でもほら、今日からはちゃんと階段使うよ」
「はあい」
その日はまゆと二人で階段を登った。時間はかかるがまゆと話をしながらゆっくり登るのもいいものだと思った。教室に着いたときは授業が始まる5分前で、僕らはそれぞれ席に着いた。まだ、前の席に瑛史郎は来ていない。時間になり、数学の渡辺先生が入ってくると同時に、瑛史郎がなだれ込んできた。渡辺先生が「うおっ」と言いながら両腕を挙げ、走る瑛史郎を避けた。
「黒澤、走ると危ないぞ。教室狭いんだから」
少し教室をいじって冗談を言った渡邉先生に、瑛史郎は返事もせず一目散に僕の前に座った。机と椅子がぶつかる音が辺りに散らかり、皆の視線がこちらに集まる。
「全く。よし、じゃあ授業始めるぞ」
渡辺先生がそう言って教科書を開くと、皆一斉にペンを取り出しノートを開いた。なんだか、軍事国家の軍隊パレードみたいだ。僕は右足のつま先で前の椅子を下から突き上げた。
「おい瑛史郎。お前どうしたんだ。ギリギリに来るなんて珍しい。先生に言い返しもしないで」
後ろから小声でそう言葉を投げたが、瑛史郎からのリアクションはなかった。背中を丸めて、肩を強張らせ、机に突っ伏していた。
背中を丸めたまま返事をしない瑛史郎は、なんだか小さく、別人みたいだった。背中越しからでも、その異様な雰囲気だけははっきり伝わってくる。少し席が離れていてよくは見えなかったが、まゆも心配そうにこちらを気にしている。
授業が終わった後、僕は片づけもせずに瑛史郎の肩をつかんでその体を大きく揺らした。
「おい瑛史郎。なんなんだよ。何とか言えよ!」
「うるせえな!」
瑛史郎は大声で叫び、僕の腕を振り払った。そのまま何も言わず、乱暴に筆記用具をカバンに突っ込んで教室を出て行った。それまでざわついていた教室が静まり返る。明らかにいつもと様子が違い、なんとなくほっとけなかった。僕もすぐにカバンに荷物を詰め込み、教室の出口に向かいながらまゆに声をかけた。まゆの顔にも緊張が走っていて、真剣な眼差しを僕に向ける。
「ごめんまゆ、あいつ追いかけるから先に行ってて。しばらく俺が来なかったら先帰って」
「うん、分かった。気を付けて」
教室を出て廊下を見渡すと、階段を下りようとしている瑛史郎を遠くに見つけた。すぐに追いかけようとしたが、授業終わりの廊下は人が多く、人混みの中を縫うように走った。階段ホールに着くと、瑛史郎が駆け下りている音が響いた。確かに、吹き抜けだとよく音が聞こえる。僕も落ちていくように駆け下りた。
瑛史郎を追いかけながらふと思った。まゆと出会う前の僕なら、ここまで必死に追っていただろうか。面倒ごとだと切り捨てて、あいつの不機嫌も見て見ぬふりをしたかもしれない。……僕は変わった。こう思えるようになったのは、まゆがいてくれたからだ。なんとしてでも追いつかないと。
駅を通り過ぎ、裏の団地の辺りまで走ったがなかなか追いつかない。瑛史郎がこんなに早いのは意外だった。それからしばらく追いかけっこを続け、団地が取り囲む公園に着き、小学生が野球くらいできそうな広場の真ん中で、瑛史郎は空を見上げて立っていた。それを観た僕は走るのをやめ、カバンをベンチに投げつけながら歩いて瑛史郎に近づいた。乱れた息が、白くなっては夜の空気に溶けていく。
「瑛史郎、逃げんなよ。どうしたんだ。何があったんだ。何でもいいから話してくれよ」
瑛史郎から5mほど離れたところで止まり、両手を膝について息を整えながら瑛史郎の背中に言葉を投げつけた。瑛史郎は何も言わずそのまま立っていたが、しばらくしてこちらに体を向けた。意外と笑顔だったが、それが無理やり作られたものであることは一目で分かった。
「正人、お前こそどうしたんだよ。俺の家の近くまで追いかけて来て。俺はなんともないのに、なんで心配してんだ?」
「お前、何言ってんだよ。そんなウソが、俺に通じると思ってんのかよ」
「そういやお前、彼女できたんだな。よかったじゃん」
「なんだよ急に。・・・まゆのことか?」
「今日、授業前に駅前で二人を見たよ。彼女だって、すぐに分かった。水臭いなぁ。それならそうと早く言ってくれたらよかったのに。もしかして俺に奪われるとでも思ったのか?」
瑛史郎は明らかに心ここにあらずで、自分でも何を話しているのか分かっていない様に感じた。ぎこちなく、僕と目も合わない。普段の瑛史郎からは想像もできない姿だ。
「別に隠していたわけじゃない。そういう風になったのもほんとに最近だから、今度話そうと思っていたよ」
「いいっていいって。無理しなくて。俺なんかに話したところで何かあるわけじゃないしな」
瑛史郎は寂しそうにうつむいて、両手の掌を見つめている。
「・・・瑛史郎、ほんとにどうしちゃったんだよ。らしくないって言うか、そんなお前見たくないよ」
そういうと、瑛史郎は顔を上げてこちらを向き、僕に半歩近づき、力なく右手を前に出した。何かを言おうとして口を開けたその姿は、僕に助けを求めているようにも見えた。
「・・・いや、やっぱいいわ。お前は彼女と楽しく過ごさなきゃいけないしな」
「ああもう!まじで!なんなんだよお前。イラつくなぁ。僻んでんのか?」
「ああそうだよ!僻みだよ。お前は少し前まで俺がどんなに話しかけても素っ気なくて、人との間に壁なんか作りやがって・・・そんな、そんなお前に彼女が出来て、ほんとはすげぇ・・・すげぇ嬉しい、はずなのに。素直に喜べない。どうしても、俺は二人を見ても幸せな気分になれない」
「瑛史郎・・・なあ、何があったか頼むから話してくれよ。俺に何かできることがあるなら言ってくれ」
僕が言葉をぶつけると、瑛史郎はまたうつむいた。気持ちを振り絞り、言葉を腹から押し上げようとしているのがよくわかる。
「……親父の会社が倒産した。今の家は、静か過ぎるか、怒鳴り声が飛び交うか、そのどっちかだ。もう、俺の居場所なんてあそこにはねぇよ」
一瞬、瑛史郎が何を言っているのか分からなかった。瑛史郎のことをじっと見ながら口を半開きにし、息をするのを忘れていた。
「まじかよ、それ・・・」
「俺、今日お前と会っていつも通り笑ったら、少しは気が楽になるかなって思ったし、事情も話せたらいいなって思ってたけど、お前のあんなとこ見ちゃったら・・・俺、なんて声かけたらいいか、わからなくて・・・」
俯いて声を絞り出す瑛史郎から、鼻をすする音が聞こえる。
「瑛史郎・・・そんな・・・」
「俺、土日家に帰ってないんだ」
「・・・はぁ?」
「だってそうだろ?親父とおふくろは、俺の教育費のことで喧嘩してんだ。姉貴は高卒で働いてるし、妹はまだ小さいからあれだけど、俺がいるから、皆の生活がきつくなっていく。俺なんかもう、いないほうが・・・」
「ふざけんなよお前!」
ズカズカと足早に瑛史郎に近づき、勢いそのままに両手でその胸倉をつかんだ。瑛史郎は体を逸らせ、僕と目を合わせないように地面を見つめている。
「お前、親の気持ち考えたことあんのかよ!お前のために働いて、お前のために飯作ってんだろ!お前のことを心配して、お前のために喧嘩までしているのに、当のお前は知らん顔か?家出してまた心配かけて、ふざけんのもいい加減にしろ!」
その言葉が頭に来たのか、瑛史郎の目つきが変わった。
「お前に・・・お前に何が分かんだよ!俺の親に会ったこともないくせに!俺の、この、どうしようもない気持ちが、微塵にでも正人に分かるのかよ!・・・どうせ分かんねえだろ!」
「ああ、分かんねぇよ!分かってたまるかよ!俺は瑛史郎じゃないんだ。分かるわけがねえ。水臭いのはどっちだ?俺に彼女が出来たから話せない?俺らの邪魔ができないだ?そんな中途半端な覚悟で、本気で俺に伝えようともしてないくせに、自分の気持ちを理解してもらおうだなんて思うんじゃねぇ!甘えんなぁ!」
瑛史郎は震えながら僕のことを睨みつけていた。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「……瑛史郎。俺、悔しいよ。どうやったって、お前の痛みをそのまま分かってやることはできない。でも、お前が今どれだけ苦しくて、その不安がどれほどのものなのかを想像することくらいはできる」
「・・・正人、おまえ・・・」
「瑛史郎、辛いかもしれない。どうしたらいいか分からないかもしれない。でもそんな今だからこそ、瑛史郎のことを本当に想ってくれている人のために行動してほしい。安心させてほしい。お前が家族を心配してどうしようもない気持ちを抱えているのなら、それこそ。そうすればそこがお前の居場所になる。居場所があれば、独りでなければ、必ず何とかなる。自分から居場所を捨てるようなことはするな」
「・・・正人、なぁ、俺、どうしたらいい?」
瑛史郎のほほが涙で濡れている。
「とりあえず、帰って親にそのアホ面を見せてやれ。その後のことは家族でゆっくり話せよ。俺は知らねぇからな」
涙を堪えて震える声でそう言うと、瑛史郎は肩の荷が下りたかの様に脱力した。
「なんか、いつもの憎まれ口がめっちゃかっこよく聞こえるわ」
「うるせえよ」
涙を流した瑛史郎は、笑顔を僕に向けていた。少し安心した。
「ところで・・・」
「なんだ?」
「今日、ナベセンお前に何も言ってなかったけど、家出したこと知らないのかな」
「多分、親は学校や塾に連絡してないと思う」
「何で?」
「事情が事情だから、多分誰にも言わずに探し回ってる」
「それを分かっていて、おまえ・・・!」
「わーった!分かったから。もう説教はやめろ!」
「そんなに心配かけているのを知っているなら、何でもいいからさっさと帰れ」
「分かったよ。・・・なんか、悪ぃな」
「気にすんな。お前の世話が焼けるのはいつも通りだからな」
「おう!」
「そこ返事いいのはどうなんだ?」
「まあまあ。じゃあ、またな」
「ああ、またな」
そのまま、瑛史郎が公園を出るまでその後ろ姿を見ていた。足取りはやはり重そうだったが、顔は上を向いていた。
「・・・さて、戻るか。まゆは・・・ああもう絶対帰ってるよな。心配かけたかなぁ。一度ベンチ行って、いなかったら俺も帰ろう」
疲れているのか、思ったことがそのまま声になって口から出ていた。カバンを持ち上げて肩に下げ、公園を出て帰ろうとしたら木の陰からまゆが出てきた。
「まゆ・・・?」
「へへへ、来ちゃった」
「来ちゃったって、どうして?・・・そうか。ごめん、心配かけたな」
「ううん、平気。瑛史郎君、どうだった?」
振り返ると、瑛史郎が団地に続く坂道をゆっくりと歩いていた。僕はその縮んだ背中に向けて言った。
「今日あいつがおかしかった理由は分かった。大変そうだけど、大丈夫、かな」
「・・・そっか。よかった」
まゆは少し心配そうに微笑んだ。気になってはいるだろうに、それ以上何も聞いては来なかった。僕にはその理由が分かっていた。
「よし、帰ろうか。あとはあいつ次第だ。・・・そういえばまゆ、よく追いついたな。俺も瑛史郎も結構本気で走ってたんだけど」
「頑張って走ったもん。でも途中で見失っちゃったから辺りを探してたら、声が聞こえたんだ」
「いや、それにしてもあのタイミングは見えないんじゃ・・・もしかして走るのめっちゃ速いの?」
