22話 名乗る
柱の陰で、シャルロットは息もできずに見ていた。
あの人が、こちらを見た。声もなく、くちびるが動いた。きみ、か、と。七年、文字だけだった人の目が、たしかにわたしを捉えた。
その目が、次の瞬間、兄へ向いた。そして、七年の仮面を脱いだ。
露台には行かない、と告げ、満座の前で兄に問うたのだ。父上が、どうして身罷られたのか、と。
シャルロットの心の臓が、痛いほど鳴った。あの人は、わたしの警告を受けて、命を賭けにきた。逃げも隠れもせず、真実のほうへまっすぐに。
あの人は、いつもそういう人だった。手紙の余白でも、核心には触れず、まわりだけをなぞる慎重さのなかに、それでも本当の声をそっと隠していた。その声がいま、満座の光の下でまっすぐに立っている。
こわい、とシャルロットは思った。あの人が、こわいほど、まぶしかった。
* * *
「弟よ」
オズワルドの声が、静かに広間を撫でた。
王太子は、痛ましげに首を振ってみせた。整った顔に、深い憂いさえ浮かべて。
「父上を亡くした悲しみが、まだ癒えぬのだな。よりにもよって、この祝いの夜に、そのような世迷いごとを口にするとは。……皆、どうか聞かなかったことにしてやってくれ。弟は、少し疲れているのだ」
広間のざわめきの色が、変わった。
告発は、狂気の色に塗り替えられていく。憐れむような視線が、エイダンに集まる。証拠を持たぬ者の言葉は、どれほど真実でも、風のように散らされる。オズワルドは、それを知り尽くしていた。
現に、広間の空気は、もう傾きはじめていた。気の毒な弟君。父君を亡くされて、お心を病まれたのだ。囁きが、さざ波のように広がっていく。誰も王太子の言葉を疑わない。真実を口にした者のほうが、狂っていることにされていく。
シャルロットは、悟った。
このままでは、あの人は正気を失った王子として片づけられる。そして後日、人知れず『病』で静かに消される。今夜の露台と、同じことだ。ただ、暗殺の舞台が少し先延ばしになるだけ。
あの人には、証拠が、ない。
* * *
証拠なら。
シャルロットの手が、胸に抱えた布包みを強く握りしめた。
七年分の、あの人の手紙。命がけで一語ずつ隠した遺言。兄が父を毒で亡き者にし、次は自分を狙っていると、行間に埋めた真実。それを読み解いたのは、この世でただ一人。
あの人が言った、『生きた証人』。
それは、わたしだ。
名乗り出れば、終わる。追放された身が王城の広間で正体を明かせば、ただでは済まない。捕らえられるかもしれない。何より、姉の前に素顔を晒すことになる。
七年、影のように生きてきた。名もなく、顔もなく。誰にも見つからないことだけが、わたしの安全だった。
けれど。
あの人は、わたしを生かすために、露台へは行かないと言った。
今度は、わたしがあの人を生かす番だ。
* * *
シャルロットは、手にした盆をそっと床に置いた。
うつむいていた顔を、七年ぶりに上げた。髪を隠していた布を、外す。結い上げていない髪が、はらりと肩に落ちた。粗末な下女の衣のまま、それでも彼女は背筋を伸ばした。
そして、影のなかから、光のあふれる広間の中央へ、一歩踏み出した。
何百もの視線が、名もなき給仕の娘に集まる。衛士たちが色めき立った。けれど、あまりに思いがけない乱入に、誰もすぐには動けなかった。その一瞬の空白こそ、シャルロットに残された、たったひとつの舞台だった。
姉ロザリンドが、その顔を見て凍りついた。血の気の引いた唇が、あなた、と声にならぬ形に動く。
シャルロットは、まっすぐにエイダンを見た。七年、便箋の余白でだけ交わしてきた人を、初めて、この目で正面から。
それから、広間じゅうに届く声で言った。
「殿下は、狂ってなど、おられません」
ざわめきが、ぴたりと止んだ。
「その証を、わたしが、お見せします」
声は、震えなかった。七年、一度も名乗れなかったこの名を、彼女は初めて自分の口で告げた。
「わたしの名は、シャルロット・ラヴィエール。ロザリンドの妹にございます」
姉の、悲鳴のような息が、聞こえた。
「そして——殿下が七年、恋文を交わしてこられた相手は、姉ではなく、このわたしです」
広間が、大きくどよめいた。
その喧騒の向こうで、エイダンの目が、まっすぐにシャルロットを見ていた。七年ぶりに名を得たその人を、もう二度と見失うまいとするように。
夜空で、花火が、また一つ砕けた。




