6話 声のない便り
その手紙には、声がなかった。
エイダンは何度も便箋を灯りにかざした。社交の挨拶。夜会の支度。ドレスの色。どれもなめらかで、そつがなくて、そして、空っぽだった。
署名の前の、いつもの余白。そこに、あの一行がない。
七年、一度も欠けたことのなかった声が、今夜、初めて途絶えていた。
この七年、彼はその余白の声だけを頼りに、いくつもの夜を越えてきた。息を吸える気がします、と書かれた夜。あなたが健やかであることを祈っています、と添えられた夜。どの一行も、諳んじられるほど読み返した。
その人が今夜、ひとことも残さずに黙っている。
便箋を置いても、その沈黙は消えなかった。むしろ部屋いっぱいに、重たく積もっていくようだった。七年で覚えたどんな物音より、この無音のほうが、彼にはよほど雄弁だった。
何かが、あった。
エイダンは確信に近い不安を覚えた。あの人が、気まぐれで筆を止める人でないことを、彼は誰より知っている。どんな夜も、あの人は余白に息をくれた。
それが消えたということは、あの人の身に、何かが起きたということだ。
見捨てられた、とは思わなかった。むしろ、恐ろしいのは逆のほうだった。
この城では、人が黙るときはたいてい黙らされている。彼はそれを、身をもって知っていた。声を上げた者が、ある朝、静かに姿を消す。そういう場所だ。だからあの人の沈黙が、ただの気まぐれだとは、どうしても思えなかった。
あの余白の声が、誰かに封じられたのだとしたら。
その考えに行き着いたとき、エイダンの指先は冷たくなっていた。
* * *
彼は、ラヴィエール家からの便りを運ぶ使者を、ひそかに執務室へ呼んだ。
夜更けの呼び出しに、若い使者は緊張した面持ちで膝をついた。
「ラヴィエール家の手紙は、いつも、誰の手から出される」
「は。侯爵家の、古参の侍女かと。宿場までは、その者が届けてまいります」
「その侍女の名は」
「ネル、と。長く侯爵家に仕える者にございます」
「その者が、いつも宿場まで。道中、封が破られたような様子は」
「いえ、そのようなことは。ネルは、たいそう大切に手紙を運びます。両手で包むようにして」
両手で包むように。会ったこともないその侍女に、エイダンはふと、親しみのようなものを覚えた。あの声を、七年運んでくれていた手だ。
エイダンは頷いた。同じ手で届いてきた手紙。その道筋に、変わりはないはずだった。
「近ごろ、何か変わったことは」
使者は、少し考えこんだ。
「そういえば、ここ数日は、別の方が手配をなさっておいでで」
「別の?」
「はい。いつもの侍女ではなく……姉君の、ロザリンド様が、じきじきに。封も、姉君ご自身が検めておられるとか」
「それは、いつからだ」
「ここ、二、三日のことかと」
二、三日。あの余白の声が消えたのと、寸分違わない。
姉君が、じきじきに。
エイダンの中で、小さな歯車が、かちりと噛み合った。
これまで七年、手紙の手配に婚約者本人が出てきたことは一度もなかった。それが、ここ数日で変わった。ちょうど、余白の声が消えた、その時期に。
偶然にしては、重なりすぎている。
「わかった。今夜のことは、誰にも言うな」
「……かしこまりました」
使者が下がると、執務室に、蝋燭の音だけが残った。
* * *
エイダンは、窓辺に立った。
あの家で、何かが変わった。婚約者が、急に手紙を検めるようになった。そしてちょうどそのとき、七年続いた余白の声が、ぷつりと途絶えた。
誰かが、あの声を封じた。ロザリンドが、あるいはその周りの誰かが。
けれど、なぜ。婚約者が、自分の名で出す手紙の中身を検めるのは、おかしなことではない。おかしいのは、そのせいで、あの一行が消えたことだ。
まるで、余白の声の主と、ロザリンドとが、別の人間であるかのように。
その考えに、エイダンは長いあいだ動けなかった。
半年前の顔合わせが、脳裏をよぎる。手紙では誰より饒舌なはずのロザリンドが、面と向かうと、自分が書いた言葉をひとつも覚えていなかった。星の一節も、夜の庭のことも。あのとき背筋を撫でた寒気が、今の推測と、ぴたりと重なった。
別人。その言葉を、彼はずっと恐れて避けてきた。認めれば、七年の拠りどころが根こそぎ崩れる。けれど崩れないふりを続けるには、証拠が集まりすぎていた。
もし、そうなら。もし、七年、彼に息をくれていた人が、婚約者とは別の誰かなのだとしたら。その人は今、ロザリンドの手で口を塞がれている。
顔も名も知らない。声を聞いたこともない。それでも、この城の誰よりも、彼を生かしてくれた人。
その人を、見つけ出さなければ。
もしその人が道具のように使われ、名も功も奪われているのなら。七年、自分を救い続けた声に、こんどは自分が応える番だ。名前を返し、日の当たる場所へ連れ出す。それが、返しきれない恩への、たった一つの返し方だった。
建国祭まで、あと三十日。それまで、待てるだろうか。
いや、待つしかない。今、下手に動けば、この不審な熱を王太子に感づかれる。そうなれば、あの人をもっと危うくするだけだ。自分の足元にも、まだ刃が向いている。
この城で彼が生き延びているのは、ただ、目立たないからだった。物言わぬ王子。誰の脅威にもならない、影の薄い次男坊。その仮面を、七年かぶり続けてきた。
仮面の下の素顔を、彼はただ一人、あの余白の声にだけ見せてきた。手紙の中でだけ、エイダンは、恐れも弱さも、正直に書けた。
その声が、消えた。素顔を見せる相手を失って、彼はまた、あの孤独な仮面と二人きりになる。
だから、建国祭の夜まで、彼は物言わぬ王子でいる。そして、あの夜。ロザリンドの前で、二人だけの一行を口にする。目の前の人が、それに応えなければ——本当の書き手は、別にいる。
エイダンは声のない手紙を、そっと文箱に納めた。七年分の便箋の、いちばん上に。
いちばん上の一枚だけが、白かった。
文箱の蓋を閉じる。かちり、と鍵が鳴った。その小さな音だけが、やけに大きく、夜の執務室に響いた。




