18話 そこの娘
ネルの手引きで、シャルロットはラヴィエール家の王都別邸に、下働きとして入り込んだ。
祭のために雇われた、大勢の下女のひとり。名を変え、髪を布で隠し、粗末な衣を着て。うつむいて盆を運び、呼ばれれば、はい、とだけ答える。顔を上げない。声を立てない。
七年、この家で、そうやって生きてきた。名もなく、顔もなく、ただの手として。
その身についた影のようにある術が、今はいちばんの隠れ蓑になっていた。皮肉なものだ、と思いながら、シャルロットは廊下を掃いた。かつて自分を縛った生き方が、今度は自分を守っている。
* * *
潜り込んで二日目の昼、女中頭に呼ばれた。
「新入り。手が足りないのよ。ロザリンドお嬢さまのお支度を、手伝っておいで」
シャルロットの心の臓が、凍りついた。
姉の部屋。七年、自分を見下してきた相手の、すぐ前に立つ。顔を見られれば、それで終わりだ。けれど下働きに、断るという言葉はない。
「……かしこまりました」
声が、いつもの自分に戻らないよう低く抑えた。
* * *
姉の私室は、祭を前に絹と宝石で溢れていた。
シャルロットは、うつむいたまま、姉の衣裳の裾を整えた。震えないよう、指の一本一本に力を込めて。
ロザリンドは、鏡のなかの自分に見とれていた。すぐ足元に妹がひざまずいていることなど、思いもよらぬ様子で。
「そこの娘。もっと丁寧におやり。しわが寄っているじゃないの」
そこの娘。
その呼び方が、頭の上から降ってきた。かつて幾度も、シャルロットへ向けられた声。けれど今、姉は、その声の先にいるのが誰なのか、まるで分かっていない。
顔を上げれば、目が合う。七年、同じ屋根の下で暮らした、妹の顔だ。なのに姉は、鏡ごしにちらりと見ても、眉ひとつ動かさない。
一度だけ、姉の視線が、シャルロットの手の上を通り過ぎた。裾を持つ白い指。荷仕事などしたことのない、柔らかな手。下女には、そぐわない手だった。シャルロットは息を止めた。
けれど姉は、その手の主が誰かを確かめようともしなかった。下女の手など、姉にとっては卓の脚と変わらない。見るまでもない、どうでもいいもの。視線は、すぐに鏡のなかの自分へ戻っていった。
当然だった、とシャルロットは思った。姉は一度も、わたしを見てなどいなかったのだから。名を呼ばず、顔を見ず、ただ動く手としてしか扱ってこなかった。だから今も、見えない。すぐ目の前にいるのに。
この部屋にも、覚えがあった。幼いころ、姉の使いで、何度もこの隅の文机に座らされた。姉の名で、姉の恋文を書くために。あのころも、姉はシャルロットの顔を見なかった。書き上がった字だけを眺めて、上手ね、とだけ言った。七年、何ひとつ変わっていない。
助かった、と思う。
思うと同時に、胸の奥が、しんと冷えた。見つからずに済んだのは、七年、自分が姉にとって、いないも同然だったからだ。安堵と古い痛みが、同じひとつの事実から同時に生まれていた。
* * *
支度のあいだ、姉はずっと苛立っていた。
「ねえ、明後日の夜会で、殿下に、わたくしは何を申し上げればいいの」
問われた女中たちは、顔を見合わせ、うつむいた。誰も、答えられない。
「……誰か、気の利いた言葉を、考えておしまいよ。婚約から七年、はじめて人前で、殿下ときちんとお話しするのよ。しくじるわけには、いかないの」
姉の声には、いつもの高慢の裏に、隠しきれない焦りがあった。
姉は鏡に向かって、何か気の利いた台詞を口にしかけた。けれど、二言と続かず、いまいましげに口をつぐんだ。自分の口からは、殿下の心を動かす言葉がひとつも出てこない。七年、それを妹に任せきりにしてきた報いだった。
シャルロットは、裾を整える手を止めそうになった。
姉は、いまも自分の言葉を持っていない。七年、妹に書かせてきた甘い文も、殿下の心を掴んだ一行も、ぜんぶ借り物だった。その借り物の主を、自分の手で追い出しておいて。今になって、途方に暮れている。
ざまあみろ、とは、なぜか思えなかった。
空っぽの器が、必死で中身のあるふりをしている。その姿が、勝ち誇る気持ちよりも先に、ただ少しだけ哀れだった。姉もまた、自分の名という檻の中で、ずっと不自由だったのかもしれない。
* * *
支度を終え、部屋を下がるとき、女中頭が、ふと足を止めた。
「新入り。おまえ、筋がいいね。手つきが丁寧だ」
シャルロットは、うつむいたまま、身を固くした。
「夜会の当日も、広間の給仕に入りなさい。人手は、いくらでも要るからね」
広間の、給仕。
シャルロットの鼓動が、大きく跳ねた。あの夜、殿下のいる、あの広間へ。盆を持って入れる。近づける。ひとことだけでも、伝えられる。あなたは狙われている、と。
「はい。ありがたく存じます」
うつむいた顔の下で、彼女は唇を噛みしめた。
あと二日。姉の目にすら留まらぬ影のまま、わたしはあの人のすぐそばまで行く。
名前を奪われ、顔を奪われ、ただの手として生きてきた七年。その空白のすべてが、今、あの人を救うための道になろうとしていた。
見えない娘であることが、これほどの武器になるとは。七年前のわたしには、思いもよらなかった。




