1話 代筆の令嬢
羽根ペンの軸は、もう手の形になっていた。右手の中指の第一関節にできた硬いペンだこに、軸がぴたりと嵌まる。シャルロットはインク壺に先を浸し、余分な滴を壺の縁で切った。
書き出しの言葉は、七年変わっていない。
愛しいエイダンさま。
自分の名ではない名で、彼女は今日も恋文を綴りはじめた。
お前の言葉に価値などない。
姉の声が、耳の奥で灯る。七年、消えない残り火のようだった。
ただ、わたくしの名で書けば意味を持つだけ。姉はいつもそう続けた。だからこの指が綴る愛しさも、明日には姉のものになる。
便箋の隅には、姉ロザリンドの紋章が金の型で押されている。薔薇と剣の意匠。シャルロットの持ち物は、この部屋にひとつもない。
紙も、文字が運ぶ想いも、届いた先で読まれる署名も、すべて姉のものだった。
はじめは十一の歳だった。筆不精な姉の代わりに、一度だけ返事を書いてほしい。そう言われた一度が、七年続いている。
あのとき姉は、返事の文面をひとつも口にしなかった。殿下がお前の字を気に入ったのならそれでいい、とだけ言った。字を、と姉は言った。言葉ではなく。
十一のシャルロットは、その違いの意味をまだ知らなかった。今は、知っている。
書斎の窓はもう暗い。日が落ちてから書くのが習いになっていた。昼のあいだは姉の支度を手伝い、夜になってようやく、自分の手が動く時間が来る。もっとも、動かすのは自分の想いではないのだけれど。
抽斗には、七年分の下書きが折り重なっていた。送る前の写し。姉の名で出した言葉を、シャルロットだけがもう一度読み返すための束だ。
ペン先が紙の目を滑る。かすかな引っかかりが、指の腹に伝わってくる。彼女はこの手触りだけを、自分のものだと思うことにしていた。
邸は静かだった。夜のこの刻限、廊下に人の気配はない。姉はもう休む支度に入り、使用人たちも下がっている。書斎に残るのは、インクの匂いと、ペンの走る音と、シャルロットひとりだった。
扉が軋んだ。香水の匂いが先に入ってくる。
「できたの」
ロザリンドは返事を待たずに机へ寄り、便箋を覗き込んだ。文面をたどる目はしていない。金の型で押された紋章だけを指で撫で、満足そうに頷く。中身が何を語っているのか、姉は今日も知らないままだった。
「相変わらず、字だけは上手ね。お前にできる、たった一つのことだもの」
シャルロットはペンを置き、膝の上で手を重ねた。インクの染みた指先を、姉に見えないよう内側へ折り込む。
「はい、姉さま」
「殿下は、わたくしの手紙をずいぶんお気に入りだそうよ。先日の使者も、そう伝えてきたわ」
姉は自分の書いていない手紙を、我が物顔で語った。書いた者の前で、書いた覚えのない言葉を誇る。
それを咎める資格は、シャルロットにはない。咎めれば、この家に居場所はなくなる。
「よかったですね」
「よかった、ですって」
姉が振り返った。口の端がわずかに下がる。
「他人ごとみたいに言うのね。まあ、お前には関わりのないことだもの。手が羨むなんて、聞いたこともないわ」
手、と姉は言った。シャルロットのことだ。この家で、彼女はそう呼ばれる。目でも口でもなく、ただ動くだけの手。
「明日の朝、殿下へ発たせるわ。夜のうちに封をしておいて」
「かしこまりました」
姉は扉のところで足を止め、思い出したように振り返った。
「そうそう。来月の建国祭よ。あの夜会で、殿下と、初めて人前でお言葉を交わすの。堅苦しい顔合わせとは、わけが違うわ。婚約から七年、ようやく晴れの舞台よ」
シャルロットの指が、わずかにこわばった。
思えば七年、姉は数えるほどの形ばかりの顔合わせをのぞいて、込み入った対面を、あらゆる口実で避けてきた。書くほどに深まる手紙の主と、話せば中身の伴わない自分。その差が人前で露見するのを、姉は避けたかったのだろう。
「……夜会で、直に」
「そうよ。手紙ばかりでは、王子妃は務まらないでしょう。だからその夜、殿下に何をお話しするかも、お前が考えておいてちょうだい。わたくしは、筋書きどおりに微笑んでいればいいの」
「その夜のお言葉も、わたしが用意します」
「あら。他に誰が書くというの。あなたの手が空いているうちに、しっかり考えておいてね」
姉は当然のように笑って、それきり振り返らなかった。姉が便箋を置いて出ていくと、書斎には蝋燭の芯の焼ける音だけが残った。無音が、部屋にゆっくりと降りてくる。その底で、細い炎が一度だけ揺れた。
シャルロットは、もう一度ペンを取った。
本文の下、署名の前のわずかな余白。そこに、毎回ひとつだけ、姉には頼まれていない一行を書き足す。誰にも命じられていない、彼女だけの仕事だった。
今日の分は決めていた。
あなたの手紙を読む夜だけ、わたしは息を吸える気がします。
姉の名で送る便りに、自分の息を一行だけ紛れ込ませる。気づかれるはずがない。これはロザリンドの恋文で、シャルロットはただの手だ。手が、なにを願おうと、便りの署名は変わらない。
けれど、返事はいつも、その一行に届いた。
