17話 兄の心遣い
王城は、建国祭の支度で、すっかり装いを変えていた。
大広間には幾百の燭台が運び込まれ、回廊には王家の色の垂れ幕が下がった。中庭では、花火師が夜空へ打ち上げる仕掛けを組んでいる。誰の顔にも、祝いの高揚があった。
その華やぎのなかを、エイダンはひとり、冷えた心で歩いた。
あの夜が、近い。兄が動くと決めた夜が。
* * *
異変に気づいたのは、衛士の顔ぶれが変わったときだった。
七年、エイダンの身近に付いてきた古参の衛士が、祭の警備という名目で遠い持ち場へ移された。
「兄上さまの、ご配慮にございます」と、近習は言った。
かわりに付いたのは、見慣れぬ男だった。物腰は丁寧で、口数も少ない。ただ、その目だけが、けっして笑わなかった。
兄の手の者だ。エイダンの勘が、静かに告げた。
守る者を遠ざけ、見張る者を寄こす。兄は、そういう手を打ちはじめていた。
* * *
その日の午後、エイダンは、大広間の上の露台へ、足を運んだ。
建国祭の宵、王族はこの高い露台から、中庭に上がる花火を眺める。それが、古くからの慣わしだった。石造りの、王都を一望する露台。その手すりのあたりに、近ごろ職人が入っていた。
エイダンは、柱の陰で、彼らの声を聞くともなく聞いた。
「この手すり、ずいぶん傷んでるな。ぐらついてる」
「触るな。上からの言いつけだ。祭までに、見てくれだけ、それらしく直しときゃいい」
「直さねえのか」
「派手に手をかけるな、とよ。……妙な話だがな」
職人たちは、首をかしげながら、去っていった。
エイダンは、その手すりにそっと手をかけた。石が、わずかに動いた。見た目は整っているのに、芯のところで緩んでいる。
足が、動かなくなった。
七年、足音の間や声の揺れで危険を測ってきた耳が、いま、はっきりと聞き取っていた。この石の緩みは、偶然ではない。祭の夜、ここで誰かが落ちるよう仕組まれている。そして、この露台に立つよう仕向けられているのが、誰なのかも。
* * *
絵は、もう描けていた。
花火の夜。この高い露台。芯だけ緩められた手すり。遠ざけられた、忠実な衛士。そして、笑わない目の、新しい付き人。
建国祭の宵、歓声と闇と、打ち上がる火の光のなかで、自分はこの露台から落ちる。手すりに寄りかかった拍子に、ふいに。誰も、兄の仕業だとは言えない。祝いの夜の、不幸な事故として片づけられる。
背後で、足音がした。あの、笑わない付き人だった。
「殿下。こちらにおいででしたか」
男は、うやうやしく頭を下げた。
「建国祭の宵は、殿下に、この露台のいちばん見晴らしのよい場所をご用意せよと、承っております。兄上さまじきじきの、お指図にございます」
心遣い。
その言葉がどれほど冷たい刃を隠しているか、エイダンは知りすぎるほど知っていた。いちばん見晴らしのよい場所とは、いちばん高い、いちばん落ちやすい場所のことだ。
「……兄上には、痛み入る、と伝えてくれ」
声が震えないように、全力を注いだ。付き人は、静かに一礼して下がっていった。
* * *
執務室に戻っても、その手すりの感触が、指に残っていた。
逃げれば、それこそ兄の思うつぼだった。祭の直前に王都を出れば、それは謀反を疑うにじゅうぶんな口実になる。堂々と追手をかけて消せる。留まれば、露台で『事故』に遭う。どちらの道も、はじめから兄が敷いたものだった。
誰かに訴えようにも、証拠はない。緩んだ手すりも、祭が終われば、都合よく『きちんと』直されるだろう。物言わぬ王子が、兄の陰謀を叫んだところで、狂気と嗤われるだけだ。
七年、あの余白の声にだけ、彼は素顔を見せてきた。あの声さえそばにあれば、と思う。だが、あの人はもう、遠い辺境にいる。この夜を、自分は、たったひとりで迎えるしかない。
ただ、ひとつだけ、慰めがあった。
七年、彼は手紙の一語一語に真実を隠し続けてきた。兄が父にしたこと。次に狙われるのが自分であること。もしこの身が露台から落ちても、その真実は消えはしない。あの便りのどこかに、まだ埋もれている。いつか、行間を読める誰かが拾い上げてくれるかもしれない。字面しか追わぬ兄には、けっして見つけられぬ場所に。
自分が声にできなかったことを、あの一語たちが、いつか語ってくれる。そう思えば、この命ひとつ、惜しくはなかった。
ならば、と、エイダンは思った。
せめて、無様には落ちない。最後の瞬間まで、兄に、こちらが気づいていると気取らせない。物言わぬ王子の仮面を、あの夜まで貫きとおす。それだけが、いま彼にできる、たったひとつの抵抗だった。
窓の外、暮れかけた王都の空に、試し打ちの花火がひとつ、白く開いては、消えた。
あの光の下で、自分は落ちる。
エイダンは、静かに目を閉じた。建国祭まで、あと二日。罠は、もう組み上がっていた。




