10話 兄という影
夜ごと、エイダンは同じ問いを転がしていた。
あの余白の声の主は、誰なのか。
余白の一行が途絶えて、もう幾晩になる。声を失った手紙は、いまも執務机の隅で、白いまま冷えている。あの人が黙らされたという確信は、日ごとに重くなった。
だから彼は、考えるしかなかった。動けない代わりに、頭のなかで可能性を一つずつ潰していく。
最初に立てたのは、いちばん単純な答え。手紙も肉声も、ロザリンド本人。ただ、自分が勝手に別人のように感じているだけではないか。
けれど、それは否定するしかなかった。半年前、あの東屋で、ロザリンドは自分の書いたはずの一節を、ひとつも覚えていなかった。書いた本人が、書いた言葉を忘れることは、ない。
次に立てたのは、代筆だった。筆不精なロザリンドが、誰か、年季の入った女官にでも書かせている。
だが、これも合わなかった。あの余白の筆致は老練な女官のものではない。恋を知ったばかりの、若い娘の手だ。言葉の選び方も、ためらいの残し方も。
残るのは、ひとつだった。
書き手は、ロザリンドの身近にいる、若い女。それも、表に出ることを許されない、蔑まれた立場の。
侯爵家に、そんな娘がいるとすれば。
答えは、もう、すぐそこにある気がした。けれど、迂闊には動けない。彼が侯爵家の『もう一人』を探していると知れれば、それは、あの人をもっと危うくする。声を封じた者が、次に何をするか、分からないのだから。
* * *
扉が、二度叩かれた。エイダンが応えるより先に、それは開いた。
この城で、断りもなく王子の部屋へ入れる者は、ひとりしかいない。
「精が出るな、弟よ。こんな夜更けまで」
異母兄の王太子オズワルドだった。穏やかに整った物腰で、散歩のついでのように入ってくる。
「兄上。夜分に、いかがなさいました」
「なに。弟の顔を見に来ただけだ。それも、兄の役目だろう。根を詰めすぎだぞ。体を壊す」
オズワルドは、机の上の書簡にちらりと目をやり、やわらかく笑った。
「父上も、そうやって根を詰める人だった。夜ごと、書き物ばかりして」
父上。その一言に、エイダンの指先がわずかに冷えた。
「父上が亡くなられて、もう七年か。早いものだな」
早い、と兄は言った。通り過ぎた季節の話でもするように。エイダンは、表情を動かさないことに全力を注いだ。
「……ええ。早いものです」
「おまえも、もう二十一か。婚約者との仲は、どうだ。建国祭では、いよいよ直に言葉を交わすそうじゃないか」
「は。滞りなく、と」
「そうか。それは、いい」
「兄上こそ、建国祭のご準備で、お忙しいのでは」
思いきって、こちらから水を向けてみた。オズワルドは、目を細めて笑った。
「ああ。あの夜は、私にとっても、特別な夜になる」
オズワルドは、ふと思い出したように続けた。
「あの家の手紙は、ずいぶんまめに行き来しているそうだな。おまえのところへも、足しげく」
エイダンの頭の芯が、冷えた。兄は知っている。自分とラヴィエール家の書簡が、どれほどの頻度で交わされているかを。この城の私信が、どこかの帳面に写されていることを、突きつけられた気がした。
「婚約者ですから。文のやりとりくらいは、あります」
「けっこうなことだ。仲がいいのは、いい。ただな」
オズワルドは、初めて、まっすぐエイダンを見た。灰色の目に、温度はなかった。
「手紙というのは、こわいものだ。書いた者の心が、そっくり残る。焼いても隠しても、どこかに必ずな。……気をつけることだ、おまえも」
その言葉が何を指しているのか、エイダンには判じかねた。ただの世間話か、警告か、それとも、もっと別の何かか。
オズワルドは、窓辺に立った。夜の王都を見下ろすその背は、優しげでさえあった。
「建国祭の夜は、長くなる。人も多い。おまえも、あまり無理をせず、ゆっくり休んでおくといい」
ゆっくり休め。
兄の言葉は、いつも二つの意味を持っている。表の、労りの顔。その裏には、冷たい刃があった。七年前、父にも兄は、こんなふうに笑いかけたのだろう。
「兄上のお心遣い、痛み入ります」
エイダンは、頭を下げた。下げた顔の裏で奥歯を噛んでいた。
「よく休みなさい、エイダン」
オズワルドは、来たときと同じ穏やかな笑みで去っていった。足音が廊下の奥へ消えても、その笑みの残像だけが、部屋に冷たく漂っていた。
* * *
兄が去ると、執務室には、蝋燭の音だけが残った。
エイダンは椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。
この城で彼が生き延びてきたのは、脅威にならないふりを七年、貫いてきたからだ。物言わぬ王子。誰の邪魔にもならない、影の薄い次男坊。その仮面の下で、彼はただ一人、あの余白の声にだけ、素顔を見せてきた。
けれど、仮面は、いつまで保つだろう。
父が「病で」世を去ったあの朝を、エイダンは忘れていない。医者が首を横に振る前に、兄の目だけがひどく静かだったことを。あれから七年、彼は証拠のない疑いを、たった一人、胸の底に沈めて生きてきた。手紙の一語に、少しずつ、沈めてきた。
いつか、あの声の主が、それを拾い上げてくれることを願って。
建国祭の夜。
あの夜に、すべてが集まる。七年恋してきた声の主に、ようやく会えるかもしれない夜。そして——兄が、動くと決めた夜。
どちらも、あの一夜だ。
エイダンは、白いままの手紙をそっと手に取った。声を失った、あの人の便り。
あなたは、無事だろうか。今、どこで、何をされているのか。
そして、もし建国祭の前に、あの一語を、あなたが読み解いてくれたなら。どうか、逃げてくれ。それを知った者もまた、兄の刃の届くところにいる。
蝋燭の芯が、ひとつ、爆ぜた。
窓の外を、王太子の馬車の灯りがゆっくりと遠ざかっていく。




