3話 余白の人
夜の王城は、音で満ちている。
衛兵の靴音。遠い笑い声。閉じる扉。そのどれもが、誰かの耳のためにあった。エイダンは執務室の椅子に深く座り、廊下を行き来する足音の数をいつのまにか数えていた。
この城では壁も床も、耳を持っている。うかつな一言が、翌朝には別の意味になって返ってくる。だから彼は、口を閉ざすことを覚えた。物言わぬ王子、と陰で呼ばれているのも知っている。
扉が叩かれた。
「殿下。ラヴィエール様より、お便りが届いております」
侍従が銀の盆に一通を載せて入ってくる。エイダンは表情を動かさずに頷いた。
「ご苦労。下がっていい」
「本日はこれで失礼を。……お返事は、いつもの手筈で、朝一番にお預かりします」
侍従の目が、ほんの一瞬、盆の上の封書に落ちた。この城では、王子の私信も、どこかの帳面に書き留められる。エイダンはそれを知っていて、知らないふりをした。
「ああ、頼む」
扉が閉まる。足音が廊下の奥へ消えるのを待ってから、彼はようやく、封に手を伸ばした。
封蝋は、薔薇と剣。婚約者ロザリンドの、ラヴィエール侯爵家の紋だった。
便箋を広げる。社交の挨拶、夜会の相談。目が、するすると滑っていく。彼が探しているのは、そこではない。
本文の下、署名の前。わずかな余白に、いつも一行だけ、毛色の違う言葉が隠れている。
あなたの手紙を読む夜だけ、息を吸える気がします。
ここだ、と彼は思った。この一行のために、彼は毎晩、この手紙を待っている。
社交辞令なら、誰にでも書ける。けれどこの一行は違った。書いた人の息づかいがそのまま紙に移っている。七年、彼を生かしてきたのは、この余白の声だった。
七年前、婚約したばかりの頃。継承を巡る風がすでに冷たく、彼は城で独りだった。そこへ、最初の便りが届いた。儀礼ばかりの文の末尾に、小さく、こう添えられていた。
あなたが健やかであることを、名も知らぬわたしが、祈っています。
その一行を、エイダンは何度も読み返した。この広い城で、自分の無事をただ祈ってくれる誰かが、どこかにいる。それだけで、越えられた夜がいくつもあった。
あなたが息を吸えるのなら。エイダンはペンを取り、返事を綴った。私はそのための風になりたい。名も知らぬ風で、かまわないから。
書きながら、いつもの棘が胸を刺した。
この言葉を、当のロザリンドに向けて書いている。そのはずなのに、実感がまるで湧かない。
* * *
——あれは、半年前の顔合わせのこと。
王城の庭の東屋で、二人は形ばかりの茶を挟んで向かい合っていた。会うのは、婚約から数えて三度目。エイダンは意を決して、手紙の話を持ち出した。
「先だってのお便り。星の下で誓いを交わす、あの一節が、忘れられません」
ロザリンドは、扇の陰で美しく微笑んだ。
「まあ。お気に召したなら、なによりですわ」
「あの『星は嘘をつかない』という一行。あれは、あなたご自身の言葉ですか」
「ええ、もちろん。わたくしの手紙ですもの」
言い切る声に、迷いはなかった。けれど彼女は、その一行をどんな想いで書いたのか続けて語ろうとはしない。
「では、その続きは。星は嘘をつかない、けれど人は、とあなたは書かれた。あの『けれど』の先を、私はずっと考えているのです」
「まあ、殿下ったら。手紙の一言一句まで、覚えていらっしゃるの」
ロザリンドは楽しげに笑い、扇を揺らした。問いへの答えは、返ってこなかった。エイダンは、静かに話を変えた。
「あなたは、夜の庭がお好きだと書いておられた」
「そうでしたかしら。まあ、庭など、どこも似たようなものですわ」
「私は、あなたの手紙で夜の庭を知ったのです。月のない夜のほうが、星がよく見えるのだと」
「あら。そういうものかしら」
そういうものかしら。自分が書いたはずのことを、彼女はそう受け流した。かわりに身を乗り出して語りだしたのは、建国祭でどんな装いをするか、という話だった。
あのとき覚えた寒気を、エイダンは今も忘れられない。
目の前のロザリンドは美しく、そつがなく、便箋の中のあの人とはどこか別人だった。手紙では誰より饒舌なあの人が、面と向かうと、手紙の中身をひとつも持ち合わせていない。
同じ人のはずだ。同じ人のはずなのに。
その違和感に名前をつけるのが彼はこわかった。名前をつけてしまえば、七年の拠りどころが、根こそぎ崩れる気がして。
* * *
もう一つ、この手紙には、彼だけの仕掛けがあった。
返事のどこかに、彼は毎回ひとつ場違いな言葉を紛れ込ませていた。前後の文にそぐわない、古めかしい一語。字面だけを追う目には、王子の悪い癖としか映らない。
事実、この城で彼の書簡を検める目は、七年、それを見過ごしてきた。
平文では、決して書けないものがある。書いた瞬間、それは彼の命取りになる。だから彼は、言葉を二重にした。表の顔と、裏の声を。
皮肉なことに、そのやり方は、余白に一行を忍ばせるあの人の癖と、どこかよく似ていた。
二人とも、本当のことは、隅っこにしか書けない。
いつからか、エイダンはこの城の誰も信じられなくなっていた。差し出される笑顔の裏で、誰が誰の耳になっているか分からない。だから彼は、たった一人、顔も知らぬ手紙の相手にだけ、命の重さを預けることにした。
おかしな話だ。会ったこともない人が、この城の誰よりも、彼にとっては本物だった。
いつか気づいてほしい、と彼は思う。余白にあれほど繊細な声を宿す人なら、いつかきっと、この場違いな一語に気づく。そして、その奥に隠したものにも。
届いてくれ。名も知らぬあなたに。エイダンは祈るように、その一語を、今日の返事にも埋めた。
* * *
窓の外で、また足音が止まった。扉の前で、ひと呼吸。そして、遠ざかる。
エイダンは筆を置き、こめかみを押さえた。
あと三十日で、建国祭の夜会が来る。そこで彼は、七年ぶりに、ロザリンドとまともに言葉を交わすことになっている。
試そう、と決めていた。
二人だけの手紙にしか出てこない、あの余白の一行を、口にしてみる。もし目の前の人が本当に書き手なら、その瞳は、必ず揺れるはずだ。
もし、何も返ってこなければ。
そのときは、覚悟を決めるしかない。七年、自分が恋してきたのが、いったい誰なのかを。
こわい、と素直に思った。あの人が別にいるのなら、会いたい。けれど、目の前の婚約者がただ空っぽなだけなら、七年の手紙は、自分ひとりの芝居になってしまう。
どちらであってほしいのか、自分でも分からなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。もし本当の書き手が別にいるのなら、その人は今、名前も功も奪われて、どこかで息をひそめている。自分の言葉が王子の心を掴んでいることも知らされず、ただ、道具のように使われて。
もしそうなら、と彼は思う。見つけ出して、この手で、光の当たる場所へ連れ出したい。名も知らぬあなたに、ようやく名前を返すために。
「……どこにいる、あなたは」
誰にともなく、エイダンは呟いた。答える声は、どこからも返らない。無音が、執務室にゆっくりと降りてきた。
エイダンは返事を折り、封蝋を落とした。薔薇でも剣でもない、彼自身の印。溶けた蝋が、便箋に埋めた一語の上へとろりと広がっていく。
その下に眠るものを、いつか、誰かが読み解いてくれることを願いながら。
蝋は、ゆっくりと固まった。あと三十日。