「実はね、エレベーター使った」
「え?」
「階段よりエレベーターの方が駅側の出口に近いしね。教室出たらまさとが階段に向かったの見えたから、エレベーターなら追いつけるかなって。外出たらちょうどまさとが前通りすぎたところだったのよ」
「やるなぁ、この人」
「へへぇ」
まゆが歯を見せてにやけて見せた。いつも通りのやり取りにほっとした。
「・・・ねぇ」
「どうした?」
僕を振り向かせたまゆは両手を広げて僕を見上げている。「え?」とその意図が分からずそのまま立っていたら、その腕を僕の腰の裏に回し、抱きついてきた。
「おお、急にどうした?」
「知らない。なんだかこうしたくなった」
「まぁ、塾じゃできないしな」
そう意地悪を言うと、まゆの腕に力が入ってきた。ダッフルコートのボタンがお腹に刺さる。
「当たり前!です!」
「痛い痛い、ごめんって」
「もう・・・・大好きなんだから」
僕は、そう言って顔をうずめてきたまゆの頭を撫でた。さっきまで胸の奥を締めつけていた重たさが、そのぬくもりに少しずつほどけていく気がした。振り返ると、瑛史郎の姿はもう見えなかった。僕はまゆと手をつなぎ、帰り道を歩き出した。
1999年11月22日。『運命の日』まで8年6か月と、27日。
結局先週はあの日以降、瑛史郎が塾に来ることは一度もなかった。瑛史郎がいないと単純に寂しさもあったが、何よりも心配だった。まゆはそんな僕に気を使ってか、瑛史郎の話題は出さずいつも通りの話をしていた。この日もいつも通りベンチでまゆと話していると、突然まゆが僕から目を逸らし、口を丸く開けながら僕の少し上に目線を上げた。
「あ・・・」
その視線の先に振り返ると、瑛史郎が申し訳なさそうに立っていた。右手の掌を鼻の前で立てて、片目を閉じている。
「お取り込み中、悪いね」
「瑛史郎・・・お前」
僕は振り返りながら立ち上がった。瑛史郎の目線は僕を通り過ぎてまゆに向いている。
「佐藤さん・・・だっけ?ごめん、悪いけど、ちょっとこいつ借りていい?」
僕はまゆに振り返り、目を合わせて軽く頷いた。まゆもそれに応える。
「うん。分かった。じゃあ私帰るね」
まゆが帰ろうとすると、瑛史郎が呼び止めた。
「あの、さ」
その声に振り返ったまゆに瑛史郎が続ける。
「こいつ、不器用で不愛想で、見た目何考えているのか全然分からないし、口もすげぇ悪いけど、本当はいいやつなんだよ」
「急になんだよ、言いすぎじゃね?最後に良いこと言えば何言ってもいいと思うなよ?」
それを聞いたまゆは口元を緩ませた。
「うん、知ってる。普段はクールぶってかっこつけてるだけ」
「まゆも、なんだよそれ」
その場が少し和んだ。一番先に笑いを止めた瑛史郎が口を開ける。
「だからさ、頼むよ、こいつのこと。多分こいつの良さに気づける人、なかなかいないから」
「うんそうね。言われなくても、まさとは私じゃないとだめだから。それじゃあね」
そういってまゆは髪をなびかせながら歩いて行った。少し離れてから瑛史郎に言った。
「・・・今、まゆもすげぇかっこつけてた」
「うるさぁい!聞こえているからね!」
背中からまゆの声が飛んできた。
「なんだよ、聞こえていたのか」
振り返ると、笑顔のまゆがこっちを向いて手を振っていた。
「あはは、じゃあね、二人とも!」
「・・・いい子じゃん。よかったな」
「いつもあんな感じだよ。ずっとまゆのペース」
「お前を自分のペースに持ち込めるのかよ。すげぇ子だな」
「なんだよそれ、冷やかしにきたのか?」
「おう」
「うるせ。いいから座れよ」
「ここはお前の家か」
「茶は出せねぇけどな」
「そんなことばっか言ってると、ほんとに中学生か?って思われるぞ」
「思われるぞって、誰にだよ」
「誰にって、そりゃあ・・・知らね」
「なんだよ。わけわかんね」
くだらないことを話しながらベンチに座った。
「あ!」
瑛史郎が座ったとたん立ち上がった。
「どうした?毛虫でもいたか?今11月だけど」
「ここ、彼女座ってた場所だけど俺座っても大丈夫か?」
「なんだそれ、今日で一番くだらねぇな」
瑛史郎がそんなことを気にするはずがない。わざと間を延ばしているのがよく分かった。それから並んで座って少し沈黙が流れたが、結局僕がそれを破った。
「・・・で?今はちゃんと帰ってるのか?」
「帰ってもいないのに、お前の前には出れねぇよ」
「おう。もしそうだったら今度こそぶっ飛ばしてやるよ」
「こえーこえー」
「ちゃんと、家族と話したか?」
「・・・ああ、話した」
「それで?」
「俺・・・塾辞めるよ。さっき書類出してきた」
想定はしていたが、やはり聞きたくない言葉だった。でも僕には何も言えない。
「そうか。やっぱ大変なんだな」
「・・・ああ。やっぱり続けられないみたいだ」
「はぁ・・・マジかよ」
深いため息が出た。両肘を両ひざに乗せ、体を丸めるようにうつむいた。
「でも、俺はあきらめない。お前、前に話してた高校受けるんだろ?」
猫背はそのままに顔だけ瑛史郎に向けた。
「ああ、家から近いしな。そこしか受けない」
「お前らしい理由だな。偏差値とか内申点とか、人が決めた基準には従わない・・・だっけ?全く、何様だよ」
「いちいちうるせえな。高校がどうかしたのか?」
「俺、塾行かなくても自分で勉強して、お前と同じ高校受かってやる。そうしたら、またお前とクラスメイトだ」
思いがけない言葉だった。鳥肌が立ち、声が出そうな程嬉しかったが堪えた。まゆの言う通り、僕はかっこつけていた。
「・・お前なんかが、自力で受かるのかよ」
馬鹿にしたようににやけながら言った。こうすれば、嬉しくて仕方がない顔を隠せる。
「うるせぇな!バカにすんなよ!」
「まぁ、相当頑張らなきゃ無理だな」
「言ったな!ぜってぇ受かってやる」
「せいぜい頑張んな。待ってっから」
「何を偉そうに。お前こそそんな余裕かまして、へまして落ちたりすんなよ?」
「俺がそんなことをすると?」
「この前のテスト、解答欄1つずつずれて散々だったじゃねぇか。本番前にやらかすと本番ではやらないから大丈夫とか、先生にフォローなんかされちゃって」
「うっ、よく覚えてるな。もう二度としねぇわあんなミス」
「もし下手こいて落ちたらぼろくそに馬鹿にしてやるからな」
「瑛史郎に馬鹿にされるとか、死んでも嫌だわ」
「じゃあ、凡ミスなんてできないな」
「ああ、そうだな」
二人の笑い声は駐輪場の壁をはずんで辺りに転がっていた。しばらく瑛史郎に会えなくなるかもしれないが、その先を楽しみにしている自分がいた。
「・・・俺、こんな状況でもちゃんと高校出て、ちゃんと働いて、家族を救いたい。お前に説教されて、目が覚めたよ」
「瑛史郎・・・」
「・・・じゃあ、俺帰るわ」
そういう瑛史郎の顔は、明るかった。
「ああ。頑張れよ」
「お前もな」
瑛史郎はそのままジャンバーのポケットに手を突っ込み、団地に向かって歩いて行った。僕も帰ろうと少し歩いてから振り返ると、瑛史郎もこっちを向いていた。
「正人!」
そんなに大きな声ではなかったが、僕の耳には届いていた。僕は聞こえていると伝えるため、首を上げた。
「ありがとな!お前のおかげでなんとかなりそうだ」
「俺はなんもしてねぇよ」
「あと・・・」
その声は少し小さく聞き取りにくかった。声をしっかり拾うため少し前のめりに耳を向けた。
「彼女うらやましいぜ!こんちくしょおお!」
「うるせえ!声でけえ!」
「高校入るまでぜってぇ大事にしろよ!じゃあな!」
「・・・なんだよあいつ。余計なお世話だ」
走って帰っていった瑛史郎につぶやくように言った。その背中は、先日よりも少し頼もしく見えた。
1999年11月24日。『運命の日』まで8年6か月と、25日。
まゆに昨日瑛史郎と話したことを聞いてもらった。
「そっか、瑛史郎君、残念だね」
「ああ。でも、あいつも悩んだんだと思う」
「瑛史郎君、かっこいいね」
「あいつが?どこが?」
「どうしてそんなこと言うのよ?もしかして妬いてる?」
「別にそんなんじゃないけど」
「・・・家族のことも、自分の気持ちも、あなたのことも、皆のことを考えた答えだと思う。それをちゃんと受け入れて、立派だよ」
「ああ、確かにそうだな。あいつはすげえよ。俺にはできないや」
「何言ってるのよ」
少し怒ったようにきつい口調で言われた。
「あなたがいたからよ」
「えぇ?どういうこと?俺なんか最近怒られすぎじゃね?」
「あなたは、瑛史郎君の異変にすぐ気づいて、追いかけて、向き合った。そして瑛史郎君も、その想いにちゃんと応えた。全部、あなたがいたから」
「そう・・・なのか?」
全部夢中でやったことだから、まゆの言っていることに実感がなかった。
「そうよ。いい加減自覚を持ちなさい。あなたにはそういうところがあるのよ。名前忘れちゃったけど、前不良だった人も今は塾で成績トップでしょ?それも、あなたがいたからよ」
「榊原か。あいつこそ、俺は何もしてない気がするけど」
「まぁ、あなたに自覚がないことは、私が一番分かっているからいいんですけどね」
まゆはにこにこしていた。僕はこのままで良いと言うかのように。
「そういえば、まさと・・・」
「どうした?」
「クリスマス、どうする?」
「ああ、ちょうどあと1か月か」
「ねぇねぇ、またみなとみらいで映画観ない?」
「何か観たい映画あるの?」
「それはそれであるけど、これから毎年クリスマスはみなとみらいで映画観るっていうのはどう?」
「いいけど、タイミングよく観たい映画なかったらどうするんだ?」
「その時は・・・その時やってる映画の中で一番つまらなそうなものを観る。とかは?」
「面白そうだな、それ」
「いいでしょ?決まりね!」
「まゆはいつも変なこと思いつくな」
「へへ~、誉め言葉として受け取っておきます」
そう言って笑うまゆを見て、僕は思った。僕が誰かの背中を押せたのだとしたら、それは全部、まゆが僕の背中を押したのだと。でも、まゆの笑顔を前にするとその言葉はあまりにもくだらなく感じ、胸の奥にそっとしまい込んだ。
1999年12月24日。『運命の日』まで8年5か月と、25日。
この日は中学校の2学期終業式の日だった。明日から短い冬休みが始まる。まゆとの待ち合わせは、駅に13時。11時に終業式が終わるから、家に寄って着替えてから向かっても30分くらいは余裕がある。あくびをしながら校長先生の話を聞いて、飛んでいきそうな意識のなか、待ち合わせまでの逆算だけはクリアに計算していた。
11時。担任の小島先生から冬休みの注意点を伝えてもらい、ついでに宿題まで出され、時間通りに解散になった。クラスメイトと軽く挨拶を交わし、少し足早に廊下を歩き、昇降口で土足に履き替えた。今日は上履きを持って帰らないと。
「正人!」
少し離れた場所から声をかけられた。まだ踵が靴に入っていない右足のつま先で地面をたたきながら振り返ると、そこには葵が立っていた。
「よう、明日から冬休みだね」
