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28話 はじめまして

 柱の向こうから、あの人がまっすぐに歩いてくる。


 粗末な下女の衣。結い上げていない髪。それでも、その姿は、この広間のどんな貴婦人よりもまっすぐだった。


 エイダンは、扉の前で待っていた。姉との時間を邪魔したくなかったのだ。


 七年。私は、この人の言葉を千も万も読んできた。けれど、とふいに気づく。私は一度も、この人の声を聞いたことがない。


 便箋の余白に、いつも声を探していた。この一語を書いたとき、この人はどんな声だったのだろうと。けれど、それはずっと、想像のなかの声でしかなかった。


 その人が、いまほんとうに目の前まで来ようとしている。エイダンの手のひらに、うっすらと汗がにじんだ。戦場に立つときも、兄に問いを突きつけたときも、こんなふうには震えなかったのに。


    *   *   *


 あの人が、目の前で、足を止めた。


 二人のあいだに、沈黙が落ちる。


 七年、あれほど言葉を交わしてきたのに、いざ向き合うと、最初のひとことが出てこない。紙の上ではいくらでも綴れた言葉が、声にしようとすると、喉の奥でつかえた。


 おかしなものだ、とエイダンは思った。この人のことなら、何でも知っている。好きな花も、雨の日の物思いも、言葉の癖も。七年ぶん、ぜんぶ。それなのに、いざ目の前にすると、まるで初対面のように胸が竦んだ。


 先に口を開いたのは、あの人だった。


 「……殿下」


 その声を聞いた瞬間、エイダンの胸が大きく鳴った。


 ああ、と思った。この声だ。七年、余白の向こうでずっと探していた声。想像より少し低くて、あたたかい。まぎれもなく、あの手紙を書いた人の声だった。


    *   *   *


 「殿下。わたしは七年、姉の名を騙って、あなたを欺いてきました」あの人の声が震えた。「あなたが愛したのは、姉の名です。わたしはその陰に隠れて、ずっと」


 「違う」


 エイダンは、思わず遮っていた。


 「私が読んでいたのは、名前ではない。あなたの言葉だ。あなたの、行間だ。名など、はじめからどうでもよかった。私はただ、あの手紙を書いた人を——あなたを、好きになったんだ」


 あの人が、息を呑んだ。


 「それに、あなたは読んでくれた。誰にも読めなかった、私の行間を。あなたがいなければ、私は今夜、名前も真実も知られぬまま、あの露台から消えていた。あなたが、私を生かしてくれたんだ」


 あの人の目に、涙が盛り上がった。


    *   *   *


 「シャルロット」


 エイダンは、初めてその名を声に出した。七年、宛名のどこにもなかった、ほんとうの名を。


 「あなたの名を、やっと、呼べた」


 それから、そっと手を伸ばした。


 あの人の手を、取る。


 七年、私はその手蹟だけを知っていた。この世にひとつきりの字を書く、その手を。けれど、こうして触れるのは、初めてだった。想像より小さくて、少し荒れている。七年、名もなく働いてきた手だった。


 この手が、七年、私に言葉を届けてくれた。この手が今夜、私の命を救った。それなのに当の本人は、自分の名さえ名乗ることを許されずにいたのだ。


 その手を、両手で包んだ。


 「もう二度と、この手に、ひとりで書かせはしない」


    *   *   *


 あの人が、泣きながら、笑った。


 そして、言った。


 「……はじめまして、エイダンさま」


 七年、恋文を交わしてきた二人の、はじめての挨拶だった。


 おかしくて、泣けて、どうしようもなく幸福だった。


 「ああ」エイダンも笑った。「はじめまして。シャルロット」


 窓の外が、白みはじめている。


 長い夜が明けて、二人のほんとうの物語が、いま、はじまろうとしていた。

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