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4話 いちばん長い返事

 ペンだこの硬さが、この数日で少し増した気がした。


 建国祭の筋書きを書きはじめて幾晩が過ぎただろう。姉が殿下に告げる言葉を、書いては消し、消しては書いた。晴れの舞台の「はじめまして」を、他人の唇のために、何度も練り直す。指の奥の鈍い痛みは、もう体の一部になっていた。


 その夜も、扉を叩く音がした。


 「お嬢さま。殿下から、お返事が届いております」


 ネルが盆に一通を載せて入ってくる。薔薇と剣の封蝋。差出人は姉、けれど届く先を待っているのは、いつもシャルロットだった。


 「ありがとう、ネル」


 「殿下からのお便りは、いつもより厚うございますね」


 「ええ。今日は、長いみたい」


 「……根の詰めすぎには、お気をつけを」


 老侍女はそれだけ言って、下がっていった。シャルロットは震える指で、封を割った。


 便箋を広げる。姉の社交辞令に、彼はいつものように触れていない。彼が返していたのは、シャルロットが余白に忍ばせた一行だけ。そして今度の返事は、これまでで一番、長かった。


 あなたの言葉を七年読んできて、私はもう、あなたの心の癖まで諳んじてしまいました。あなたが何を恐れ、どんな言葉に触れると笑うのか。会ったこともないのに、私はあなたを、誰より知っている気がします。


 その一行一行が、まっすぐ胸に刺さった。恐れも、笑いも、彼が言い当てているのは、姉ではない。この便箋を書いた、わたしのことだ。


 あなたがいなければ、私はとうに、この城で心を失っていた。名も知らぬあなたに、私はもう、幾度救われたか分かりません。


 七年分の孤独が、その数行に滲んでいた。シャルロットは、それを書いた夜の自分を思い出す。あの人を励ますために選んだ言葉が、めぐりめぐって、今、自分を抱きしめている。


 そこまで読んで、彼女の息が止まった。


 建国祭の夜、ようやくあなたに会える。会って、確かめたいことが、一つだけあるのです。


 便箋を持つ手が、小さく震えた。


 あの人は、会いにくる。七年、言葉だけを交わしてきた相手に、ようやく会えると信じて。


 けれど夜会で彼の前に立つのは、姉だ。彼が確かめたい何かを、姉は何ひとつ持っていない。あの人は、わたしの言葉を着た別の人に微笑みかけ、そして——気づいてしまうかもしれない。この人は、手紙の人ではない、と。


 どちらに転んでも、あの人は傷つく。会えたと思って、会えないのだから。


 その夜、シャルロットは、彼への返事も書かねばならなかった。姉の名で、いつもの社交辞令を。そして、余白の一行を。


 なんと書けばいいのか。会いにきてはいけません、とは書けない。夜会にいるのは別の人です、とも書けない。


 迷った末、彼女は余白に、ただ一行だけ記した。


 もし夜会で、あなたの探している人が見つからなかったら。どうか、それでも、諦めないでください。


 書いてから、指が冷えた。これは警告だろうか。祈りだろうか。それとも、いつか自分を見つけてほしいという、身勝手な願いだろうか。分からないまま、彼女はその一行を、封の中へ落とした。


