26話 堕ちる
オズワルドは、まだ諦めていなかった。
「偶然だ」王太子は、声を張った。「手紙に高いところとあった。それがたまたま露台と重なっただけのこと。いや、そもそもこの手紙自体が怪しい。この女と弟が、今夜のためにあとから書き上げた贋物かもしれぬ」
苦しまぎれの、けれど巧妙な逃げだった。証拠を、証拠でないことにする。七年そうやって父の死を病にすり替えてきた男の手管だった。
エイダンは静かに兄へ向き直った。
「兄上。では、ひとつ伺います」
声は、震えなかった。
「この手紙が贋物なら、露台の手すりを緩めたのは、誰です」
オズワルドの言葉が、詰まった。
* * *
手すりに細工をしたのは、シャルロットでもエイダンでもない。兄の手の者、あの付き人だ。現に彼は命じられた、と口走っている。
「贋物の手紙と、本物の手すり」エイダンは広間じゅうへ届く声で言った。「その両方を、追放されたひとりの女と物言わぬ王子が、どうやって仕組めましょう。偶然にしては、あまりによく揃いすぎている」
セルヴァン公が、深くうなずいた。
「その手紙、七年ぶんの束にございます。ロザリンド様のお館が、長きにわたり受け取ってこられたもの。今宵にわかに書けるものではない。それは、お館の者に問えばすぐに知れましょう」
逃げ道が、ひとつずつ塞がれていく。
オズワルドの額に汗が滲んだ。
* * *
その時だった。
「私が、細工いたしました」
声を上げたのは、あの、笑わない目の付き人だった。もう、笑ってすらいなかった。
「王太子殿下のご命令にございます。露台の手すりを緩め、第二王子殿下を花火の折に落とせ、と」
広間が、大きくどよめいた。
男は、王太子を見た。もう、すがる目ではない。切り捨てられた者の昏い目だった。
「どうせ私は、いずれ消される。あなたは、そういう御方だ。……七年前、先王さまのおそばの侍医が、そうされたように」
オズワルドの顔から血の気が引いた。
その一言が、七年、病の陰に隠されてきたものを、まっすぐに照らし出していた。
先王は、病で身罷ったのではない。毒を盛られ、それを知る侍医までもが闇へ葬られた。広間の誰もが、いまその事実の重さに声を失っていた。
* * *
「黙れ」王太子の声が、掠れた。「衛士。その男を斬れ。いますぐ」
だが、衛士は、動かなかった。
ひとり、またひとりと、王太子から目をそらしていく。もう、誰ひとりその命に従う者はいなかった。
セルヴァン公が、静かに進み出た。
「オズワルド殿下。いいえ。子細が明らかになるまで、あなたを王太子として遇することはできませぬ」
老臣の声には、七年腹の底に沈めてきたものが、静かに滲んでいた。
「先王ご逝去の一件。今宵の企ての一件。すべて、貴族会議の名において、あらためて糺します」
衛士たちが、今度は、王太子を囲んだ。
七年、この国のすべてを従えてきた男の周りから、潮が引くように人が離れていく。玉座にいちばん近かったはずの人が、いま、この広間でいちばん独りだった。
柱の陰では、姉ロザリンドが、くずおれるように膝をついていた。その青ざめた顔が何を思っているのか。それは、また別の話だ。
* * *
囲まれてなお、オズワルドは笑おうとした。けれど、その口の端は、もううまく上がらなかった。
「……たかが、恋文の行間ひとつで」王太子は、呻くように言った。「よもや、この私が」
字面しか読めぬ人だ、とエイダンは思った。最後まで。
だからこの人は、七年、私の紛れ込ませた一語についぞ気づかなかった。そして、それを読み解くたったひとりがこの世に現れることも、けっして信じなかった。
エイダンは、シャルロットを見た。
粗末な下女の衣のまま、彼女はまっすぐに立っていた。七年、名もなく、顔もなく、ただ手だけを動かしてきた人。その手と、その目が、王太子を堕とした。
エイダンは、囲まれた兄から目を離し、彼女のほうへ一歩を踏み出した。七年、便箋の余白でしか近づけなかった距離を、いま初めて自分の足で詰めていく。
シャルロットが、こちらを見た。その頬に、涙が伝っていた。けれど、その目はまっすぐだった。
交わす言葉は、まだなかった。それでも、七年、行間だけで通じ合ってきた二人には、それで十分だった。
いつのまにか、夜空の花火はやんでいた。
長い、長い夜が、ようやく明けてゆこうとしていた。




