7話 七年を抱いて
書斎の抽斗が、開いていた。
シャルロットが戻ると、姉が七年分の下書きの束を膝に広げて座っていた。誰にも渡さなかった、送る前の写し。余白の一行を書き留めておいた、彼女だけの束を。
「ぜんぶ、読んだわ」
姉の声は、低く、震えていた。
一枚、また一枚と姉は写しをめくっていく。あなたの手紙を読む夜だけ息を吸える。そのための風になりたい。七年分の、二人だけの言葉が、姉の指のあいだでめくられていった。
「これを、ぜんぶ、お前が書いたのね」
シャルロットは答えられなかった。答えは、姉の膝の上に全部あった。
姉は次の一枚をめくった。そこにも余白の一行があった。その次にも。七年分、一夜も欠かさず忍ばせてきた本音が、姉の膝の上で順番に暴かれていく。読み進めるほど、姉の顔から血の気が引いた。
「答えなさい」
姉の声が、鋭く飛んだ。
「わたくしが殿下に出した手紙。あの人が七年しまってきた言葉。あれを書いたのは、お前なのね」
「はい。わたしが、書きました」
言ってしまうと、七年ぶんの重さが、すっと軽くなった気がした。もう、隠すものは何もない。
「殿下が七年、恋していたのは。夢中だったのは。……わたくしじゃ、なかったのね」
初めて姉の声が濡れていた。けれど、それは悲しみの涙ではなかった。屈辱の、怒りの涙だった。
ずっと自分の名前の下で。自分の婚約者と。いちばん見下してきた妹が、いちばん深く、殿下と繋がっていた。姉にとって、それは、殺されるより耐えがたい真実だったのだろう。
「お前は——」
姉は写しを床に叩きつけた。紙が、白い鳥のように舞って、散らばった。
「出ていって」
声が、裏返っていた。
「今すぐこの家から出ていきなさい。二度と、殿下の手紙には触れさせない。お前の顔なんて、金輪際、見たくないの」
「姉さま。建国祭は、どうなさるのですか」
思わず、シャルロットは訊いていた。姉ひとりでは、殿下の前で交わす言葉を持たない。
「うるさい! お前に心配される筋合いはないわ」
姉は、床の写しを踏みつけた。
「わたくしは、わたくしの言葉で殿下と向き合う。お前の書いた台詞なんて、もう要らない。あの方が恋したのが言葉だけなら、その言葉を、これからはわたくしが紡ぐわ」
言いかけて、姉の声が、途中で萎んだ。自分にそれができないことを、姉自身が誰より分かっていた。その沈黙が、この部屋のどんな叫びより、姉の空っぽを露わにしていた。
建国祭の筋書きはどうするのか、それ以上は訊けなかった。
訊けば、姉は正気に返るかもしれない。けれど、正気に返った姉のそばに置かれ続けるより、追われるほうが、いっそ楽だと思ってしまった。ずっと欲しかった終わりが、いちばん醜い形で、やってきただけだ。
* * *
父は、何も言わなかった。
もとより、母のない下の娘に関心の薄い人だった。姉が「シャルロットを辺境の領地で静養させたい」と言えば、それで話は済んだ。体のいい厄介払い。娘を一人手放すことに、父は羽根ペンを置く手も止めなかった。
旅支度は、すぐに済んだ。持っていくものなど、もとから、ほとんどなかったから。
ただ一つだけ、シャルロットは、姉の目を盗んで、文箱の底に手を入れた。
七年分の、エイダンからの手紙。彼の返事の、すべて。それを鞄のいちばん奥へ、そっと移した。
これだけは、置いていけなかった。
もう二度と、返事は書けない。姉の名を使うことも、余白に一行を忍ばせることも、できない。それでも、この束だけが、あの人が確かにこの世にいた証だった。手放せば、七年が、本当に何もなかったことになる。
指の先が、束の厚みを確かめる。まだ、あたたかい気さえした。
* * *
馬車の支度が整う頃、ネルが門まで見送りに来た。
皺だらけの手が、シャルロットの手を痛いほど強く握る。
「お嬢さま」
「ネル。今まで、ありがとう」
「わたしは、ずっと存じておりました。お嬢さまの綴られた言葉が、どれほど人の心を生かすか。この目で、七年、見てまいりました」
老侍女の目に、涙が盛り上がった。
「胸をお張りなさいまし。あなたのお言葉は、道具などではございません。あれはまぎれもなく、あなたご自身の心にございます」
あなた自身の心。
七年、この家で「手」としか呼ばれなかったシャルロットに、そう言ってくれた人は、ネルひとりだった。目でも口でもない、ただ動くだけの手。そう思い込まされてきた七年が、老侍女のひとことで、静かにほどけていく。
「わたしなどが、何をして差し上げられるわけでもございませんが」
ネルは、前掛けの下から、小さな包みを取り出した。焼き菓子の匂いがした。
「道中、召し上がってくださいまし。……せめて、ひもじい思いだけは、なさいませんように」
シャルロットは、こらえきれずに、老侍女の胸で、一度だけ泣いた。子どものように、声を上げて。この七年、誰の前でも、泣いたことなどなかったのに。
「行ってらっしゃいませ。いつか、きっと」
いつか、きっと。その先を、ネルは言わなかった。けれど、その言葉は、餞別のように、シャルロットの胸に残った。
* * *
馬車が、動き出す。
窓の外を、生まれ育った家がゆっくりと遠ざかっていく。あの書斎も蝋燭も、七年の夜も、みんな後ろへ流れて消えていった。
膝の上には、七年分の手紙があった。あの人の言葉が、全部ここにある。
シャルロットはそれを両手で抱きしめた。まだあの人と繋がっているのだと、自分に言い聞かせるように。
これから向かう辺境がどんな場所なのかも、そこで何が待っているのかも、彼女は知らなかった。ただ、この束さえあれば、どこででも生きていける気がした。名前のない七年を、それでも確かに生きたのだと、この紙の重みだけが教えてくれる。
届く先を失った書き手と、書き手を奪われた読み手。二人はもう、便箋の余白でさえ出会えない。
けれど、鞄の奥の束には、彼女がまだ気づいていないものが、眠っていた。あの人が七年、命がけで隠し続けたもう一つの声。それを読み解ける者が、この世にただ一人だということも。
馬車が揺れるたび、手紙の束がかさりと鳴る。
それはまるで、あの人がまだ、何か言いたげにしているような、小さな音だった。




