14話 行き違い
ラヴィエール家からの便りが途絶えて、ひと月になろうとしていた。
エイダンは、執務机の隅に積んだ手紙の束を毎晩のように見た。いちばん新しい一通は、余白が白いままだった。あの声が、そこで、ふつりと途切れている。
かつてその余白には、彼の無事を祈る一行が必ずあった。誰にも読まれぬよう、姉の名の下に隠された、たった一行。彼はそれを、耳を澄ますように読んだ。今は、白い紙が沈黙だけを返してくる。その沈黙が、これほど重いものだとは知らなかった。
彼は、音で世界を測る男だった。壁に耳のある王城で、足音の間、沈黙の重さ、声のわずかな揺れ。それだけを頼りに七年を生き延びてきた。だからこそ、あの人の声が消えたことが、誰よりはっきりと分かった。
書き手は、侯爵家のもう一人の蔑まれた娘。そこまでは絞り込んでいた。けれど名も、居場所も、分からない。迂闊に探せば、あの人をもっと危うくする。だから彼は、身動きが取れずにいた。
それでも、確かめずにはいられなかった。あの声が、なぜ消えたのかを。
* * *
その日エイダンは、ラヴィエール家の便りを長く運んできた使者を、人払いした部屋へ呼んだ。
「長く、あの家と城を往復してくれているそうだな」
「は。もう、七年になりまする」
「あの家のことを、少し聞かせてくれ。他意はない。婚約者の家だ、知っておきたい」
使者は、怪しむふうもなく語った。侯爵のこと。令嬢ロザリンドのこと。館の暮らしのこと。
エイダンは、聞き役に徹した。声の調子、言い淀み、息のつぎ方。そのどれもを注意深く拾いながら。
「あの家には」と、彼はできるだけ何気なく訊いた。「ロザリンド殿のほかに、娘御は」
使者の声が、ほんの一瞬、途切れた。エイダンの耳は、その小さな間を聞き逃さなかった。
「……もう、おられません」
「もう、とは」
「下のお嬢さまが、おいででした。表には、あまり出られぬ方で。ですが、ひと月ほど前に辺境の領地へ、ご療養に発たれました」
「その下の娘御は、どのような人だった」
声が急かぬよう、エイダンは抑えた。使者は、少し口ごもった。
「お優しい方でした。ただ、お館では、娘御として扱われては、おられませんでした。ご家族は、あの方を、名でなく、ただ『手』と。書き物や用を言いつける、その手だと」
療養。手。
その二つの言葉の下に沈む意味を、エイダンは声の湿りで聞き取った。療養ではない。あれは、追われたのだ。そして七年、彼の隠した叫びを受け止め、余白にあれほどの言葉を返してくれた人は、その家では人ですらなく、ただ動く手と呼ばれていた。
* * *
使者が下がると、部屋には、蝋燭の音だけが残った。
下の娘が発ったのは、ひと月前。手紙の声が消えたのも、同じころ。二つはぴたりと重なった。
あの人だ。
余白に本音を書いた、あの声の主。七年、彼の隠した叫びを、たった一人で受け取ってくれた人。それは侯爵家の、表に出られぬ下の娘であり、遠い辺境へ追われて消えた。
エイダンは、机に手をついた。指が、かすかに震えた。
なぜ追われたのか。考えるまでもなかった。姉が気づいたのだ。妹が余白に忍ばせていた一行と、その一行に王子が七年、返事を書き続けていた事実に。
つまり、あの人を追いやったのは、ほかでもない、この手の書いた手紙だった。
あの声を聞きたくて、彼は七年、便りを待った。その便りが、あの声を、いちばん遠いところへ追いやったのだ。
* * *
窓の外、王城の庭で、篝火の支度が始まっていた。建国祭が、近い。
その夜、兄が動く。エイダンはそれを暗号に書いて、あの人に託した。届いたかどうかも、分からぬまま。もう、あの人は辺境にいる。この夜会に、来られるはずもない。
近ごろ、兄の目が、以前にも増して自分へ注がれているのを、エイダンは感じていた。廊下ですれ違う近習の足音が、ひとつ増えた。見張りだ。建国祭が近づくほど、兄の包囲は、静かに狭まっていた。
昨夜も、そうだった。書き物をしていると、扉の外の足音が、一定の間で行き来を繰り返した。何を書いているのか、確かめたいのだ。エイダンは筆を置き、灯を消して、闇のなかで兄の気配が去るのを待った。手紙の一語に真実を隠してきた七年が、この期に及んで気取られるわけには、いかなかった。
それでも、と、エイダンは思った。
あの人は、もう、この手の届かぬところにいる。ならば、せめてあの夜を生き延びる。兄の刃をかわし、いつか必ず、追われたあの人を捜し出す。それだけを支えにしよう。
彼は、知らなかった。
その遠い辺境から、あの人が今、彼のいる王都へ、一歩ずつ近づいていることを。
行き違いのまま隔てていた距離は、彼の知らぬところで、確かに縮まりはじめていた。




