30話 家
久しぶりに帰った実家は、記憶よりずっと小さく見えた。
三月前まで、シャルロットはこの別邸で名を変えた下女として盆を運んでいた。うつむき、顔を上げることも許されずに。いまは頭巾もなく、まっすぐに廊下を歩いている。同じ床が、同じ壁が、まるで違って見えた。
* * *
父は、玄関の広間で待っていた。
「よく帰った、シャルロット」ラヴィエール侯爵は、両腕を広げた。「つらい思いをさせたな。だが、もう終わりだ。おまえは、この家の大切な娘だ」
その声のあたたかさに、シャルロットはかえって寒くなった。
七年前、この同じ人が追放の書に署名をした。姉のために、妹を切り捨てた。あのとき、この人は一度も、こちらを見なかった。
「王太子殿下も、たいそうおまえを買っておられるとか」父は声をひそめ、揉み手をせんばかりに続けた。「なに、案ずるな。おまえの後ろ盾は、この父が引き受けよう。ラヴィエールの名は、これからも——」
父が、手を差し出した。
娘の手を取ろうとする手だった。
* * *
シャルロットは、その手を取らなかった。
「お父さま」静かに言った。「わたしが欲しかったのは、後ろ盾ではありません」
父の手が、宙で止まる。
「七年前、あの朝。わたしは、ただ一度でいいこちらを見てほしかった。名前を呼んでほしかった。……けれど、あなたはしてくださらなかった」
シャルロットは、その手をそっと押し戻した。
「いまさら差し出される手は、わたしの手ではなく、殿下との縁を握ろうとしている。分かるのです。七年、人の手ばかり見てきましたから」
父は、何も言えず、差し出した手をぎこちなく引っこめた。
その顔に浮かんだのは、恥でも悔いでもなく、当てが外れた者の戸惑いだった。それを見て、シャルロットは、最後に残っていた小さな期待が静かに消えるのを感じた。
* * *
広間を出て、廊下の奥で、荷をまとめた姉とすれ違った。
ロザリンドは、旅装だった。豪奢なドレスではなく、地味な旅の衣。侯爵家の名も殿下との婚約も失い、遠い北の領地の縁続きの家へ発つのだという。
二人は、しばらく無言で向き合った。
先に口を開いたのは、姉だった。
「ひとつだけ、白状しておくわ」ロザリンドの声は、乾いていた。「わたしはこの七年、あなたを一度も名前で呼ばなかった。おまえ、とか、あの子、としか。……名前で呼んでしまえば、あなたがちゃんとここにいることを、認めることになるから」
シャルロットは、姉を見た。
名前を奪っていたのは、言葉だけではなかったのだ。呼ぶ、というただそれだけのことからも、姉はずっと逃げていた。
「わたしは、姉さまを赦しません」シャルロットは、静かに言った。「けれど、憎むのも、もうやめます」
ロザリンドは、かすかに笑ったようだった。泣くのによく似た笑いだった。
そして何も言わず、荷を抱えて去っていった。その背を、シャルロットは引き止めなかった。
* * *
玄関の扉の前で、シャルロットは、一度だけ振り返った。
生まれ育った家。名前を奪われた家。七年、影として仕えた家。
もう、ここに、帰ることはないだろう。
けれど、不思議と、寂しくはなかった。帰る場所は、もう別のところにできていたから。
シャルロットは、扉に手をかけた。今度は、追い出されるのではない。自分の意思で出ていくのだ。
そっと、後ろ手に扉を閉めた。
外は、よく晴れていた。