王子エイダンからの手紙は、姉の綴った社交辞令には触れない。天気の話にも、夜会の誘いにも、ほとんど返さない。
彼が長い返事を書いてくるのは、決まってシャルロットが余白に落とした、たった一行のほうだった。
あなたの手紙を読む夜だけ、息を吸える気がします。前にそう忍ばせたとき、彼の便箋にはこう返っていた。あなたが息を吸えるのなら、そのための風になりたい、と。名も知らぬ風で、かまわないから、と。
姉に宛てたはずの封筒の中で、彼はいつも、姉の知らない誰かに話しかけていた。
ただ、彼の返事には、いつも一つだけ、そぐわない言葉が混じっていた。前後に馴染まない古めかしい言い回し。そこだけ、指に小石が触れるように引っかかる。
七年、シャルロットはその一語の意味を掴めずにいた。文字の綺麗な人が、なぜ毎回ひとつだけ、わざと残したように、そぐわない一語を混ぜるのか。
その誰かに、名前はない。あるのは姉の署名だけだ。エイダンは会ったこともない相手に恋文を返し、シャルロットは顔も知らぬ人の便りで息を継ぐ。
ふたりのあいだには七年分の便箋が積もり、そのどれにも、本当の名は書かれていなかった。
彼が恋をしている相手は、姉ではない。この文字を書く者に、エイダンは七年、返事を書き続けている。
そのことを知っているのは、世界でシャルロットひとりだった。そして、それを口にできない者も、彼女ひとりだけだった。
封蝋を垂らす。溶けた赤い蝋が便箋の封じ目に落ち、シャルロットはそこへ、姉の印を押しつけた。薔薇と剣。シャルロットの一行は、その紋の下に隠れて、明日には王都へ発っていく。
軽い足音が廊下から近づいて、扉が細く開いた。
「お嬢さま、お茶を持ってまいりました。もう遅うございますよ」
侍女のネルだった。年かさの、この家でただひとり、シャルロットを手とは呼ばない者。盆を置き、机の上の封書に目を留める。
「明日の朝一番でお出ししますね。いつものように、わたしが宿場まで」
「ええ、お願い。あなたが出してくれるなら、安心だわ」
「殿下の使者の方が、この前おっしゃっていました。殿下は、ラヴィエールからの便りが届く日だけは、朝から機嫌がよろしいと」
ネルは何気なく言って、湯気の立つ杯をシャルロットの手元へ寄せた。悪気はない。ただ、姉の名の手紙を褒めているつもりで、この老侍女は知らずに、書いた者を褒めていた。
「そう。姉さまも、お喜びになるわ」
「お嬢さまが書いていらっしゃるのに、ね」
ネルの手が止まった。言ってしまってから、しまった、という顔をする。シャルロットは首を横に振った。
「いいのよ。誰にも言わないで。それだけ」
「かしこまりました。……ですが、ひとつだけ、古い女の世迷いごとを聞いてくださいますか」
「なに」
「殿下のお返事が届く日、お嬢さまはきまって、同じ一箇所を、なんども読み返しておいでです。長いお便りの、ほんの短いところを。あそこには、いったい何が書いてあるのでしょうね」
シャルロットは、杯へ伸ばしかけた手を止めた。胸の奥で心の臓がひとつ大きく打つ。
ネルは何も知らない。ただ、便りの形だけを、長年運ぶうちに覚えてしまっただけだ。それでも老侍女の問いは、シャルロットが誰にも見せずにいた継ぎ目を指の背でなぞっていた。
「気のせいよ、ネル。手紙はただの手紙だもの」
「そうでございましょうね。年寄りの、気の回しすぎでございました」
老侍女はあっさりと引き下がり、盆を抱え直した。それ以上は詮索しないのが、この人のやさしさだった。
「夜更かしは、お身体に障ります。蝋燭も、もう替えどきですよ」
「ええ。ありがとう、ネル。おやすみなさい」
ネルは一礼した。封書には手を触れず、それは明日の朝と決まっている、静かに部屋を出ていった。廊下を遠ざかる足音が、やがて聞こえなくなる。
蝋が固まるまでの短いあいだ、シャルロットは自分の指先を見た。何度洗ってもインクの染みは落ちない。
この指だけが王子と繋がっている。姉の名を通して、姉には見えない場所で。
机の端に、まだ封を切っていない手紙が一通あった。今朝ネルが受け取ってきた、エイダンからの新しい返事。いつもなら、姉が去るのを待って、真っ先に開ける。
今日は、できなかった。
昨夜の一行に、彼がどんな答えを返したのか。それを読んでしまえば、また息ができてしまう。
息ができれば、いつか欲しくなる。自分の名前で、あの人に読まれることを。シャルロットとして、あの人の前に立つことを。
けれど来月の夜会で、彼の前に立つのは姉だ。姉の顔で、姉の名で、シャルロットの書いた言葉が微笑む。
その筋書きさえ、自分が書く。手の仕事は、どこまでいっても手の仕事だった。
望んではいけないものの名を、彼女はもう知っていた。
封の蝋はもうすっかり固まっている。姉の薔薇と剣が、赤い盤面の上で小さく光った。
その紋の下に、今日の一行が眠っている。誰にも読まれないまま、明日には王都へ運ばれていく一行が。
シャルロットは、まだ開かない手紙の封に指をかけた。そのまま動きを止める。炎が芯を舐める音だけが、暗い書斎に続いていた。