葵はうちと同じマンションに住んでいて、小学1年生の頃からの幼馴染だ。見かけも中身もボーイッシュというか男勝りで、今年の夏からバレー部のキャプテンを務めている。喧嘩をよくするようになった小学生中学年頃からはあまり話さなくなったが、最近はまたよく話す。
「どうした?何か用か?」
「相変わらず嫌になるくらい落ち着いているわね」
「別に、葵に声かけられたくらいじゃ焦らないよ。付き合い長いしな」
「私は急に後ろから声掛けられたら、誰からでもびっくりするけどなぁ。それがあんたでも」
「俺をびっくりさせたかったのか?」
「別にそんなんじゃないわよ」
「何の会話だよ?これ。葵は冬休み部活か?」
「年末と正月以外はね。冬は手が痛いのよ」
「バレーボールって痛そうだもんな。大変だな」
「絶対思ってないでしょ!めっちゃ他人事。・・・・ああもう、私の話はいいのよ」
「何かあったのか?」
「あんた、今日はもう帰るの?」
「あぁ、そのつもりだけど」
「・・・時間ある?」
急に葵から笑顔が消え、声も真面目なトーンになった。
「え、まぁ、少しなら?」
「じゃあ、帰りに中庭寄ってあげて」
「中庭?あげて?誰かいるのか?」
「うん。行けばわかるよ」
「誰がいるかは教えてくれないのか?」
「いいから行って!」
葵に両手で腰を押され、背中が反るような体勢で昇降口から押し出された。
「いてて、分かったよ、行けばいいんだろ。相変わらず力強ぇな」
軽く冗談を飛ばしたつもりだったが、まだ葵は神妙な面持ちをしている。少し距離があったが、寂しそうな表情がよくわかった。
「あんたに彼女がいることは、ママから聞いてる。だけど、ちゃんと向き合ってもらわないと、前を向けないのよ」
少し俯き加減に葵はそうつぶやいた。葵の母親とうちの母親は仲が良い。加えてうちの母親は勘が良い。つまり女は怖い。そんなことより、葵が何を言っているのかさっぱりわからない。
「いったい、何の話しているんだ?」
「・・・ちゃんと、聞いてあげてね」
葵は僕の質問には答えずにそう言うと、廊下を走って行った。奥の方から先生に注意される声が聞こえたが、葵の足音はやまなかった。
外に出ると、冷たく乾いた空気が鼻腔を刺した。天気は良く、透き通った空が校舎の隙間からのぞいていて、呼吸に合わせて白い靄が風に乗る。冬の中庭は色を失っていて、昇降口から少し離れるとまるで別の世界みたいに静かだった。奥のベンチには、真っ赤なマフラーを巻いた紗奈が一人で座っていた。その赤だけが、夏や秋が脱皮をした抜け殻みたいな景色の中に、鮮やかな色を落としていた。
「磯山・・・?」
僕は思わず紗奈を呼んだ。その声に反応し、こちらを見て僕を認識すると、驚いた表情を見せた。どうやら僕が来ることを知らなかったようだ。
「え?正人?どうして?」
「いや、葵に中庭行けって言われて・・・誰かが待っているみたいなんだけど、磯山知らない?」
「そ、そうなの?私も葵にここで待っててって言われて・・・」
「え?じゃあ葵が言っていたのは磯山のことか?なんだよあいつ、どういうつもりだ?」
「えっと・・・」
別にわからないならそう言えばいいのに、らしくもなく紗奈はたどたどしくして、言葉を詰まらせていた。
「まぁ、せっかくだし磯山と少し話すか」
右手で後頭部を掻きながらそう言って、紗奈の隣に座った。座る位置を微調整したり、頭を不自然に掻いたり、なかなか紗奈は落ち着かない。
「どうした?そわそわして。らしくない」
「な、なんでもないわよ」
そう言いつつも、紗奈はしきりに髪をいじっている。いつもと様子が違ったが、それがどうしてかはわからなかった。指摘してもどうせ否定されて終わるだけなので、気にしないようにした。
「もうすぐ今年も終わるな。なんか、この一年はいろいろあったな」
特に何も話すことがなく、無難に話題を選んでそう言った。こちらを見る紗奈の顔が少しほころびた。落ち着いたのか、だんだんいつもの調子に戻っていく。
「・・・そうね、あんたは特に変わったわ」
「なんだか皆からよくそう言われるよ。葵にもめっちゃ言われるし。俺自身、あんまり変わったつもりはないんけどね」
「あんたが変わったというより、皆があんたの良さを分かってきたっていう方が正しいわね」
「どうだか。確かに学校で話をする人は増えたけど、結局皆本音では話してないからな。喧嘩やめたっていうのも、表面的なものだし」
「贅沢言わないの。だいたいそんなもんよ。怖がられているよりいいんじゃない?」
「まあ、それもそうだな」
僕はそうつぶやくと、紗奈から目を逸らして空を見上げた。温度は目に見えないが、冷たい空気が優しく吹いている。
「磯山は・・・磯山だけは変わらなかったな」
「え?」
紗奈は虚を突かれたような表情を見せた。
「俺が榊原と喧嘩していた頃、皆は怖がって俺を避けたのに磯山だけは毎日声をかけてくれた。喧嘩をやめた後は、皆がコロっと態度を変えたのに磯山だけはそれまで通り接してくれた」
「・・・まぁ、私は変わる必要がないからね」
「今思うと、単純なようでそれにずいぶん助けられていた気がする。感謝してるよ・・・ありがとう」
「な、なによ、急に。気持ち悪い。褒めても何も出ないからね」
「別に褒めてないし、何も求めてないって。まぁ強いて言えば、多分今日で今年話をするの最後だしな。時には真面目な話を」
「ここで紅の豚を文字ってくるのはあんたらしいわね」
「お、さすが。伝わった」
「毎日あんたとバカみたいな話してきたからね」
「はは、やっと調子戻ってきたな」
「え?」
「今日の磯山、なんかちょっと変だったぞ」
「・・・別に、そんなことないわよ」
「よし、磯山にお礼も言えたし、そろそろ帰るか」
そう言って立ち上がり、紗奈に振り返った。
「今日もこれから部活だろ?体育館でキャプテンが待ってるぞ。早く着替えて行ってやれ。毎日寒いけど風邪引くなよ」
そういって手を振り、何か言いたげな紗奈の返事を待たず背を向けた。
「ねぇ!」
ゆっくりと校門の方へ向かい中庭を出ようとした時、背中から声が聞こえた。この感覚、どこかで覚えがある。
声に振り返ると、紗奈が両手でブレザーの裾を握りしめて立っていた。真っ赤なマフラーが、さっきよりもずっと目を引く。少しの沈黙のあと、その小さな口からこぼれた言葉は、思っていたよりずっとストレートだった。
「私じゃ・・・だめ?」
「・・・え?」
紗奈の言っていることの意図が分からず、思わず聞き返した。
「私じゃ、あんたの彼女になれないの?」
「は?彼女・・・?え?」
「ああ!もう!これだから鈍感は!・・・私はね、あんたのことが好きなのよ!」
突然の告白に言葉が詰まった。いつも仲良く話してはいたが、そんな風に思ったことも、そんな風に思ってくれているとも、露とも思っていなかった。一瞬冗談かと思ったが、いつもと違う紗奈の真剣なまなざしは、すぐに違うと僕に示した。
「う、うそだろ、え・・・いつから?」
「ほんとよ。一年の頃、ずっと前から」
「まじか。でも俺は・・・」
「知ってる!分かってる。・・・あんた、好きな人いるんでしょ?」
紗奈は少し喰い気味に言葉を重ねてきた。続く言葉を僕に言い切らせたくないかの様に。
「・・・ああ」
「その人が、あんたを変えてくれたのね」
「・・・そうだ」
「そっか・・・」
紗奈は寂しそうなのか、吹っ切れたのか、自分でも感情がはっきしりないような、複雑な表情をしていた。たぶん、そのどちらでもあったのだと思う。
「私はずっと、喧嘩ばっかりしているあんたに変わってほしいと思っていた。だからあんたが喧嘩をやめてくれた時は本当に嬉しかった。でも、それは結局私には変えられなかったってことだったのよ。だから、私じゃないのは分かっている」
紗奈はずっと、僕のことを想って心配してくれていた。こんなにそばにいた紗奈の気持ちを、僕は何ひとつ気付ていなかった。紗奈の瞳をまっすぐ見ることが出来ない。
「磯山・・・」
「こんなこと伝えてからだと、あんたも色々気になっちゃうかもしれない。今まで通りって言うのも難しいと思う。わがまま言っているのはわかっているけど、これからも友達として変わらず接してほしい・・・お願い」
紗奈は何かに怯えるように目を閉じている。こんな面持ちの紗奈は初めて見た。遠くからは、中学生の楽しそうな笑い声が小さく聞こえてくる。その間に、世界をまたぐ壁を感じた。
「・・・俺は、磯山の気持ちに全く気が付かなくて、きっと今まで無意識に余計なことを言って傷つけてしまったかもしれない。そしてそんなことすら覚えていない。心当たりもない。そんな俺でも、これからも友達として接してくれるのか?」
その言葉は風に乗り、紗奈の耳に届いた。それを僕に伝えるかのように、紗奈がその目を開く。
「うん、もちろん。あんたが良ければ。それにイライラしたことはたくさんあったけど傷ついたことは一度もないし」
紗奈が含みのある言い方でそう言った。その表情は、いつの間にかすっきりしている。
「・・・なんだか、その言い方怖ぇな」
「あらそう?私は優しいからちっとも怖くないよ?」
「分かったわかった。いいからもうやめろ」
先ほどとは変わり、和やかな雰囲気が僕らを包む。
「彼女のことも応援しているから、今度写真でも見せなさいよ?」
「ありがとな、写真は覚えていたらそのうちと言うことで」
「全く、あんたは」
写真はやんわりと断った。紗奈にもそれが伝わったはずだが、それでも崩れなかった紗奈の笑顔が印象的だった。それから少しまゆとは関係のない会話を交わしたが、すっかりいつも通りの紗奈に戻っていた。少し気まずくなるかと思っていたから、安心した。
それから紗奈と別れ、一旦家に帰って着替えてから駅に向かった。自宅は学校と駅のちょうど間にある。家から学校に行くにも遠いのに、当然学校から駅に行くのはもっと遠い。でも、一度家に帰ることで気持ちがリセットされ、そんなに長く歩いていたようには感じない。人間の感覚は不思議だ。これからまゆと会えるという期待が、僕を突き動かしているのだろうか。
その日は計画通りランドマークタワーからクイーンズスクエアを回り、映画を観て、少しワールドポーターズを回ってから大さん橋に行った。夕暮れの横浜港の景色を堪能できるほどの人生経験を二人は持ち合わせてなく、そんなに面白いものではなかったが、まゆがフナ虫が苦手ではないというということが分かった。カサカサと動くフナ虫は気持ちが悪く、僕は見ているだけでぞっとしたものだが。そのままゆっくり二人で手をつないで関内駅に向かい、電車で港南台に戻ってきた。
「今日も楽しかった」
「うん、俺も楽しかった」
「また行こうね!」
「ああ、そうだな」
「・・・でも」
「でも?」
「いつも駅着いたら反対方向に帰らなきゃいけないのが、少し寂しい・・・」
言葉とは裏腹に、寂しそうではなく不服そうな顔をしている。眉間にしわを寄せてほほを膨らませているまゆは、いつ見ても可愛い。
そんな話をしていたとき、まゆの背後から一人の女性が近づいてきた。気づく間もなくまゆの肩に手が置かれ、そのまま二人のあいだへ自然に入り込んでくる。まゆが反射的に声を上げた。
「お姉ちゃん⁉」
「ようお二人さん、お似合いですな」
おねぇちゃん???
