5話 空の便り
その朝、宿場へ発つはずの手紙は、姉の手の中にあった。
いつものネルではなく、姉が。
シャルロットが書斎に入ると、窓辺でロザリンドが便箋を広げて立っていた。昨夜、封をしたばかりの、殿下への手紙。余白に、あの一行を書き添えた手紙だった。
「おはよう、シャルロット」
姉の声は、朝から妙に静かだった。
「今日から、殿下への手紙は、わたくしが先に目を通すことにしたの。婚約者として、当然でしょう」
シャルロットの背に、冷たいものが走った。姉が手紙の中身を検めたことは七年で一度もなかった。撫でるのはいつも、封蝋の紋だけだったのに。
「これは、なに」
姉の指が、便箋の下のほうを差した。署名の前の、わずかな余白を。
もし夜会で、あなたの探している人が見つからなかったら。どうか、それでも、諦めないでください。
「わたくしは、こんなことを書けとは言っていないわ」
「……殿下のお心に、寄り添うつもりで」
「寄り添う。お前が?」
姉の眉が、片方だけ上がった。声から、いつもの甘さが完全に消えている。
「前から、おかしいとは思っていたの。殿下のお返事が、わたくしの書かせた文にはひとことも触れず、いつも決まって、妙な一言にばかり返ってくる」
便箋を持つ姉の指に、力がこもった。
「あれは、これのせいね。お前が勝手に書き足す、この端くれの言葉」
「白状なさい。この余計な一行、いつから書いていたの」
「覚えておりません。ほんの、出来心で」
「出来心。七年、ずっと?」
姉の声が尖った。
「殿下のお返事は、いつもわたくしの話には触れてくださらない。妙だと、ずっと思っていたのよ。殿下が拾ってくださるのは、決まって、こういう余りの一言だけ」
シャルロットは、何も言えなかった。否定する言葉も、認める言葉も、どちらも同じくらい危なかった。
「殿下が夢中になっているのは、まさか——」
姉は言いかけて、口をつぐんだ。その先を口にするのが、耐えられないというように。かわりに便箋をぐしゃりと握った。
「くだらない。ただの、書き損じの余りよ」
自分に言い聞かせるような声だった。
シャルロットは、息を殺していた。
姉は今、真実の入口に立っている。あと一歩、この端くれの言葉を書いたのは誰かと問い詰めれば、七年の嘘は音を立てて崩れる。けれど姉は、その一歩を踏み出さなかった。踏み出せなかったのだ。
妹の言葉に殿下が恋をしているなど、姉の矜持が、認められるはずもない。だから姉は、真実を暴くかわりに、蓋をすることを選んだ。いちばん手っ取り早い方法で。書き手ごと、余白そのものを消してしまえばいい。
* * *
姉は、新しい便箋を机に叩きつけた。
「今日から、手紙はぜんぶわたくしが検めます。お前は、わたくしが言った言葉だけを、一字一句そのまま書きなさい。余計な一行は、金輪際いらない」
余計な一行。
それは七年、シャルロットがあの人と繋がっていた一本の糸だった。姉はそれを、たった今、無造作に断ち切った。自分が何を断ったのかも、知らないままで。
「わかったわね」
「……かしこまりました」
声が、うまく出なかった。
その日、シャルロットは生まれて初めて、余白のない手紙を書いた。
姉が口にする社交辞令を、ただ書き取っていく。建国祭の支度のこと。天気のこと。仕立てたドレスの色のこと。どこにも、自分の息はまざらない。
「そこは、もっと華やかに。わたくしが着るドレスは、金の絹だと書いておいて」
「はい」
「殿下がお喜びになるように、うんと可憐にね」
「はい」
姉が言葉を継ぐたび、シャルロットの筆がそれを紙へ移す。姉の声で、姉の見栄で、埋まっていく便箋。そのどこにも、あの人の孤独に触れる言葉はなかった。触れてはいけない、と命じられたのだから。
筆は、なめらかに進んだ。心が動かないぶん、かえって速かった。人の心を動かす言葉を選ぶ苦しみも、余白に本音を忍ばせる後ろめたさも、今日はどこにもない。
これが、姉の望んだ手紙なのだ。中身のない、けれど非の打ちどころのない、美しい紙きれ。
書き終えて、シャルロットはその一枚をしばらく見つめた。よく書けている。誰が読んでも、そつのない令嬢の便り。ただ、あの人が探すものだけが、どこにもない。
指の奥が、しんと冷えていた。
* * *
夕方、ネルがそっと書斎を覗いた。
「お嬢さま。お手紙は、いつものように、わたしが宿場へ」
「ええ、お願い」
ネルは机の上の一通を見て、それから、シャルロットの顔を見た。何かを察したように、その皺の寄った目が、わずかに曇る。
「今日は、ずいぶん早くお書き上げに」
「言われたとおりに書くだけだもの。すぐに終わるわ」
ネルは、それ以上は訊かなかった。ただ、手紙を受け取るとき、いつもより少しだけ、ていねいに両手で包んだ。まるで、中身が空っぽなのを、知っているみたいに。
老侍女が去ると、書斎に、蝋燭の音だけが残った。
シャルロットは、送ったばかりの手紙のことを思った。
明日、あの人はあれを開ける。いつもの余白を探して、指を滑らせる。署名の前の、あの場所を。
けれど、そこには、もう何もない。
急に口をつぐんだ手紙の相手を、あの人はどう思うだろう。見捨てられた、と感じるだろうか。それとも、何かあったのだと、気づいてくれるだろうか。
どちらでも、あの人を不安にさせることに変わりはなかった。
一度だけ、魔がさした。姉に検められる前に、もう一度だけ余白へ一行を、と。
けれど、できなかった。明日からは、姉が一字残らず目を通す。見つかれば、今度こそ言い逃れはきかない。この家を追われれば、あの人の手紙は、二度と手元に来なくなる。
だから、書かない。書かないことで、あの人と繋がる最後の糸を、自分の手で守る。守るために、切る。その矛盾の前で、シャルロットはただ、うずくまるしかなかった。
この七年、余白に書いた一行を、シャルロットはひとつ残らず覚えている。あなたの手紙を読む夜だけ息を吸える、と書いた夜。そのための風になりたい、と返ってきた夜。どれも、姉の名の下に隠れた、二人だけの小さな秘密だった。
その秘密が、今日で終わる。誰にも知られないまま、始まりも終わりも、誰にも気づかれないまま。
追い出されるより先に、糸は切られてしまった。まだこの家にいるのに、あの人とはもう、繋がっていない。名前も声もなく、ただ余白の一行だけで生きてきた七年が、たった一朝で、なかったことになる。
机の上で、余白のない手紙の写しが、灯りに白く光っていた。七年で初めて、シャルロットの一行を、ひとつも隠していない紙だった。
空っぽの便りほど、きれいに書けてしまうのだと、彼女は初めて知った。




