12話 動きだす
夜が明けても、シャルロットは眠っていなかった。
解いてしまった一文が、暗い天井にも暖炉の残り火にも貼りついて離れなかった。兄が父を毒で亡き者にして、王の位を継いだ。次に消されるのは、あの人だ。建国祭の夜半に。
じっとしてなど、いられなかった。
けれど辺境の寝台の上で、彼女はすぐに壁に突き当たった。
どうやって、伝えるのか。
手紙は、書けない。あの人へ宛てた便りは、必ず誰かの目を通る。この城の私信がどこかの帳面に写されていることを、あの人は七年、恐れ続けていた。警告を書き送れば、それはあの人をもっと危うくするだけだ。
では、じかに会うのか。
それも、できない。シャルロットは追放された身だった。王都の門をくぐる資格も、城へ近づく名分も、もう何ひとつ残っていない。
あの人へ通じる糸は七年、余白の一行だけだった。その糸を、姉が断った。今のシャルロットは、どこからも、あの人に手が届かない。
彼女は、床に並べたままの手紙を見た。
その先を、考えた。
あの人が、次に、たしかに誰かの前へ立つ日が、ひとつだけある。
建国祭の、夜会だ。
その夜、殿下の前に進み出るのは、何も知らない姉だ。用意された言葉を筋書きどおりに微笑んで告げるだけの姉。あの人の隣にいちばん近づけるのは、皮肉にも、真実を知らない人だった。
ならば、とシャルロットは思った。
わたしも、その夜に、あそこへ行く。
招かれざる身で、人いきれに紛れて。姉の顔でも余白の一行でもなく、この足で、あの人のいる場所まで。そうして、たとえひとことでも、伝える。あなたは狙われている、と。
こわい考えだった。捕らえられれば、ただでは済まない。それでも、寝台で膝を抱えているよりは、ずっとましだった。
* * *
荷は、すぐにまとまった。もとから、多くはない。
ただ一つ、七年分の手紙の束だけは、鞄のいちばん深くへ丁寧にしまった。これは、証だ。いつか、あの人の無実を、あるいは真実を明かすときが来るのなら。
戸口で、床板が鳴った。
マノンが立っていた。旅支度のシャルロットを見ても、老女は驚いた顔をしなかった。
「発たれるのですね」
問いではなかった。
「はい。どうしても、行かなければならない人が、います」
「王都は、遠うございますよ。追われて来た道を、戻るのでしょう」
シャルロットは、うなずいた。隠す気はなかった。この老女には、なぜか嘘をつきたくなかった。
「危ないことも、承知しています。それでも」
「行くのですね」
「はい」
マノンは、しばらくシャルロットの顔を見ていた。それから部屋の奥の古い櫃を開け、一枚の黄ばんだ紙を取り出した。
「これを、お持ちなさい」
差し出されたのは、古い通行証だった。辺境と王都を行き来する、荷運びの一行に加わるための、擦り切れた鑑札。
「昔、この土地の荷を、都まで運んでいたころのものです。名は書き換えられます。荷方の娘という顔をしていれば、門は、たいてい通れます」
「マノンさん。こんな大事なものを」
「もう、わたしには使い道のないものです」
老女は、それをシャルロットの手にしっかりと握らせた。骨ばった手だが、その力は、見た目よりずっと確かだった。
「道中は、口を利きすぎぬのが得です。素性を問われたら、耳が遠いふりをなさい。若い娘のひとり旅は、目につきます」
「……覚えておきます」
「それから、ひとつだけ」
マノンの声が、低くなった。
「帰る場所を持つ人は、強い。でも、もっと強いのは、帰りたい人がいる人です。あなたには、それがある。ならば、迷うことは、ありません」
その言葉は、餞別のようにシャルロットの胸へ落ちた。
* * *
外へ出ると、朝の霜が、道を白く覆っていた。
シャルロットは、辺境の館を一度だけ振り返った。ひと月にも満たない滞在だったのに、ずいぶん長く、ここにいた気がした。ここで、彼女は、名前のない手から、ひとりの読み手に変わったのだ。
握った通行証の擦り切れた縁を、指の腹でなぞる。紙の目の、かすかな引っかかり。その手触りだけは、七年、ペンを握ってきた指が、いちばんよく知っていた。
建国祭まで、あと幾日もない。
道は、遠い。追われて来た道を、今度はみずからの足で戻る。誰に命じられたのでもない。姉の名でもない。シャルロットという名で、彼女は初めて、自分のために歩きだす。
あの人の隣に立つのが、真実を知らぬ姉だというのなら。せめて真実を知る者がひとり、あの夜あの場所に、いなければならない。
霜を踏む。冷たさが、足の裏から、はっきりと伝わってきた。
シャルロットは、王都のある方角へ、最初の一歩を踏み出した。