「正人君、だよね?いつも妹がお世話になっています。真優の姉の真衣です」
「あ、お姉さん⁉いや、え、あ、どうも、こちらこそ」
たどたどしく頭を下げながら、僕はまゆと真衣さんの顔を見比べた。ショートカットでボーイッシュなのに、綺麗で柔らかい印象を受けた。まゆとは全く雰囲気が違っていたが、笑ったときの目元だけがとてもよく似ている。まゆがもつ笑顔の秘密が、少しだけ分かった気がした。
「お姉ちゃんどうしてここにいるの?今日はバイトじゃなかったの?」
「今日はバイトが早く終わったからね。まさか会えるとは思ってなかったよ。賄い食べずに帰ってきて正解だったわ」
「そっか、お姉ちゃん、ずっとまさとに会いたがっていたもんね」
「そうよ。ほらほら、早く紹介して」
「ああ、ごめんごめん。まさと。この人は私の5つ上のお姉ちゃん。名前は真衣」
「よろしく。会いたかったよ」
「え、ああ、はい。会いたかったってことはもしかして・・・」
「うん、そう。この子家ではあなたの話しかしてない」
「やめてぇぇ、何でそんなこと言うの⁉まさと、そんなことないからね!・・・あ、そんなことないっていうのもないか・・・あぁ、私はどうすれば・・・」
まゆが一人で暴走して頭を抱えている。
「この子恥ずかしがらせるとすごく面白いから、今度試してみて」
「お姉ちゃん!」
・・・まゆを手玉に取っている。さすが姉は強い。まぁ、まゆが恥ずかしくなると面白くなるのは心当たりがあるが。
「そうだ、今度うちに遊びにおいでよ。まだ二人妹いるし、皆歓迎するからさ。あと、私は5つも年上だけど真優の家族だし、敬語はいらないからね」
真衣さんの言葉はひとつひとつとてもはっきりしていて、その言い切る口調からは強さとやさしさがにじみ出ている。すごく頼もしく映った。
「妹はいるって聞いてたけど、会ったことはないな」
年上に敬語を使わないのは少し気が引く気もしたが、気を使わせると思いすぐにため口にした。
「そう、真優の3つ下に、双子でね」
「双子?それは知らなかった。そういえば今までそういう話あまりしてこなかったな」
「そうだね、二人の話ばっかりだったからね。ちなみに、妹の名前は真奈と真実、私たち4人は皆名前に『ま』が付くんだよ」
「へぇ、そうなんだ。すごいね」
「まさと・・・あなたもよ。すごい偶然だねって家族で話してるんだ」
「あ、ほんとだ。自分の名前なのに言われるまで気づかなかったよ」
「私たちはいつも、真優からあなたの話を聞いて、会いたい、仲良くしたいって思っているんだよ。これからも、真優のことよろしくね」
真衣さんが優しく、そしてはっきりとそういった。真優のことをとても大切に思っている気持ちが伝わってくる。こんな立派な人に頼ってもらえることを嬉しいと思うと同時に、少しプレッシャーに感じた。こういう時に身が引き締まるというのか。
「こちらこそ、よろしく」
少したどたどしく言った。その様子をまゆがニコニコしながら見ている。
「もう、なんなのよ、二人してかしこまっちゃって」
明らかにまゆは照れていて、左腕のほとんどを覆っている袖から、人差し指の第二関節から先だけを出し、僕の脇腹を刺してきた。僕はここがとても弱い。何度やられてもひるむ。
「だから、脇腹を刺すな」
僕の反応を見て、まゆがお腹を抱えながら笑っていた。真衣さんも笑っている。楽しそうな二人をみて僕も思わず口許がほころびた。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
「うん、そうだね。気を付けて」
二人に手を振り、背を向けて歩き始めた。ポケットに手を入れ、肩をすくめて無意識に寒さを和らげようとした。長く吐いた息がマフラーの様に首元にまとわりつく。突然、背中にぬくもりを感じた。まゆが追いかけてきて背中から抱き着き、僕の右肩から左ほほを寄せながら顔を出してきた。
「まさと。メリークリスマス。今日も楽しかった。いつもありがとう。またね」
そう小声で言うとすぐに離れて真衣さんの方に走って戻って行った。振り返ると、まゆが今度は真衣さんに飛びついて、二人がくるくると回っている。まゆが真衣さんに甘えているのがよくわかる。はしゃいで大きな口を開けて笑う姿を見て、なんだか安心した。僕が二人を見ていると、二人もこちらに気が付き大きく手を振ってきた。僕も振り返し帰路に着いた。
その年は次の日から4日間の冬期講習があり、講義が終わった後はいつも通りベンチでまゆと過ごした。年末には家族で母方の実家へ行き、正月が明けてから戻ってきて、また4日間の冬期講習後半戦が始まる。結局、冬休みは冬期講習と新潟で過ぎていった。そして一月は往き、二月は逃げ、三月は去る。ものすごい勢いで時間は過ぎ、あっという間に人生で一度しかない中二の一年が終わった。男子中学生は成長期だと言うけれど、この一年を振り返ると、成長したというより少し老けたような気さえした。取り込んだ情報が多すぎて、うまく処理しきれていないような感覚だ。そういえば、榊原は誰もが名前を聞いたことのあるような私立高校に受かったらしい。ネクタイをきちんと締め、髪も整え、制服を正して卒業証書を受け取る姿は、もう以前の彼とは別人だった。あれから榊原と言葉を交わすことはなかったけれど、そんな後ろ姿を見られたことが、なんだか少し誇らしかった。良い意味で変わった榊原を面白く思わない人が多くいたことも知っていたし、その気持ちも分からなくはなかったが、僕は心からよかったと思った。
まゆと想いを伝え合ってからも、二人の時間はいつも通りで、それはとても特別なことだった。その日常の中でも季節は巡り、やがて受験や将来を意識する時期が、僕らに少しずつ近づいてくる。
あれから紗奈とも普段通りに会話が出来、年末のことがなかったかの様だった。新学期に入ってから紗奈と会うのが少し怖かったが、それも普段通りで安心した。それでよかったのかどうか、当時の僕にはわからなかったが。
瑛史郎は結局あの後連絡は取れず、塾にもベンチにも来なかった。瑛史郎と同じ中学の人たちと知り合いもいなかったので、誰にも聞けず状況は分からないままだった。でも不思議と寂しさや喪失感はなかった。塾に行っても親友である瑛史郎には会えず、学校に行けば1年前には目も合わせなかったクラスメイトと談笑している。以前とは全く異なるそんな日々を、少しだけ違和感を持ちながら繰り返していた。
短い間に色んな感情が行き来していたが、我ながら落ち着いていた。自分ではどうすることも出来ないことだらけで仕方がないとあきらめていたところもあったが、今思えば、僕の傍にまゆがいればどうにでもなると思っていたのだろう。そして、僕の人生が変わったと言っても過言ではない、13歳が終わる日が来る。
2000年3月18日。『運命の日』まで、8年3か月と、1日。
この日は、僕の14歳の誕生日だった。年明けから何かと予定が合わず延びていたけれど、今日はまゆの家に招かれている。11時、いつもの駅で待ち合わせると、まゆは僕の顔を見るなり、ずっと胸にためていたみたいに声を弾ませた。
「まさと!誕生日おめでとう!」
会って開口一番そう言ってくれた。ずっと言いたかったらしい。
「ありがと。無事に14歳になりました、とさ」
「へへへ、やっぱり誕生日来ただけじゃ何も変わらないね」
「誕生日来ただけで成長出来たらそりゃあ楽だろうな」
「別に、そんな言うほど普段から苦労もしてないくせに」
「これでも精一杯頑張っているつもりですよ」
「見えな~い」
「うるさい」
「ははは!じゃあ、行こっか」
くだらないやり取りを交わしたあと、まゆは当たり前みたいに僕の手を取った。いつものベンチの前を通り、公園脇の坂を下っていく。
「ここから家まで10分くらいだっけ?」
「うん、いつものベンチの前を通って、公園の隣の坂を下ったら着くよ」
「へぇ、意外とまっすぐなんだね」
二人で歩きながら話をしていた。まゆが急に話を変えてくる。
「実は今日、まさとに話したいことがあるんだ~」
まゆはこっちを向いて笑顔を向ける。
「ん?なに?」
「去年の3月18日は、塾でまさとを初めて見つけた日なんだ」
「そうなの?」
「うん、それからなかなか勇気出なくて、声かけるのに1か月もかかったよ。あの時の1か月が人生で一番長かったな。まさか誕生日だったなんて」
まゆはうれしそうに笑った。僕はその日を何ひとつ知らないままいつも通り過ごしていたのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
「そういえば、どうしてあの日俺に話しかけたんだ?」
「お、気になる?気になるよね~、聞きたい?」
僕の右腕にしがみついて上目遣いで見上げながらそういった。「どうして~」辺りから食い気味に。
「うん、まぁ・・・そうだな。それよりもその言い方はなんなんだ?」
「それはね~」
「・・・うん」
進行方向を向き直したまゆがうまく間を空ける。その横顔は真剣に、ここでは無い遠くを見つめているように感じた。その空気感が僕にも伝わり、少し緊張した。唾を飲み込むと「ゴクリ」と響きそうだ。
「・・・ひみつ」
「なんだよ」
「へへへ~、秘密!」
「分かったよ、2回も言うな。全く、変な緊張感出して」
「ちょっとドキドキしたでしょ?」
「ああ、なんか変な感じした」
「へへへ~やったね!」
「え?まさかほんとに教えてくれないの?」
「だって、秘密って言ったじゃん」
「マジかよ」
「いつか教えるよ。いつか」
「はいはい」
「あ~!信じてない」
「そんなことはない。でも期待もしてない」
まゆの言う通り、10分程度で家の前に着いた。まゆの家は一軒家で、門構えもしっかりしていた。敷地はそこまで大きくないが、小さな子供用のビニールプールが入るか入らないかくらいの小さい庭があるだけで駐車場もなく、家は近く大きく見えた。昔ながらの青い瓦の三角屋根をかぶり、家の白い肌が映える。門の目の前に玄関扉があり、その上に観音開きの窓が見える。2階の窓だろうか。その窓は白いレースのカーテンで覆われ、薄いスカイブルーのカーテンが窓の端から少し顔を出している。緊張している僕をよそに、まゆの足取りは軽く門を開けてすたすたと入っていく。まゆの頭からはまるで音符が跳ねているように見え、門は「キィ」と明るく鳴く。
「さあ、入って」
僕は促されるまま、門に手をかけて敷地をまたいだ。僕の体が全て門を通ると、まゆは門を閉めて今度は玄関のドアノブに手をかけた。そういえば、だれかの家に来るのは何年振りだろう。
「ただいま~」
躊躇なくドアを開けてまゆが大きな声でそう言った。奥からパタパタと足音が聞こえてきて、茶色とオレンジ色のビーズののれんを左手でかき分けて真衣さんが顔を出した。白字で「SHUTUP!」と書かれた黒いエプロンを着ている。その時は意味が分からずなんとも思わなかったが、ずいぶんとシュールなエプロンだ。
「来たね。待ってたよ。さあさあ、上がって上がって」
「お邪魔します」
そう言って靴を脱いで玄関に上がった。脱いだ靴をかがんで揃えていると、2階からドタバタと低い足音が聞こえてきた。振り返ると、真衣さんの脇から顔がもう一つ出てきた。まゆにそっくりな顔で、にやにやしている。
「こんにちは!」
元気な声が飛んできた。まゆが初めて僕に話しかけた時みたいに張りのある明るい声だ。
「こんにちは」
僕がそう答えると、もう一つの顔は両手で眉間からあごを覆い、キラキラした目でこちらを見ていた。
「あれ妹?」「うん、こっちは真奈」
まゆと耳打ちをした。なぜか小声になる。別に聞かれてもいいんだけど。
「ほんとに来たぁ~、真実、早く早く!」
真奈は降りてきた階段を見上げ、手招きしている。先ほどと全く同じ足音が聞こえてきたと思ったら、全く同じ顔が出てきた。先ほど似ていると思ったまゆとは全然似ていないようにさえ見える。
「・・・こんにちは」
真奈より真実の方が少し緊張しているのか、階段の壁からのぞき込むように僕を見ていた。挨拶はしっかりしていたが、真奈より少し元気が無いように感じた。
「こんにちは。お邪魔します」
そう言って目が合うと真実は壁の裏に引っ込んでしまった。双子で顔や足音は似ているが、性格は違うものなのか?
