15話 届け
四日目の夕、荷馬車は、王都の外門をくぐった。
シャルロットは、荷台の端から初めて見る王都を見上げた。石畳を埋める人の波。物売りの声。幾筋も立ちのぼる炊煙。侯爵家の静かな書斎しか知らなかった彼女には、その喧騒のすべてがめまいのように押し寄せた。
思えば、七年あの人へ手紙を送り続けたこの都に、彼女は一度も、自分の足で立ったことがなかった。届いていたのは、いつも文字だけ。書き手の体は、辺境の書斎に置き去りのまま。
いま、はじめて、その体がここに来た。
荷を市場で下ろすと、ダグは短く言った。
「ここまでだ」
「ダグさん。本当に、ありがとうございました」
「礼はいい」大男は背を向けかけて、ふと足を止めた。「都は、辺境よりずっと人が多い。多いってことは、紛れやすいってことだ。だが、探されてる側なら、その逆でもある。顔を、あまり上げるな」
それだけ言い残して、ダグは荷とともに、雑踏へ消えていった。
* * *
王都は、祭の支度で沸いていた。
軒という軒に、王家の色の布が掛けられ、広場には櫓が組まれていく。誰もが浮き立った顔で、建国祭の話をしていた。その明るさの真ん中を、シャルロットは、うつむいて歩いた。
祭を待つ人いきれのなかで、追われた身の自分だけが、場違いな影のようだった。誰かと肩が触れるたび、心の臓が跳ねた。この顔を知る者が、都のどこかにいるかもしれない。姉の縁者。侯爵家に出入りする商人。ダグの言葉が、耳の奥で鳴った。顔を、あまり上げるな。彼女は足を速め、人の流れに紛れた。
通りの果て、丘の上に、王城が見えた。
あの人が、いる。
七年、文字だけでつながっていた人が、あの城のどこかにいる。そう思うと、胸が締めつけられた。けれど、と、シャルロットは足を止めた。
あの城の、建国祭の夜会に、どうやって入るのか。
招かれざる身。追放された令嬢。名乗れば、捕らえられる。門に近づくだけでも危うい。ひとりでは、あの敷居をけっしてまたげない。
中に、手引きしてくれる誰かが、要る。
シャルロットの頭に、ひとりだけ、顔が浮かんだ。
ネル。七年、この家で彼女を「手」と呼ばなかった、ただ一人の人。追放の朝、門まで見送り、いつか、きっと、と言ってくれた老侍女。
* * *
ラヴィエール家は、建国祭のあいだ、王都の別邸に移る。姉も、ネルも、今ごろはそこにいるはずだった。
シャルロットは、別邸の近くまで足を運んだ。けれど、正面から訪ねることは、できなかった。門番も、女中頭も、みな彼女の顔を知っている。何より、姉に見つかれば、それで終わりだ。
物陰から別邸を見上げて、シャルロットは唇を噛んだ。すぐそこに、ネルがいる。なのに、手が届かない。
そのとき、別邸の門が開いた。
シャルロットは、とっさに壁へ身を寄せた。一台の馬車が玉砂利を鳴らして門をくぐる。降り立ったのは、姉ロザリンドだった。祭の衣裳の仮縫いからの帰りだろう。付き添いの女中に何か言いつけ、機嫌よさげに笑っていた。三日後の建国祭で、殿下と初めて言葉を交わす。その晴れ舞台を、姉は何ひとつ知らずに、待ちわびていた。
ほんの十歩の距離だった。声をあげれば、届く。けれど、その十歩こそが、今の二人を隔てる、いちばん遠い距離だった。姉が邸へ消え、門が閉じて、ようやくシャルロットは、詰めていた息を吐いた。
それでも、自分にできることが、ひとつだけあった。
書くことだ。
彼女は市場の隅で紙を一枚求め、路地にうずくまって、短い文を綴った。宛名は書かない。署名も、書かない。ただ、ネルにだけ分かるように。
いつか、きっと。あなたがそう言ってくれた日から、わたしはここまで来ました。どうか、一度だけ、会ってはもらえませんか。
署名は、要らなかった。
七年、この字を誰より近くで見てきたのはネルなのだから。この手蹟を見れば、あの人には、書いたのが誰かひと目で分かる。名前のない手紙でも、ネルにだけは、届く。
七年前、姉の名の陰で誰にも読まれなかったこの手が、今度は、たった一人に読まれるために書いていた。
* * *
路地を駆けていく子供を、シャルロットは呼び止めた。
「これを、ラヴィエール様の別邸へ。古参の侍女で、ネルという人に、じかに渡してほしいの」
銅貨を握らせると、使いの少年は、にっと笑った。
「侍女頭のネルさんだろ。知ってるよ。祭の買い出しで、よく市場に来るもの」
その一言に、シャルロットの胸がかすかに緩んだ。ネルは、達者でいる。まだ、この街の空の下に、いる。
「できる? 人目につかず、あの人にだけ」
「へへ。祭の前は、こういう内緒の文使いが、いくらでもあるのさ。慣れてる」
少年は紙を懐にしまい、別邸のほうへ駆けていった。
シャルロットは、物陰から、その小さな背が遠ざかるのを見送った。
もし、あの一行が姉の手に落ちれば。考えかけて、彼女は首を振った。今は、信じるしかない。あの子の足と、ネルの目を。そして、七年書き続けた、自分の字を。
建国祭まで、あと三日。
名もなく、署名もない一行が今、七年ぶりに、たった一人のもとへ届こうとしていた。




