21話 読んでくれた
その字を見た瞬間、エイダンの世界から音が消えた。
杯の下に、小さく折られた紙。開いた指の先で、見慣れた手蹟が白い紙にのっていた。
七年、余白で読み続けてきた、あの字。宛名も署名もない、この世にひとつきりの筆跡。声を失ったと思っていたその声が、いま、すぐそこに生きて在る。
顔を上げれば、柱の陰に、うつむいた給仕の娘がいた。粗末な衣に髪を隠していても、分かった。あの人だ。余白の声の主。追われて遠い辺境に消えたはずの人が、この広間に来ている。
そして、あの一行。
露台に出てはなりません。あなたは、狙われています。
エイダンの胸が、強く鳴った。
あの人は、読んだのだ。
七年、手紙の一語に隠し続けた真実を。兄が父を手にかけ、次は自分を狙っていること。字面しか追わぬ兄には、けっして見えぬところに一語ずつ埋めてきた、あの遺言を。行間を読めるたったひとり。いつか拾い上げてくれると信じて賭け続けた、その人が、ついに読み解いてくれた。
どうやって、露台のことまで。そう思いかけて、エイダンは静かに腑に落ちた。あの人なら、分かる。花火の夜、王族が露台に立つのは古くからの慣わしだ。人目を離れ、高く、暗いあの場所こそ、事故に見せかけるのに、これ以上はない。真実を読み解いた人は、その先の兄の手口まで読み抜いていた。
追放され、命を狙われかねない身で、あの人は王都まで戻ってきた。真実を握り、警告を届けるために。名も名乗れず、給仕の影に身をやつして。ただ、自分を生かすために。
* * *
その時、背後で、声がした。
「殿下。花火が始まります。露台へ、どうぞ」
あの、笑わない目の付き人だった。兄の手の者。エイダンを、あの緩んだ手すりの前へ連れ出すために。
時が、来た。
少し前までのエイダンなら、黙って従っただろう。逃げ場はなく、証拠もない。ならばせめて、無様に取り乱さず、兄に気取らせぬまま逝く。それだけが、最後の矜持だった。
だが。
いまは、違った。
あの人が、生きて、ここにいる。七年の沈黙を、たったひとりで読み解いて、命がけでここまで来てくれた。その人を残して、おめおめと露台から落ちてやる義理は、もうどこにもなかった。
それに、気づいてしまった。あの人が真実を読み解いたということは、兄の罪を知る者が、この世に、確かにいるということだ。自分が消えても、消えない。生きた証人が、いる。
ならば、死んでやることはない。
証拠は、まだない。皆の前で兄を告発しても、世迷いごとと一笑に付されるかもしれない。それでも、とエイダンは思った。衆目のただ中でなら、兄はもう、自分を事故では消せない。露台の暗がりは、使えなくなる。時が、稼げる。真実を読み解いたあの人が、生きているうちに。
* * *
エイダンは、付き人のほうへゆっくりと向き直った。
「露台には、行かない」
静かな声だった。けれど、七年誰にも見せなかった芯が、そこにはあった。
付き人の、笑わない目が、初めて揺れた。段取りが狂ったのだ。想定にない一言に、男は次の手を探して口ごもった。
物言わぬ王子の仮面を、エイダンは、いま、脱いだ。
広間の高み、玉座に近い席から、王太子オズワルドがこちらを見下ろしている。その灰色の目が、かすかに細くなった。弟の異変を、目ざとく嗅ぎつけたのだ。
エイダンは、兄の視線を、まっすぐに受け止めた。逃げも伏せも、しなかった。七年で、初めてのことだった。
そして、広間じゅうに届く声で、言った。
「兄上。皆さまの前で、ひとつ、お話がございます」
楽の音が、ふっと止んだ。着飾った何百の目が、一段高い席の二人の王子へ、いっせいに集まる。
「父上が、どうして身罷られたのか。——その話を、いたしましょう」
身罷る。七年、恋文の裏に隠し続けた、あの一語。それを今、エイダンは、初めて人前で、声に出した。
オズワルドは、動じなかった。むしろ、口の端に、うっすらと笑みさえ浮かべた。証拠など、どこにもない。父の死は病として、とうに片づいている。弟が何を口走ろうと、狂乱と嗤われるだけ。兄の余裕は、そう言っていた。
字面しか読めぬ人だ、とエイダンは思った。だからこそ、七年、私の一語を見逃してきた。そして今も、気づいていない。この広間に、その暗号を読み解いた者が、確かに立っていることに。
柱の陰で、あの人が、息を呑むのが分かった。
夜空で、最初の花火が大きく砕けた。その光が、凍りついた広間を青白く照らし出した。