「そっくりでしょ?真奈と真実」
まゆが僕の隣でつぶやくように言った。うん、とうなずく。
「たまに、イタズラでわざと入れ替わるのよ。あの二人が本気で入れ替わったら家族でも本っ当に見分けがつかない」
「あの二人、そんなことするんだ。面白いね」
「そう。あの二人の悪い趣味」
まゆはそう言って眉間にしわを寄せながらも嬉しそうだった。真衣さんが場を仕切る。
「さあ、もうすぐお昼ご飯出来るから、それまで部屋にいなよ。正人も上がって」
「はーい。まさと、私の部屋に行こう」
まゆがそう言うと、真奈と真実は降りてきた階段を駆け上がって行った。ふたりを追いかけるように、僕らも少し急な階段を上がる。まゆが部屋の扉を開け、僕を先に通した。6畳ほどの広さに、少し大きめのベッド、学習机、小さいテーブルに鏡、壁には壁掛けの鳩時計。左手には観音開きの窓があった。その脇には見覚えのあるスカイブルーのカーテン。
「あれ、ここって・・・」
窓から外を見た。思った通り、先ほど通った家の門がすぐ下に見える。
「どうしたの?」
後から入ってきたまゆが僕の隣に立ち、同じように窓から外をのぞき込んだ。
「やっぱり。まゆの部屋、玄関の上なんだね」
「そう!一番いい部屋もらっちゃった」
「窓、開けてもいい?」
「うん、いいよ」
窓を開けると、暖かくなってきた春の風が入り込んだ。まゆの髪がふんわり靡く。この家はT字路の突き当りになっていて、いつものベンチからまっすぐ降りてきた先になる。厳密に言うと少しずつカーブしている上、そこまで近くもないのでベンチはここから見えはしないが。
ふいに、まゆは僕の右肩へ頭を寄せ、指先をそっと絡めてきた。
「私ね、まさととベンチで話した後、まさとがあの坂を走って追いかけて来ないかなっていつも思ってるんだ。歩きながら何度も振り返っちゃって。そんなことないんだけどね、道が曲がってうまいこと先が見えないからこそ、そう妄想するのがいつも楽しいの」
寂し気に、それでいて嬉しそうにまゆは続ける。
「友達にも彼氏がいる子がいて、その子はいつも、彼氏だから~、彼氏なのに~って文句言ってる。きっとその子もその彼のことが大好きで甘えてるんだと思うし、別にそれも良いと思う。だけど、私は少し違うんだ」
「うん?どういうこと?」
「……私は、あなたを恋人で彼氏だと思ってる。家族にも友達にもそう話してる。でも、あなたが彼氏だから会いたいわけでも、そばにいてほしいわけでもない。私があなたを好きな理由に、その言葉を言い訳みたいに使いたくないの。あなたが私にとってどんな存在だったとしても、きっとこの気持ちは変わらなかったと思う」
まゆの言葉はまっすぐ僕の心に響いた。僕も瑛史郎や紗奈にまゆを彼女と表現されていたが、なんだか違和感があった。それがなぜなのか、この言葉でわかった気がした。まゆは窓枠に手をかけ、正面の坂の上に目を向けて続ける。
「きっと、まさとに声をかけられなくてあのままだったとしても、今と同じくらいあなたのことはずっと好きで、今と同じ気持ちでこの窓からまさとを見ていたと思う。だけど、私はあの日あなたに声をかけ、気持ちを伝えられた。そしてあなたはそれに応えて、ありのままの私を受け入れてくれた。そしてたくさんそばにいて、たくさんあったかい気持ちにさせてくれる。それを、私は当たり前だと思ってはいけないの。ずっと大切にするよ。あなたのことも、今の私の気持ちも」
まゆはそう言い切ると満面の笑みで僕を見上げた。いつもはおちゃらけて見せるまゆは、たまにこんな大人びた言葉を僕に伝えてくる。その度に僕はまゆの想いの深みを知り成長しているように思える。まゆの笑顔を見ながら、早くこのまっすぐな思いを全て受け止め、応えられるようになりたいと思った。14歳になったとたん、自分が幼く感じた。
しばらく部屋でまゆと話をしていると、1階からごはんが出来たと真衣さんの声が聞こえてきた。部屋の外からは真奈と真実が話しながら階段を下りている声と気配がする。
「降りようか。お姉ちゃんのカレー、美味しいんだ。インドカレーのお店でバイトしているからね!」
「そうなの?それは楽しみだね」
「行こう行こう」
階段を降りてリビングに入ると、スパイスの香りがふわりと広がった。真衣さんのカレーを囲んで、五人でテーブルにつく。最初は少しぎこちなかったのに、真奈と真実の無邪気さに引っ張られるみたいに、いつの間にか僕も自然に笑っていた。
「もしかしてまさと・・・」
話の腰を折る様に、まゆがつぶやいた。
「どうした?」
「真奈と真実、見分けついてる?」
確かに顔はそっくりだったが、仕草や表情でなんとなく違うことはわかっていた。
「うん、なんとなくわかるよ」
「へぇ~。お兄ちゃんすごいね!」
真奈が驚いた表情でそう言った。真実がカレーを食べながら上目遣いで僕を見上げる。
「学校のクラス違うけど、髪型とか変えないと誰も分からないよ」
「そうなの?」
「うん、仲の良い友達はもう皆諦めてる。そうでもない人はもうどっちでも気にしてない」
「それって、結構困らない?」
「大丈夫!いぃ姉とゆぅ姉はわかってくれるし、学校の授業以外はいつも一緒だから友達も一緒。たまに同じ髪にして入れ替わって授業受けてるしね!」
「さすがに先生は気が付くんじゃない?」
「ううん、全然!実際やると結構ひやひやするけど」
真奈は屈託のない笑顔でそう言っていた。真実も真奈と時折向き合いながら同じ顔をしている。やはりそっくりだ。
「だから、初めて会ったのに分かるのすごいね!」
「そうかな、分からないことも無いと思うけどなぁ」
「さすがゆぅ姉の恋人だね!」
話しているのはずっと真奈だ。
「ゆぅ姉って・・・?」
「真優お姉ちゃんのこと!真衣お姉ちゃんはいぃ姉!」
「なるほど、呼びやすいね」
僕はまゆに顔を向けながら答えた。
「うん。私もお姉ちゃんも結構気に入ってる。まさとは呼んじゃだめだけど」
「分かったよ、ゆぅ姉。・・・イテテ、つねるな」
真衣さんは微笑みながら皆が食べ終えた食器をまとめている。
「ねぇねぇ、どっちから?」
今度は真実。
「どっちから・・・って?」
「どっちから言ったの?」
「言ったって、何を?」
意図はわかっていたが、分からないフリをした。
「え~?どんか~ん!」
「きっととぼけてるんだよ」
「そうだね、これははっきり言ってあげないと」
「うん、言おう言おう」
二人がまくしたてるように話をすると、交互に顔を向けなければならないため首が疲れるが、二人の幼さが愛らしくてとても心地よかった。真衣さんも僕やまゆを見てこんな気持ちなんだろうか。
「やめなさい」
まゆが二人を制止した。きっと答えたくないんだろう。僕は少しにやけてまゆの顔を覗き込んだら思った以上に真顔だった。
「なに?」
まゆが鋭い目つきでこちらを見た。
「こわ~」
「ゆぅ姉!そんなに怒ると老けるよ!しわくちゃ!」
「うるさぁい!まだ中学生!肌もぴちぴち!それより、それは聞いちゃダメって言ったでしょ」
「だってゆぅ姉に何回聞いても全然教えてくれないんだもん!」
「何回聞いても教えません!」
「今はゆぅ姉に聞いてないじゃんか!」
「誰に聞いてもダメ!まさと、絶対言っちゃダメだからね!」
「そんなムキになるのか?まぁ、言わないけど」
「えぇ~」
ここだけ真奈と真実の声がそろった。全く同じ声をしていることが分かるほど、重なっている感じに聞こえなかった。まゆはいつもこの二人を相手にしているのか、大変だな。
「こらこら」
真衣さんが双子の後ろに立ち、両手のげんこつで二人の頭をこつんと叩いた。エプロンのSHUTUPが異様に目立つ。
「真優が嫌がってるから、あんま聞いてやんなさいな」
「ぷ~」
「ぷ~ぷ~言わない。ほら、もっと正人のこと聞きなさいよ。せっかくなんだから」
「俺のことはなんでもいいよ。まあNGはあるけど」
「えぇ、じゃあねぇ・・・」
それからも、五人でとりとめのない話をたくさんした。まゆの明るい声に心が安らいで、双子との愉快な掛け合いに微笑み、真衣さんの優しい心遣いに助けられ、帰るころには僕もすっかりこの家の空気に溶け込んでいた。まゆが毎日この楽しい空間で笑っているのだと思うと、なんだかうれしかった。
「じゃあ、帰るよ」
玄関で靴を履き、まゆに振り返ってそう言った。まゆの後ろには真衣さん、真奈と真実が立っている。来た時とほとんど同じ位置だ。
「本当に送らなくて大丈夫?」
「大丈夫だよ。まだ夕方で陽もあるし」
「分かった。気を付けてね」
「じゃあ、真衣さん、ご馳走様。カレー美味しかった」
「うん、またおいで。ホールの私でよければいつでもカレー作るからさ」
「絶対キッチンでしょ。あのカレー」
玄関の扉を開け一歩踏み出すと、追加で声が飛んできた。
「さと兄ちゃん!」
さすがに後ろからではどちらが言ったかはわからない。
「また来てね!」
「今度はトランプしよ!スピード!」
振り返ると真奈が真実の頭の上に顎を乗せた状態で横に揺れていた。二人とも綱渡りでバランスを取るように両手を伸ばしている。二人は一つ一つの仕草が本当に可愛らしい。
「ああ、分かった。約束な」
「うん!またね!」
二人の声に押されるように外に出ると、長くなってきた陽が足元を照らした。西側の大通りに向かう道から夕陽がこぼれている。暖かくなってきたとは言え、3月の夕方は少し肌寒い。左足から僕より背の高い影が横たわり、歩くと僕に合わせて一緒に跳ねる。少し坂を上って振り返ると、ちょうど2階の窓からまゆが顔を出すところだった。偶然目線の高さが同じ位だ。少し遠い。
「まさと!」
まゆが大きく右手を振っている。続く声を僕に届かせるために、窓から身を乗り出し両手を口元に添えた。
「今日もありがとう!楽しかった!」
その声が届いたことをまゆに伝えるため、いつも通り腕を上げて手を振った。まゆは口元の両手をまた頭の上に持ち上げ、振り続けている。前を向き直して少し歩き、少し名残惜しくてまた振り返ったら、まゆはまだ窓を開けてこちらを見ていた。すぐに手を振り直す。大きく手を振るその姿に応えながら思った。――本当に、まゆに出会えてよかった。
