19話 前夜
建国祭の前夜、別邸の下働き部屋は藁と汗の匂いに満ちていた。
雑魚寝の下女たちは、疲れて寝入っている。その隅で、シャルロットだけが目を開けていた。
明日のことを、頭のなかで何度もなぞる。給仕として広間へ入り、盆を運びながら、殿下のそばへ近づく。そして、ただひとこと。あなたは狙われている、と。それだけを伝えて退く。
うまくいく保証は、どこにもなかった。給仕が王族へ近づくだけでも咎められる。まして声をかければ、無礼として、あるいは不審者として、その場で捕らえられるかもしれない。姉に顔を見られれば、それですべてが終わる。
こわい。正直に、こわかった。
闇のなかで、シャルロットは胸に抱えた布包みに触れた。七年分の、あの人の手紙。ここまで運んできた、たったひとつの証。指先に伝わる紙束の厚みだけが、彼女を落ち着かせた。
ふと、戸口に小さな影が立った。ネルだった。寝ずの番の合間に、様子を見に来たのだろう。老侍女は枕元にかがみ、耳もとで囁いた。
「明日の段取りを、もう一度だけ。宵のうち、殿下は大広間においでです。花火が上がるころ、王族の方々はみな上の露台へお移りになります。給仕は、広間まで。露台へは上がれません」
露台。
シャルロットは、その言葉を胸に刻んだ。伝えるなら、殿下が露台へ移られる前。宵のうちの広間しかない。
「ネル。ありがとう。ここまで、本当に」
「礼は、ぜんぶ済んでから」ネルは、しわの寄った手でシャルロットの髪をひと撫でした。「ご無事で。それだけを、祈っております」
老侍女の影が、また闇へ消えた。
近くで、下女がふたり、小声で囁いていた。
「明日、第二王子殿下の、ご婚約者もお披露目されるんだって」
「まあ。どんなにお美しい方かしらねえ」
シャルロットは、そっと目を閉じた。
明日、殿下の隣で微笑むのは、何も知らない姉だ。そしてその同じ広間に、名も顔も伏せた自分が影のように紛れている。七年、文字だけでつながってきたあの人と、ようやく同じ部屋の空気を吸える。
会えるのに、名乗れない。すぐそばに立てるのに、わたしだとは告げられない。
それでも、いい。伝えられさえすれば。あの人が、あの夜を生きて越えられさえすれば。
こわさの底から、静かに覚悟が立ちのぼってきた。
* * *
同じ夜、王城の一室で、エイダンもまた、眠らずにいた。
窓の外では、明日の祭を待つ王都が、ほのかな灯りをまとって沈んでいる。その明かりのどこかに、緩んだ手すりの露台も笑わない付き人も、静かに息をひそめているはずだった。
明日の宵、自分はあの露台に立たされ、そして落ちる。
逃げ道は、ない。それはもう幾度も確かめた。ならば、せめて、とエイダンは思う。取り乱さず、兄に気取らせず、最後まで物言わぬ王子の仮面を保つ。それだけが、いま自分にできる、ただひとつの矜持だった。
机の隅には、白いままの余白の手紙が一通、置いてある。声を失った、あの人からの最後の便り。
エイダンは、それをそっと手に取った。
もし明日、自分が消えても。七年、この手で手紙に隠し続けた真実は消えはしない。あの一語たちが、いつか、行間を読める誰かに拾われる。字面しか追えぬ兄には、けっして届かぬ場所で。
あの声さえ、そばにあれば。
七年前、いちばん最初に届いた余白の一行を、彼はいまも覚えている。あなたが健やかであることを、名も知らぬわたしが、祈っています。たったそれだけの言葉に、彼は幾度も暗い夜を越えさせてもらった。名も知らぬまま、その人は七年、彼を生かし続けた。
埒もない願いだと、分かっていた。あの人はもう、遠い辺境にいる。この夜を越えることも、越えられぬことも何ひとつ知らずに、あの人は静かな辺境の夜を過ごしているのだろう。
それでいい、とエイダンは思った。せめて、あの人だけは、この汚れた夜から遠く安らかであってほしい。
彼は、白い便りを胸に伏せ、静かに目を閉じた。
* * *
王都の空に、祭を待つ星が、冷たく瞬いていた。
その同じ空の下で、救うために忍ぶ娘と、死なぬために身構える王子が、別々の場所で同じ一つの夜を待っていた。ひとりは、すぐそばに来ていることを告げられぬまま。ひとりは、それを知らぬまま。
二人を隔てていた距離は、もう、明日ひと晩を残すだけになっていた。
離れて紡がれた二本の糸が、いよいよひとつの夜で交わろうとしている。
建国祭は、明日。




