20話 見つけた
建国祭の夜が、来た。
王城の大広間は、幾百の蝋燭と着飾った貴顕たちで、まばゆく輝いていた。楽の音が流れ、笑いさざめきが天井の高みへ昇っていく。その光の隅を、シャルロットは下女の衣に身を包み、盆を捧げてうつむいて歩いた。
誰も、給仕の娘になど目を留めない。名も顔もない、ただ動くだけの手。七年、この身に染みついた影の術が、今夜ばかりはありがたかった。
そして、彼女はその人を見た。
広間の奥、一段高い席に、第二王子エイダンがいた。
七年、文字だけで知っていた人。声も、顔も、知らずにきた人。それが今、目の前に、生きている。
思っていたより、ずっと若く見えた。そして、ずっと疲れて見えた。七年、たったひとりで兄の影に耐えてきた人。その重さの片端を、シャルロットは余白の一行ごしに確かに受け取ってきた。
落ち着いた、静かな佇まい。けれどその目の奥には、余白の一行で触れ続けてきた孤独が確かに宿っていた。ああ、この人だ、とシャルロットは思った。会ったことがなくても、分かる。七年、この人の孤独に文字で寄り添ってきたのだから。
盆を持つ手が、震えそうになった。彼女は奥歯を噛んで堪えた。今は、まだ。
* * *
やがて、姉ロザリンドが、殿下の前へ進み出た。
金の絹をまとった姉は、まばゆいほど美しかった。婚約から七年、はじめて人前に、婚約者として並ぶ二人。社交界の目が、二人に集まる。姉は用意された微笑みを浮かべ、けれどその唇は、次の言葉を探してかすかに強張っていた。
「……お、お初に、お目にかかります、殿下」
やっとのことで、姉はそれだけを口にした。用意されていたはずの気の利いた言葉は、どこからも出てこない。エイダンは、静かに会釈を返しただけだった。
あとが、続かない。幾百通もの甘い手紙を交わしてきたはずの二人のあいだに、気まずい沈黙が落ちた。その沈黙の意味を、着飾った客の誰も知らなかった。ただひとり、隅にひかえた給仕の娘だけが知っていた。
告げるべき言葉を、姉は持っていない。七年、妹に書かせてきた甘い文の、ただの一行も出てこない。シャルロットには、それが手に取るように分かった。
広間の高みでは、王太子オズワルドが満足げに一同を見下ろしていた。そのかたわらに、笑わない目の付き人が影のように控えている。
まもなく、花火が上がる。慣わしどおりなら、王族はみな上の露台へ移る。あの、芯だけ緩められた手すりの露台へ。
時が、ない。
* * *
声は、かけられなかった。
給仕の娘が王族に口をきけば、それだけで無礼として引き据えられる。近づけるのは、盆を運ぶそのわずかな一瞬だけ。
ならば、とシャルロットは覚悟を決めた。話せないなら、書く。それが七年、この手がしてきたことだ。
懐から、小さく折った紙を取り出す。ここへ来る前に、書いておいた一行。震える指で、けれど迷いなく綴った、たったひとことの警告。
露台に、出てはなりません。あなたは、狙われています。
給仕の列に紛れ、シャルロットは殿下の席へ進んだ。盆の上の杯を、そっと卓へ置く。そしてその杯の下へ、折った紙を滑り込ませた。
心の臓が、破れそうだった。顔は、上げない。上げれば、すべてが終わる。うつむいたまま、彼女は深く一礼して静かに退いた。
* * *
数歩、退いて、シャルロットは柱の陰から見守った。
殿下の指が、杯を持ち上げる。その下の白い紙に気づく。訝しげに、彼はそれを開いた。
殿下の目が、その一行の上で、止まった。
けれど、彼が凍りついたのは、一行の意味にではなかった。
その字に、だった。
七年、余白で読み続けてきた、あの手蹟。宛名も署名もいらない、この世にひとつきりの字。声を失ったはずのその声が、いま目の前の紙の上に確かにあった。
ゆっくりと、殿下が、顔を上げた。
人混みのなかを、探すように。書いた者を、探すように。その視線が、広間をさまよって、そして。
七年ぶりに、あの人の目が、まっすぐに、シャルロットを捉えた。
息が、止まった。
逃げなければ、と頭の隅で声がした。見つかれば、終わる。けれど、足が動かなかった。七年、文字の向こうにいた人が、いま確かにこの目を見ている。名も顔もない給仕の娘としてではなく、余白に本音を書いたあの書き手として。
あの人のくちびるが、声もなく動いた。シャルロットには、読めた。きみ、か、と。
広間の喧騒が、遠ざかった。楽の音も、蝋燭の光も、着飾った人々も、すべてがすうっと退いていく。ただ、七年を隔てて生きてきた二人の視線だけが、まっすぐに結ばれていた。
その時、夜空に、最初の花火が上がった。