    *   *   *


 翌日の午後、姉が書斎に来た。


 「筋書きは、どこまで進んだの」


 ロザリンドは答えを待たず、机の上の紙を一枚、指でつまみ上げた。書きかけの台詞に、ざっと目を走らせる。


 「ずいぶん、熱のこもった台詞ね」


 「殿下のお人柄に、合わせたつもりです」


 「あら。まるで、お前自身が言いたいことみたいだこと」


 姉の声から、ふだんの甘さが消えていた。シャルロットは膝の上で指を握った。姉の目がこちらの表情を探るように滑る。


 「まさか、お前。殿下に、妙な気を起こしているんじゃないでしょうね」


 「そんな。姉さまの、婚約者です」


 「そうよ。わたくしの婚約者。わたくしの手紙。ぜんぶ、わたくしのもの」


 姉の視線が、机の端の便箋に止まった。殿下からの、あの長い返事だ。


 「殿下は、ずいぶん熱心にお書きになるのね。なんて書いてあるの、これ」


 ロザリンドは便箋を取り上げ、目を走らせた。あなたを誰より知っている気がします、の一節で、その眉がかすかに寄る。


 「気味の悪い。会ったこともないのに、知っているだなんて」


 「それは、殿下がお手紙を、とても大切に読んでくださっている証かと」


 思わず口をついた言葉に、姉の目が、すっと細くなった。


 「自分が書いたものを褒められでもしたような顔をするのね、お前」


 シャルロットはうつむいた。心臓が、ひどく速い。


 ロザリンドは一歩、机へ近づいた。


 「いいこと。お前の書く言葉は、わたくしの名前があって初めて意味を持つの。名前のない言葉なんて、風に飛ぶ塵と同じ。お前自身には、何の値打ちもない」


 「はい、姉さま」


 消え入る声で、シャルロットは答えた。逆らう言葉は、とうに失くしていた。


 お前の言葉に価値などない。七年、幾度も聞いた言葉だった。けれど今日は、いつもより深く刺さった。あの人の「誰より知っている」という一行を、読んだばかりだったから。


 ロザリンドは紙を机に戻し、鏡の前へ戻っていく。その横顔から、笑みは消えたままだった。


 「まあ、いいわ。どうせ建国祭が終われば、こんな紙きれ、もう要らなくなる」


 シャルロットは顔を上げた。


 「……要らなく、とは」


 「じかにお会いすれば、殿下もわたくしに夢中になる。手紙の中の誰かではなく、目の前のわたくしにね。そうなれば、お前の役目もおしまい。せいせいするでしょう、お前も」


 手紙の中の誰か。姉は何気なく言った。その言葉が、いちばん的を射ていることも知らずに。


 シャルロットは、うまく笑えなかった。


    *   *   *


 夜。ネルが盆を手に入ってきた。


 「お夜食を、少しだけ。お顔の色が、よくございません」


 「ありがとう。でも、今はいらないわ」


 「お嬢さま」


 ネルは、めずらしく食い下がった。


 「余計なことを、一つだけ申します。お嬢さまは、ご自分を粗末になさりすぎます」


 その一言に、シャルロットは返す言葉を持たなかった。ネルは盆を置いて、静かに下がっていった。


 ひとりになって、シャルロットは書きかけの筋書きを見つめた。


 建国祭が終われば、姉は言うだろう。もう代筆は要らない、と。


 そうなれば、失うのは仕事だけではなかった。あの人と繋がる、たった一本の糸を、失う。


 七年、名前も声もないまま、それでも余白の一行だけで、わたしはあの人と生きてきた。その糸が、あと三十日で切れる。切るのは、わたしの手で書いた、わたしの筋書きだ。


 自分で自分の首を、少しずつ絞めている。それでも、書くのをやめられない。書くことだけが、あの人に触れる唯一の術だったから。


 ふと、危ない考えが胸をかすめた。もし、筋書きを渡さなければ。夜会で姉が立ち往生すれば、殿下は気づくかもしれない。目の前の人は、手紙の人ではないと。


 けれど、とすぐに打ち消した。そんなことをすれば、この家にわたしの居場所はもうない。追い出されれば、あの人の手紙も、二度と読めなくなる。


 結局わたしは、あの人を欺く片棒を担ぎ続ける。あの人を守るためではない。あの人と繋がる糸を、手放したくないだけのために。


 いちばんの嘘つきは、姉ではなく、わたしなのかもしれない。


 机の上で、殿下の手紙が灯りに小さく光っていた。会って、確かめたいことがある。その一文を、シャルロットは指の腹でなぞった。


 あなたが確かめたいその人は、夜会にはいません。


 あなたが会うのは、わたしの言葉を着た、別の人です。


 蝋燭の芯が、ひとつ、爆ぜた。手紙の上の影が、小さく揺れて、また静まった。

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