9話 解けはじめる
辺境に来て、幾日が過ぎただろう。
マノンが暖炉の薪を三度替えるあいだ、シャルロットはほとんど、床に広げた手紙の前を離れなかった。食事も、眠りも、後回しにして。ずっと気づかないふりをしてきたものに、今はただ、まっすぐ向き合っていたかった。
やっていることは、単純だった。
七年分の手紙から、あの場違いな一語だけを、届いた順に、別の紙へ書き写していく。ただ、それだけ。
けれど、手紙は膨大だった。ひと月に二度、七年。数えれば、百通を越える。そのどれにも、恋の言葉と社交辞令のあいだに、ひとつだけ、そぐわない古い一語が紛れている。七年ずっと、あの人の癖だとばかり思ってきた、あの場違いな一語が。
はじめは、途方に暮れた。古いものから順に拾って並べてみても、言葉は、ばらばらのままだったからだ。忘れられた地名。とりとめのない季節の話。意味の通る鎖には、とても見えない。まるで、拾うべき環が、あてもなく散らばっているようだった。
やはり、ただの癖なのか。そう思いかけた、その時だった。
束のいちばん新しいほうまで来て、シャルロットの指が、止まった。
ここ半年ほどの、直近の手紙。そこに紛れた一語たちだけが、急に、意味をもって連なりはじめていたのだ。
最初に繋がったのは、こう書かれた一通だった。
「兄君は、幼い頃から何を考えているか読めない人だった」
前にも後にも馴染まない、その一語。恋を語る便りに、なぜ急に、兄の話が出てくるのか。七年、ずっと引っかかっていた、あの綻び。それが今、たしかな意味をもって、目の前にあった。
兄君、とシャルロットは白紙に書き写した。
すぐ次に届いた手紙にも、やはり、浮いた一語があった。
「父君の御代は、もっと風が穏やかだった気がする」
父君。それも、書き写す。
二つの言葉が、白紙の上に並んだ。
兄君。父君。
古い言い回しを、ふつうの言葉に直せば。
兄。父。
* * *
シャルロットは、指を止めた。
もし、この一語たちが、ぜんぶ「意味」でつながっているのだとしたら。恋文の飾りなんかではなく、一語ずつ、順番に読むべき言葉なのだとしたら。
あの人はこの半年、恋文の下に、一語ずつ、別の文を書いていたことになる。七年、意味のない一語を置き続けた末に、ようやく。誰にも読まれないよう、前後の文にまぎれさせて。字面だけを追う目には、けっして見つからないように。
そして、それを拾い上げられる者が現れるのを、ずっと、待っていた。
余白に本音を忍ばせる、わたしのような書き手なら、いつか気づくと信じて。
胸が、強く鳴った。七年、あの人がわたしに返してくれた言葉の下に、もう一つの声があった。ずっと、わたしにだけ、話しかけていた声が。
一夜も欠かさず、あの人はこの一語を残し続けた。返事が届くたび、わたしが気づくかどうかを、たった一人で賭け続けていたのだ。それも、七年。
気づけなかった歳月を思うと、申し訳なさで胸が潰れそうになった。けれど、今からでも遅くはない。あの人が待っていた『たった一人』に、わたしは、なる。
けれど。
兄。父。
恋を語る手紙に、なぜ、その二つなのか。愛の言葉にまぎれさせるには、あまりにそぐわない。むしろ——不吉だった。
* * *
「またお食事に、手をつけておられませんね」
いつのまにか、マノンが戸口に立っていた。床いっぱいの手紙と、白紙に書き連ねた言葉を見ても、老女は眉ひとつ動かさない。
「根を詰めても、若いお身体に障りますよ。……その手紙は、そんなに大事なものですか」
「ええ。たぶん、わたしの命より」
そう答えてから、シャルロットは、自分の言葉に驚いた。ここへ来る前なら、けっして口にできなかった本音だった。
マノンは、ふしぎそうな顔もしなかった。ただ、湯気の立つ器を、手紙の届かない隅にそっと置いた。
「置いてきたものと向き合うのは、けっこうなことです。でも、生きている人が、冷めた湯で向き合うことはありません。飲んでから、おやりなさい」
その素っ気ない優しさが、なぜか、目の奥を熱くした。
シャルロットは器を両手で包み、ひとくち、飲んだ。あたたかい。それだけのことが、ずいぶん久しぶりに思えた。
「マノンさんは」と、湯気ごしに訊いてみた。「何を、置いてこられたのですか」
老女は、少しだけ笑った。
「さあ。もう、忘れました。忘れられるくらいには、ここで長く息を継ぎましたから」
「……忘れられる日が、わたしにも来ますか」
「さあ。でも、あなたはまだ、忘れたくないものを抱えておいでのようだ」
マノンは、床の手紙に、ちらりと目をやった。
「それなら、忘れなくてよろしい。忘れられないものと生きるのも、ひとつの生き方です」
その言葉は、なぐさめのようで、背中を押す手のようでもあった。
* * *
湯を飲み干して、彼女はまた、手紙に戻った。
三通目。そこにも、浮いた一語があった。
「庭に兜の花が咲いた。美しいが、触れてはいけないものほど美しい」
兜の花。
それが何を指すのか、まだ分からなかった。花の名だろうか。けれど「触れてはいけない」という一言が、ほかのどの言葉より、鋭く胸に刺さった。
兄。父。そして、触れてはいけない花。
三つ並べただけで、シャルロットは確信した。これは、恋文なんかじゃない。あの人はきっと、誰にも言えない何かを、七年かけて、わたしにだけ、託そうとしていた。平文で書けば、命取りになる何かを。
そういえば、あの人の返事には、時どき、奇妙な影があった。孤独の匂いだけではない、もっと張りつめた気配。あれは、恋に悩む男のものではなかったのだ。
思い返せば、手がかりは、ずっとあった。誰かに読まれることを、いつも恐れているような、言葉の選び方。核心には決して触れず、まわりだけをなぞる、あの慎重さ。わたしは七年、それを照れや奥ゆかしさだと思っていた。違った。あの人は、本当に、何かに怯えていた。手紙の一語に命を隠さねばならないほど、追いつめられた場所に、あの人はいたのだ。
窓の外で、風が鳴る。
床に並んだ七年の上に、書き写したばかりの言葉が、三つ。兄。父。そして、触れてはいけないもの。
その先を読むのが、こわかった。読み解いてしまえば、ただの恋では、済まなくなる。
それでも、シャルロットは、四通目の封へ、そっと指をかけた。
あの人が七年、命がけで隠した声だ。それを聞き取れる者が自分だけなら、この指を止めるわけには、いかなかった。




