8話 七年を並べて
馬車が止まったのは、三日目の夕暮れだった。
辺境の療養地エルム。ゆるやかな丘のうえに、古い石造りの家がぽつんと建っていた。まわりには色を落としかけた草の原と、風の音しかなかった。
王都の喧騒も、侯爵邸の冷たさも、ここまでは届かない。よくも悪くも、世界の隅だった。
馬車を降りると、冷えた風が頬を撫でた。侯爵邸のどんな部屋より寒いのに、その風はなぜか、少しだけ息がしやすかった。
「遠いところを、よくおいでで。何もないところですけれど」
迎えたのは、この家をひとりで守る老女だった。マノン、と名乗った。皺の深い顔に、穏やかな目をしている。
「……お世話になります」
マノンは、シャルロットの荷が驚くほど少ないのを見ても何も言わなかった。ただ、案内した部屋の暖炉に黙って火を入れてくれた。
「ご領主さまからは、静養なさる若いお嬢さま、とだけ承っております。事情は、聞いておりません」
火が、小さく爆ぜた。
「聞くつもりもございません。ここへおいでになる方は、みなさん、何かを置いてきた顔をしておられますから」
「置いてきた、顔」
「ええ。この療養地は、そういう場所なのです。都で行き場をなくした方が、しばらく息を継ぎにおいでになる」
マノンは暖炉の前に、湯の入った器を置いた。
「なんのおかまいもできませんが、ひとつだけ。ここでは、急いで何かになろうとなさらないことです。置いてきたものを、ゆっくり見つめ直すには、ちょうどよいところですよ」
その言葉に、シャルロットはふしぎと救われた。ここでは、名前も過去も問われない。手とも、令嬢とも呼ばれない。行き場のない娘が一人。それだけで、済むのだ。
* * *
夜になって、シャルロットはひとりになった。
暖炉の火が、石の壁に揺れる影を落としている。窓の外は、もう何も見えない。ただ、風だけが絶え間なく丘を渡っていく。
もう、姉の名で手紙を書くことはない。あの人の返事が、届くこともない。
七年、わたしのすべてだった往復が、ここではただの終わった過去だった。名前のない七年を、証してくれる人は、どこにもいない。姉の家では「手」で、この家では「誰か」ですらない。
それでも、涙は出なかった。泣くだけの涙は、追放の日にネルの胸で使い果たしていた。
ふしぎと、心は凪いでいた。すべてを失ったはずなのに、失うものがもう何もないというのは、こんなに静かなことなのか。七年、姉の顔色をうかがい、露見を恐れ、身をすくめて生きてきた。その怯えが、ここにはない。
置いてきたものをゆっくり見つめ直すには、ちょうどよいところ。マノンの言葉が、静かに胸に戻ってきた。
かわりに、ひどく凪いだ心でシャルロットは鞄を開けた。
底から取り出したのは束だった。七年分の、あの人の手紙。追放の朝、姉の目を盗んでこれだけを持ち出した。
これまで、この手紙を、ゆっくり読む時間はなかった。姉の名で受け取り、姉の目を盗んで盗み見るように読むだけ。自分のものでない恋を、こっそり覗くように。
けれど今は、誰も見ていない。咎める人も、いない。
初めて、わたしは、わたしのために、この手紙を読める。
その事実に気づいたとき、胸の奥が痛いような、あたたかいような具合に疼いた。
* * *
シャルロットは、手紙を日付の順に床へ並べていった。
一通、また一通。七年が静かに、部屋いっぱいに広がっていく。いちばん古い儀礼ばかりの一通から、いちばん新しいあの長すぎる返事まで。
並べ終えて、彼女はその真ん中に座り込んだ。七年に、囲まれるように。
どの一通にも、あの場違いな一語があった。前にも後にも馴染まない、古い言葉。字面を追うだけの人には、王子の悪い癖にしか見えない、たった一語。
いつか、これを全部並べてみたら、何か意味が浮かぶのだろうか。
あの夜、書斎でふとよぎった問いだった。そのときのわたしには、並べる時間も、そうする資格もなかった。姉の名で送り、姉の名で受け取る手紙だったから。
今なら、ある。時間も。資格も。
この手紙は、もう姉のものではない。あの人がくれた言葉は、姉ではなく、この文字を書いたわたしに宛てられていた。だからこれは、わたしの手紙だ。読み解く資格があるとすれば、それは、世界でわたしひとりのはずだった。
シャルロットは、いちばん古い手紙にそっと指を置いた。
そこにまぎれた、最初の一語。
「兄君」。
恋文には、あまりに場違いな言葉。なぜ、あの人は、七年、こんな一語を残し続けたのか。
考えても、これまでは答えが出なかった。けれど今、七年ぶんを一度に見渡して、シャルロットは、初めて思った。
——これは、悪い癖なんかじゃない。
あの人はきっと、わざと残したのだ。いつか誰かに拾い上げてもらうために。前後の文にまぎれさせて、ひとつずつ、順番に。
まるで、恋文の下に、もう一通の手紙を、そっと隠すみたいに。
もしこれが、ひとつの文になるのなら。あの人は七年もかけて、誰にも読ませず、たった一人に、何を伝えようとしたのか。恋文の下に隠すほどのもの。平文では、書けなかったもの。それはきっと、ただごとではない。
こわい、と思った。読み解いてしまえば、ただの恋では済まなくなる。ずっとそう思って七年、気づかないふりをしてきた。
けれど、もう、ふりを続ける理由はなかった。失うものは、何もない。それに、あの人がたった一人に託したものを、そのたった一人が読まずにいるわけにはいかなかった。
指が、次の手紙へ動く。その次へ。一語、また一語と、場違いな言葉が、順につながっていく気がした。
窓の外で、風が鳴っている。
床いっぱいに広げた七年の上で、蝋燭の灯りが小さく揺れた。
名前のないわたしが、生まれて初めて自分のために読む七年だった。そしてそれは、ただの恋文の束ではないのだと、指先がもう気づきはじめていた。




