11話 解けてしまった
四通目の封を、シャルロットは開いた。
三通目までに並んだ言葉は、三つ。兄。父。そして、触れてはいけない花。
その花の名を、彼女はずっと考えていた。兜の形をした花。兜の花。
指が、止まった。
鳥兜。庭の隅にひっそりと咲く、紫の花。美しく、そして、ひと匙で人の息を止める猛毒。「触れてはいけないものほど美しい」。あの一行が指していたのは、花の可憐さではなかった。毒そのものだった。
いつか、屋敷の裏庭で、庭師が言っていた。あの紫の花にだけは、素手で触れてはいけません、と。根も葉も花も、すべてが毒なのだと。幼いシャルロットは、その色の美しさに手を伸ばしかけて、きつく叱られた。指が花びらに触れる、その寸前の、ひやりとした空気を、今も覚えている。
兄。父。毒。
三つの言葉が、急に、重さを変えた。
* * *
四通目にも、浮いた一語があった。
「身罷る、という言葉が、近ごろ妙に耳に残る」
身罷る。亡くなる、の古い言い方だ。高貴な人であれば、崩御と書く。恋を語る便りに、なぜ、死の言葉が。
兄。父。毒。そして、死。
指の先が、冷えていく。もう、これは恋の話ではなかった。誰かが、毒で、死んだ話だ。
シャルロットは、次の手紙へ手を伸ばした。伸ばした手が、かすかに震えているのが、自分でも分かった。
「継ぐ者の椅子は、思うより冷たいものらしい」
継ぐ。継承。王の位を、継ぐ。
そして、その一語の裏で、もうひとつの音が鳴った。継ぐ。次ぐ。次は。ひとつの言葉が、二つの意味を抱いている。
彼女は、白紙に書き写した言葉を、はじめから続けて読んでみた。
兄が。父を。毒で。亡き者にして。位を、継いだ。
喉の奥が、ひくりと鳴った。
* * *
残りの束に、まだ、二つあった。
「麻呂、などと戯れに署名してみる。わたし、と呼ばれたい夜もある」
麻呂。ずいぶん古い、我、という一人称。つまり、私。
継ぐ、の裏に潜んでいた「次は」と、この「私」が、そっと手をつないだ。
次は、私だ。
シャルロットは、口を手で覆った。声を上げそうになったのを、かろうじて呑み込んだ。
まだ、終わっていない。あと、二語。
「此度の祭の宴、あなたに会えることだけが、私の救いだ」
祭。この国で祭といえば、ひとつしかない。建国祭。
「夜半に人を思うのは、罪だろうか」
夜半。夜のいちばん深い刻。
これで、ぜんぶだ。
* * *
シャルロットは、七年分から拾い集めた言葉を、はじめから、ひと息に読んだ。
兄が、父を、毒で亡き者にして、王の位を継いだ。次に消されるのは、私だ。建国祭の、夜半に。
部屋の空気が、すっと抜けた気がした。
暖炉は燃えているのに、指の先まで冷たかった。両手で便箋を握りしめても、その冷たさは、内側から来るものだった。
あの人は。
七年、恋文の下に、これを書き続けていた。兄が父を殺したこと。その兄が、次は自分を狙っていること。誰にも言えず、平文で書けば命が飛ぶ言葉を、一語ずつ、恋の飾りに紛れさせて。そして、それを拾い上げてくれる、たった一人を待っていた。
あれは、恋文であると同時に、遺言だった。
いつか自分が消されたとき、せめて一人だけは、真実を知っていてほしい。そういう、祈りのような叫びだったのだ。
七年、あの人は名も知らぬ書き手へ、恋の返事を書き続けた。そして毎回、ひとつだけ古い一語を、そっと余白に残して。いつか行間を読む者が、拾い上げてくれることを願って。
その一語が、ついに意味をもったのが、この半年だった。恋の返事の裏で、あの人は、自分がいつか殺されるという遺言を、一語ずつ書き遺しはじめた。愛と死を、一枚の便箋に重ねながら。
建国祭が巡ってくるたび、今年の夜こそ「あの夜」かもしれないと、あの人は怯えていたはずだ。それでも返事の余白には、いつも、こちらを気遣う一行があった。あなたが健やかであるように、と。自分の命が、静かに数えられているときでさえ。
わたしは、その一人に、なってしまった。
そして、いちばん恐ろしいことに、気づいた。
建国祭は——もう、すぐそこまで来ている。
* * *
戸口の床板が、かすかに鳴った。
顔を上げると、マノンが立っていた。シャルロットの白い顔を、老女はしばらく黙って見ていた。それから何も言わずに、あたたかい白湯の椀を、足もとへそっと置いた。
「顔の色が、ありませんよ」
「……マノンさん」
言いかけて、シャルロットは言葉を切った。これは、口にしてはいけない。知った者もまた、あの兄の刃の届くところに立つことになる。この優しい老女を、巻き込むわけにはいかなかった。
「なんでもありません。……少し、大事なことが、分かっただけです」
マノンは、それ以上、何も問わなかった。ただ、戸口で一度だけ振り返って、言った。
「知ってしまったことは、なかったことにはできません。でも人は、知った日から、少しだけ強くもなれるものですよ」
そうして、しわの寄った手で、そっとシャルロットの肩に触れて、出ていった。
その手のあたたかさが、なぜか、決意に変わった。
シャルロットは、立ち上がった。便箋を胸に押しあてる。指が、その紙の重みを、はっきりと感じていた。
もう、名前のない代筆の令嬢ではない。この暗号を解いた、ただ一人。ならば、あの人の命を救えるのも、この世でたった一人しかいない。
こわくないと言えば、嘘になる。追放された身で王都へ戻れば、姉が、あの兄が、何をするか分からない。けれど、ここで手紙を抱いて震えているだけなら、わたしは七年前と、何も変わらない。名前のない、ただの手のままだ。
もう、手ではいたくなかった。
窓の外で、風が鳴っていた。建国祭まで、もう、幾日もない。
わたしは、帰らなければ。あの人が、あの夜を迎えてしまう前に。




