2話 筋書き
朝が来ても、封は切れないままだった。
シャルロットは机の端の一通を指の先だけで撫でた。硬い蝋。昨夜届いたエイダンからの返事。読めば、また息ができてしまう。息ができれば、欲しくなってしまう。だから昨夜は開けられなかった。
「お嬢さま。ゆうべも、お眠りになっていないのですね」
盆を手にしたネルが机の上を目ざとく見て言った。
「少しだけ」
「少しだけ、というお顔ではございませんよ」
ネルは湯気の立つ器を置き、それ以上は訊かなかった。かわりに、封蝋のかかった別の一通を盆に載せる。ゆうべシャルロットが姉の名で封じた、王都行きの手紙だ。
「こちらは、いつものように宿場へお出ししますね。お嬢さまの手が書いたものが、また旅に出るのですね」
「ネル」
「はい、余計なことは申しません」
老侍女は小さく笑って下がっていった。器から立つ湯気だけが、しばらく部屋に残った。
ひとりになって、シャルロットはようやく昨夜の返事の蝋を割った。
便箋を広げる。姉の名で出した手紙への返事だった。
姉が書かせた社交辞令に、彼はいつものようにほとんど触れていない。天気の挨拶も、夜会の相談も、目を素通りしていく。彼が長く言葉を返してきたのは、たった一箇所だけ。シャルロットが余白に忍ばせた、あの一行への答えだった。
あなたの手紙を読む夜だけ、息を吸える気がします。
妹のその一行に、王子はこう返していた。
あなたが息を吸えるのなら、私はそのための風になりたい。名も知らぬ風で、かまわないから。
胸の奥が静かに灯る。名前も知らない相手に、あの人はこんな言葉を返す。姉にではなく、この文字を書くわたしに。
いつだったか、あの人はこう書いてきた。あなたの手紙が届く日は、王城の空まで少し軽くなる、と。その一文を、シャルロットは今も諳んじられる。何十通ぶんの社交辞令より、そのたった一行のほうが、ずっと重かった。
うれしい、と思ってしまう自分がこわい。
便箋を畳もうとして、指が止まった。手紙の途中に、また一つ、あの場違いな一語があったからだ。
「兄君は、幼い頃から何を考えているか読めない人だった」
恋の返事のまんなかに。なぜ急に、兄の話が差し込まれるのだろう。前のどの文にも、後のどの文にも馴染まない一文。そこだけ、指に小石が触れるように引っかかる。
七年、この一語の意味を、シャルロットは掴めないままだった。文字の綺麗な人が、なぜ毎回ひとつだけ、わざと残したように、そぐわない言葉を混ぜるのか。
彼女は便箋をそっと文箱の底へ戻した。そこには七年分の彼の手紙が眠っている。どの一通にも、ひとつずつ、同じ引っかかりがあった。
いつか、この一語を全部並べてみたら、何か意味が浮かぶのだろうか。ふと、そんな考えが胸をよぎる。けれど、姉の名で送り、姉の名で受け取る手紙だ。並べて読み返す時間も、そうする資格も、シャルロットにはなかった。
* * *
その日の午後、姉に呼ばれた。
ロザリンドは姿見の前で、仕立て途中のドレスの布を肩に当てている。淡い金の絹が、窓の光を弾いた。
「見て。建国祭の夜会のために誂えたの。どうかしら」
「よくお似合いです、姉さま」
「当然ね。それより、本題はお前の仕事のほう」
姉は布を侍女に渡し、鏡の中でこちらを見た。
「あと三十日を切ったわ。殿下に何をお話しするか、そろそろ書いておいてちょうだい。当日わたくしが困らないよう、一言一句」
一言一句。手紙だけではない。姉が殿下の前で口にする言葉まで、すべてシャルロットが用意する。文字の次は、肉声だ。
「かしこまりました」
「あの方、手紙ではよく喋るくせに、面と向かうと何を考えているのか読めないの。この前の顔合わせも、ろくに目も合わせてくださらなかったわ」
「けれど、構わないの。夫婦なんて、手紙で心が通っていれば十分でしょう。げんに殿下は、わたくしの手紙にすっかり夢中だもの」
わたくしの手紙。シャルロットは膝の上で、指を固く折り込んだ。
「ええ、姉さま」
「お前も、いつか誰かに手紙を書いてもらえるといいわね。……いえ、お前は書くほうか」
姉は自分の冗談に、くすりと笑った。悪気は、やはりない。