その次の週に終業式があり、何事もなかったかのように人生で一度切りの中2の一年間が終わった。すぐに春期講習があり、春休みの70%くらいが費やされた。そういえば、僕はもう受験生だ。まゆとはいつも通り授業後にベンチで話し、たまの休みにデートで出かけたり佐藤家の4姉妹と過ごした。学校生活も順調で誰とも喧嘩せず普通の中学生活を送った。毎朝紗奈ともくだらない話をして、授業中寝て先生に怒られて、塾に行って受験勉強をしてまゆと話して・・・そんなかけがえのない日々を送っていた。そんな楽しい時間はとても早く過ぎ去り、あっと言う間に年末になった。そういえば2000年に世界が滅ぶようなことを言っている人がいたとかいないとか。誰だっていいが、滅ばなくてよかった。
2000年12月24日。『運命の日』まで7年5か月と、25日。
クリスマスが今年もやって来る。もうサンタが自分の元にやって来ないことは理解していたが、それでもクリスマスはなんだか心が弾む。まゆは誕生日や付き合った日みたいな記念日はあまり気にしないが、なぜかクリスマスだけはとても気にしていた。毎年映画を観る約束をしたくらいに。今日のことも2か月も前から話をしていて、会う度に楽しみだと言っていた。まだ何の映画が観られるかもわからなかったのに。
「へへ、おまたせ」
珍しく僕の方が早く駅に着いていた。待ち合わせの時間には間に合っていたので、まゆが遅かったというわけではなかったが。
「あれ?制服?」
「・・・うん」
「珍しいね」
「キリスト教の学校はクリスマス大変なのよ」
「察したわ」
「詳しくは聞かないでもらえると助かるわ」
心なしかまゆの顔がげっそりしている。詳しく聞くと暗くなりそうだ。
「そうだな、お疲れ様」
「ありがと。久しぶりのデートだから、今日は目いっぱい楽しもう!」
急に元気になったまゆはそう言うと、僕に腕を組み改札へ引っ張って行った。いつも通りの光景だが、飽きることなど一度もなかった。
去年と同じように桜木町に行き、今日は先に映画を観た。今回は互いに観たい映画がなかったのでつまらなそうな映画を観たら、意外と世界観に入り込めて楽しかった。夕方には映画が終わり、いつも通りワールドポーターズやクイーンズスクエアで買い物をしながら歩き回っていたらすっかり陽が沈んでいた。何気なくバルコニーに出て、ベンチに座った。あの日と同じベンチだ。あの日と同じように、観覧車が煌々と色をまとっている。
「ここ、覚えてる?」
「忘れるわけがないだろう」
「そうだよね、いや~、あの日は緊張したなぁ」
「そうなの?」
「そうだよ!本当に、心臓吐くかと思ったんだから」
「でもまゆ、俺の気持ちバレバレって言ってたじゃん。そんなんじゃ緊張もなにもないでしょ」
「そうだけど、そういうときは万が一を考えちゃうの!あ~、思い出したらまた指先ひりひりしてきた」
膝の上に肘を立て、指先をこすり合わせる仕草をした。寒いからか、息を吐きかけている。
「そういえば、まゆ。今年は手袋しないね。俺はもともと好きじゃないからしないけど」
「おや、気が付きましたね?」
ニヤついてこちらを見てくる。僕は顔をしかめた。
「うわ、やなまゆ出た」
「やなまゆって言わない」
「どうせいつもの理由言ってくれないやつでしょ?」
「それはあなた次第です」
「やなまゆじゃん」
「あはは。確かに、それもそうだね」
「自覚あるんじゃん」
「意地悪している、って自覚はあります」
「やなまゆだ~」
「分かった分かった。じゃあ今回は特別に教えましょう。・・・はい」
まゆが左手を出してきた。何のことかわからずその手を見ていると、まゆが僕の右手をつかんできた。
「はい、これが理由です」
僕は何のことかわからなかった。
「え?どういうこと?」
そんなリアクションをする僕を見て、まゆは呆れた顔をした。
「え?分からない?まさか、これ以上言わせるおつもりですか?」
「うん、全然わからない」
まゆは大きく溜息をついた。口元に現れた白い靄の大きさからまゆの呆れ具合が推して分かる。左手はそのままに膝に立てた右手に顎を乗せ、僕から目を逸らした。そのまましばらく沈黙が続き、突然まゆがククッと笑いだした。すっかり怒らせたと思っていたのでもう何が何だか分からない。更にはあははと声が出てお腹を押さえだした。
「あ~、可笑し。怒ったと思ったでしょ?」
「すげー怒ってると思った」
「やっぱり?右手からすごく伝わってきた」
「そうなの?」
「まさと、手に出るから」
「うん?・・・はい?」
まゆが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
「楽しんでる時、怒ってる時、緊張している時、嬉しい時。あなたが何を考えているか、何も喋らなくても手を握れば分かるの」
「何それ、超能力?」
「そう、世界で私だけが持っている特別な能力」
まゆは顔の前で人差し指を立てながら嬉しそうに続ける。
「私はあなたの手を直接握りたいから、どんなに寒くても手袋はつけないのです。分かった?」
「・・・はぁ」
「あと、まさとが鈍感なのは今に始まったことじゃないから、今更そのくらいじゃ怒らないよ。安心してね!」
そう言いながら右手の人差し指で僕のほほを突っついてくる。
「まあ、はい・・・努力します」
「だから、そのまんまでいいってば」
まゆは鼻歌交じりに、背中から寄りかかるように僕の右肩に頭を預け、空を見上げた。この重みがとても愛おしい。
「あ、そうだ」
まゆは思い出したように急に立ち上がり僕の前に立った。左手で僕の右手を握ったまま僕に背中を向けて空を指さす。その姿を下から見上げた僕には、花火の上にまゆの影がのっかっている様に見える。
「あれ、乗らない?」
コスモクロックが咲く度に、この世で最も愛すべきシルエットが綺麗に形作られていく。
「・・・観覧車?」
「そう!いつも見上げるばっかりでまだ一緒に乗ったことないじゃん?」
「いいね、楽しそう」
「よし決まり!行こう行こう」
二人で手をつないで、足早にコスモワールドに向かった。クリスマスのみなとみらいには人がたくさんいたが、少し待っただけですぐに乗ることが出来た。乗り込んだボックスが少しずつ地面から離れていくことに、最初は冷や冷やしたが、5分もすると先ほど二人がいたバルコニーが小さくなり、高さにも慣れてきた。7分ほどで一番上まで来て、イルミネーションで彩られた横浜の夜景が360℃に広がる。控えめに言って絶景だ。景色に圧倒され、僕らは言葉を失った。
「まさと」
窓に張り付いているまゆが外から目を逸らさずにこぼした。口元の窓が白くなっている。
「どうした?」
「横浜って、綺麗だね」
「・・・ああ、そうだな」
それから返事がなかったまゆの横顔を見たら、優しく微笑んでじっと横浜の空を見ていた。いくつもの色の光が窓越しにその綺麗な瞳をより輝かせている。たった15分の時間だったが、僕ら二人の時間だけが止まっていたかのような感覚でとても永く感じていた。観覧車を降りた後、二人で夜景の余韻に浸りゆっくりと帰路に就いた。
2001年2月18日。『運命の日』まで7年4か月と、1日。
この日は高校入試の本番の日だった。受験生は350人ほど。皆緊張をしていて試験前にも小休憩時間にも立ち歩く人はおらず、この日来ているはずの瑛史郎を探すことは出来なかった。
少しの不安と期待感を覚え、試験を終えた。試験が終わると皆は解放感ですっきりした顔をしていたが、瑛史郎を見つけることが出来なかった僕は、少し靄が残る様な晴れない気持ちだった。あれから連絡はないが、瑛史郎は今日、本当にここに来ていたのだろうか。瑛史郎の中学校は優秀な人が多いから、もしかしたら内申点が足りなかったのかもしれない。
同じ教室で試験を受けていた同級生と労い合い、試験会場だった高校の校舎を出た。この校舎は山の斜面に建っていて、複雑な造りをしていた。瑛史郎を探そうとしたが、どこに行けばいいのかよく分からず、人混みで酔いそうだったので中庭で腰を下ろし少し息を吐いた。目を閉じ少し耳を澄ませると、受験から解放された中学生が春休みの予定を話す声が幾重にも聞こえてくる。
「あ、正人いた。こんなところにいた」
急に名前を呼ばれて驚き、慌てて目を開けて声の主を探した。ぱたぱたと足音が聞こえる方に顔を向けると、声の主が現れた。
「どうしたの?こんなところで。せっかくだし皆でご飯行こうよって言ってるよ」
瑠璃子だった。勅使河原瑠璃子。どこのお嬢様かと思うような仕草と顔立ちと名前をしている。一度も同じクラスになったことはなかったが、一年生の時に榊原に絡まれているところを助けてから良く話すようになった。紗奈や葵とも仲が良い。
「ああ、てっしーか。試験大丈夫だったか?」
「うん、今朝はありがとう。正人がいなかったら私、試験受けられなかったかも」
「てっしー体力ないからな。あの坂はきつかっただろ」
瑠璃子は校門の辺りでうずくまっているところを僕が見つけた。貧血を起こしていたらしい。一緒に保険室に行き、保健室で試験を受けていた。
「あの後正人が買ってくれたスポーツドリンク飲んだらすぐ良くなってね、教室で試験受けても大丈夫そうだったけど念のためそのまま保健室で受けたんだ。大丈夫、多分受かったと思う。高校でもよろしくね。今度お金返すよ」
「いいよ、それくらい。それよりちゃんと受けられてよかった。でも通学大丈夫か?夏とか倒れるなよ?」
「ね、体力つけなきゃ」
唇を締めてほほを膨らませて両手を握り、両脇を締めて気合を入れる様なポーズをした。尚更その華奢な体が際立つ。
「ほんとに大丈夫かよ・・・」
「心配、してくれるんだ」
「友達が倒れそうになってるのを見て心配しないわけがないだろう」
「やっぱり、優しいね」
「なんだよそれ」
「そうそう、皆校門で正人を待ってるよ。ごはん食べ行こ?」
「あぁ、ごめん、俺は行けないや。・・・人を探してるんだ。皆を待たせるわけにもいかないから、俺抜きで行っちゃって」
「え、そうなの?噂の彼女?」
「違うよ、親友。彼女だったらさすがに連絡取れるって。その親友とはしばらく会えてないけど、今日ここに来ているはずなんだ。試験終わるまでは教室出られなくて探せなかった。連絡は取れないから自分で探さないと。あいつも、もしかしたら俺を探しているかもしれない」
「そっか、分かった。一緒にごはん行けなくて残念だけど、会えるといいね」
「そうだな、ありがとう」
「皆に伝えておくね」
「ああ、謝っておいて」
「卒業旅行は皆で絶対に行こうね!」
「分かってるって」
「じゃあね、ばいばい」
