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16話 その字だけで

 約束の場所は、市場の外れの古い水汲み場だった。


 シャルロットは頭巾を目深にかぶり、井戸の陰で待った。夕暮れの光が、石畳を橙に染めていく。行き交う足音のひとつひとつに、心の臓が跳ねた。あの一行は無事に、ネルの手へ渡ったのか。それとも、姉の手に。


 日が傾くころ、ひとりの老女が、人混みを分けて近づいてきた。


 小柄な、少し曲がった背中。見慣れた歩き方。


 ネルだった。


 老侍女は、井戸の陰のシャルロットに気づいて立ち尽くした。皺のなかの目が、みるみる潤んでいく。


 「……お嬢さま」


 声が、震えていた。


 「やはり、お嬢さまでございましたか。あの紙を見たとき、心の臓が止まるかと思いました」


 「ネル。よく、わたしだと」


 「間違えるものですか」ネルは涙を指で払った。「七年、毎晩、拝見してきたお手蹟です。宛名がなくても、署名がなくても。あの字は、この世にひとつきり。お嬢さまの字にございます」


 署名のない手紙が、たしかに、届いた。


 七年、姉の名の陰で誰にも自分のものと気づかれなかったこの字を。ネルだけは、ひと目でシャルロットのものだと見抜いた。それだけのことが、胸の奥を熱く濡らした。


    *   *   *


 人目を避けて、二人は井戸の陰へ身を寄せた。


 ネルは、シャルロットの手を痛いほど強く握った。辺境での暮らしを案じ、痩せた頬に触れ、しばらくは言葉にならなかった。だがやがて、老侍女は声をひそめた。


 「お嬢さま。じつは近ごろ、妙なことがございました」


 「妙なこと」


 「殿下のお使いの方が、こっそり、お館のことを訊きに来られたのです。ロザリンドお嬢さまの、その下の妹御は、いまどうしているか、と」


 シャルロットの息が、止まった。


 殿下の使者が。下の妹御のことを。


 あの人が、探している。七年、余白の声を返してきたその人が、書き手が誰なのかを、今になってたどっている。追放され、遠く消えたと思っているだろうこの身を、それでも捜そうとしている。


 二人は、同じ夜へ向かって互いを手さぐりしていた。彼は書き手を、彼女は彼を。会えぬまま、それでも伸ばした手の先が、少しずつ近づいている。


 その事実が、シャルロットの背をまっすぐに押した。


    *   *   *


 「ネル」と、シャルロットは言った。「お願いがあるの」


 老侍女の目を、まっすぐに見た。


 「建国祭の夜会に、下働きとして、わたしを紛れ込ませてほしいの」


 ネルの顔が、こわばった。


 「なりません。見つかれば、お嬢さまはただでは済みません。ロザリンドお嬢さまは、あなたのお顔をご存じです。旦那さまも、女中頭も」


 「分かっている。それでも、行かなければならないの」


 シャルロットは、声を落とした。


 「殿下に、どうしても伝えなければならないことがある。あの方の、命に関わることが。手紙では、届かない。じかに、あの夜会でしか、伝えられないの」


 命に関わる、という言葉に、ネルの目が揺れた。老侍女は、それ以上の中身を訊かなかった。訊けば自分もその危うさを負うと、長年の勘で察したのかもしれない。ただ、シャルロットの顔を長いこと見つめていた。


 やがて、ネルは、深く息を吐いた。


 「……お嬢さまのお言葉は、道具などではないと、わたしは申しました」


 追放の朝に、この老侍女がくれた言葉だった。


 「その言葉を信じます。お嬢さまが命に関わるとおっしゃるなら、きっと、そうなのでしょう。分かりました。この老いぼれの、できるかぎりを」


    *   *   *


 算段は、すぐに決まった。


 祭のあいだ、別邸はよそから大勢の下働きを雇い入れる。その名簿に、ひとり足すことなら、ネルの一存でできる。名は変える。髪を隠し、下女の衣を着て、うつむいて盆を運んでいれば、招かれた客も家人も、いちいち顔をあらためはしない。


 「ですが」と、ネルは念を押した。「けっして、顔を上げてはなりません。ロザリンドお嬢さまの前では、なおのこと。声も、出してはなりません」


 「ええ。うつむいて、影のように」


 影のように、とシャルロットは繰り返した。七年、そうして生きてきた。名もなく、顔もなく、ただ手だけを動かして。その生き方が、今度はあの人を救うための隠れ蓑になる。


 皮肉だった。けれど、頼もしい皮肉だった。


 「建国祭は、三日後の夜」ネルは、シャルロットの手をもう一度握った。「それまで、けっして無茶をなさいませんように」


 水汲み場に、夕闇が下りていた。


 あと三日。あの夜会には、殿下を狙う兄も、何も知らない姉も、真実を握ったシャルロットも、みなが集う。


 離れていた糸が、ひとつの夜へと手繰り寄せられようとしていた。

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