鏡の中の姉は、また布の色を選びはじめている。手紙の向こうのあの人が、面と向かうと読めない人だということを、姉は知っている。けれど、その人が便箋の中では誰より饒舌だということは、知らない。それを知っているのは、七年その人と言葉だけを交わしてきた、シャルロットひとりだった。
「それと、当日はお前も来なさい。わたくしの侍女として、後ろに控えるの」
シャルロットは顔を上げた。
「わたしが、夜会に」
「筋書きを一番わかっているのはお前でしょう。わたくしが詰まったら、後ろからそっと囁いてちょうだい。人形遣いのように、ね」
姉は鏡の中で、悪気もなく笑った。悪気がないぶん、その言葉は深く刺さった。
人形遣い。動く人形は姉で、糸を引くのはわたし。そしてその糸の先で微笑むのは、あの人だ。
* * *
部屋に戻って、シャルロットは一つのことに気づいた。あの夜会で、姉は初めて、人前で殿下と向き合う。それはつまり、わたしも生まれて初めて、あの人を見るということだった。
七年、言葉だけを交わしてきた人。顔も、声も、知らない。手紙の字だけが、わたしの知るあの人のすべてだった。
その人を、三十日後、初めてこの目で見る。姉の一歩うしろから、声も出せずに。
会えるのに、会えない。それはたぶん、会えないことよりも苦しい。
夜、シャルロットは白紙に向かった。
姉が夜会で殿下に告げる言葉。姉の唇が動かす、わたしの文。書き出しをどうするか、それだけで、ペンは幾度も止まった。
「お会いできて、嬉しく思います」。書いて、線を引いて消す。ありきたりすぎて、あの人には届かない。
「お手紙を、いつも楽しみにしております」。これも消した。楽しみにしているのは、姉ではない。嘘の混じった言葉を、あの人の前に差し出したくはなかった。
「夜の庭が、わたくしは好きなのです」。そう書いて、ペンが止まった。夜の庭が好きだと、余白に一度だけ書いたのは、わたしだった。月のない夜のほうが星がよく見えると、あの人に教えたのも。誰にも言わない、わたしだけの秘密。それを姉の唇から言わせれば、あの人はきっと、姉を手紙の主だと信じてしまう。
けれど、それでは姉が、わたしになってしまう。七年かけてあの人に明かしてきた自分を、姉の口に明け渡すことになる。書いた一行を、シャルロットは線で消した。
七年、手紙の向こうであの人が見せてくれた孤独に、まっすぐ届く言葉を。姉の名で、姉の声で、告げるための言葉を。
——あれは、十一の歳のこと。
初めて姉に代筆を命じられた夜も、こうして白紙に向かった。字が下手なだけの姉の代わりに、一度だけ、と言われて。あのときは、これが七年も続くとは思わなかった。自分の綴る言葉が、誰かの心を動かすことも、まだ知らなかった。
今は、知っている。だからこそ、苦しい。
この台詞を選ぶには、自分があの人の前に立つ姿を想像しなければならない。もし、わたしなら。もし、わたしの名前で、あの夜会に立てたなら、あの人に、なんと言うだろう。
ペンが止まった。
気づけば紙の隅に、姉のためではない一行を書いていた。
「七年、あなたの言葉だけを頼りに、生きてきました」
書いてしまってから、シャルロットは強く線を引いて、その一行を塗り潰した。インクが滲み、紙の隅に黒い染みが残る。誰にも読まれない本音が、また一つ増えた。
扉の外で、足音がした。新しい蝋燭を持ったネルが、音もなく入ってくる。
「根を詰めすぎては、お体に障ります」
「もう少しだけ。姉さまの、大事なお役目だから」
ネルは何か言いかけて、やめた。かわりに、灯りの尽きかけた燭台へ、新しい蝋燭を立てていく。
「……お嬢さまの綴られた言葉は、ちゃんと、どこかの誰かに届いておりますよ」
シャルロットは顔を上げた。
「ありがとう、ネル。おやすみなさい」
ネルはそれ以上は言わず、一礼して下がっていった。
届いている。ええ、届いている。ただ、わたしの名前では、ないだけ。
わたしは筆であって、声ではない。名前を持つのは姉で、わたしはただ、その手だ。わかっている。七年、ずっとわかっている。それでも指のいちばん奥が、少しだけ痛んだ。
書きかけの「はじめまして」と、塗り潰された本音。二つの言葉が並ぶ紙が、白い机の上でゆっくりと乾いていく。
三十日後、そのうちの片方だけを、姉の唇が、あの人に告げる。