マイペースに歩く頼りない背中に手を振り辺りを見回すと、いつの間にか残っている受験生の数は減っていた。一度出るともう校舎内には入れないので、そんなに広くない中庭を少し歩き回り瑛史郎の影を追った。どうせうるさくしているだろうからすぐに見つかると思ったが、結局見つからず校門に向かった。そういえば、あいつと同じ中学に通っている人は誰とも話したことがない。手掛かりやアテもなく、後ろ髪を引かれる思いで校舎を後にした。
自宅まではゆっくり歩いて10分くらいで帰って来られた。これから3年間この距離で通えると思うと、かなり気が楽だ。
「お帰り、どうだった?」
母さんが玄関まで迎えてきた。そういえば、僕は今日高校入試を受けたんだったな。
「ただいま。どうだったって?」
「入試に決まってるじゃない」
「ああ、そっちか」
「他に何があるのよ」
「試験は大丈夫だよ」
「ならいいわ」
「入試以外のことは気にならないのか?」
「これでも親だからね。あんたが入試以外で気になることがあることくらいは気づいているけど、私が気にしてもしなくてもあんたは自分で勝手に答え出すでしょ。私には何もできないし、私はあんたの高校が私立と公立で学費が変わることくらいしか気にしてないわ」
「通学距離もな」
「そうか、私立だと電車通学になるから交通費もかかるか」
「全く、なんでいつもこうもドライかね」
「親が子供にそんなに干渉したって良いことないでしょ」
「まぁ、息子としてはその方が助かるしな」
「でしょ。でも、道を外しそうになったら殺してでも止めるから安心なさい」
「こわ。道を外さないと死ぬ状況になったら初めて相談するわ」
「そうね。それ以外は他人様に迷惑かけない範囲であんたが自分で決めるといいわ。自分の人生だしね」
「分かった分かった、そうさせてもらいますよ」
「よろしい。はい」
母さんはそう言って電話の子機を差し出してきた。
「ほら、電話」
干渉してこないくせに、全部見透かされている感じが本当に嫌だった。渋い顔で受け取る。
「真優ちゃん電話待ってるよ。早くかけてあげなさい」
「めっちゃ干渉してくるじゃん。なんだよ、まゆちゃんって」
去年の年末にまゆがうちに遊びに来た。3つ上の姉はイラストの専門学校の受験のため専門の予備校に缶詰めになっていて、父さんは今大きな仕事を請け負って中国や台湾、シンガポールなどを飛び回って、この3年ほとんど家に帰ってきていない。元旦に本当に顔を出す程度家に来てまた戻って行った。そのため年末はまゆと三人で会ったのだが、僕が会話に入り込めないほど、二人は意気投合していた。
「あんた、人生はうまく渡り歩けるけど女性関係だけは絶対センスないと思っていたから、あんなにいい子連れてくるとは思わなかったわ。もう高校なんてどこでもどうでもいいから、あの子だけは絶対大切になさい」
「うるさいな。電話するから静かにしていてください」
「はーい、すいませんね」
まゆの家の電話番号は頭に入っている。当時からリダイヤルや電話帳機能は数件分ならあったが、あんな母親を持つとそんな記録は一切残せない。リダイヤルも毎回徹底して消していた。番号を入力して通話ボタンを押すとまゆは2コールくらいですぐにまゆが出た。
「まさと!」
「まゆ、試験終わったよ」
「うん、お疲れ様。どうだった?」
まゆは中高一貫校に通っているため、高校受験はなかった。中学部の受験期は学校内に入ることも許されず、ここしばらく休みらしい。まあ姉妹で受けている人もいるだろうし、当然と言えば当然か。
「試験は問題なかった。なんかほとんど過去問みたいでつまらなかったよ。でも・・・」
「瑛史郎君とは、会えなかった?・・・この際入試がつまらなかったとかよく分からないことには何も突っ込まないわ」
「・・・分からない。会えては、いない」
「そっか。人、たくさんいたんでしょ?」
「ああ、酔いそうになった」
「あはは、まさと人混みに弱いもんね。でも、それなら見つからなかっただけだよ、きっと」
「うん、俺もそう思う。ありがとう」
「もし瑛史郎君と同じクラスになったら、出席番号とか近くなるんじゃない?」
「『唐嶋』と『黒澤』だからすぐ後ろかもしれないな」
「うわ~、そうなったら大変そうだね」
「ほんとだよ、絶対あいつちょっかい出してきて授業どころじゃないな」
「いや、先生のことよ。何自分が大変みたいに言ってるのよ、そうなったらあなた達は絶対楽しいから大変なわけがないじゃない」
期待していた突っ込みがそのまま飛んできて、少しほっとした。そしてそうなった時のことを想像して、嬉しくなって笑いが出た。
「あはは、それもそうだな」
「もう中学生じゃないんだから、ちゃんと弁えてよね!」
「はい、分かってますよ」
「うん。・・・よかった」
本当に安堵したようなトーンでそういった。冗談と伝わっていると思っていたから少し驚いた。
「え、まさか本当に弁えないと思った?」
「違うよ!まさとが電話くれたときの声に元気がなかったから、笑った声が聴けてよかったの」
少しでも誤解していると疑った自分が恥ずかしかった。まゆの言う通り、僕の中にかかっていた靄が少し晴れた気がした。
「そっか、ありがとう」
「私は何もしてませんよ~」
「そうだった。じゃあいつも通りだな」
「そう、いつも通り。私だっていつもまさとに感謝してるんだからね!」
「わかってるよ」
「へへっ、私の方こそいつもありがとね」
「ああ。じゃあまた」
「うん、また連絡する。じゃあね」
電話を切ったころには、瑛史郎を見つけられなかった不安は消えていた。辛いとき、悩んでいるとき、まゆと話すとそれだけで不思議なほど気持ちが軽く上向きになる。そしてまゆも同じように感じていることを嫌味なくまっすぐに伝えてくれる。だから、まゆといるといつも心が落ち着いて誰にでも優しくなれる。まだまだ人生の一部すらも知らない若い僕だったが、まゆが傍にいれば人生どうとだってなるんじゃないかと思っていた。母さんの言葉は雑なようで、すべてを見抜き核心を突かれているような気がした。やっぱり気に入らない。
「正人、電話終わった?」
母さんが部屋に入ってきた。
「ノックくらいしろよ」
「あれ?あんた思春期だっけ?」
「関係ないから。それに一応思春期だし」
悪態をつけながら電話の子機を母さんに渡した。
「まあ、自分で思春期とか言っちゃうくらいならどっちでもいいわ。今週パパ帰れるみたいで、あんたに携帯買ってくれるって」
「ほんとに?嬉しいけど、どういう風の吹き回しなんだ?」
「もうあんたも高校生だしね。あと真優ちゃんの話もしておいた」
「はぁ?・・・全く、余計なことを」
「まあまあ、あれでもあんたのこといつも気にかけてるのよ。喜んでいたわよ、あんた少し前まで他人を寄せ付けない雰囲気出してたから」
「父さんも他人のこと全然言えてないじゃん。気にしてるなら直接言えよ」
「だからよ。あんたは父親そっくりだから、心配なのよ」
「ああそれ、最近近所のおばちゃん達にすげー言われる」
「誰が見ても分かるってことよ。そんなわけだから、今週はデート行かないで家にいなさいよ。分かった?」
「分かったよ。いちいちうるさいな」
「今日は試験も終わってひと段落したし、人混みで疲れたでしょ。夕飯の支度するからゆっくりしてなさい」
「今日も理奈は帰って来ないのか?」
「22時に予備校終わって横浜から帰ってくるから着くのは早くても23時ね。きっと食べてくるでしょう。あの子は良くも悪くもあんた以上に自立してるから気にしなくていいのよ」
今まで意識して比較しないようにしていたが、まゆの4姉妹とはうちの家族はえらい違いだな、と思った。これはこれで落ち着くから個人的にはいいけど。
その3日後、父さんが久しぶりに帰ってきた。姿こそ四年前と変わらなかったが、なんとなく疲れているように見えた。今思えば、そのとき特別というわけではなくいつも疲れていて、僕がそれに気づけるようになっただけだったのかもしれない。そういえば、まゆと出会ってから父さんとしっかり会うのは、これが初めてだった。
その日は三人で外食をし、翌日携帯を買いに行った。平日だったが学校は休みで、この日はまゆと会う予定だったが1日ずらしてもらった。父さんが帰って来ると言ったらまゆからずらす提案をしてくれた。正直携帯電話を持つことのメリットはあまり理解していなくて、まゆや友達と連絡が取りやすくなるくらいにしか思っていなかったが、それだけでも嬉しかった。何より久しぶりに家族で出かけて、父さんと話せてよかった。昔は家族ともなんとなく距離を感じていたが、その日は二人の優しさに触れることが出来た気がした。
父さんはその日のうちにまた仕事に向かった。僕はそれを見送った後、部屋で携帯とにらめっこして使い方を頭に叩き込んだ。本当は次の日会ったらまゆに伝えようと思っていたが、いてもたってもいられずそのまま電話をした。
「あれ、まさと?」
「まゆ。ごめん夜に電話して」
「ううん、私もちょうど電話しようと思ってたとこ」
「え、そうなの?」
「うん、話したいことがあって」
「何?」
「先に言っていいの?」
「いいよ。俺のは後の方がいいかも」
「実は今日、お姉ちゃんに携帯買ってもらっちゃった♪」
「そうなの?」
「うん!明日会った時に言おうと思ってたけど、やっぱり待ちきれなくて」
「ほんとに?俺も携帯買ってもらって、今その話しようとしてたよ」
「え?そうなの?今日のお出かけってそれ?」
「そう」
「何で言ってくれないのよ」
「それはお互い様でしょ」
「どっかの誰かさんにデートドタキャンされたから、急に今日行くかってなったのよ」
「ドタキャンじゃなくてリスケだから」
「あはは、冗談だって」
「知ってる。俺も言おうと思ったけど、なんか話が急すぎて本当かどうかわからなかったし、そもそも父さん急に帰って来れないこともあるから言えなかった」
「そっか、そうだよね。お父さん元気だった?ちゃんと話したの5年ぶりなんでしょ?」
「なんか、疲れてて大変そうだった。昔は家にろくに帰ってこなくて嫌いだったけど、家族のために頑張ってくれてるんだなって思ったよ」
「そうだよ、私も会ったことないけど感謝してるんだから」
「え?なんで?」
「あなたを養ってここまで育ててくれて」
「ああ、そうか。それもそうだな・・・まゆは・・・」
「うん?なに?」
「あ、いや、なんでもない」
「ん?へんなの」
そういえば、まゆから親の話を聞いたことがない。家に行ってもいつも真衣さんと真奈真実の4人だ。それに携帯買ってもらったのも、真衣さんに・・・? 5つも離れていてバイトもしているからとは言え、大学生の姉が中学生の妹に携帯を買うものなのか?確かに違和感がなかったとは言えない。どこかで触れてはいけないものだと、心の奥に押し込んでいたのか。
「まさと!」
まゆの声にはっとした。
「どうしたの?急に黙っちゃって」
「あ、いや、ごめん。なんでもない」
「ちゃんと聞いて!」
「ごめんって」
「これで、いつでも連絡取れるね!」
「ああ、そうだな」
「毎日メールしようね!」
「疲れて返信できない日があっても怒るなよ」
「それくらいは理解してますよ~」
そうは言ったが、毎日メールするんだろうなと思った。まゆの声はとてもうれしそうだ。どんなに疲れていてもそれを近くに感じられるのであれば、メールくらいなら喜んでするだろう。
「じゃあ、明日ね」
「ああ、また明日」
「うん、おやすみ。まさと」
受験を終え、少しずつ冬の気候が落ち着いてきたころ、僕らが高校生になる感覚が少しずつ形になっていた。まゆと出会ってから2年。これまで重ねた時間は、誰にも言えないような真実を受け止められるだけの信頼を、二人の間に確かに積み上げた。これまでは怖くて耳をふさいでいた過去にも、触れられるようになっていく。
2001年2月22日。『運命の日』まで7年3か月と、27日。
この日はいつも通り港南台駅で待ち合わせをしたが、桜木町ではなく隣の洋光台に行った。ここには『こども宇宙科学館』があり、子供の頃よく親に連れてきてもらって楽しい思い出があった。まゆにそのことを話したら行きたいと言って聞かなかった。大人だけでも楽しめるか不安だったが、まゆとならどこに行っても楽しいし、そういえば僕らもまだ子供だ。
こども宇宙科学館の中はほとんど思えてなかったが、入ってみると見覚えのあるものがたくさんあり、懐かしかった。この施設の名前に恥じないような科学の装置や宇宙の模型、そのすべてに分かりやすい説明がついていて、幼いころには何かわからなかったものも理解出来て十分楽しめた。アスレチックのようなフロアでは、地域の小学生たちと一緒になって走り回った。星になんかまったく興味はないのに、プラネタリウムも観た。小さい頃はとても大きく感じた映画館が、心なしかこじんまりしているようにも映った。レストランで『宇宙食』をお昼に食べ、お土産をじっくり見たが何も買わずに外に出た。この施設の隣には、気持ちのいい公園が広がっている。ここにも遊具はあるが、さすがに体が入らない。木陰のベンチに二人で座った。まだ少し肌寒い2月の風を、木々からこぼれる陽だまりが温める。
「こども科学館、楽しかったね!」
「そうだな、周り小学生しかいなかったけど」
「まさと、一緒になってすんごく楽しそうにはしゃいでたよ」
「ちょっと、眠っている本能が目を覚ました」
「あはは、何それ」
「わからん、言ってみただけ」
「素直に楽しかったって言えばいいのに」
「それでもいいんだけどさ、まぁ気分だよ」
「はいはい。そうだ、番号交換しようよ!メアドも!」
「そっか、忘れるところだった」
「嘘だ~、ずっとそわそわしてたくせに」
「う、なんでわかった」
「今日もずっと手繋いでたからね♪見せて見せて」
「はい、これ」
「へぇ~、まさとのは真っ直ぐなんだね。私は折り畳みのやつ」
「折り畳みも勧められたけど、ポケットから出したとき直ぐ使える感じがしてこれにした」
「いいじゃん、いいじゃん。あれ、まさともドコモ?」
「あれ、まゆも?」
「もしかして、駅前のドコモショップ?」
「そう」
「うそ!同じところじゃん!え、何時頃にいたの?」
「お昼食べてから行ったから、14時くらいだったと思うよ」
「うわ、私も絶対その時間いたわ。携帯に気を取られすぎて全然気づかなかった」
「まじか、俺も気づかなかったよ。すごい偶然だな」
「すごい偶然だな・・・じゃないわよ!何落ち着いているのよ!私のすぐそばにまさパパがいたのよ!それなのに挨拶もできなかったなんて・・・ずっと携帯どれにするか迷ってたからだぁ・・・本当に不覚だわ」
まゆは頭を抱えて昨日の後悔をしている。僕は父親というフレーズから、まゆの親のことを思い出した。もう、聞かないわけにはいかない。
「あの、さ」
「なに?急に真剣になって」
まゆが驚いたようにこちらを見る。
「その、まゆの親って・・・?」
そう言うと、まゆは少し目を見開いてから、僕から視線を逸らさず優しく微笑んだ。
「・・・やっぱり、気になった?そうだよね、何回もうちに遊びに来てくれているのにいつもいないし、誰からも全く話に出ないもんね。ごめんね・・・。ちゃんと話さなきゃってずっと思ってたんだけど、なかなか言えなくてさ」
「ううん、いいよ、気にしないで。・・・聞いても、いいか?」
「うん、いいよ。いえ、まさとには聞いてほしい・・・聞いてくれますか?」
「・・・うん、聞かせて」
そう言うと、まゆが何かを決意したかのように息を飲み込んだ。その一方で、まゆの顔は穏やかだった。
「ありがと・・・うちね、お父さんも、お母さんもいないんだ」
予想はしていたが、いざ聞くと重たい気持ちになった。ずいぶんと重い話を、まゆは穏やかな顔で話し始めた。
「・・・どうして?」
「お母さんは小学四年生に上がる前の春休みにふらっと出掛けたまま帰ってこなかった。いつもどおりに家を出て行ったからすごい心配したけど。お父さんは、同じ年の6月に、家で自殺したの」
ある程度は予想していたが、実際に言葉で聞くとかなりきつい。
「・・・うそ、だろ」
「そう思うよね。ほんと、嘘みたい。私もしばらく信じられなかったな」
明るい表情はしていたが、まゆの声は少し震えていた。
「もしかして、和歌山から新潟に引っ越したのって」
「あ、よく覚えてたね。そう。私たち姉妹は身寄りがなくなっちゃったから、お母さんの実家がある長岡に引っ越したの。もしかしたらここにお母さんが帰ってくるかもって言ってね」
大好きな恋人から壮絶な過去が話されて言葉が出ずにまゆを見ていた。まゆは僕に顔を向け目が合うと、また視線を前に戻してつづけた。穏やかな表情は崩さなかった。
「長岡での生活は、やっぱり嫌なこともあったけど、おじいちゃんもおばあちゃんも優しかったし、お母さんの妹の香菜子おばちゃんも、横浜から何度も新潟来てくれてすごく私たちのことを気にかけてくれていた。私は、お父さんのことでショック受けて塞ぎ込んじゃったけど、色んな人に支えてもらって、なんとか立ち直れたんだ」
「そうか、よかった」
「それでしばらくは長岡にいたけど、中学一年の10月におじいちゃんが入院しちゃって、おばあちゃんも足が悪いし、私たち4人は見られないからってその年の年末に横浜に引っ越してきたの。ちょうどお姉ちゃんが大学受験でこっち出る時だったし、皆で出てこようって。知らないところに子供だけで不安はあったけど、香菜子おばちゃんの知り合いの不動産屋さんに融通してもらえたし、私たち4人はいつも一緒だったから、お姉ちゃんだけ離れて暮らすのも違ったんだ」
「それで、1月に転校してきたんだ」
「そう。でもお姉ちゃんはもうすぐ卒業だったから転校はしなかったの。高校の卒業式とかで新潟帰ったりしてバタバタしていたから、大学入って落ち着くまでは香菜子おばちゃんも今の家にいたよ。まあ、今もすぐ近くにおばちゃん家あるんだけどね」
まゆの表情は終始明るかった。
「そうなんだ、それなら安心だな」
「うん。そして、春にまさとに声をかけた」
「そうか・・・なんか、全然知らなかったな」
「だって、ちゃんと話してなかったもん」
「そうだけどさ、そんな素振り全然見せないから」
「どんな素振りよ、それ」
「いやまあ、あるじゃん、そういうの。改めて聞かれるとうまく言えないけど」
「まぁ、寂しくないって言ったら嘘になるけど、お姉ちゃんや、なぁもみぃもいて毎日楽しいし、今はまさともいてくれる。私は幸せだよ」
「そっか。もう、いいのか」
「うん、大丈夫。もう過去のことで、私たちは前を向いている。それに、私はあなたに出会えた。それはかけがえのないこと。私はもう、まさとと出会っていない人生なんて考えられない。当時は辛くて、お父さんもお母さんも幼い私たちを遺してなんで?って思っていた。だけど、あの出来事が無かったら私はきっとまさとに出会えなかった。もう今となってはそっちの方が怖い。今なら、二人が私たちを引き合わせてくれたのかなって、前向きな気持ちになれるんだ」
そう言ってまゆは僕に顔を向けた。明るい表情とは一転して、悲しげで優しい笑顔だった。
「そうか・・・なんか、俺もショックだな」
「そうだよね、ごめんね、今までしっかり話せなくて。でも、まさとには中途半端じゃなくてちゃんと知っていてほしかったの。聞いてくれて、ありがとう」
「ううん、こっちこそありがとう。話してくれて」
その日の空は真っ青に晴れ渡り、暖かい陽の光が冷え切った2月の空気を温めていた。まゆと肩を寄せ合っているから、風が吹くとまゆの髪が僕の首に触れて、こそばゆい。
「もうすぐ、卒業だね」
まゆが空を見ながら呟いた。声ははずんでいる。
「そうだな、卒業だ」
「楽しかったね、中学生。なんか、奇蹟みたいだった」
その一言には、いろんな感情が詰まっていた。でもきっと、まゆは心からそう思っているのだろう。
「ああ、そうだな、楽しかった」
「へへ、高校生も一緒に楽しもうね」
「もちろん」
そういうとまゆは照れたのか額を僕の二の腕に押しつけてきた。ぐりぐりとこすり付けてくる。
「痛いって」
「うん、知ってる」
まゆはいたずらな顔をしている。
「そういえば、番号交換しようか」
「うん、するする!」
ぱっと起こした顔には満面の笑みが広がっていた。まゆが笑う度、灰色だった僕の世界にひとつずつ色がついていく。
まゆがまさとの名前を呼んだ瞬間、
世界はほんの少しだけ揺れ動いた。
それは恋の始まりというより、
“心が動き出す音”に近い。
まゆの距離感、
まゆの言葉、
まゆの笑顔──
そのすべてが、まさとの心に風を通した。
奇蹟は派手なものじゃない。
真っすぐ、優しく、
気づいたときにはもう戻れないほど深く刻まれている。
ここから二人の物語は、
光へ向かう道を歩き始める。




